原神の世界に通えるようになったので、モンドを拠点に異世界生活を楽しみます 作:ところてんの
日本に戻った翌日。
俺は机の上にノートを広げ、これまでのテイワットでの活動を振り返っていた。
モンドの冒険者ギルドに登録し、初めての依頼を受けた。
広場では日本のお菓子を配り、現地の人たちがどんな反応をするのか確かめた。その後は小規模ながら販売を始め、食品や日用品を扱う店でモンドの物価についても話を聞いている。
騎士団本部を訪れたときには、ジンさんやガイアさんから街で活動するときの注意点を教えてもらった。
こうして並べてみると、思っていた以上にいろいろなことをしている。
最初は、異世界に行けるようになったのだから、まずは観光でもしようと思っていた。
実際、最初に各地を見て回ったときは、ゲームで見慣れた景色を自分の目で確かめるだけでも楽しかった。
でも、何度か通ううちに、ただ景色を見るだけでは分からないことも気になり始めた。
街の人たちは、どんな暮らしをしているのか。
何を食べ、どんなものを使い、どんなことを大切にしているのか。
商売をするにしても、生活するにしても、そういったことを知っておく必要がある。
「……次は図書館かな」
俺はノートを閉じた。
モンドの歴史や文化について調べるなら、図書館を利用するのがよさそうだ。
ゲームを遊んでいた頃にも、モンドに関する情報には触れてきた。登場人物の話やゲーム内の本など、知識を得る機会はいくらでもあった。
とはいえ、ゲームで知っていることと、実際にこの世界で暮らすために必要な知識は別物だ。
ゲームでは、必要な情報だけを拾って先へ進むことも多かった。
けれど、今の俺はここで生活している。
歴史を知れば、街の成り立ちが分かるかもしれない。生活習慣を知れば、現地の人たちとの交流にも役立つだろう。
それに、商売の参考になることもあるはずだ。
日本の商品を持ち込んで売るだけでは、いつか限界が来る。
どんな商品が珍しいのか。何が便利だと思われるのか。そもそも、現地の人たちはどんな生活をしているのか。
そういうことを知らずに商売を続けるのは難しい。
もちろん、図書館に行ったからといって、すぐに答えが見つかるわけではないだろう。
それでも、知らないままでいるよりはいい。
「よし、行くか」
俺はパソコンの画面に目を向けた。
視界の端には、いつものシステムアイコンが表示されている。
システムを操作してテイワットへ移動すると、見慣れた自室の景色が消えた。
代わりに広がったのは、石畳の道と、風車の回るモンドの街並みだった。
頬を撫でる風が心地いい。
遠くからは人々の話し声が聞こえ、街の中では商人や買い物客、冒険者らしき人たちが行き交っている。
何度か訪れた場所ではあるが、日本とは空気が違う。
ゲーム画面で見慣れていた景色。
それなのに、今ではそこに暮らす人々の姿まで自然に目に入る。
ここは、ただのゲームの舞台ではない。
そう考えると、改めて不思議な気分になった。
「さて、図書館は……」
場所は分かっている。
俺は人通りの邪魔にならないように歩きながら、騎士団本部の方向へ向かった。
図書館は騎士団本部の中にある。
以前、街で活動するときの注意点を聞くために訪れた場所だ。
前回はジンさんやガイアさんと話をしたが、今回は本を読みに来た。
同じ建物でも、目的が違えば見えるものも変わる。
そんなことを考えながら、俺は騎士団本部へと足を進めた。
◆
騎士団本部に到着すると、入口付近で見張りをしている騎士に声をかけた。
「すみません。図書館を利用したいんですが、入っても大丈夫ですか?」
「図書館の利用ですね。少々お待ちください」
騎士は俺の顔を確認すると、近くの同僚に短く声をかけた。
しばらくして、図書館へ向かうための案内を受けることができた。
騎士団の施設ということもあって、勝手に歩き回るわけにはいかないらしい。
まあ、当然だろう。
俺だって、自宅に知らない人が入ってきて、好き勝手に部屋を覗き回ったら困る。
案内に従って建物の中を進む。
途中ですれ違う騎士たちは、それぞれの仕事に追われているようだった。
書類を抱えて歩いている人もいれば、誰かと打ち合わせをしている人もいる。
街の外で魔物と戦うだけが騎士団の仕事ではない。
住民からの相談や報告への対応、警備の計画、さまざまな事務作業。
街の平穏は、こうした目立たない仕事にも支えられているのだろう。
やがて、案内された扉の前に到着した。
「こちらが図書館です。ご利用の際は、管理担当者の指示に従ってください」
「ありがとうございます」
騎士に礼を言い、扉を開ける。
その瞬間、紙とインクの匂いが鼻をくすぐった。
室内には整然と本棚が並び、机や椅子が配置されている。
窓から差し込む光が、棚に並ぶ本の背表紙を照らしていた。
人の話し声は少なく、聞こえるのはページをめくる音や、椅子を引く小さな音くらいだ。
静かな場所だった。
「おお……」
思わず声が漏れそうになり、慌てて口を閉じる。
ゲームで見たことのある場所ではある。
けれど、実際に入ってみると、画面越しでは意識していなかった細かな部分まで目に入った。
本棚には、背表紙の色も大きさも違う本が並んでいる。
古びた本もあれば、比較的新しそうな本もある。
それぞれに、この世界で積み重ねられてきた知識が詰まっているのだと思うと、なんだか感慨深かった。
……いや、感慨に浸るのは後でいい。
今日は調べものをしに来たのだ。
俺は周囲を見渡し、受付らしき場所を探した。
すると、本棚の向こうから一人の女性が姿を現した。
「こんにちは。図書館に何かご用かしら?」
柔らかな声だった。
ゆったりとした話し方に、どこか余裕を感じさせる雰囲気。
紫色の髪に、整った顔立ち。
こちらを見つめる瞳には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
……うわ、ミステリアスな美人だなー。
それが、俺の率直な第一印象だった。
もちろん、彼女のことは知っている。
ゲーム『原神』をプレイしていた頃から、何度も見てきたキャラクターだ。
名前はリサ。
モンドの騎士団に所属する図書館司書で、魔法にも詳しい人物。
ゲームの中では何度も接する機会があったし、その能力や性格についてもある程度知っている。
だが、実際に目の前にいるとなると話は別だった。
画面の中で見ていたキャラクターが、今は現実の人間として俺の前に立っている。
しかも、想像していた以上に独特の雰囲気がある。
親しみやすそうな笑顔なのに、どこまで本心を見せているのか分からない。
何気ない仕草ひとつにも、妙な余裕が感じられる。
美人というだけなら、ほかにもいるだろう。
けれど、リサさんにはそれだけでは説明できない何かがあった。
「……あら?」
リサさんが、ほんの少し首を傾げた。
「どうしたの? 私の顔に何かついているかしら?」
「い、いえ! 何でもないです」
しまった。
どうやら、少し見つめすぎていたらしい。
「ふふっ。そう? それならいいのだけれど」
リサさんは楽しそうに微笑んだ。
……なんか、もう見透かされている気がする。
いや、考えすぎだろう。
初対面の相手に対して、勝手に警戒しすぎるのも失礼だ。
俺は気を取り直して、用件を伝えることにした。
「今日は、モンドの歴史や文化について調べたくて来ました。図書館を利用させてもらってもいいですか?」
「もちろんよ。図書館は、知識を求める人を歓迎する場所ですもの」
リサさんは、近くの本棚へ視線を向けた。
「モンドの歴史を知りたいのね。初めて調べるなら、まずは読みやすい本から始めるといいわ。いきなり難しい歴史書を開いても、途中で眠くなってしまうかもしれないもの」
「それは……確かに」
「ふふっ。正直でよろしいわ」
軽くからかわれた。
別に眠るつもりはないのだが、難しい本を読んでいるうちに眠くなる経験なら、日本でも何度かある。
教科書や専門書を読んでいて、気がつけば同じ行を何度も読み返していたこともあった。
知識を得るためには、内容だけでなく、自分に合った読み方も大切なのだろう。
「それじゃあ、最初はどのあたりから調べるのがいいでしょうか?」
「そうねぇ……。モンドの歴史を知りたいなら、今の街がどのようにできたのかを知るところから始めるといいわ。昔の出来事を知るだけでは、今の暮らしとのつながりが見えにくいもの」
リサさんは棚の間を歩きながら説明してくれた。
「それから、生活に関する本もおすすめね。食べ物の保存方法や、道具の使い方、土地ごとの習慣など。そういう知識は、実際に暮らしてみると役に立つことが多いわ」
「なるほど。ありがとうございます」
「どういたしまして。こちらよ」
案内された棚には、モンドの歴史や文化に関する本が並んでいた。
背表紙に書かれた文字は、俺にも問題なく読める。
この世界に来たばかりの頃は、言葉が通じること自体が不思議だったが、今では読むことにも慣れてきた。
ただし、読めるからといって、こちらの文字を自由に書けるわけではない。
そこは別問題だ。
必要なことは頭の中に覚えておいて、日本に戻ってから日本語でメモする。
今のところ、それが一番確実な方法だった。
「本を読むときは、元の場所に戻してね。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてちょうだい」
「分かりました」
「それと、貸し出しできる本と、館内で読んでもらう本があるの。持ち帰りたい場合は、先に確認してね」
「はい。気をつけます」
「いい子ね。それじゃあ、ゆっくり読書を楽しんで」
リサさんは、最後にもう一度微笑むと、別の棚のほうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
……なんというか、すごい人だった。
別に怖いわけではない。
むしろ、こちらの都合を考えて親切に案内してくれた。
それなのに、会話の端々から、こちらの様子を観察されているような感覚があった。
単に俺が緊張していただけかもしれないが。
「……考えても仕方ないか」
俺は気持ちを切り替え、歴史に関する本を一冊手に取った。
今は、せっかく図書館まで来たのだから、調べものに集中しよう。
リサさんの印象について考えるのは、その後でも遅くない。
……いや、でも、やっぱりミステリアスな美人だったな。
そんな感想が頭をよぎったが、俺は本を開いて文字を追い始めた。
◆
最初に手に取ったのは、モンドの歴史を大まかにまとめた本だった。
専門的な研究書というより、一般の読者向けに書かれたものらしい。
説明も比較的分かりやすく、歴史に詳しくない俺でも読み進められた。
もちろん、知らない固有名詞や、初めて目にする出来事も多い。
そのたびに前のページへ戻ったり、関連する説明を探したりしながら、少しずつ内容を整理していく。
歴史というのは、単に昔の出来事を覚えるだけではないらしい。
ある出来事が起こり、その結果として人々の暮らしが変わる。
暮らしが変われば、街の形や制度、文化にも影響が出る。
今、自分が歩いているモンドの街並みも、そうした積み重ねの上にあるのだろう。
ゲームを遊んでいた頃は、必要な情報を知るために会話や文章を読むことはあっても、ここまで腰を据えて歴史を調べようとは思わなかった。
冒険を進めることが目的だったからだ。
けれど、今の俺は違う。
ここで暮らしていくつもりなら、この世界がどんな場所なのか、少しずつ知っていく必要がある。
ゲームの知識だけで何でも分かると思い込むのは危険だ。
知っているつもりの場所でも、実際に暮らしてみれば、知らないことはいくらでも見つかる。
「……これは、思っていたより面白いな」
ページをめくりながら、俺は小さく呟いた。
特に興味を引かれたのは、過去の出来事が現在の街のあり方につながっている部分だった。
なぜ人々が今のような暮らしをしているのか。
なぜ特定の場所に人が集まり、そこで商売が成り立っているのか。
そうした疑問を考えると、歴史の知識も単なる雑学ではなくなる。
もちろん、一冊の本を読んだだけで、すべてが分かるわけではない。
書かれていることにも、著者の視点や解釈があるだろう。
それでも、知らないことを知るための手がかりにはなる。
俺は急いで読み進めるのをやめ、気になった箇所を何度か読み返した。
文字を書き写すことはできないので、内容を頭の中で整理する。
日本に戻ったら、自分の言葉でまとめておけばいい。
そう考えると、読書にも少しだけ目的意識が生まれた。
ただ本を読むのではなく、これからの生活に役立てるために読む。
それだけでも、頭への入り方が違う気がする。
しばらくして、俺は本を閉じた。
集中していたせいか、思った以上に時間が経っている。
周囲を見渡すと、入ってきたときと同じように静かな空間が広がっていた。
何人かの利用者が席について本を読んでいる。
窓の外からは、街の喧騒が遠く聞こえてきた。
この静けさは嫌いではない。
日本でも、休日に図書館へ行ってのんびり本を読むことはあった。
ただ、ここで読んでいるのは、現実には存在しないはずの世界の歴史だ。
そう考えると、なんとも妙な気分になる。
俺は本を元の場所に戻し、次の本を探した。
今度は、モンドの人々の暮らしについて書かれたものだ。
食事や住居、日用品、季節ごとの習慣など、歴史書よりも身近な内容が多い。
商売の参考になることもあるかもしれない。
そう思って読み始めたが、こちらもなかなか興味深かった。
食材の扱い方や保存方法には、その土地の気候や流通事情が関わってくる。
日用品についても、何を便利と感じるかは生活環境によって変わる。
日本では当たり前のものでも、モンドでは珍しいものがある。
反対に、モンドでは一般的でも、日本ではあまり見かけないものだってあるだろう。
これまで俺は、持ち込んだ商品をどう売るかということばかり考えていた。
けれど、売る相手の生活を知ることも同じくらい大切なのだ。
たとえば、個包装のお菓子。
前回、アンバーは休憩中に食べやすい点を気に入ってくれた。
味だけでなく、持ち運びやすさや食べやすさも価値になる。
それは、実際に客の反応を見て初めて気づいたことだった。
ならば、ほかの商品についても同じように考えられるはずだ。
ただし、こちらの生活を知らずに、日本で便利だからという理由だけで持ち込んでも、同じように評価されるとは限らない。
使い方が分からなければ、便利さも伝わらない。
そもそも必要とされていなければ、どれだけ優れた商品でも売れないだろう。
「なるほどな……」
俺は本を読みながら、そんなことを考えていた。
商売というのは、商品を仕入れて売れば終わりというものではないらしい。
相手が何を求めているのかを知り、それに合ったものを届ける。
当たり前の話ではある。
でも、実際にやってみると、当たり前のことほど難しい。
最初から大きく儲けようとするのではなく、少しずつ試していく。
今の俺には、そのやり方が合っているのだろう。
急いで規模を広げる必要はない。
まずは生活を安定させながら、モンドのことを知っていけばいい。
そんな考えが、少しずつ固まってきた。
◆
しばらく読書を続けたところで、俺は本を閉じて休憩することにした。
ずっと文字を追っていたせいか、目が疲れてきた。
背もたれに体を預け、軽く肩を回す。
集中して本を読むのは嫌いではないが、さすがに休みなしでは続かない。
さて、次は何を読もうか。
そんなことを考えていると、近くから声がした。
「読書は順調かしら?」
顔を上げると、リサさんが立っていた。
相変わらず、落ち着いた笑みを浮かべている。
「あ、はい。歴史の本と、生活についての本を読んでいました」
「あら、いい組み合わせね。昔のことを知るのも大切だけれど、今を生きる人たちの暮らしを知ることも大切だもの」
「これからモンドで生活するつもりなので、いろいろ知っておきたくて」
「これからも、こちらで暮らすのね?」
「はい。しばらくはモンドを拠点にしようと思っています」
リサさんは、俺の答えを聞いて、少しだけ目を細めた。
「そう。なら、図書館を活用してくれるとうれしいわ。知らないことを調べるのに、ここはぴったりの場所ですもの」
「助かります。知らないことばかりなので」
「ふふっ。知らないことがあるのは、悪いことではないわ。知ったつもりになってしまうほうが、よほど厄介だもの」
その言葉には、妙な説得力があった。
俺は思わず頷いた。
ゲームで知っていることが多いからといって、この世界のすべてを知っているわけではない。
実際に暮らしている人たちには、その人たちの生活がある。
俺が知らない習慣も、価値観も、きっといくらでもあるだろう。
ゲームで見た情報を参考にすることはできても、それだけで決めつけてはいけない。
そのことは、これまでの経験でも少しずつ分かってきていた。
「ちなみに、どんなことに興味があるのかしら?」
「そうですね……。歴史や文化はもちろんですけど、食べ物とか、日用品とか、普段の暮らしに関することも知りたいです」
「まあ。ずいぶん実用的なのね」
リサさんは楽しそうに笑った。
「もっと難しい研究書を読みたいのかと思ったわ」
「いや、そこまで詳しいわけじゃないので……。まずは基本から、という感じです」
「それは賢明ね。難しい本を読んでいる自分に満足して、内容を理解できていない人もいるもの」
「……耳が痛いです」
「あら、あなたのことを言ったつもりはないのよ?」
リサさんは、わざとらしく首を傾げた。
「ふふっ」
……絶対、少しはからかっているだろ。
とはいえ、不快な感じはしなかった。
こちらの反応を見て楽しんでいるようにも見えるが、同時に、本当に気遣ってくれているのも分かる。
何とも不思議な人だ。
初対面のときに抱いた印象は、今のところ変わっていない。
むしろ、話せば話すほど、何を考えているのか分からないという感覚が強くなっている。
柔らかな口調で、親切に説明してくれる。
けれど、こちらが何かを答えるたびに、その反応をじっと見ているような気がするのだ。
もちろん、図書館の利用者に気を配っているだけなのかもしれない。
俺が勝手に意識しすぎている可能性もある。
……うん。考えすぎるのはやめよう。
「何か気になることがあれば、いつでも聞いてちょうだい。答えられることなら、教えてあげるわ」
「ありがとうございます、リサさん」
「あら、丁寧なのね。こちらこそ、よろしくね」
リサさんは軽く手を振ると、別の利用者の様子を確認するために歩いていった。
俺はその後ろ姿を見送った。
紫色の髪が揺れ、ゆったりとした足取りで本棚の間へ消えていく。
……やっぱり、ミステリアスな美人だなー。
思わず、そんな感想が浮かんだ。
親切な人だということは分かった。
けれど、彼女のことを理解できたかと聞かれれば、答えは否だ。
まあ、初対面なのだから当然だろう。
これから図書館に通う機会があれば、少しずつ話すことも増えるかもしれない。
今は、それで十分だ。
俺は再び本に目を向けた。
◆
その後も、俺は何冊かの本を読んだ。
歴史についての本をもう一冊。
それから、生活に関する本を少し。
すべてを読み終えることはできなかったが、今日の目的は、モンドについての知識を少しでも増やすことだ。
無理に詰め込んでも、すぐに忘れてしまう。
分からないことを一つずつ整理しながら、自分のペースで進めるのがいいだろう。
やがて、窓から差し込む光の角度が変わってきた。
そろそろ、切り上げる時間だ。
俺は最後に読んでいた本を閉じ、元の棚へ戻した。
背表紙の位置を確認し、ほかの本を乱さないように気をつける。
こうしたことも、図書館を利用するうえでは大切だ。
受付の近くを通りかかったとき、ちょうどリサさんがいた。
「もうお帰り?」
「はい。今日はこのくらいにしておこうと思います」
「ふふっ。無理をしないのはいいことよ。知識は逃げないもの」
「そうですね。また利用させてもらいます」
「ええ、いつでもどうぞ。次に来るときは、今日とは違う本を探してみるのもいいわね」
「参考にします」
俺が礼を言うと、リサさんは柔らかく微笑んだ。
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「ありがとうございます」
図書館を出る直前、俺はもう一度だけ室内を振り返った。
整然と並ぶ本棚。
静かな空気。
そして、そこで働くリサさん。
モンドでの生活を始めてから、少しずつ行動範囲が広がってきた。
冒険者ギルドで依頼を受け、街で商品を売り、騎士団本部を訪れ、今度は図書館で知識を得た。
どれも、世界を救うような大きな出来事ではない。
でも、俺がこの世界で暮らしていくためには、必要なことばかりだ。
何かを成し遂げることだけが、異世界での生活ではない。
知らない街を歩き、知らない人と話し、知らないことを知っていく。
そうした積み重ねが、少しずつ自分の居場所を作っていくのだろう。
そんなことを考えながら、俺は騎士団本部を後にした。
◆
図書館を出た俺は、街の広場を通りながら、今日読んだ本の内容を頭の中で整理していた。
歴史については、まだ大まかな流れを知った程度だ。
生活に関する知識も、すべてを理解したわけではない。
それでも、今まで漠然と眺めていた街並みに、少し違った見方ができるようになった気がする。
街の建物にも、人々の習慣にも、それぞれ理由がある。
それを知るには、実際に見て、話を聞き、本を読む必要がある。
これからも、焦らずに続けていこう。
広場では、露店の準備をしている人や、買い物を終えて帰る人の姿があった。
いつもの光景だ。
俺はその様子を眺めながら、次に何をするか考えた。
食べ物については、店を訪ねて価格や特徴を聞くことはあったが、モンドの料理そのものをじっくり味わったことはまだ少ない。
街の人たちが普段どんなものを食べているのか。
どんな店に集まり、どんな時間を過ごしているのか。
それを知るのも面白そうだ。
「次は、料理や酒場を見て回るのもいいな」
独り言を呟き、俺は小さく頷いた。
もちろん、食べ歩きが目的になっても構わない。
せっかく異世界に来たのだから、こちらの料理を楽しむのも大切なことだろう。
調査だとか、商売の参考だとか、そんな理由をつけなくてもいい。
うまいものを食べて、街を歩いて、気に入った場所を見つける。
そういう過ごし方だって、十分に価値がある。
俺は人通りを避けながら、広場を抜けていった。
◆
人の少ない場所まで移動した俺は、システムを操作した。
視界の端に表示されたメニューから「ログアウト」を選ぶ。
次の瞬間、モンドの景色が消えた。
気がつくと、俺は日本の自室に戻っていた。
「……ふう」
椅子に腰を下ろし、ひと息つく。
いつもの部屋だ。
机も、パソコンも、読みかけの小説も、出かける前と同じ場所にある。
それなのに、頭の中にはモンドの図書館の光景が残っていた。
俺はノートを開き、今日の内容を整理することにした。
もちろん、記録は日本語だ。
テイワットの文字を読むことはできても、自由に書くことはできない。
無理に現地の文字を使おうとして、内容が分からなくなっては意味がない。
まずは自分が理解できる形でまとめておく。
歴史については、今日読んだ本の大まかな内容と、気になった部分。
生活については、食べ物の保存方法や日用品に関する知識。
そして、これから調べたいこと。
俺は思い出せる範囲で、順番に書き出していった。
しばらくすると、ノートのページが少しずつ埋まっていく。
「よし、こんなところかな」
ペンを置き、書いた内容を読み返す。
今日得た知識を、すぐに何かへ活用できるわけではない。
それでも、こうして記録しておけば、後で必要になったときに思い出しやすい。
何より、何を知っていて、何を知らないのかが分かる。
それだけでも、十分な収穫だった。
そして、もう一つ。
今日の出来事を思い返すと、どうしても頭に浮かぶ人物がいた。
「……リサさんか」
優雅な雰囲気。
柔らかな笑顔。
こちらの反応を楽しんでいるような、少しからかうような話し方。
親切に案内してくれたのは間違いない。
でも、何を考えているのか、今ひとつつかめなかった。
ゲームで知っているキャラクターと、実際に会って話すことは、やはり違う。
知識として性格を知っているつもりでも、目の前にいる本人の雰囲気までは、画面越しでは分からないものだ。
「うわ、ミステリアスな美人だなー……」
改めて、そんな感想を口にしてしまった。
自分でも、少し単純だと思う。
けれど、実際に会ってみた印象はそれだったのだから仕方ない。
また図書館を訪れれば、話す機会もあるだろう。
そのときは、余計なことを考えすぎず、普通に接すればいい。
……できれば、変なことを言ってからかわれないようにしたいところだ。
俺はノートを閉じ、椅子の背もたれに体を預けた。
そこで、ふと最近のゲームの進行状況を思い出した。
俺は今も『原神』をプレイしている。
現実のテイワットへ通うようになってからも、ゲームはゲームで続けていた。
今はナド・クライ編は終わっていて、物語はスネージナヤにも関わる展開を見せている。
最近のストーリーでは、ロノヴァやレインドットといった、テイワットの根幹に関わる人物についても情報が出てきていた。
物語が進むにつれて、今まで分からなかったことが少しずつ明らかになっていく。
プレイしていると、以前は何気なく見ていた設定や人物についても、改めて考えさせられることがある。
そう考えると、リサさんにも何か秘密があるのではないかと思ってしまった。
……いや、さすがに考えすぎか?
リサさんは優秀な魔法使いだ。
スメールの学術院にいた経歴もある。
それだけでも、俺の知らない事情があって不思議ではない。
けれど、だからといって、ロノヴァやレインドットと直接つながっているという根拠はない。
今のところ、そんな情報を知っているわけでもない。
単に、最近プレイしているストーリーの影響で、何でも意味深に考えてしまっているだけかもしれない。
「まあ、今から考えても分からないか」
本人に聞いたところで、簡単に教えてくれるとも思えない。
それに、俺がこの世界で暮らしている以上、ゲームの情報だけで決めつけるわけにもいかない。
ゲームで知ったことは、あくまで参考だ。
実際に目の前で起きることまで、すべてゲームの筋書きどおりだとは限らない。
今日の図書館でも、そう感じることがあった。
ゲームで見慣れた場所なのに、実際に入ってみれば、そこで働く人たちがいて、それぞれの生活がある。
キャラクターとして知っていたリサさんも、実際に会ってみれば、画面越しでは分からない雰囲気を持っていた。
だからこそ、勝手に答えを決めつけず、これから少しずつ知っていけばいい。
リサさんについても、それは同じだ。
俺はパソコンの画面に目を向けた。
せっかくだし、今日は少しゲームを進めておこう。
そう思って『原神』を起動する。
画面に広がるテイワットの景色は、さっきまで実際に歩いていた世界と同じものだ。
けれど、画面の向こうにいるキャラクターと、現実に出会った本人とでは、やはり違う。
ゲームで知った情報が役立つことはあるだろう。
それでも、目の前で起きていることまで、すべてゲームの筋書きどおりだと考えるのは危険だ。
俺はそんなことを考えながら、操作を始めた。
モンドでの生活は、まだ始まったばかり。
リサさんの秘密についても、今は無理に答えを出す必要はない。
いつか何かが分かる日が来るかもしれないし、最後まで分からないままかもしれない。
どちらにしても、今の俺にできるのは、目の前の生活を楽しみながら、この世界について知っていくことだ。
「さて、次の休日は何を食べに行こうか」
そんなことを考えながら、俺はゲームの続きを始めた。
異世界での生活は、まだ始まったばかりだ。
急ぐ必要はない。
一つずつ知って、一つずつ試していけばいい。
そうして少しずつ、この世界での暮らしを自分のものにしていこうと思う。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
感想や評価をいただけると、執筆のモチベーションにつながります。
よろしければ、気軽に感想や評価を残していただけるとうれしいです。
これからもよろしくお願いします!