妖怪ウォッチ熱が加速しているのを感じる
乗るしかない このビックウェーブに
「起きなさいケータくん! 夏休みだからって、そんなに寝ていてはいけませんよ!」
耳元に響いた甲高い声に、ケータは薄いタオルケットの下で顔をしかめた。
開け放した窓からは、朝とは呼び難くなった時間の日差しが容赦なく差し込み、昨夜きちんと閉めなかったカーテンの隙間から、部屋の床に白い光の帯を落としていた。
庭先ではアブラゼミが競うように鳴いており、机の上に置かれた夏休みの宿題は、昨日とまったく変わらない姿で積み上がっている。そんな夏の風物詩を尻目に、ケータは布団の中で寝返りを打つと、枕に顔を押しつけて抗議の声を漏らした。
「うぅ……あと五分……」
「その五分を、いったい何回繰り返すおつもりですか! もう十時を過ぎているんですよ。そもそも、規則正しい生活というものはですね、日頃からの心掛けが肝心なのであって、夏休みだからといって夜更かしと朝寝坊を繰り返していては──」
「わかった、わかったってば! 起きるから!」
とうとう観念したケータが上半身を起こすと、彼の枕元で浮遊していたウィスパーは、ようやく満足したらしく大きな口を閉じた。
「まったく、ようやくお目覚めですか。せっかくの夏休みなのですから、もう少し有意義に時間を使いましょう!」
「そんなこと言ったって、昨日は遅くまで遊んでたんだから仕方ないじゃん。それに、宿題だってまだ時間あるし」
「そうおっしゃる方に限って、八月の終わりに泣きを見るものなのですよ。わたくしは忠告しましたからね?」
もっともらしく胸を張るウィスパーを横目に、ケータはベッドから降りて大きく伸びをした。眠気はまだ残っていたが、窓の向こうに広がる青空を見ているうちに、今日一日を部屋の中で過ごしてしまうのも何だかもったいない気がしてくる。
顔を洗い、着替えを済ませ、すっかり遅くなった朝食を食べ終える頃には、外へ遊びに出かけたい気持ちが勝っていた。とはいえ、誰かと約束をしているわけでもない。
ひとまず近所をぶらついてから、ヨロズマートでお菓子でも買おうと考えたケータは、小遣いの残りを確かめるために財布を取り出した。
「あれ、百円玉が二枚と……五十円か。うーん、これだけあればお菓子とヨカコーラくらいは買えるかな」
「おやおや。ようやく起きたと思ったら、今度はお菓子ですか。ケータくんは育ち盛りなんですから、もっと栄養のあるものをですね……」
「ウィスパーも来る?」
「もちろんですとも! 妖怪執事たるもの、ご主人様のお出かけにお供するのは当然の務めです! うぃす!」
つい先ほどまで説教をしていたとは思えないほど得意げな様子に、ケータは小さく笑った。
ウィスパーがこういう調子になると、結局いつもの二人だなと思えてくる。彼の言うことがいちいち正しいかどうかは別として、何だかんだで世話を焼いてくれる相棒の存在を、ケータも悪く思ってはいなかった。
財布をポケットにしまい、妖怪ウォッチを左腕に着ける。
玄関から外へ出た途端、冷房の効いた室内とは比べものにならない熱気が全身を包み込み、ケータは思わず顔をしかめた。
「うわぁ、あっつ……。今日もすごいね」
「まさしく夏真っ盛りですねぇ。これだけ暑いと、さすがのわたくしも涼しいところで一休みしたくなります」
「ウィスパーって暑いとか寒いとかあるの?」
「むむっ! なかなか興味深い質問ですね。妖怪の感覚というものは人間のそれとは少々異なりまして、厳密に申しますと──」
「そっか。じゃあ行こう!」
「ちょ、ちょっとケータくん!? 最後まで聞いてくださいよぉ!」
ヨロズマートへ向かう道中、ケータは道端の植え込みに留まっているセミを見つけたり、公園の近くで水鉄砲を持って走り回る子供たちを眺めたりしながら、急ぐでもなく歩いていた。
ウィスパーはそんなケータの横をふわふわと漂いながら、道路の向こうに見える建物や、近頃この辺りで見かけるようになった妖怪について、頼まれてもいない解説を続けていた。
しかし、商店が並ぶ通りへ差しかかったところで、不意にその声が途切れた。
「……おや?」
ウィスパーが振り向いたのは、道路から少し奥まった場所にある細い路地だった。
建物と建物の隙間を縫うように延びるその道は、表通りの賑わいから取り残されたように薄暗く、奥には使われなくなった木箱や古い看板が積み重なっている。普段ならわざわざ立ち寄る理由もない場所だったが、ウィスパーは何かを確かめるように目を細めると、ゆっくりと路地の入口へ近づいた。
「どうしたの、ウィスパー?」
「ケータくん、少々お待ちください。どうにも妙な妖気を感じるのです」
ケータが「妖気?」と聞くとウィスパーは路地裏から視線を外さず答える。
「ええ。複数の妖怪の気配があるのですが……少々、荒れているようですね。喧嘩でもしているのでしょうか」
ケータも足を止め、ウィスパーが見つめる路地へ視線を向けた。
最初は何も聞こえなかったが、車が一台通り過ぎ、表通りの喧騒がわずかに遠のいたとき、路地の奥から何かがぶつかるような乾いた音が聞こえてきた。それに続いて、複数の笑い声と、誰かを責め立てるような荒々しい声が響く。
「……だからよぉ、おめぇがちゃんとやりゃいいだけの話だろ?」
「やれよ! 早くやれって! つまんねーんだよ!」
「ちょっと待って。さっきから何もしてないじゃないか。ぼくたちだけが損するなんて不公平だよね」
決して和やかな会話には聞こえなかった。
ケータが路地へ近づこうとすると、ウィスパーは慌ててその前へ回り込み、進路を塞いだ。
「お待ちなさい、ケータくん。何が起きているのか、まだ分かっていません。こういう場合は、まず様子を確かめてから行動するべきです」
「でも、何か嫌な感じがするんだよ。誰か困ってるんじゃないかな」
「……確かに、その可能性はありそうですね」
ウィスパーは反論しかけた言葉を飲み込み、もう一度奥へ目を向けた。気配を辿るかぎり、妖怪たちは一か所に集まっており、その中心にはひどく不安定な妖気がある。濃さだけなら周囲の妖怪より強いはずなのに、まるで何かに怯えるように縮こまっているのが気になった。
ケータも、妖怪と出会ったばかりの頃なら、こんな場所に進んで入ろうとは思わなかっただろう。
しかし、これまでさまざまな妖怪たちと関わり、彼らが人間と同じように笑い、怒り、傷つくことを知った今では、あの声を聞いて知らんぷりをする気にはなれなかった。
「ちょっとだけ見てみようよ。危なかったら戻ればいいし」
「やれやれ……。ですが、無理をしてはいけませんよ。何かあれば、すぐにともだち妖怪を呼ぶのです」
ウィスパーの忠告に頷き、ケータは路地へ足を踏み入れた。
建物の影に入った途端、日差しが遮られていくらか涼しくなったものの、奥へ進むにつれて、その涼しさは夏の木陰とは異なるものに変わっていった。
湿り気のある冷たい空気が足首を撫で、積み重なった木箱の表面には、季節外れの白い霜が薄く付着している。
「うわっ、寒っ……。何これ?」
ケータが腕をさすると、ウィスパーも周囲の異変に気づいて眉をひそめた。
「この冷気……なるほど。どうやら、氷の妖術を使う妖怪がいるようですね」
その言葉を聞きながら路地の角を曲がったケータは、そこでようやく声の主たちを見つけた。
狭い空き地のようになった場所に、四体の妖怪が集まっている。
その中心にいたのは、頭に大きなリーゼントを乗せた、いかにも柄の悪そうな妖怪だった。隣では小柄な鬼が落ち着きなく地面を蹴り、少し離れたところにいる別の鬼は、周囲を疑わしげに見回している。さらにもう一体、仲間に取り入るような笑顔を浮かべた妖怪が、何やら楽しそうに口を挟んでいた。
そして、その四体に囲まれるようにして、一人の少女の姿をした妖怪が壁際に座り込んでいた。
淡い水色の頭巾が小さな顔を覆い、その縁から濃い藍色の髪がわずかに覗いている。青い着物の上には白い縁取りのある外套を羽織っており、裾から見える黄色がかった長靴の先は、地面に薄く積もった霜に埋もれていた。
白い頬にはほんのり赤みが差しているものの、伏せられた目元と、胸の前で握りしめられた両手からは、明らかな怯えが窺えた。
彼女のすぐ前に落ちた小さな紙袋の中から転がり出た色とりどりの駄菓子は、いくつか踏みつけられたらしく包み紙が破れていた。
「おいおい、どうしたよ。さっきまであんなに冷てぇ風を出してたじゃねぇか。もう一回やってみろってんだよ」
グレるりんが下卑た笑い声を上げながら、少女の頭巾へ手を伸ばした。
彼の指が布に触れる直前、少女はびくりと肩を震わせ、身を守るように両腕を上げた。その拍子に外套の裾から冷気が漏れ、足元の地面が白く染まっていく。
「……や、やめて。お願い……」
「ああん? 何だって?」
「もう……やめてほしいの。私、何もしてないでしょう……?」
か細い訴えに、グレるりんは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「何もしてねぇだぁ? おめぇが通るたんびに寒くなるから、ちょいと涼しくしてもらおうって言ってんだろ。せっかく使える力があんのによぉ、ケチケチしてんじゃねぇぞ」
「そうだそうだ! さっさとやれよ! 暑いんだよ、こっちは!」
ガ鬼が苛立ちを露わにして足を踏み鳴らすと、地面に落ちていた駄菓子の一つが跳ね上がった。彼はそれを拾うどころか、わざと少女の前へ蹴り飛ばし、菓子が地面を転がる様子を見て楽しそうに笑う。
「ほら、取れよ! いらねーならオレがもらうぞ!」
少女は一度だけ落ちた菓子へ手を伸ばしかけたが、ガ鬼が再び足を持ち上げるのを見ると、慌てて袖の中へ引っ込めてしまった。
それを見ていたえこひい鬼は、グレるりんたちに向かって愛想よく笑いかける。
「まあまあ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。ぼくはね、グレるりんたちみたいに元気な妖怪は好きなんだ。ちょっとぐらいわがままを言ったって、特別に許してあげたいくらいだよ」
「へっ、分かってんじゃねぇか」
「でも、あの子はどうかなあ。せっかく頼んであげているのに、何もしてくれないんだもの。みんなと同じようには扱えないよね」
えこひい鬼の言葉に、ガ鬼は待ってましたとばかりに声を上げた。
少女は何かを言い返そうと唇を動かしたが、結局、何も言えずに俯いてしまう。その様子をじっと見つめていたぎしんあん鬼は、疑念を滲ませた声で口を開いた。
「……本当は、オレたちを凍らせるつもりなんじゃねえのか? さっきから黙ってるしよ。隙を見て仕返ししようって考えてるんだろ」
「ち、違うわ。そんなこと……」
「信用できねえな。お前、前にも妖術を暴走させたって聞いたぞ。今だって、わざとやらないふりをしてんじゃねえのか?」
「違う……違うの。あれは、私がうまく抑えられなくて……」
必死に説明しようとする少女の声は、最後まで続かなかった。
ぎしんあん鬼が疑わしげに顔を寄せると、彼女は頭巾の縁を強く握り、身体を縮こまらせた。もともと自分の冷気をうまく制御できず、誰かを寒がらせてしまうことを恐れている彼女にとって、以前の失敗を持ち出されることは何よりつらかった。
本気で抵抗すれば、この程度の妖怪たちを追い払うことはできるかもしれないが、狭い路地には人間の通る表通りが近く、周囲の建物にも人の気配がある。冷気が暴走すれば、妖怪だけでなく何も知らない人間まで巻き込んでしまう可能性があった。
誰かを傷つけるくらいなら、自分が少し我慢すればいい。そう思って黙っているうちに、彼らはますます図に乗り、今では何を言われても反論できなくなっていた。
「……ひどい」
その光景を物陰から見ていたケータの口から、思わず言葉が漏れた。
彼はこれまでにも、人間を困らせたり、いたずらを仕掛けたりする妖怪たちと出会ってきた。その中には、相手を怖がらせることを楽しむ妖怪もいたが、話を聞いてみれば、それぞれに事情を抱えていたことも少なくない。
しかし、今目の前で行われていることは、ただ一人を大勢で囲み、怯える様子を面白がっているだけだった。
ウィスパーもまた、珍しく冗談を挟まずに少女を見つめていた。
「……あの姿、もしや、ゆきおんなでしょうか」
「ゆきおんな?」
「ええ。強い冷気を操る、雪の妖怪です。本来であれば、あの程度の相手に簡単に追い詰められるような妖怪ではないのですが……」
ウィスパーは、少女の足元に広がる霜と、周囲で騒いでいる妖怪たちを見比べた。
「どうやら、何か事情がありそうですね」
「……止めようよ、ウィスパー」
ケータはそう言うと、物陰から一歩踏み出した。
「ケータくん、待ってください! まずは──」
「おーい! 何やってるんだよ!」
ウィスパーが制止するより早く、ケータの声が路地裏に響いた。
突然の呼びかけに、四体の妖怪が一斉に振り返る。
壁際の少女も驚いたように顔を上げたが、そこに立っていたのが見知らぬ人間の少年だと分かると、困惑したように目を瞬かせた。
「……ああん?」
グレるりんが眉を吊り上げ、ケータを頭の先から足元まで眺め回した。
「何だぁ、おめぇ! こんなとこで何してやがる!」
「そっちこそ何してるんだよ! その子、嫌がってるじゃん! もうやめなよ!」
ケータは少女を庇うように前へ出た。
相手が複数の妖怪である以上、怖くないと言えば嘘になる。だが、目の前で助けを求めることすらできなくなっている少女を見てしまった以上、ここで黙って帰ることなど考えられなかった。
グレるりんは一瞬ぽかんとした後、腹を抱えて笑い始めた。
「はっはっは! 聞いたかよ、おめぇら! 人間のガキが、オレたちに説教してやがるぜ!」
「何だよ何だよ! 邪魔すんなよ! オレたちが先に遊んでたんだぞ!」
ガ鬼も負けじと騒ぎ立て、地面を蹴ってケータを威嚇する。ぎしんあん鬼は少年の腕に巻かれた妖怪ウォッチを見つけて顔をしかめ、えこひい鬼は、どちらに味方したほうが得になるか考えるように目を細めた。
「ちょっと待てよ、グレるりん。あいつ、オレたちが見えてるぞ。何か隠してるんじゃねえか?」
「へっ、そんなもん知るかよ。見えてんなら話が早ぇじゃねぇか」
グレるりんはケータへ詰め寄り、顔を近づけて凄んでみせた。
「おめぇ、誰に向かって口きいてんのか分かってんのか? オレたちの邪魔すんなら、タダじゃ済まさねぇぞ?」
ケータは反射的に一歩後ずさったが、すぐに踏みとどまった。
相手の顔は怖いし、声も大きい。しかし、その背後で少女が再び小さく身を縮めたのを見て、胸の奥に込み上げてきた怒りのほうが勝った。
「何て言われたって、ダメなものはダメだよ! 四人で一人をいじめるなんて、そんなのずるいじゃん!」
「……あ?」
グレるりんの表情から笑みが消えた。
ウィスパーは、いよいよ雲行きが怪しくなったことを察してケータの隣へ滑り込む。
「ケータくん、勇気を出すのは結構ですが、相手をこれ以上刺激しては危険です。ここはわたくしが──」
「ウィスパー、あの子をお願い!」
「ええっ、わたくしですか!?」
思いがけず役目を振られたウィスパーが目を丸くする間にも、ケータは腕の妖怪ウォッチへ手を伸ばしていた。
それを見たグレるりんは、少年が何かをしようとしていることに気づき、舌打ち混じりに声を上げた。
「おめぇら、何ぼさっとしてんだ! やっちまえ!」
「言われなくても分かってるよ! 邪魔すんなって言っただろ!」
最初に飛び出したのはガ鬼だった。
小柄な身体からは想像しにくい勢いで地面を蹴り、ケータに向かって突進してくる。その後ろからグレるりんも駆け出し、ぎしんあん鬼は疑わしげな表情を浮かべながら回り込もうとした。
えこひい鬼は一瞬出遅れたものの、仲間たちが優勢だと判断したのか、慌ててその後に続いた。
「ケータくん! 早く、ともだち妖怪を!」
「分かってる!」
ケータはポケットから一枚の妖怪メダルを取り出した。
何度も使ってきた、見慣れた桃色のメダル。
初めて出会った頃は、トラックに戦いを挑んでは跳ね飛ばされてばかりいた、ちょっぴり頼りないところのある友達だった。しかし、ケータと一緒に数え切れないほどの冒険を経験し、多くの妖怪と戦ってきた今、その力は以前とは比べものにならないほど成長している。
ケータにとって、困ったときに真っ先に思い浮かぶ頼もしい相棒だった。
「出てきて、ジバニャン!」
妖怪メダルがウォッチに差し込まれる。
軽快な召喚音とともに妖気が渦を巻き、ケータの目の前へ赤い影が飛び出した。
「ニャッ!? 何ニャン、いきなり呼び出して! オレっち、ちょうどいいところで休んでたのに──」
姿を現したジバニャンは、最初こそ不満そうに耳を伏せていたが、ケータへ突進してくる妖怪たちを見るなり表情を変えた。
ガ鬼の拳がケータへ届こうとした、その瞬間だった。
ジバニャンの小さな身体が横へ跳び、振り下ろされた拳の内側へ潜り込む。ガ鬼は突然目の前に現れた赤い猫に驚き、勢い余ってよろめいた。
「ニャんだ、お前ら! ケータに何するつもりニャン!」
「うるせぇ! 邪魔すんな!」
ガ鬼が腹立ち紛れに腕を振り回したが、ジバニャンは軽く身を沈めて避け、そのまま相手の横をすり抜けた。
かつてのジバニャンなら、勢い任せに飛びかかっていたかもしれない。しかし、何度も自分より大きな妖怪と戦ってきた経験から、今では相手の動きや間合いを冷静に見極めるようになっていた。
わずかな身のこなしだけで突進をかわされたガ鬼は、悔しそうに歯を食いしばる。
「何だよ! ちょこまか逃げやがって! ちゃんと戦えよ!」
「そっちが勝手に空振りしてるだけニャン」
「何だとぉ!?」
激昂したガ鬼が再び飛びかかろうとしたところで、グレるりんが横から割って入った。
「調子こいてんじゃねぇぞ、この野良猫が!」
威勢よく振り下ろされるリーゼントを見ても、ジバニャンは慌てなかった。
相手の踏み込みに合わせて身体をひねり、リーゼントが通り過ぎるのを待ってから、猫らしい身軽さで後方へ跳ぶ。着地したときには既に四体の妖怪の位置を把握しており、背後にいるケータや、壁際に座り込んだ少女との距離まで確かめていた。
「ジバニャン! あの子、いじめられてたんだ! 助けてあげて!」
ケータの言葉を聞いたジバニャンは、ちらりと壁際へ視線を向けた。
水色の頭巾を被った少女が、膝を抱えるようにして小さくなっている。すぐ傍らには踏み荒らされた駄菓子が散らばり、彼女が身を守ろうとしていたことは、詳しい事情を聞かずとも分かった。
ジバニャンの耳が感情に呼応するようにぴんと立った。
「……そういうことニャン?」
さっきまで気楽そうだった声に、明らかな怒りが混じる。
「四匹がかりで、あんな小さな子をいじめてたのかニャン!」
「だったら何だってんだよ!」
グレるりんが怒鳴り返すと、ジバニャンは小さく鼻を鳴らした。
「だったら、オレっちが相手になるニャン!」
威勢よく宣言したジバニャンへ、四体の妖怪が一斉に襲いかかった。
ガ鬼が正面から飛び込み、グレるりんがその横からリーゼントを振り上げる。ぎしんあん鬼は相手の動きを警戒しながら水の妖術を放とうとし、えこひい鬼も仲間に続いて攻撃を仕掛けようとしていた。
しかし、そのとき既にジバニャンは地面を蹴っていた。
赤い身体が低く滑るように突進し、ガ鬼の攻撃を避けながら、一瞬でグレるりんの懐へ飛び込む。次の瞬間にはその頭上へ跳び上がり、空中で身体を反転させて四体の妖怪を見下ろしていた。
「いくニャン!」
小さな両前足に妖気が集まり、肉球が淡く輝き始める。
ジバニャンが得意とする必殺技。
かつて何度も強敵へ挑むために放ってきたその技は、繰り返しの戦いを経て今や相手の動きに合わせて正確に打ち込めるものになっていた。
「 ひゃくれつ肉球!!」
空中から飛び込んだジバニャンの前足が、凄まじい速さで繰り出された。
最初の一撃を受けたグレるりんが目を見開き、反撃しようとしたところへ二撃、三撃と肉球が叩き込まれる。さらにジバニャンは身体をひねり、横から飛び込んできたガ鬼へ連続して拳を打ち込み、その反動を利用してぎしんあん鬼とえこひい鬼へも攻撃をつなげていく。
四体の妖怪は、目まぐるしく動き回る赤い影を追うことさえできなかった。
「ぐおっ!? な、何だこいつ、速すぎ──!」
「痛い痛い痛い! もうやだぁ! やめろよぉ!」
「う、嘘だろ!? こんなに強いなんて聞いてねえぞ!」
「ちょ、ちょっと待って! ぼくは別に、みんなと同じように攻撃するつもりじゃ──!」
言い訳を最後まで口にする暇もなく、えこひい鬼の頬にも肉球が炸裂した。
連続する打撃音が路地裏に響き、四体の妖怪が次々と吹き飛ばされる。
最後の一撃を放ったジバニャンは、軽やかに地面へ着地すると、すぐにケータと少女のほうへ振り返った。二人のいる場所へ飛ばされないよう打撃の方向まで調整していたため、周囲の建物にもほとんど被害はない。
その背後でグレるりんたちがもつれ合うように転がり、積み上がった空の木箱を盛大に崩した。
「……いってぇ……!」
どうにか起き上がったグレるりんは、顔をしかめながらジバニャンを睨みつけた。
しかし、再び構えを取った赤い猫妖怪を見た途端、その威勢は目に見えて衰えた。
「ま、待てよ! おめぇ、ちょっと強すぎんだろ!」
「まだやるニャン?」
ジバニャンが一歩前へ出る。
それだけでガ鬼は情けない声を上げ、グレるりんの後ろへ隠れた。
「も、もうやだ! こんなところ、もう帰る!」
「おい、勝手に逃げんじゃねぇ! ……くそっ、覚えてろよ、この野郎!」
四体の妖怪は互いに押し合いながら路地の奥へ逃げ込み、ほどなくして姿を消した。
「ふぅ……。まったく、弱い者いじめなんてカッコ悪いニャン」
ジバニャンは前足を軽く振ってから、ケータへ向き直った。
「ケータ、もう大丈夫ニャン!」
「ありがとう、ジバニャン! すっごく強かったよ!」
ケータが嬉しそうに駆け寄ると、ジバニャンは一瞬得意げに胸を張ったものの、すぐに照れくさそうに顔を逸らした。
「ふん! これくらい、オレっちに任せるニャン!」
「いやはや、お見事! あれほどの数を相手にしながら、周囲への被害まで抑えるとは。ジバニャン、あなたも随分と強くなりましたねぇ」
本人はすぐに周囲へ視線を巡らせ、逃げた妖怪たちが戻ってこないことを確かめると、今度は壁際の少女へ意識を向けた。
「……さて、ケータくん。まずは、あの子の様子を見てあげましょう」
「あっ、そうだった!」
ケータは慌てて振り返った。
壁際には、先ほどの少女がまだ座り込んでいた。
自分を取り囲んでいた妖怪たちがいなくなったことを理解しているのかどうか、彼女は呆然とした様子で目の前の光景を見つめている。騒動の最中に頭巾が少しずれてしまったらしく、顔の脇から覗く藍色の髪が、冷たい風に揺れていた。
ケータが近づくと、その小さな肩がびくりと跳ねた。
「……っ」
少女は慌てて視線を伏せ、外套の裾を胸元へ引き寄せた。
自分に近づいてくる相手が、何をしようとしているのか分からない。これまで何度も、親切そうに声をかけられては、その後で冷たい身体や制御できない妖術を馬鹿にされてきたのだろう。
ケータが足を進めるたびに壁へ背中を押しつけるようにして身を縮める様子を見て、ケータは足を止めた。
路地裏に入ってからずっと感じていた冷気は、少女の周囲でいっそう濃くなっている。夏用の半袖から出た腕には鳥肌が立ち、足元の地面には白い霜が広がり始めていた。
「うわ……ほんとに寒いんだね」
思わず口にすると、少女はひどく傷ついたような顔をした。
「……ご、ごめんなさい」
震える声でそう言うなり、彼女は急いで両手を胸元へ押し当てた。自分の身体から漏れ出す冷気をどうにか抑えようとしているらしかったが、焦れば焦るほど霜は広がり、頭巾の縁には小さな氷の粒が生まれてしまう。
「私……ちゃんと、抑えようと……」
言葉の途中で、彼女の声が途切れた。
ケータは思わず困ったように眉を下げた。
少女がどうして謝るのか、最初はよく分からなかった。寒いのは確かだし、こんな真夏に氷ができるなんて不思議だとも思う。しかし、それで彼女が悪いということにはならないはずだった。
助けてもらった後でさえ、彼女は自分が誰かに迷惑をかけたことばかり気にしていることが、ケータには何となく寂しく感じられた。
「ねえ、ウィスパー」
「はい?」
「あの子、どうしてあんなに怖がってるんだろう」
小声で尋ねられたウィスパーは、すぐには答えられなかった。
妖怪に関する知識なら説明できることも多いが、目の前の少女がどんな目に遭い、何を恐れているのかまでは分からない。少なくとも、今の彼女に必要なのは長々とした妖怪の解説ではないのだろう。
「……まずは、お話を聞いてみてはいかがでしょう。もちろん、無理に聞き出す必要はありませんよ」
「うん」
ケータは頷くと、少女の前にしゃがみ込んだ。
立ったまま話しかけていたのでは、彼女がずっと見上げることになってしまう。それに、ただでさえ怯えている相手を、これ以上怖がらせたくなかった。少女はケータが自分と同じくらいの目線まで下りてきたことに気づき、おそるおそる顔を上げた。
水色の頭巾の下で、大きな瞳が揺れている。
「……あ、あの……」
何かを言おうとしているらしいが、なかなか言葉が続かない。
ケータは急かさず、そのまま待った。
普段なら、知らない妖怪に会えば名前や得意なことを次々と尋ねてしまうこともある。しかし、今の少女にはそうした質問よりも先に伝えておきたいことがあった。
「もう大丈夫だよ。あいつら、ジバニャンが追い払ってくれたから」
少女は一度だけ瞬きをした。
それから、おずおずとケータの背後へ目を向ける。そこには赤い猫妖怪が立っており、少女と目が合うと、少し照れくさそうに前足を上げてみせた。
「もうあいつらはいないニャン。安心するニャン!」
少女の目が、わずかに見開かれる。
しかし、安堵するにはまだ早かったのか、彼女は再び俯くと、胸の前で重ねた指先をぎゅっと握りしめた。
ケータは彼女の足元に落ちている駄菓子を見た。踏まれて破れた袋や、汚れた包み紙を見れば、あれが彼女の大切なものだったのだろうということくらいは分かる。
詳しいことは知らないけれど、好きなものを勝手に取り上げられたり、踏みつけられたりしたら、嫌な気持ちになるのは当然だった。
「……ひどいことされたね」
ケータがそう言うと、少女は涙を堪えながら顔を上げた。
地面にしゃがみ込んだままの彼女へ、ゆっくりと右手を差し出す。
「でも、もう心配しなくていいよ。あいつらがまた来たら、オレたちが何とかするからさ。……ねえ、立てる? オレ、ケータっていうんだ。よかったら、手を貸すよ」
真夏の陽射しが届かない路地裏で、ケータの小さな手が、少女の前に差し伸べられていた。