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その日の朝、ユキは天野家の近くまで来ていた。
特別な約束があったわけではない。昨日もケータとは顔を合わせていなかったので、今日はどこかで一緒に遊べたらいいと思い彼の家がある住宅街まで足を運んでみたのである。
とはいえ、訪ねていって玄関の呼び鈴を押すことはできないし、妖怪ウォッチで呼び出されてもいないのに、いきなり部屋へ現れるのも気が引ける。ユキは少し離れた曲がり角に立ち、外出するところへ偶然会えたら声をかけようと考えていた。
朝のさくらニュータウンには、まだ夏の暑さが本格的に居座る前の涼しさが残っていた。通りを歩く人々の姿はまばらで、家の前に並べられた鉢植えには水滴が光り、どこかの庭から散水ホースの音が聞こえてくる。
ユキが道端の花を眺めていると、やがて天野家の玄関が開き、見慣れた服装の少年が元気よく飛び出してきた。
「行ってきまーす!」
「ケータ! お昼までには一度帰ってくるのよ!」
「分かってるってー!」
玄関の向こうから聞こえた母親の声に返事をしながら、ケータは小さな虫取り網を肩に担ぎ、住宅街の先へ歩き出した。少し遅れて、白い浮遊する妖怪が玄関をすり抜け、少年の後を追っていく。
「ケータくん! 分かっているとおっしゃるなら、昨日の自由研究も進めてくださいよ! 虫を捕まえるだけでは、いつまで経っても完成しませんからね!」
「もう、ウィスパーは朝からうるさいなぁ! ちゃんとやるって!」
「そのお言葉、昨日も一昨日も聞きましたけど!?」
二人のやり取りに、ユキは思わず笑みをこぼした。さっそく声をかけようとしたところで、ケータが思いがけず駆け出す。
「あっ、セミが鳴いてる! あっちかな!?」
「だから走らないでくださいってば!」
少年は道の向こうへ曲がってしまい、ウィスパーも慌ててその後を追っていった。ユキは取り残されたように立ち尽くしたが、すぐに追いかけることはしなかった。
ケータは虫取りに夢中らしいし、今は邪魔をしないほうがいいかもしれない。もう少し経って落ち着いた頃に声をかければ、きっと一緒に遊んでくれるだろう。
そう考えた彼女は、二人の姿が消えた曲がり角へ、ゆっくりと足を向けた。
ケータは午前中、おおもり山の麓に近い林で虫を探していた。
ユキは少し離れた木陰から、彼が網を振り回したり、木の幹を覗き込んだりする様子を眺めていた。ときおりウィスパーが何かを説明し、ケータがそれを聞いて感心したり、反対に知ったかぶりを指摘したりしている。
以前なら何を話しているのか知りたくて近づいたかもしれないが、今日は少し距離があったほうが、彼の普段の様子をよく見られるような気がした。
ケータは、自分と一緒にいるときとは違う顔をたくさん見せた。
虫を見つけたときには夢中になって追いかけ、逃げられれば悔しそうに地面を蹴り、木の根元で転びそうになるとウィスパーに注意されて少し不満そうに口を尖らせる。やっと捕まえたセミを虫かごへ入れる前には、羽が傷ついていないか丁寧に確かめていた。
ユキは、その一つひとつを興味深く眺めていた。
自分が知らないケータが、こんなにもたくさんいる。それを知るのが楽しかった。
昼近くになると、ケータは母親との約束どおり、一度家へ戻っていった。ユキもそこまでついていき、彼が昼食を終えて再び外へ出てくるまで、近くの日陰で待っていた。
途中で何度か自分もどこかへ遊びに行こうかと考えたものの、今ここを離れてしまうと、次にケータがどこへ向かうのか分からなくなる気がして結局その場を動かなかった。
午後、ケータは近所のヨロズマートへ買い物に出かけた。
ウィスパーと二人で店へ入り、しばらくしてから菓子の入った袋を提げて出てくる。袋から覗いていたのは、ユキも見覚えのあるチョコレート菓子だった。
「またそれを買ったのですか、ケータくん」
「いいじゃん、好きなんだから!」
「いえ、お好きなのはよく存じておりますが、たまには違うものも試してみてはいかがかと」
「じゃあ、ウィスパーが好きなの買えば?」
「わたくしの分も買ってくださるのですか!?」
「買わないよ!」
ウィスパーとの掛け合いを楽しみながらケータはまた別の道へ歩き出していた。
見つからない程度の距離を保ちながら、時折立ち止まって身を隠しては追いかける。妖怪ウォッチのレーダーやウィスパーの探知に引っかからない範囲は既に知っている。
もしケータに気づかれれば、きっと声をかけてくれるだろう。そうすれば、一緒に遊ぶこともできる。今朝までは、それが今日の目的だったはずだ。
けれどもう少しだけ、いつものケータを見ていたくてユキは飛び出せなかった。彼が自分の知らないところで誰と話し、何をして、何を楽しんでいるのか。その続きを、途中で見失いたくなかったのである。
夕方には、ケータが道端で立ち止まり、草むらに引っかかった小さなビニール袋を拾い上げるところを見た。近くのごみ箱まで持っていくつもりらしく、袋を指先で摘まみながら歩いていく。
ユキは何となく嬉しくなったが、同時に、もし自分がここへ来ていなかったら、こんな些細な出来事を知ることもなかったのだろうと思った。
その考えが、胸に残った。
自分が知らないケータの一日は、きっとこれまでにも数えきれないほどあった。昨日も、一昨日も。自分と出会う前の、ずっと昔から。
ユキはそれを当然のこととして受け入れていたつもりだった。しかし、実際にこうして一日を追ってみると、知ることのできなかった時間が急に惜しくなってくる。
彼が何をしていたのか分からないまま夜を迎えるのと、今日のように一つひとつの出来事を知ってから夜を迎えるのとでは、安心できる程度がまるで違っていた。
夕暮れ、ケータが帰宅する頃になっても、ユキはまだ声をかけられなかった。結局一度も姿を見せないまま、少年が家の中へ入るのを見送った。
ここへ来たときに考えていた、偶然会えたら一緒に遊ぼうという目的は、いつの間にかどこかへ消えていて、代わりに残ったのは今日という一日を最後まで見届けたいという欲求だった。
夜になってからもそれは続いた。
さすがに玄関先に立ち続けるわけにはいかないので、家の裏手へ回り、二階の窓が見える場所で静かに過ごしていた。ケータの部屋の位置は以前に教えてもらったことがあり窓から灯りが漏れている間は、まだ起きているのだろうと分かった。
家の中で何をしているのかまでは、ほとんど見えないが、窓際へ近づくと時折楽しそうな声が聞こえてきた。
「よしっ! 今のはうまくいった!」
「ケータくん、もう随分遅いですよ。明日の朝も起きられなくなりますから、そろそろ終わりにしましょう」
「あとちょっと! 次のセーブポイントまで!」
「それを先ほどから三回ほど聞いているのですが!」
どうやら、ゲームをしているらしい。
ユキは、少しだけ窓の見える位置を変えた。
カーテンには隙間があり、そこからテレビの光が明滅しているのが見える。ケータは床へ座り込み、コントローラーを握って画面へ夢中になっていた。ウィスパーはその隣を漂い、ときどき時計を指差して何か言っている。
しばらくすると、階下から足音が近づいてきた。
「ケータ!」
扉が開き、母親の叱る声が響く。
「もう何時だと思ってるの! 明日も朝から遊びに行くつもりなんでしょう? いい加減に寝なさい!」
「えーっ! あとちょっとで終わるのに!」
「それ、さっきも言ったわよね?」
「……はーい」
不満そうな声とともに、ゲームの画面が暗くなった。
ケータは名残惜しそうにコントローラーを片づけ、ベッドへ潜り込んだ。それでも少しの間はウィスパーに何か話しかけていたが、やがて返事が途切れ、眠気に負けたように目を閉じてしまう。
ウィスパーがケータの布団をかけ直し、机の上のものを軽く片づけ、部屋の照明を消すと窓の向こうに暗闇が広がる。
ユキは、そこでようやく肩の力を抜いた。
朝からずっと、胸のどこかに落ち着かない感覚があった。ケータがどこへ行くのか分からなくなるたびに少し不安になり、再び姿を見つけるたびに安心した。彼が家へ帰ってしまってからも、眠るまでは今日が終わらないような気がしていた。
ケータはもう眠っている。今日はこれ以上、どこへも出かけないし、誰かに会いに行くこともない。明日の朝までは、ずっとあの部屋にいる。そう分かった途端、朝から張りつめていた気持ちが驚くほど穏やかになった。
「……おやすみなさい、ケータくん」
ユキは、暗くなった窓へ向かって小さく囁いた。
そのまましばらく窓を見つめていたが、やがて彼女は、自分が今日一日どんなことをしていたのか、ようやく考え始めゆっくりと目を伏せた。
「……私、何をしているのかしら」
誰かに頼まれたわけでも、ケータが困っていたわけでもない。
彼はただ、いつもどおり一日を過ごしていただけだった。
自分が見ていなくても、きっと何も変わらなかっただろう。それなのにユキは、彼がどこで何をしているのか知らないままでいることに耐えられず、とうとう一日を丸ごと使って後を追ってしまった。
フミちゃんと二人で話しているところを見た日から、こんなことが増えている。
できることなら、誰にも取られたくない。
そんな気持ちがある一方で、それがひどく身勝手な願いだということも、彼女には分かっていた。
ケータは、自分を助けてくれたが、だからといってこれから先の人生まで自分へ差し出してくれたわけではない。自分が彼を好きだからという理由で、その領域へ勝手に踏み込んでいいはずがない。
…………ましてや、妖術で無理やり何かを変えるなど、絶対にしてはいけない。
「………………」
もしケータが今日のことを知ったら、どう思うだろう。きっと、なぜ声をかけなかったのかと不思議がるだろう。場合によっては、怖がらせてしまうかもしれない。
ユキは、長い間その場に立っていた。
自分の中に、二つの気持ちがある。
ケータの自由を大切にしたい気持ちと、その自由がいつか自分の知らない誰かへ向かうことを、どうしても許したくない気持ち。
どちらも、簡単には消えてくれそうになかった。
結局その夜、彼女は誰にも声をかけずに住宅街を離れた。住処に戻りたいと思うこともなく、少し歩いて頭を冷やしたかった。