さくら中央シティに着く頃には、日付が変わって随分と時間が経っていた。
ユキがこの辺りを歩くのは、数日前にジバニャンから案内してもらって以来だった。昼間は車や人で賑わっていた大通りも、深夜になるとすっかり様子が変わっている。駅前にはまだタクシーが何台か停まっていたが、商店のシャッターはほとんど下りており、ビルの窓にも明かりは少ない。
ジバニャンと来たときには、次から次へと面白い場所を紹介してもらったため、じっくり景色を眺める暇がなかったので特に目的地も決めず気ままに歩く。
今は急ぐ理由もないので、昼間とは違う町の様子を確かめながら、細い路地へ入ったり、また大通りへ戻ったりしている。
やがて辿り着いたのは、のんべえ通りだった。
いくつもの飲食店が軒を連ねるその通りには、飲み終わった客たちがつい先ほどまで歩いていたらしく、どこかの店から片づけの音が聞こえている。バーや小さな飲み屋の看板は次々と明かりを落とし、閉店を知らせる札が扉へ掛けられていた。
そんな中、一軒だけ、まだ店内に灯りが残っている店があった。
「……あら?」
ユキは足を止めた。
店先には、少し年季の入った看板が掲げられており、そこに書かれていた名前を読んだ瞬間、彼女は思わず目を丸くした。
──スナック「ゆきおんな」。
自分の種族と、まったく同じ名前だった。
今ではケータからもらった「ユキ」という名前があるため、ゆきおんなと呼ばれることはほとんどなくなった。それでも、以前の自分を指す言葉がこんな場所で使われているのを見ると、何となく親近感が湧いてくる。
どんなお店なのだろう。ゆきおんなが好きなお菓子でも売っているのだろうかとそう考えて、ユキは店の入口へ近づいた。
扉には小さな窓があり、その向こうから暖かそうな灯りが漏れている。外から中の様子を確かめようと、彼女がそっと顔を近づけたその時だった。
「あら。こんな時間に、小さなお客さん?」
「ひゃっ!?」
背後から声をかけられ、ユキは飛び上がった。
慌てて振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
暗い茶色の髪を後ろで大きく結い上げ、淡い水色の着物を身につけた、落ち着いた雰囲気の女性だった。片手には買い物袋を提げており、どうやら近くの店で何かを買って戻ってきたところらしい。
女性は驚いた様子もなく、柔らかな笑みを浮かべている。
「こんばんは。何かご用かしら?」
「…………」
ユキは、言葉を失った。
目の前にいるのは、どう見ても人間だったが、その女性はこちらをまっすぐ見つめている。ただ偶然、自分のいる方向へ顔を向けているだけではない。明らかに自分へ話しかけているのだ。
「あ、あの……」
ユキは混乱したまま、周囲を見回すがほかに人間も妖怪もいない。
「……私が、見えるんですか?」
女性は、きょとんとした後、すぐに事情を察したように微笑んだ。
「ええ。見えているわよ」
「……えっ、でも……人間、ですよね?」
「ふふ。そんなに驚かなくても大丈夫。私は、あなたたちが見えるだけの人間よ。別に、何か特別な力があるわけでもないの」
女性は、ユキの不安を和らげるように穏やかな声で答えた。
けれど、彼女の説明を聞いても、ユキの混乱は収まらなかった。
ケータは妖怪ウォッチを持っているから、自分の姿を見ることができる。しかし、何も特殊な力を持っていない人間に普通に話しかけられるなど、考えたこともなかった。
「……あ、あの、私……! 勝手にお店を覗こうとしちゃって……!」
慌てて頭を下げると、女性は少し驚いたように瞬きをした。
そして、店内へ目を向けた。
「あらら、電気つけっぱなしにしてしまってたわね」
女性は苦笑しながら、買い物袋を持ち直した。
「ごめんね、妖怪さん。ここはもうすぐ閉まってしまうのよ。せっかく来てくれたのに、申し訳ないわね」
「い、いえ! 私、お客さんじゃないんです。ただ、名前が気になって……」
「名前?」
「……お店の名前が、ゆきおんなだったから」
ユキが看板を指差すと、女性は少しだけ目を細め、改めて彼女の姿を見下ろした。
「……ああ、なるほどね」
女性は、納得したように頷いた。
「あなた、ゆきおんななのね?」
「……はい」
「そう。それなら、確かに気になる名前よね」
その言葉には、どこか親しみのある響きがあった。何となく暖かさを感じて、ユキは少しだけ緊張を解いた。
「……私、ユキっていうんです。友達が、つけてくれた名前なんですけど……」
「ユキちゃん。可愛い名前ね」
女性は、素直にそう言った。
ケータからもらった名前を褒められたことが嬉しくて、ユキは思わず微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「うふふ。どういたしまして」
女性はそう言ってから、ふとユキの顔を覗き込んだ。
「……ねえ、ユキちゃん、ひょっとしたらあなた、何か悩みがあるんじゃない?」
ユキは、思わず顔を上げると、女性は柔らかく笑っていた。
「こんな時間に、一人で町を歩いているんでしょう? もちろん、夜の散歩が好きなだけかもしれないけれど……さっきから、何だか考え事をしているように見えたから」
「……それは……」
ユキは、すぐには答えられなかった。
今日一日、ケータを追いかけていたことや、彼が誰かに取られるのではないかと怖くなっていることや、自分の中に他人には知られたくない感情があること。
そんな話を、初めて会った人間にしてもいいのだろうか。
「……一応、まだスナックは開いているから、少し話していかない?」
そう言って、店の扉へ手を掛ける。
「もうお客さんも来ないような時間帯だし。お茶くらいなら出せるわよ。もちろん、嫌だったら無理にとは言わないけれど」
ユキは再び女性に視線を向ける。この人には何故か、ついついついて行ってしまうような親近感がある。その正体がなんなのかは分からなかったが、少なくともケータ以外にこんな感情を持った人間は初めてだった。
「……少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
「ええ、もちろん」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
「いらっしゃい。スナック『ゆきおんな』へようこそ」
店内は、ユキが想像していたものとは随分違っていた。
床には落ち着いた赤色が使われ、奥へ向かって折れ曲がるように長いカウンターが伸びている。そこには赤い丸椅子がいくつも並び、壁際の棚には瓶や小箱、本などが整然と置かれていた。花を飾った小さな花器や、少し古めかしいカレンダーが目につき、奥には歌を流すためらしい画面や機械もある。
氷や雪を思わせるものは、ほとんどなく、むしろ暖色の灯りに包まれた店内は、外の夜道よりもずっと温かそうに見えた。
「好きなところへ座ってね。今、お茶を淹れるから」
ママは買い物袋をカウンターの内側へ置くと、手際よく湯飲みを用意し始めた。
ユキは、少し迷ってから入口に近い丸椅子へ座った。椅子は彼女には少し高かったため、両脚を床へ下ろすことができず、仕方なく小さな足を揺らしている。
「…………うぅ」
その様子を見たママは、何も言わずに低い足台を持ってきてくれた。
「はい。これなら落ち着くでしょう?」
「……ありがとうございます」
「いいのよ。足がぶらぶらしていたら、ゆっくりできないものね」
ママは微笑み、カウンターの向こうへ戻り、ほどなくして、ユキの前へ温かいお茶が置かれた。
「冷たいものより、こっちのほうがいいかしらと思って。苦手だったら言ってね」
「いえ、温かいもの大好きですっ」
ユキは、両手で湯飲みを包み込んだ。
じんわりとした温もりが、指先から伝わってくる。
自分は冷気を扱う妖怪でありながら、実のところ寒いのがあまり得意ではない。温かいものに触れていると、少しだけ身体が楽になる。
そんな事情まで知っているわけではないだろうに、ママが自然に温かいお茶を出してくれたことが、何となく嬉しかった。
「あの、ママさん」
「なあに?」
「……人間なのに、妖怪が見えるって……怖くないんですか?」
ユキが尋ねると、ママは少し考えるように首を傾げた。
「そうねぇ。初めて見たときは、きっと驚いたと思うわ。でも、ずっと見えていると、そんなものかしらって思うようになるのよ。人間にもいろいろな人がいるでしょう? 妖怪だって、きっと同じなんじゃない?」
「……そう、ですね」
「それに、あなたみたいに礼儀正しい子もいるのだから、怖がってばかりいるのはもったいないわ」
そう言って、柔らかく笑うママを見てユキは少し照れくさくなった。
妖怪である自分を、当たり前のように受け入れてくれる人間がケータ以外にもいるということが分かった。それだけでも、今夜ここへ来てよかったと思えた。
しばらくの間、二人はお茶を飲みながら他愛ない話をした。ユキが最近さくらニュータウンで遊ぶようになったことや、友達に町を案内してもらったことを話すと、ママは興味深そうに耳を傾け、時折、店に来る客が教えてくれた近所の話題を返してくれた。
その会話が途切れた頃、ママは改めてユキへ目を向けた。
「……それで、ユキちゃん。さっきのことだけれど、もしよかったら、お話を聞かせてもらえる? もちろん、話したくないところは言わなくていいのよ」
ユキは、湯飲みを見つめた。中のお茶からは、まだ薄い湯気が立ち上っている。
……どう話せばいいのだろう。
相手の名前を出したくはなかった。
ケータが妖怪ウォッチを持っていることも、これまでの出来事も、全部を説明するには長すぎる。何より、自分の感情をそのまま口にするのが怖かった。
けれど、ママは何も聞かずに待ってくれていて。その沈黙に背中を押されるように、ユキはゆっくりと口を開いた。
「……私、とても大切な人がいるんです」
ママは、小さく頷いた。
「……その人は、私が一人で困っていたときに助けてくれて……。それから、ずっと仲良くしてくれているんです。私、前はほとんど友達がいなかったんですけど、その人のおかげで、今は少しずつ増えてきて……」
「──その人のことが、本当に好きなんです」
最後の言葉は少しだけ小さくなったが、ママは驚くことも、からかうこともせず、ただ静かに頷いた。
「そう。大切な人なのね」
「……はい」
「それで、何に悩んでいるの?」
「……その人には、ほかにもたくさん大切な人がいるんです。私のことも大事にしてくれていると思うんですけど……でも、私の知らないところで誰かと仲良くしているのを見ると、すごく嫌な気持ちになってしまって……」
ユキは、湯飲みを持つ手に少しだけ力を込めた。
「……その人が誰と会っているのか、何をしているのか、全部知っていたくなるんです。今日も、ずっとその人の後をついて歩いてしまって。自分でも、よくないことだって分かっているんです。あの人にはあの人の生活があるし、誰と仲良くするかなんて、私が決めていいことじゃないのに……」
ユキは、そこで一度言葉を止め、思い切って顔を上げた。
「私、どうしたらいいんでしょう」
ママは、しばらく考え込んだあと、カウンターの向こうで静かに湯飲みを置いた。
「……ユキちゃん。その人のこと、本当に大切なのね」
「……はい」
「だったら、まず覚えておいてほしいことがあるわ」
ママは、少しだけ身を乗り出した。
「好きな人がいることと、その人を自分のものにしたいと思うことは、似ているようで少し違うのよ」
ユキは、目を瞬かせた。
「……違う、んですか?」
「ええ。誰かを好きになると、もっと一緒にいたいと思うでしょう。相手が何をしているのか気になるし、ほかの人と仲良くしていると寂しくなることもある。でも、その人にはその人の人生があるのよ。あなたが全部決めてしまったら、相手は自分で何も選べなくなってしまうでしょう?」
ママは、穏やかな声で続けた。
「それに、誰かを無理やり引き留めても、きっと心から安心できるわけじゃないと思うの。相手が自分の意思で会いに来てくれるからこそ、嬉しいんじゃないかしら」
その言葉がまっすぐ胸に届いて、ユキは黙った。
自分が今日していたことは、きっと褒められるようなことではない。相手の知らないところで一日中後をつけ、どこへ行くのか確かめて、ようやく安心できた。そんなふうにして相手の行動を知ったとしても、彼が自分を好きになってくれるわけではない。
「……そう、ですよね」
ユキは、小さく頷いた。
「……私も、その人に無理やり何かをさせたいわけじゃないんです。ただ……」
そこで、言葉が止まった。
自分の本当の願いが、あまりにも身勝手に思えたからだった。
「……ただ、私を一番に選んでほしいんです」
「……その人が、ほかの誰よりも私と一緒にいたいって思ってくれたら……。私がいないと困るくらい、私のことを大切にしてくれたら……。そんなふうに考えてしまって……」
ママは、しばらくユキを見つめていた。ユキは身勝手な緊張感にまとわりつかれ動けないでいたが、ママは少しだけ微笑んで言った。
「そう。なら、あなたができることは、案外はっきりしているかもしれないわね」
「……え?」
「その人が、あなたと一緒にいたいと思える時間を増やしていけばいいのよ」
ママは、店内をゆっくりと見回した。
「このお店だって、そうなの。最初からたくさんのお客さんが来てくれたわけじゃないわ。初めて来てくれた人の話を聞いて、何が好きなのか覚えて、また来てもらえたら嬉しいと思って……そういうことを続けているうちに、少しずつ顔なじみの人が増えていったのよ」
カウンターの上に置かれた花へ視線を向ける。
「誰かが疲れていたら、無理に話を聞き出さずに、静かに座っていてもらうこともある。楽しそうな話を持ってきてくれたら一緒に笑うし、……たまには相談を受けることもあるわね。そんなことをしていると、帰るときに『また来るよ』って言ってもらえるの」
ユキは、真剣な表情で聞いていた。
「でも、それは……」
「ええ。もちろん、いつも来てくれるわけじゃないわ。別のお店へ行くこともあるでしょうし、仕事や家族の用事で来られない日だってある。それでも、また来たくなったときに思い出してもらえる場所でいられたら、それで十分なのよ」
ママは、少しだけ笑った。
「相手に選んでもらいたいなら、まずはあなた自身が、一緒にいて心地よいと思ってもらえる存在になること。それが一番大切なんじゃないかしら」
自分がどれだけケータのことを好きでも、彼が自分と一緒にいたいと思ってくれなければ意味がない。無理やり引き留めるのではなく、彼自身に選んでもらうことが大切なのだと。
しかし彼女の中では、その言葉が少しずつ別の形へ変わり始めていた。
それなら、ケータが困ることを、誰よりも早く知ることができれば。彼が何かを必要としているとき、いつでも自分が傍にいられれば……きっと、もっと頼りにしてもらえるのではないだろうか。
「ママさん」
「なあに?」
「……このお店のお客さんって、どうしてまた来てくれるんですか?」
ママは、少し意外そうな顔をした。
「そうねぇ。居心地がいいから、かしら。それに、人と人との繋がりも大きいわね」
「……繋がり?」
「ええ。常連さんが別のお客さんを連れてきてくれたり、誰かが困っている人を紹介してくれたりするの。そうやって、少しずつ知り合いが増えていくのよ。一人で何もかもやろうとしなくても、誰かと助け合えば、できることは増えていくでしょう?」
ユキは思わず息を呑んだ。
誰かと助け合い、知り合いが増える。自分一人では知らないことも、誰かに教えてもらえる。その言葉を聞いた瞬間、数日前にジバニャンと町を歩いた日のことが思い浮かんだ。
あの日、彼らと友達になったことで、自分の知らなかった場所や出来事をたくさん知ることができた。
もし、もっとたくさんの妖怪と仲良くなれたなら、ケータが困っているとき、誰かが自分へ知らせてくれるかもしれないし、自分がいない場所でも、何かを手伝ってもらえるかもしれない。そうすれば、ケータの傍にいられない時間を、今よりもずっと減らせるのではないだろうか。
「……なるほど……」
ユキは、小さく呟いた。
ママは、彼女が何かに気づいたらしいことを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ。少しは参考になった?」
「……はい。とても」
ユキの瞳には、先ほどまでの迷いとは違う光が宿っていた。
「私、少し分かった気がします」
ママは、満足そうに頷いた。
「それならよかったわ。でも、焦らなくていいのよ。大切なのは、相手の気持ちをちゃんと尊重することだからね」
「……ええ」
ユキは、穏やかに微笑んだ。
「ちゃんと、覚えておきます」
その返事を聞いて、ママは安心したように笑った。
それからも、二人はしばらく話を続けた。
ユキは、自分が妖術をうまく扱えなかった頃のことや、最近になってようやく力を抑えられるようになったことを話した。もちろん、ナガバナたちを凍らせてしまった出来事までは打ち明けなかったが、自分の力が強すぎることへの不安を口にすると、ママはそれを否定せず、静かに聞いてくれた。
「……力が強いことと、それをどう使うかは別の話よ。怖いと思えるなら、少なくとも、何も考えずに使ってしまうよりはずっといいと思うわ」
ママはそう言って、冷めかけたお茶を新しいものへ取り替えた。
「ただ、何でも自分一人で抱え込まないことね。あなた、きっと真面目な子なんでしょう。誰かの役に立とうとして、無理をしすぎてしまいそうだもの」
「……そう、でしょうか」
「ええ。好きな人のために何かしたいと思うのは素敵だけれど、そのために自分の生活を全部使ってしまったら、いつか苦しくなってしまうでしょう?」
ユキは、小さく頷いた。
今日一日、ケータの後だけを追いかけていた。確かに充実した時間で楽しかったが、言い方を変えればママの言うとおり、自分の時間をそれに全部使ってしまったのだ。
だったら、自分一人で見て回るのではなく、ほかの妖怪たちと協力すればいいのかもしれない。
そうすれば、自分の時間も無駄にならない。ケータのことを知らないまま、不安になる時間も減らせる。
ユキは、湯飲みを置いた。湯気はもうとっくに無くなっていて、ユキの体温でぬるくなったお茶が少しばかり残っているだけだった。
不思議なほど、頭がすっきりしていたのだ。
数時間前までは、自分の気持ちをどう扱えばいいのか分からなかった。
ケータを独占したい。けれど、彼の自由を奪いたくない。その二つの願いは、両立できないものだと思っていたが、今はその考えを成立させられる。
無理やり奪わなければいいのだ。ケータ自身に、自分を選んでもらえばいいのだ。そのために、彼が自分を必要とする場面を増やせばいいのだ。そして、彼が誰かへ助けを求める前に、自分が手を差し伸べられるようにすればいいのだ。
それなら、彼の自由を奪ったことにはならない。彼が自分から選んでくれるのだから。
「……うふふ」
ユキは、思わず小さく笑った。ママは、その表情を見て嬉しそうに目を細めた。
「少し元気が出たみたいね」
「はい。ママさんのおかげです」
「そう言ってもらえると、嬉しいわ」
ママは、時計へ目を向けた。
既に、随分と遅い時間になっている。窓の外には、夜明け前の薄い青色が混じり始めていた。
「あら、もうこんな時間。すっかり話し込んでしまったわね」
ママは、少し驚いたように笑った。
「ごめんなさいね。あなたも、そろそろ帰ったほうがいいでしょう?」
「……あっ、そうですね」
ユキも、時計を見て目を丸くした。
こんなに長い時間、誰かと話していたとは思わなかった。最初は少しだけ相談するつもりだったのに、気づけば夜が明けようとしている。それだけ、ママと話している時間が心地よかったのだろう。
「本当に、ありがとうございました」
ユキは椅子から降りると、深々と頭を下げた。
「……突然来て、こんなに長い時間お邪魔してしまって……」
「いいのよ。今日はもうお客さんも来なかったし、私もちょうど話し相手がほしかったところだったから」
ママは、柔らかく微笑んだ。
「それに、あなたみたいな子を見かけたら、放っておけないもの」
その言葉に、ユキは少しだけ首を傾げた。
「……どうしてですか?」
「……さあ。何となく、かしらね」
ママは、少しだけ意味ありげに笑った。それから、ユキの頭巾へ視線を向けた。
「同じ名前のお店へ来てくれたのも、何かの縁でしょう。また何かあったら、いつでも顔を見せてね。今度はもう少し早い時間に来てくれると嬉しいけれど」
「……はい」
ユキは、嬉しそうに頷いた。
「……また、来てもいいですか?」
「もちろんよ」
ママは、扉を開けた。
外には、夜明け前の静かな通りが広がっていた。閉まっていた店の看板は、もうほとんど明かりを落としている。その中で、スナック「ゆきおんな」の灯りだけが、まだ柔らかく辺りを照らしていた。
「……それじゃあ、気をつけて帰ってね。ユキちゃん」
「はい。ママさんも、お身体に気をつけてください」
ユキは、もう一度頭を下げ、ゆっくりと通りへ歩き出した。
ママは、しばらくその小さな後ろ姿を見送っていたがやがて、ふと自分の袖口へ目を落とす。淡い水色の着物の端に、ほんの小さな霜がついていた。ママはそれを指先でそっと払うと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……あんなに一生懸命なのだから、うまくいくといいけれどね」