クエストっぽいよね
独自設定マシマシです
夏休みも半ばを過ぎ、さくらニュータウンには朝から蝉の声が響き渡っていた。日差しは日に日に強くなり、昼間の公園からは子供たちの姿が少なくなっている。
そんな暑さの中でもケータは相変わらず家にじっとしていられず、妖怪ウォッチを身につけては町へ出かけ、何か面白いことがないかと歩き回っていた。
しかし最近の彼の傍には、一人の妖怪がいることが多くなっていた。
「ケータくん、そっちは大丈夫?」
「うん! こっちも終わったよ。ユキ、ありがとう!」
団々坂の外れにある古い物置の前で、ケータは額の汗を拭った。物置の裏側には小さな妖怪が暮らしていたのだが、いつの間にか積み上げられた荷物が入口を塞いでしまい、外へ出られなくなっていたのである。
通りかかったケータが話を聞き、ユキが荷物の底へ薄い氷を敷いて滑りやすくすることで、二人は重たい木箱を一つずつ動かしていった。
ようやく外へ出てきた妖怪は二人へ何度も頭を下げ、ケータは照れくさそうに笑いながら困ったときはまた声をかけてほしいと答えた。ユキも隣で穏やかに微笑み、彼が立ち去った後、冷気で冷やしておいた飲み物をケータへ手渡す。
「はい。暑かったでしょう?」
「ありがとう! あー、生き返る!」
「うふふ。よかった」
似たようなことはそれからも続いた。そよ風ヒルズで落とし物を探す妖怪がいれば、ケータが持ち主の話を聞き、ユキが協力して見つけ出した。
おおもり山の麓で小さな妖怪が怪我をしていればケータが家から救急用品を持ってきて、ユキが患部を冷やしすぎないように気をつけながら手当てを手伝った。
もちろん、二人だけですべてを解決しているわけではないが、ケータが誰かの困り事へ首を突っ込むといつの間にかユキが現れ、一緒に解決してくれることが以前よりずっと増えていた。
ケータは、その変化を単純に喜んでいた。最初に出会った頃のユキは、自分の冷気が誰かを傷つけるのではないかと心配し、人前で妖術を使うことさえ怖がっていたのが今では困っている妖怪を見つければ自分から声をかけるようになり、必要なときには迷わず力を貸してくれる。
しかしウィスパーだけは、この一連の流れに少し違ったことを考えていた。
ユキが手伝いに来てくれるのはありがたい。彼女の妖術のおかげで助かった相手も少なくないし、ケータが楽しそうにしているのも事実だった。けれど、ここ最近はあまりにも都合よく居合わせることが多いように思える。
例えば、先日の落とし物騒ぎ。ケータとウィスパーがそよ風ヒルズへ向かっていたところ、既にユキが近くに来ており困っている妖怪の話を知っていた。さらにその数日前には、ケータがまだ家を出ていない時間からユキがある妖怪の困り事を聞きつけて訪ねてきた。
友達が増えたことで町の事情に詳しくなったのだと考えれば、不自然とまでは言えない。しかし、以前ジバニャンから聞いた話もある。ユキがケータの行動に強い関心を抱いていることは、既に気になっていた。
ウィスパーは、前を歩く二人を眺めた。
ユキはケータが今日の出来事を楽しそうに話すたび、嬉しそうに相槌を打っている。その様子に嘘はなさそうだったし、ケータへ何かを強要しているわけでもない。
「ところでユキさん、今日はこちらへ来る予定だったのですか?」
ウィスパーが何気なく尋ねると、ユキは振り返った。
「ええ。近くに困っている妖怪がいると聞いたから、様子を見に来たの。ケータくんにも会えて、ちょうどよかったわ」
「ほう。そうでしたか。随分と顔が広くなったのですねぇ」
「うふふ。まだまだ知らない妖怪のほうが多いけれどね」
少し照れくさそうに笑うユキにウィスパーも合わせて微笑んだが、それ以上は尋ねなかった。誰から聞いたのかを確かめることはできたものの、今ここで問い詰める理由はない。
むしろ、疑問を持ったまま余計な質問を重ねるほうが、彼女との関係を悪くしてしまうだろう。違和感は消えないが、強く追求するほどのものでもなかった。
その日の夕方、ケータは自室の机に向かい何やら真剣に考え込んでいた。
机には宿題のノートが広げられているものの、鉛筆はほとんど動いていない。代わりに、先ほどから財布を開いたり閉じたりしては、小銭の枚数を数えている。ウィスパーは最初、また新しいゲームでも買うつもりなのだろうと思っていたがどうやら様子が違うらしい。
「……うーん。やっぱり足りないかなぁ」
「ケータくん、先ほどから何を悩んでいるのです?」
「ん? ああ、ちょっとさ。プレゼントを買いたいなって思って」
「プレゼント?」
ウィスパーは、興味深そうに身を乗り出した。
「ほほう! それはそれは! どなたへ贈るのです? まさか、フミちゃんへの贈り物ですか!?」
「ち、違うって! 何でそこでフミちゃんが出てくるんだよ!」
ケータは慌てて否定し、ウィスパーはその反応を見て少し面白そうに笑った。
「おやおや。そんなに慌てなくてもよいでしょうに」
「だから違うってば。ユキに何かあげたいんだよ」
その名前を聞いた途端、ウィスパーの表情が変わった。
「……ユキさんに?」
「うん。最近さ、ユキっていつも一緒に手伝ってくれるじゃん。オレが困ってる妖怪を見つけると、すぐ来てくれるし。前は妖術を使うのも怖がってたのに、今はすごく頑張ってるじゃん」
ケータは、机の上に置いた財布を指で押さえた。
「だから、何かお礼したいなって思ってさ。でも、お菓子だけっていうのもなぁ……。せっかくだから、ずっと持っててもらえるものがいいんだけど」
ウィスパーはしばらく黙っていた。ケータの話を聞いて、思い当たることがあったのである。
ユキは冷気を扱う妖怪だ。普通の人間が身につける品物では、彼女の体質に合わないものもあるだろう。だからといって、妖怪向けの贈り物を探すとなると、町の店だけでは選択肢が限られてしまう。
それなら、妖怪に関係する品物を調べてみるのもよいかもしれない。
「……なるほど。でしたら、少々お待ちください」
ウィスパーは、懐から一台の端末を取り出した。
薄い板状の本体に、明るく光る画面。妖怪に関する情報を調べたり、妖怪世界のニュースを見たりするときに使う、彼の愛用品──妖怪パッドだった。
「出ました! 困ったときの妖怪パッド!」
「いや、ウィスパーが調べ物するときいつも使ってるやつじゃん」
「それが何か!? 情報を正確に確認するのは、立派な妖怪執事の仕事なのですよ!」
ウィスパーは得意げに答えながら、画面を操作し始めた。
妖怪向けの贈答品や冷気を扱う妖怪の装飾品、古い時代の妖具。
いくつかの言葉を組み合わせて検索してみると、最初はよくある装備品や、妖怪向けの商店の広告ばかりが表示された。ケータは横から画面を覗き込み、値段を見るたびに顔をしかめていたが、ウィスパーは気にせず検索を続けた。
そして、古い妖具に関する資料を辿っていたときだった。
「……おや?」
ウィスパーの指が止まった。
「どうしたの?」
「ケータくん。これは、少々興味深いものを見つけましたよ」
画面に表示されていたのは、随分と古い妖怪の伝承を集めた記事だった。文章はところどころ読みにくく、掲載されている絵も色褪せている。資料というより、昔話や都市伝説を紹介するような内容だったが、その中に一つ、目を引く名前があった。
「ふぶき姫?」
ケータが読み上げると、ウィスパーは大きく頷いた。
「ええ! 古い時代に存在したと伝えられている、伝説の雪の妖怪です。強大な冷気を操り、真夏の山さえ一夜にして雪山へ変えたとも言われています。詳しい記録はほとんど残っていませんが、妖怪たちの間では今も名前だけが語り継がれているのですよ!」
「へえ……。ユキよりすごい雪女ってこと?」
「すごいどころではありません! 伝承によれば、ふぶき姫は周囲の気候まで変えてしまうほどの妖力を持っていたとか。もっとも、古い話ですから、どこまで本当なのかは分かりませんがね」
ウィスパーがさらに画面をスクロールすると、一枚の髪飾りについての記述があった。
白銀のかみどめ。
永遠に溶けない氷から作られたとされる、強い冷気の力を秘めた髪飾り。かつてふぶき姫が愛用していた宝物であり、彼女が姿を消した後も、ある雪山の奥深くで大切に守られているという。
記事の後半には、さらに奇妙な一節があった。
──その宝は、今のおおもり山のどこかに眠っている。
「……えっ、おおもり山?」
ケータは目を丸くした。
「すぐ近くじゃん!」
「そうなのです! しかも、どうやらおおよその場所まで記録が残っているようでして……。ふむふむ、古い石段の跡から北へ進み、二股に分かれた大杉の近く……なるほど、これは探してみる価値がありますね!」
ウィスパーの声はどんどん弾んでいったが、ケータは画面を覗き込みながら少し疑わしそうな顔をした。
「……でもさ、これって本当なの? 何百年も前の宝物が、今でもそのまま残ってるってことでしょ?」
「ええ、ええ! そこが伝説の面白いところではありませんか!」
「いや、そうじゃなくて。こんなの、誰かが勝手に作った話かもしれないじゃん」
ケータは、記事の隅に書かれた小さな注意書きを指差した。そこには、この伝承を裏づける確かな証拠は確認されていないと書かれている。
「ほら。やっぱり怪しいって」
「おや、ケータくん。随分と慎重ですねぇ」
「そりゃそうだよ。こんなの信じて山の奥まで行って、何もなかったらどうするの?」
ウィスパーは少し考えてから、ふっと胸を張った。
「そのときは、夏休みの素敵な思い出が一つ増えたと思えばよいのです!」
「絶対ウィスパーが行ってみたいだけじゃん」
「ギクッ!」
わざわざ声に出して驚くウィスパーを尻目に、ケータは改めて画面へ目を向けた。もし本当にそんなものがあるのなら、ユキはきっと喜ぶだろう。何より自分と一緒に妖術の練習を頑張ってきたユキへ、これほど似合いそうな贈り物はほかに思いつかなかった。
「……まあ、探してみるだけならいいか」
ケータは、小さく笑った。
「見つからなかったら、普通に何か買えばいいしね」
「うぃす! その意気です!」
ウィスパーは、嬉しそうに妖怪パッドを掲げた。こうして、二人は翌日、おおもり山の奥へ向かうことになった。
翌朝、ケータはリュックサックを背負い、小さなスコップを持って家を出た。
中には水筒と弁当、簡単な救急用品が入っている。ウィスパーに言われて懐中電灯も持ってきたが、真夏の昼間に山を歩くのだから、使う機会があるかどうかは分からなかった。
「それで、ウィスパー。場所はちゃんと分かってるんだよね?」
「もちろんですとも! 妖怪パッドに記されていた情報から、おおよその位置は把握しております。あとは現地で確かめるだけですよ!」
「ちょっと怖いなぁ」
おおもり山は、これまでにも何度も訪れたことがある。どんこ池の周辺や、神社へ続く道、山神滝のほうへ伸びる小道など、よく知っている場所も少なくない。しかし、今日向かうのは普段の散歩では足を踏み入れないような、山の奥深くにある場所だった。
歩き始めてしばらくは、いつもの夏山だった。木々の間から差し込む陽光は眩しく、遠くでは蝉の声が絶え間なく続いている。ところどころで小さな妖怪の気配を感じたものの特に困っている相手も見当たらなかったため、二人はそのまま道を進んだ。
やがて、舗装された道が途切れた。
ウィスパーは妖怪パッドの地図を確認しながら先へ進み、ケータは足元の石や木の根に気をつけながら後を追った。山の中は思った以上に蒸し暑く、少し歩くだけでも額から汗が流れてくる。
「ねえ、まだ着かないの?」
「もう少しです! この先に、昔の石段が残っているはずでして……」
「さっきももう少しって言ってなかった?」
「……それは、もう少しの範囲が少々広かっただけですよ!」
「何それ……」
それからしばらくして、二人はようやく古い石段の跡らしいものを見つけた。ほとんど土へ埋もれていたが苔に覆われた平たい石が何段か並び、かつて誰かが通っていた道であることが分かる。近くには大きな杉の木が立っており、その幹は途中から二本に分かれていた。
「あ、これじゃない?」
ケータが指差すと、ウィスパーは妖怪パッドを確かめた。
「おおっ! 間違いありません! 伝承に書かれていた場所と一致しています!」
そのとき、ケータの腕に巻かれた妖怪ウォッチが反応した。小さな電子音が鳴り、妖怪レーダーが普段とは違う動きを見せ始める。
「あれ?」
ケータは腕を持ち上げた。
「何か反応してる。妖怪でもいるのかな?」
「ふむ……。どうやら、強い妖気が近くにあるようですね。ケータくん、少し周囲を調べてみましょう」
二人は、妖怪ウォッチの反応を頼りに、杉の木の周辺を歩き回った。反応は木の根元へ近づくにつれて強くなっていき、苔むした石のそばにある何の変哲もない地面の上で、レーダーが最も強い反応を示した。
「……ここ?」
ケータは、足元を見下ろす。周囲の地面には木の根や小石が混じっているのに、その一角だけ少し土が柔らかかった。靴の先で軽く押すと、湿った土が簡単に沈み込む。
「……何か埋まってるのかな」
「可能性はありますねぇ。試しに、少し掘ってみてはいかがでしょう?」
ケータはリュックからスコップを取り出した。周囲へ目を向け、木の根を傷つけない場所を選んでから、柔らかい地面へ刃先を差し込む。
ざくり、と土が割れると同時。その瞬間山の奥から、聞き慣れない音が響いた。風が吹いたわけでもないのに、木々の葉が一斉に揺れ、足元から白い霧が立ち上り周囲の景色が水面に映った影のように歪み始める。
「……えっ?」
ケータは、思わずスコップを握り直した。
「ウィスパー、何これ!?」
「わ、わたくしにも分かりません! とにかく、そこから離れて──!」
しかし、ウィスパーが言い終えるより早く、周囲の景色が一変した。
蝉の声が消え、眩しかった夏の日差しが薄れ、空には厚い雲が広がっている。青々としていた木々は白い雪をまとい、足元の地面も、あっという間に雪に覆われていった。
吐き出した息が白くなり、冷たい風が頬を打つ。つい数秒前まで夏だったはずの山は、いつの間にか真冬の雪山へ変わっていた。
「う、うそ……」
ケータは、呆然と周囲を見回した。同じ場所のはずなのに、見覚えのある木々の配置が少し違っていた。石段は苔むしておらず、先ほどまで倒れていた古木も見当たらない。
「……ウィスパー、これ、どうなってんの……?」
「……まったく、分かりません」
「おい! そこで何をしている!」
二人が顔を見合わせたその時、背後から鋭い声が響いた。同時に振り返ると雪の積もった岩の上に一体の妖怪が立っている。
氷を思わせる淡い青色の身体。狼のように尖った耳と、凛々しい目つき。肩には青いマントを羽織り、手には細長い杖を握っている。その妖怪は険しい顔で二人を見下ろしていた。
「……人間?」
妖怪は、ケータの姿を見て目を細めた。
「どうしてここにいるんだ! ここは封鎖してあったはずだが……」
それから、隣に浮かぶウィスパーへ視線を移した。
「……ん?」
妖怪は、しばらくウィスパーの全身を眺め、そして心底驚いたように口を開いた。
「な、なんだお前は……! みすぼらしすぎる……!」
「……はい?」
ウィスパーの顔が引きつった。
「きっと服も買えないくらい貧乏なのだろうな……。そんなツンツルリンで真っ白けで、見てるこっちが恥ずかしい……!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 初対面の相手に何ということを!」
ウィスパーは、怒りのあまり身体を震わせた。
「このスーパーナイスバディのわたくしに向かって、なんて失礼な! そもそも、わたくしはこういう姿の妖怪なのです! 服を買えないわけではありません!」
「……そうなのか? それは気の毒に……」
「同情しないでください!」
青い狼の妖怪は、やがてケータの足元にあるスコップを見つけると、再び表情を険しくした。
「……ま、まさか!」
妖怪は、勢いよく杖を突き出した。
「そのあまりに貧相な姿に耐えかねて、ふぶき姫様の宝物を奪いに来たのか!? 不届き者め!」
「ええっ!? ちょっと、違うって!」
ケータは慌てて両手を振った。
「オレたちは、その……プレゼントを探してただけで!」
「やはり宝物が目当てか! 言い訳は聞かん!」
「いや、だから話を──!」
「凍らせてから外に放り出してやる!」
妖怪の杖の先に青白い光が集まり、猛烈な冷気が渦を巻き二人へ向かって吹き荒れた。
「危なーい!」
ウィスパーが咄嗟にケータの前へ飛び出したがそれよりも早く、彼らの目の前に巨大な炎が立ち上がった。轟音とともに灼熱の火柱が雪を蒸発させ、迫ってきた吹雪を正面から打ち消す。白い水蒸気が一気に広がり、その向こうに、九本の尾を持つ妖怪の姿が浮かび上がった。
「まったく。ずいぶん騒がしいところにいるじゃないか」
わずかな呆れが混じった優雅な声を響かせ九本の尾をゆっくりと揺らしながら、赤い瞳の妖怪が振り返る。
「ケータ。これは一体どういう状況かな? ここはおおもり山だよね?」
「キュウビ!」
ケータは、ぱっと顔を上げた。
「オレにも何が何だか分かんないんだよ! さっきまで普通の山だったのに、急に雪山になってさ!」
「……へえ?」
「むごごーっ!」
キュウビは、少しだけ目を細めた。その背後では、間に割って入ろうとしたウィスパーが、勢い余って九本の尾の一つへ突っ込んでいた。
「ぐえっ!?」
ふわりとした尾に身体を弾かれ、ウィスパーが雪の上へ転がる。
「ちょっとキュウビ! もう少し登場するときの位置を考えてくださいよ!」
「きみが勝手に突っ込んできたんじゃないか」
「そ、それはそうですが!」
ケータは二人のやり取りに少しだけ安心しかけたものの、雪の向こうで杖を構えている妖怪の姿を見て、すぐに表情を引き締める。どうやら、のんびり話している場合ではなさそうだった。
ガリ王子は、突然現れた九尾の妖怪を見据えたまま、杖を握る手に力を込めていた。
吹雪の術を一瞬で相殺されたことも驚きだったが、それ以上に相手から放たれる妖気が尋常ではない。九本の尾に灯る炎は、普通の火ではなかった。雪山全体を支配するような冷気の中でも少しも勢いを失わず、周囲の空気をじりじりと熱している。
それほどの妖力を持つ者など、ガリ王子も滅多に見たことがなかった。
かつて仕えていたふぶき姫を思い出す。あの方も、気候そのものを変えてしまうほどの強大な力を持っていた。
目の前の狐は、炎という正反対の属性でありながら、同じように底知れない力を感じさせる。しかも、先ほどの術を防いだ後ですら、まったく疲れた様子がない。
しかし、だからといって退くわけにはいかなかった。ここには、姫から託された宝物が眠っている。何者であろうと、勝手に持ち出させるわけにはいかない。
「……なるほど。お前、ただの妖怪ではないな」
ガリ王子は杖を持ち直しマントの端を強く握った。それから岩の上で背筋を伸ばし、まるで王宮の広間へ立ったかのように堂々と名乗りを上げた。
「よく聞け! オレはガリ王子! 雪山の守護を任されし氷の狼にして、偉大なるふぶき姫様の宝を守る者だ! ここへ足を踏み入れた以上、どんな妖怪であろうと見逃すわけにはいかん!」
ひと息に言い終えると、彼はキュウビへ杖を向けた。
「お前も名乗れ! その力を持つならば、名もなき妖怪ではあるまい!」
キュウビは、面倒くさそうに目を細めた。
「……ずいぶん大仰だね。僕は、別にきみと争うために来たわけじゃないんだけど」
「名乗れと言っている!」
「はいはい。僕はキュウビ。見てのとおり、炎を扱う九尾の妖怪さ。それで満足かな?」
ガリ王子は、その名を聞いた途端、わずかに息を呑んだ。
「……キュウビ?」
古い時代から語り継がれる、強大な妖力を持つ狐の妖怪。その存在については、ガリ王子も伝承を耳にしたことがあった。しかし、まさか実際に目の前へ現れるとは思っていなかった。
ましてや、人間の少年を守るために。正に、今のガリ王子と立場は同じだった。
「なるほど! 相手にとって不足なし!」
ガリ王子は、再び杖を構えた。
「ならば、この雪山の守護者として、お前に決闘を申し込む! 姫様の宝物を狙う者を守るというのなら、まとめて相手をしてやろう!」
その宣言を聞いて、ケータは慌てて一歩前へ出た。
「ちょ、ちょっと待ってよ! だから、宝物を盗もうとしたわけじゃないって!」
「問答無用!」
「いや、話くらい聞いてってば!」
しかし、ガリ王子は一向に聞く耳を持たない。彼の周囲では雪が巻き上がり、足元の岩に薄い氷が広がり始めている。キュウビは、その様子を見て小さく息を吐いた。
「やれやれ。どうやら、あちらは引くつもりがないらしいね」
「キュウビ、何とか話し合いできないの? 別にケンカしに来たわけじゃないし……」
ケータが困ったように尋ねると、キュウビは少しだけ表情を和らげた。
「僕もできればそうしたかったよ。でも、今の彼には何を言っても届かなさそうだ。あれほど妖気を高めている相手に、きみを近づけるわけにもいかないしね」
そう言って、キュウビは九本の尾の一本を伸ばした。柔らかな毛並みがケータの身体を包み込み、まるで抱きしめるように、そっと後方へ移動させる。
「こうなった以上、僕がやるしかない。ケータ、少し離れるんだ」
「でも!」
「大丈夫。きみが心配するほど、僕は弱くないよ」
キュウビは、いつものように余裕のある笑みを浮かべた。
「……分かった。気をつけて、キュウビ!」
「ふふ、誰に言っているんだい?」
キュウビが軽く笑い尾を離すと、ウィスパーも慌ててケータの傍へ飛んでくる。
「ケータくん! 今はキュウビに任せましょう! わたくしたちは、あちらの木の陰へ!」
「うん!」
二人が雪の積もった木々のほうへ移動するのを見届けると、キュウビはガリ王子へ向き直った。
九本の尾が、ゆっくりと広がる。
「……さて。待たせたね」
その声に応じるように、ガリ王子も杖を持ち上げた。
「来い、キュウビ! この雪山で、オレに勝てると思うなよ!」
次の瞬間、二体の妖気が真正面からぶつかった。
最初に動いたのは、ガリ王子だった。
杖の先から放たれた吹雪は、ただの冷たい風ではない。白い雪煙の中に無数の氷の刃が混じり、木々の枝を削りながら一直線にキュウビへ迫る。
キュウビはその場から飛び退き、九本の尾を大きく広げた。尾の先に灯る炎が一斉に燃え上がり、次の瞬間には複数の火球となって氷の刃へ衝突する。
爆発にも似た音が響く。氷が砕け、雪が蒸発し、辺り一面に白い水蒸気が立ち込め始める。
「うわっ!?」
木の陰へ隠れていたケータは、思わず腕で顔を覆った。
熱風が吹きつけた直後、今度は刺すような冷気が襲ってくる。夏服のまま雪山へ放り込まれた身体には、その温度差があまりにも厳しかった。
「ケータくん! こちらへ! 木の幹を盾にしてください!」
ウィスパーが叫ぶ。ケータは言われるまま木の陰へ回り込み、幹へ身体を寄せた。
しかし、そこで安心する暇もなかった。地面を伝ってきた冷気が、雪の下から一気に噴き上がったのである。
「うわあっ!」
足元の雪が盛り上がり、鋭い氷柱が何本も突き出した。
ケータは慌てて飛び退いたものの、すぐ横を氷の先端が通り過ぎ、心臓が跳ね上がった。
遠くでは、キュウビが大きく尾を振るっていた。
「……なかなかやるじゃないか」
キュウビは、迫ってきた氷柱を炎で焼き払いながら、ガリ王子を見据えた。
「ただの見張り役にしては、ずいぶん強いね」
「当然だ! ふぶき姫様の宝を守る者が、弱くてどうする!」
ガリ王子は、素早い動きで雪の上を滑るように駆け出した。杖を槍のように突き出し、キュウビの懐へ飛び込む。キュウビは身を翻してかわしたが、すれ違いざまに放たれた冷気が尾の先端へ触れ、黄金の毛並みに白い霜を残した。
「へえ」
キュウビは、わずかに目を細めた。
「僕の炎を、そこまで冷やせるのか」
「お前の炎とて、無敵ではないということだ!」
ガリ王子が杖を振り上げると、周囲の雪が一斉に浮かび上がった。空中で雪の粒が集まり、拳ほどの大きさの氷塊へ変わっていく。
次の瞬間、それらが無数の弾丸となってキュウビへ降り注いだ。
キュウビは九本の尾を回転させ、身体の周囲へ炎の輪を作り出した。飛来した氷塊は次々と砕け、蒸気へ変わっていく。しかし、すべてを消し去るより早く、ガリ王子がその蒸気の向こうから飛び込んできた。
鋭い杖の一撃をキュウビは身を捻って避けたものの、肩の毛が数本、氷とともに散った。
「……っ!」
その表情から、わずかに余裕が消えた。
ガリ王子がすかさず追撃しようとしたが、九本の尾が大きく広がり、その先端から噴き上がった炎が今度はガリ王子の退路を塞ぐように左右へ走った。炎は雪を溶かしながら地面を這い、逃げ道を狭めていく。
「何っ!?」
ガリ王子は慌てて跳躍したが、数多の戦闘経験を経たキュウビはその動きを読んでいる。
「そこ」
赤い光が閃き、空中へ飛び上がったガリ王子の足元から炎が噴き上がり青いマントの端を焼いた。
「ぐっ……!」
ガリ王子は咄嗟に冷気を放ち炎を打ち消すが、着地したときにはマントの裾が黒く焦げている。
両者は少し距離を取り、互いを睨み合った。
雪山には、溶けた雪が水蒸気となって立ち上る場所と、再び凍りついた場所が入り混じっていた。さっきまで白一色だった地面は熱によって露出した岩肌や、砕け散った氷の破片で荒れ果てている。
ケータは、木の陰からその様子を見つめていた。
「……すご……」
キュウビが強いことは知っている。けれど、こんなふうに本気で戦っている姿を見るのは、初めてだった。普段は余裕たっぷりに話し、少し意地悪な冗談まで言うキュウビが、今は相手の動きを一瞬も見逃さず全身へ妖気を巡らせている。
その姿に圧倒されると同時に、ケータは別のことにも気づいていた。
ガリ王子ももちろん本気で戦っている。ただ相手を倒したいからではない。彼には、どうしても守らなければならないものがあるのだ。
「……ねえ、ウィスパー」
「な、何ですか、ケータくん!?」
「やっぱり、ちゃんと話したほうがよかったんじゃないかな……。ガリ王子は、宝物を守りたいだけなんでしょ?」
ウィスパーは、少し困ったような顔をした。
「それはそうですが、あの状態では聞く耳を持ってもらえませんよ! まずは戦いを止めなければ……!」
そのとき、遠くから再び轟音が響いた。
キュウビの炎が巨大な柱となって立ち上がり、ガリ王子の作り出した氷の壁を正面から打ち砕く。砕けた氷の破片が、周囲へ雨のように降り注いだ。
「ケータくん、伏せて!」
「うわっ!」
二人は慌てて身を屈めた。
頭上を氷の欠片が通り過ぎ、背後の木へ突き刺さる。しばらくして顔を上げると、今度はガリ王子が杖を地面へ突き立てていた。周囲の雪が、一斉に彼の足元へ集まり始める。
「──キュウビ!」
ガリ王子は、荒い息を整えながら叫んだ。
「認めよう! お前は強い! だが、オレには退けぬ理由がある! 姫様から託されたものを守るためなら、この身が砕けようとも構わん!」
青いマントが、激しい風にはためいた。
「この雪山のすべてを使って、お前を止めてみせる!」
キュウビは、静かに目を細めた。
「……なるほど。そこまで覚悟を決めているのか」
彼は少しだけ後ろへ視線を向けた。木の陰で必死に踏ん張っているケータとウィスパーが見える。あの二人がいる限り、これ以上戦いを長引かせるのは危険だった。
キュウビは、ゆっくりと九本の尾を広げた。
「……仕方ないね。僕も、少し本気を出そうか」
空の色が変わった。
ガリ王子の周囲では雪雲が渦を巻き、山の上空へ集まり始めていた。青白い妖気が杖から空へ伸び、雲の中心へ吸い込まれていく。やがてそこから巨大な氷の塊がいくつも姿を現し、吹き荒れる雪とともにゆっくりと回転し始めた。
キュウビの九本の尾には、これまでとは比べものにならないほど強い炎が灯っていた。赤かった炎は中心部分が白く輝くほど高温になり、周囲の空気を揺らしている。
その光景を見たウィスパーの顔から、血の気が引いた。
「……ケータくん! い、いけません! あれは……あれは、まずいですよ!」
ウィスパーは慌ててケータの腕を引いた。
「今すぐ離れましょう! あんなものがぶつかったら、この辺り一帯がどうなるか分かりません!」
「……でも、キュウビが……!」
「キュウビなら大丈夫です! 強い妖怪なのですから! ですが、ケータくんは人間なんですよ!?」
珍しく本気で切迫しているウィスパーにケータは思わず言葉を詰まらせる。確かに、今までとは明らかに違う。周囲の雪は風に舞い上がり、足元の木の根まで凍りついている。先ほどから身体は冷え切っており、指先の感覚も少しずつ鈍くなっていた。
逃げなければ危ないのは、分かっていた。でも、遠くでキュウビが戦っている……自分たちを守るために。その姿を見ていると、どうしても足が動かなかった。
「……やだ」
ケータは、小さく呟いた。
「……ケータくん?」
「キュウビが頑張ってるのに、オレだけ逃げるなんて嫌だよ!」
ウィスパーは、目を見開いた。ケータは、寒さに震えながらも続けた。
「友達が頑張ってるときに、自分だけいなくなってどうすんだよ! オレ、ちゃんと見てたいんだ!」
「ケータくん……!」
ウィスパーは、言葉を失った。
ケータの気持ちは分かる。友達を置いて逃げたくないという思いも、理解できる。
だが、今ここに残ることが、キュウビの助けになるわけではないのだと、むしろキュウビがケータを守るために余計な力を使わなければならなくなるかもしれないのだと。
ウィスパーは、そのことを伝えようとしたが、その前にガリ王子が杖を天高く掲げた。
「受けてみろ、キュウビ!」
雪雲の中心から、山そのものを空へ持ち上げたかのような大きさの氷塊が姿を現す。
「ガリガリ大寒波!!」
ガリ王子が叫んだ瞬間、空から猛烈な寒波が降り注いだ。
雪と氷が一体となった巨大な渦が、キュウビへ向かって押し寄せる。その冷気は周囲の水蒸気さえ瞬時に凍らせ、空中に無数の氷の結晶を生み出していった。
キュウビはその光景を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。
「──見事だよ、ガリ王子」
九本の尾が、一斉に広がる。
「ならば、こちらも全力で応えよう」
その声とともに、炎が爆発的に膨れ上がった。
九本の尾から放たれた火柱が一つに集まり、巨大な炎の渦となって天へ伸びる。周囲の雪は一瞬で蒸発し、岩肌が赤く照らされていく。
「紅蓮地獄!!」
炎が氷へぶつかった瞬間、世界が白く染まった。
最初に襲ってきたのは、凄まじい熱だった。
ケータは思わず腕で顔を覆った。
燃えるような熱風が吹きつけ、頬や首筋がじりじりと痛んだ。直後にはその熱を押し返すように猛烈な冷気が襲いかかり、汗を含んだ服が瞬く間に凍りついていく。
「うわああっ!!」
「ケータくん!!」
ウィスパーが叫ぶと同時に足元の雪が吹き飛び、地面に亀裂が走った。木々が大きくしなり、枝が折れる音が響く。
二つの必殺技がぶつかった中心では、炎と氷が互いを押し潰すように渦を巻いていた。熱風と寒波が交互に襲いかかり、周囲の空気を激しくかき乱している。
ケータは必死に木へしがみついたが身体が思うように動かない。指先には霜が張りつき、握っている木の皮が滑る。頬には細かな氷の粒が打ちつけ、目を開けているのもつらかった。
「……う、ウィスパー……!」
声を出したつもりだったが、自分の耳にもほとんど聞こえなかった。
ウィスパーは、必死にケータの身体を支えようとしていた。しかし浮遊している彼の身体も風に煽られ、思うように動けなくなっている。
「ケータくん! 手を離してはいけません!!」
その瞬間、二つの妖術の中心から、さらに大きな衝撃が放たれ、空気が爆発した。木の幹が大きく軋み、周囲の雪が一斉に吹き飛ぶ。
「……あっ!」
ケータの指が、木から離れた。
身体が宙へ浮き、足元の地面が、あっという間に遠ざかっていく。
吹き荒れる風の中で、ケータは何が起きているのか分からなくなった。視界には雪と炎が入り混じり、耳には凄まじい轟音が響いている。身体は冷たいのか熱いのかも分からず、ただ呼吸することさえ苦しかった。
意識が、少しずつ遠のいていく。
「ケータくん!!」
その声だけがはっきりと聞こえ、白い身体が勢いよく飛び込んできた。
ウィスパーは空中でケータを抱きしめると、咄嗟に自分の身体を下へ回した。少しでも落下の衝撃を引き受けようとしたのである。
「……っ!」
ケータは、薄く目を開けた。
「……ウィス……パー……?」
「大丈夫です! わたくしが、必ず……!」
しかし、地面は容赦なく近づいてくる。ウィスパーは歯を食いしばり、ケータの頭を庇うように抱え込んだ。
そのとき、黄金の影が雪煙の中から飛び出した。九本の尾を大きく広げたキュウビが、猛烈な速度で二人のほうへ飛んでくる。
その身体は先ほどまでの優雅な姿とはまるで違っていた。
肩の毛並みは焦げ、尾の何本かには氷が張りつき、額からは小さな傷が走っている。青白い霜と黒い焦げ跡が全身に残り、明らかに激しい戦いを終えたばかりだった。
それでも、彼は迷わない。空中で身体を捻り九本の尾を大きく広げ、柔らかな毛並みがケータとウィスパーを包み込み落下の勢いを受け止めた。
「まったく、君って子は……」
キュウビは、着地の衝撃を逃がすように雪の上を滑り、ようやく足を止めた。その腕にはケータが抱えられていた。まるで大切なものを運ぶように、両腕で丁寧に支えられている。
ケータは、ぼんやりと目を開けた。
「……キュウビ……?」
「やあ。ずいぶん派手に飛んでいたね。空を飛びたいなら、次からは僕に頼んでくれないかな」
ケータは、彼の焦げた毛並みを見つめた。
「……ケガ……」
「このくらい、どうってことないさ」
キュウビは、軽く肩をすくめた。
その動きで肩の傷が痛んだらしく、わずかに眉が動いたものの、すぐに普段の表情へ戻った。
「……勝ったの……?」
キュウビは、ふっと笑った。
「当たり前じゃないか。きみの友達が、そう簡単に負けるわけがないだろう」
ガリ王子は全身を覆う氷の鎧が砕け、マントの大半が焼け焦げた状態で雪の中に膝をついていた。
杖は途中から折れかけ、片方の肩には炎の痕が残っている。立ち上がろうとするたびに足が震え、そのたびに杖を地面へ突き立てて身体を支えていた。それでも、キュウビの姿を認めると、彼は再び杖を構える。
「……ま、まだだ……!」
「もういいだろう、ガリ王子」
キュウビは、穏やかに言った。
「きみは十分に戦ったよ。それ以上続ければ、本当に取り返しがつかなくなる」
「……オレは……まだ……!」
「姫様の宝を守りたいんだろう? だったら、まずは話を聞いてくれないかな」
キュウビの声には、もう戦う意思はなかった。
ガリ王子は荒い息を整えながら、彼の腕に抱えられたケータへ目を向けた。
少年は先ほどの衝撃で身体を震わせていた。ウィスパーも雪の上でへたり込み、今にも泣き出しそうな顔でケータを心配している。その姿を見て、ガリ王子はようやく杖を下ろした。
「……分かった。話だけは聞こう」
キュウビは静かに頷き、ケータをそっと雪の上へ下ろした。ケータはまだ少しふらついていたが、キュウビに支えてもらいながら何とか自分の足で立ち上がって少し緊張しながら口を開く。
「……あのさ、ガリ王子。オレたち、本当に宝物を盗もうとしたわけじゃないんだ」
ケータは、これまでの事情を一つずつ説明し始めた。
自分には、ユキというゆきおんなの友達がいて、その子は、最初は自分の冷気をうまく扱えず怖がっていたこと。
最近はとても頑張っていて、困っている妖怪たちを一緒に助けてくれるようになって、お礼に何かプレゼントをしたいと思ったこと。そして、ウィスパーが妖怪パッドで調べた伝承の中に、白銀のかみどめという宝物があると知ったこと。
「それで、探してみようってことになったんだ」
ケータは、少し困ったように笑った。
「でも、まさかこんなことになるとは思わなくてさ。勝手に掘ったのは悪かったけど、最初から盗むつもりだったわけじゃないんだよ」
ガリ王子は、しばらく何も言わなかった。その瞳が、ゆっくりと大きくなっていく。
「……ゆきおんな……?」
彼は小さく呟き、何かを思い出すように目を閉じた。
遠い昔の記憶が、少しずつ蘇ってくる。
雪に覆われた山と静かな宮殿。そしてその奥で、いつも穏やかに微笑んでいた一人の少女。
かつて、この雪山を治めていた伝説の妖怪、ふぶき姫その人である。ガリ王子はまだ若い頃から彼女に仕え、長い年月を共に過ごしてきた。
姫は強大な妖力を持ちながら、決してそれを無意味に振るうことはなかった。山で遭難した人間がいれば助け、吹雪で道を見失った妖怪がいれば、雪を静めて帰り道を示していた。
そして、長い長い時を生きた末に、彼女は自らの天寿が近いことを悟った。そのとき、ガリ王子は一つの宝物を託されたのだった。
永遠に溶けない氷で作られた、白銀のかみどめ。姫が長年、大切に身につけていたものだった。
──いずれ、然るべきときが来れば。
あの日の声が、耳の奥に蘇る。
──このかみどめを必要とする者が、きっと現れるわ。
──そのときまで、ここを守っていて。
──誰かが私の力を受け継ぐ日が来たなら、その者へ託してほしいの。……お願いね?
ガリ王子は、あの約束を守り続けてきた。一体何年の月日が流れたのかも知らないまま、姫の残した力によって雪に覆われたこの山で、誰にも宝物を触れさせずただその日を待ち続けていた。
それが今、一人の人間の少年が、見知らぬゆきおんなのために、わざわざ山の奥までやってきた。しかも、その理由は、ただ感謝を伝えたいというものだった。
ガリ王子は、ゆっくりと目を開けた。
「……そうか」
その声には、先ほどまでの怒りはなかった。
「そういうことだったのか」
空を見上ると雪雲の隙間から、淡い光が差し込んでいる。
「……それが、今なのですね……姫様……」
ガリ王子はしばらく空を見つめてから、ゆっくりと立ち上がった。
「……ついてこい」
彼は、杖を支えに歩き始めた。ケータとウィスパーは顔を見合わせたが、キュウビが静かに頷いたため、後を追うことにした。
ガリ王子が案内したのは、雪山の奥にある小さな祠だった。
大きな岩の間に作られたその場所には、古い石段が伸びており、周囲には雪に覆われた木々が静かに立ち並んでいる。祠の前には石灯籠が二つ置かれ、その間の地面だけが、なぜか雪に埋もれていなかった。
ガリ王子がそこへ杖を突き立ると、地面を覆っていた薄い氷が静かに割れ、下から古い石の板が現れた。
「……ここだ」
石板をそっと持ち上げると、その下には小さな木箱が埋められていた。
長い年月を経たもののはずなのに、箱は少しも傷んでいなかった。表面には雪の結晶を思わせる模様が彫り込まれ、蓋には白銀色の留め具がついている。
ガリ王子は両手で箱を持ち上げ、静かに蓋を開いた。中に納められていたのは、一枚の髪留めだった。
細く、繊細な白銀色の細工だった。氷で作られているはずなのに、少しも溶ける様子がない。むしろ周囲の空気がわずかに冷たくなり、箱の縁へ薄い霜が降り始めていた。
「うわぁ……」
ケータは、思わず声を漏らした。
「……すごい……」
ウィスパーも、隣から覗き込んで目を丸くしている。
「こ、これは……! まさしく、伝承に記されていた白銀のかみどめ……!」
ガリ王子は、静かに頷いた。
「姫様が、長年身につけておられたものだ。永遠に溶けない氷から作られ、強大な冷気の力を秘めている。オレはこれを、いつか訪れる継承者のために守ってきた」
彼は、ケータへ視線を向けた。
「……お前は、そのゆきおんなへ、これを贈りたいのだな?」
ケータは少しだけ考えた。
目の前の髪留めは、想像していた以上に特別なものだった。何百年もの間、大切に守られてきた宝物。そんなものを、自分が勝手にもらっていいのだろうか。
「……うん。でも、そんな大事なものなら、無理にもらおうとは思わないよ」
ケータは、正直に答えた。
「ユキに何かあげたいって思ってたけどさ、別にこれじゃなくてもいいんだ。ガリ王子がずっと守ってきたものなんでしょ?」
ガリ王子が驚いたように目を瞬かせると、ケータは小さく笑って続けた。
「それにユキなら、普通のプレゼントでも喜んでくれると思うしね」
その言葉を聞いたガリ王子は、しばらく黙って、やがてふっと微笑んだ。
「……なるほど」
彼は、木箱を持ち直した。
「姫様がおっしゃっていたのは、こういうことだったのかもしれんな」
それから、ケータの前へ箱を差し出した。
「受け取れ」
「……えっ?」
「お前に託そう。いや、お前の大切な友達へ、だな」
ケータは、思わずガリ王子の顔を見上げた。
「……いいの?」
「ああ。姫様は、いつかこれを必要とする者が現れるとおっしゃっていた。お前がその者なのか、あるいはお前の友達なのか……オレにはまだ分からん。だが、今ここでお前へ渡すことに、何の迷いもない」
ガリ王子は、穏やかに笑った。
「大切にしてくれ」
ケータは、両手で木箱を受け取った。
思っていたよりも、ずっと軽かった。けれど、その中に入っているものが、どれほど長い年月を経てきたのかを考えると、簡単に持ち上げていいものではないような気がして大事に抱えた。
「……ありがとう、ガリ王子」
ケータは、しっかりと頭を下げた。
「絶対、大事にするよ」
ガリ王子は、満足そうに頷いた。
ゆっくりと空を見上げると、雪はいつの間にか止んでいた。厚く広がっていた雲の隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
ガリ王子はしばらくその光を見つめ、それから静かに言った。
「……オレの役目も、これで終わりだな」
ケータは、思わず顔を上げた。
「姫様から託された宝物を守り、然るべき相手へ渡す。それが、オレの使命だった。もう、ここに留まる理由もない」
ガリ王子は、少しだけ笑った。
「長い間、待ち続けたものだ。ようやく約束を果たせたと思うと……妙な気分だな」
その言葉を聞いて、キュウビは静かに目を細め、ふと周囲の山々へ視線を向けた。
「……そういえば、ガリ王子。一つ聞いてもいいかな?」
「何だ?」
「この山、昔からこんな姿だったのかい?」
ガリ王子は、不思議そうに首を傾げた。
「……どういう意味だ?」
「いや、僕の知っているおおもり山とは、少し地形が違うんだ。あちらにある岩場も、今の時代では見覚えがない。そもそも、さくらニュータウンの町並みが、どこにも見えない」
ケータは、その言葉を聞いてはっとした。
そういえば、先ほどから妙だと思っていた。雪山になっただけなら、木々の配置や地形までは変わらないはずだ。
しかし、この山には、見覚えのない古い道や石段があるし、遠くを見渡しても現代の建物がまったく見えない。
「……あれ?」
ケータは、周囲を見回した。
「……じゃあ、ここって……」
キュウビは、静かに頷いた。
「……おそらく、今の時代ではないね」
ウィスパーが、思わず声を上げた。
「な、何ですとぉ!? で、では、わたくしたちは……!」
「数百年前のおおもり山へ来てしまった、ということだろう。ケータが地面を掘ったとき、何か古い結界のようなものが反応したのかもしれない。そこを通って、時間を越えてしまったんじゃないかな」
ケータは、口を開けたまま立ち尽くした。
「……何百年も前……?」
ガリ王子は、その言葉を聞いてしばらく考え込み、目を細めて頷いた。
「……なるほど。そういうことか」
彼は、白銀のかみどめが納められていた場所へ視線を向けた。
「姫様は、いつかこれを必要とする者が現れるとおっしゃっていた。だが、その者が同じ時代に生きているとは、一度もおっしゃらなかった」
ガリ王子は、小さく笑った。
「……まったく。最後まで、驚かせてくださる方だ」
静かに思いを馳せるガリ王子の姿を見ながら、ケータは周りを見渡す。
「……じゃあオレたち、元の時代に戻らないと」
「ええ! そ、そうです! ケータくん! 早く帰りましょう! これ以上ここにいたら、どんなことが起きるか分かりません!」
ウィスパーは、慌てて妖怪パッドを取り出した。しかし、画面は通信不能を示しており、現代の地図も表示されなかった。
「……あ、あれ? おかしいですねぇ……。妖怪ネットワークに繋がらない……!」
「そりゃ何百年も前なら、繋がらないんじゃないの?」
「そ、それはそうですが!」
「まずは、最初に来た場所へ戻ろう。おそらく、そこに時間を越えた原因があるはずだ」
キュウビの言葉にガリ王子も頷き杖を使って先導する。
「案内しよう。ここからなら、そう遠くない」
再び杉の木の近くへ戻り足元の地面を見下ろすと、そこにはスコップで掘り返したような跡が残っていた。ただし、周囲は雪に覆われているため、どこまでが元の地面なのか分かりにくい。
「……ここだったと思うんだけど」
ケータが首を傾げると、キュウビは静かに周囲を確かめた。
「……うん。ここだけ妖気の流れが違うね。おそらく、まだ通り道が残っている」
ガリ王子は、少し離れたところでその様子を見守っていた。
既に宝物は託し、あとは彼らが元の時代へ帰るだけだ。自分は、ここに残ればよい。
しかし、ケータはスコップを構えたところで、ふと顔を上げた。
「……ねえ、ガリ王子」
「……何だ?」
「ガリ王子は、これからどうするの?」
「……どうする、か」
彼は、雪に覆われた山々を見渡した。
長い間、ここで暮らしてきた。姫がいた頃も、姫がいなくなってからも。ただ宝物を守るためにこの山に留まり続け、そして今、その役目は終わった。
これからどこへ行けばいいのか、何をすればいいのか……考えたこともなかった。
「……さあな」
ガリ王子は、静かに答えた。
「オレにも、まだ分からん」
ケータは、少しだけ考え、ぱっと顔を明るくしてガリ王子に近づく。
「じゃあさ! オレたちと一緒に来ない?」
ガリ王子は、思わず目を見開いた。
「……何?」
「だって、もうここにいなきゃいけない理由はないんでしょ? だったら、オレたちと一緒に来ればいいじゃん!」
ケータは、当たり前のことのように言った。
「それにさ、ガリ王子とはもう友達になりたいって思ってるし」
その言葉に、ガリ王子はしばらく何も答えられなかった。
「……友達?」
「うん!」
ケータは、元気よく頷いた。
「最初はちょっと怖かったけどさ。ガリ王子、ずっと大事な約束を守ってたんでしょ? 何百年も一人でさ。……すごいよ」
「それに、このかみどめが誰に渡されるのか、ちゃんと見てほしいんだ。ガリ王子がずっと守ってたものなんだからさ! ユキも、きっと喜ぶと思うよ。ガリ王子が来てくれたら、一緒にお礼も言えるし!」
ガリ王子がゆっくりとキュウビへ視線を向けると、キュウビは肩をすくめた。その表情は、何とも言えないものだった。
──こんな子なのさ。
言葉にしなくても、そんな意味が伝わってくる。ガリ王子はしばらくキュウビを見つめていたが、やがて口角を上げて視線を移す。
「……まったく。お前も、変わった人間だな」
ケータは、少しだけ首を傾げた。
「……そう?」
「ああ。オレにあれだけ酷い目に遭わされたというのに、今度は友達になろうと言うのだからな」
ガリ王子は、ゆっくりと杖を持ち直した。
「……だが、悪くない」
その顔には、先ほどまでの険しさはなかった。
「オレも、そろそろ新しい時代を見てみたくなった。姫様が託されたものが、これからどのような運命を辿るのか……確かに、見届けるのもよいかもしれん」
ケータは、嬉しそうに顔を明るくした。
「……じゃあ!」
「ああ」
ガリ王子は、少しだけ胸を張った。
「お前となら、友達になってもよいぞ!」
その瞬間、ガリ王子の身体から淡い光が溢れた。白銀色の光が小さな粒となって集まり、やがて一枚の妖怪メダルへ形を変えていく。ガリ王子はそれを手に取り、ケータへ差し出した。
「受け取れ。これからは、オレもお前の力になってやろう」
ケータは、両手でメダルを受け取った。
「うん! よろしく、ガリ王子!」
その様子を見ていたウィスパーは、ようやく安心したように大きく息を吐いた。
「……まったく。どうなることかと思いましたが、最後はやはりケータくんらしいですねぇ」
ケータは、メダルを大切にしまうと、もう一度スコップを持ち上げた。
「……よし。じゃあ、帰ろう!」
スコップの刃先が再び地面へ差し込まれ、ざくり、と雪混じりの土が割れる。その瞬間、周囲の空気が静かに震え始めた。足元から白い霧が立ち上り、木々の輪郭がぼやけていく。
「……来た!」
ケータは思わず声を上げ、キュウビはガリ王子へ視線を向けた。
「離れないほうがいいよ。時間の流れが変わる瞬間に、一人だけ取り残されたら困るからね」
「分かっている!」
ガリ王子は、杖を握り直した。ウィスパーも慌ててケータの肩へしがみつく。
「ケ、ケータくん! 絶対にスコップを離してはいけませんよ!」
「分かってるって!」
白い霧が、一気に広がった。
雪山の景色が歪み、視界が白く染まる。耳の奥で、不思議な音が響いた。遠くで風が吹いているような。あるいは、何百年もの時間が一度に流れていくような。
蝉の声が聞こえて、ケータがゆっくりと目を開けると目の前には青々とした木々が広がっていた。足元には柔らかい土。遠くからは、夏の鳥の声が聞こえてくる。雪はどこにもなく、白い霧も漂っていない。空には眩しい太陽が輝いていた。
「戻った……?」
ケータは、呆然と周囲を見回した。
見覚えのある苔むした石段と二股に分かれた大杉。
そして、普段のおおもり山の景色。すべて、元どおりだった。
「……やった!!」
ケータは、思わず声を上げた。
「戻ってきた! ウィスパー、戻ってきたよ!」
「……ほ、本当です! 妖怪パッドも繋がっています! ああ、よかったぁぁ!!」
ウィスパーは、今にも泣き出しそうな顔で画面を確かめていた。
その隣では、ガリ王子が目を丸くして周囲を見渡している。彼にとって、現代のおおもり山は初めて見る景色だった。
見たことのない形に整えられた道と、遠くに見える町並み。そして、何より、雪のない夏山。
「……これが……未来の世界……」
感嘆するガリ王子にキュウビは小さく笑った。
「どうだい? ずいぶん変わっているだろう?」
「……ああ」
ガリ王子は、ゆっくりと頷いた。
「……まったく。姫様にも、見せて差し上げたかったものだ」
その言葉には、少しだけ寂しさが混じっていたが、すぐにケータが笑いかけた。
「大丈夫! これからいろんなところに行こうよ! 町も案内するしさ!」
「……ふっ、そうだな。せっかく来たのだ、思う存分、この時代を見て回るとしよう!」
杖を肩へ担ぎ宣言するように言うガリ王子に、ケータは嬉しそうに頷き、リュックサックの中から白銀のかみどめが納められた木箱を取り出した。
箱は少しも傷んでおらず、蓋を開けるとあの美しい髪留めが、変わらず静かな光を放っている。
「……ほんとに、持って帰ってこれたんだ……」
「さあ、ケータくん! 早く帰りましょう! このままでは、お母様に心配をかけてしまいますよ!」
「あっ、そうだった!」
ケータはしばらくその髪留めを見つめていたがウィスパーの声で我に返り、慌てて空を見上げた。太陽は、既に少し傾き始めている。慌ててリュックサックを背負い直す。
その中には白銀のかみどめが納められている。何百年もの時を越え、伝説の妖怪から託された宝物。そして、それを守り続けてきたガリ王子という新しい友達。
「よし! みんな帰ろう!」
その声に応じるように、ウィスパーが浮かび上がり、キュウビが九本の尾を揺らし、ガリ王子が杖を持ち直した。
蝉の声が、再び賑やかに響き渡っている。
リュックサックの奥では白銀のかみどめが、静かな光を放ち続けていた。