役者が揃いつつあるのでそろそろ最終章です
団々坂の正天寺には、午後になると木々の間を通り抜ける涼しい風が吹いていた。寺の裏手へ続く石垣の下には背の高い雑草が茂り、ところどころに咲いた小さな花の間を虫たちが行き来している。
住宅街から少し離れているため人通りは少なく境内のほうからときおり聞こえる鐘の音を除けば、夏の蝉が競い合うように鳴いているばかりだ。
その草むらの一角で、ユキは膝を折っていた。
「……ここをもう少し細くして、それから……」
差し出した掌の上には小さな氷の塊が浮かんでいる。透き通った氷は彼女の指先の動きに合わせて少しずつ形を変え、丸みのある胴体から六本の脚が伸び、頭部には大きく湾曲した二本の角が現れた。
羽の合わせ目まで作ろうとして何度か失敗したものの、ユキは慌てずに形を整え直し、最後に脚の先端を細かく削ってから、傍らで待っていた小さな妖怪へ差し出した。
「はい。できたわ」
「おおおっ!」
歓声を上げたのは、緑色の身体をした龍の子どもだった。丸い目に大きな口、紫色の小さな角と橙色の髪飾りのような部分を持ち、頭の上には透き通った水晶玉がちょこんと載っている。
立派な龍になるにはまだ随分と幼い姿だが、本人はそんなことを気にしていないらしく、今は目の前の氷細工にすっかり夢中になっていた。
「すごいのだ! ノコギリクワガタなのだ! ほら、角もちゃんと二本あるのだ!」
「気に入ってくれた?」
「もちろん気に入ったのだ! りゅーくん、クワガタは大好きなのだ!」
りゅーくんは両手で氷のクワガタを受け取ると、目の高さまで掲げて何度も角度を変えた。陽光が透き通った胴体を通り抜け、草の上へ淡い光を落としている。
実物のクワガタと違って動きこそしないが、脚の節や角の形まで丁寧に作られており、りゅーくんにはそれが余程嬉しかったらしい。
「これ、ずっと取っておいてもいいのだ?」
「ええ。普通の氷だからいつかは溶けてしまうけれど、今日はできるだけ長持ちするように冷やしておいたわ」
「なら、りゅーくんのお気に入りの場所に飾るのだ! 水晶玉の横に置いたら、きっとかっこいいのだ!」
りゅーくんがこれほど喜んでくれるとは思っていなかったが、苦労して作った甲斐はあったようだ。彼女自身もクワガタを嫌いではなかったし、ケータが虫取りに夢中になっていた日のことを思い出すと、細かな形を作る作業は案外楽しかった。
もっとも、今日ここへ来たのは、氷細工を披露するためだけではなかった。
最近、ユキのところへは以前よりも多くの妖怪が訪れるようになっていた。最初はグレるりんたち四体が集めてきた小さな困り事ばかりだったが、ユキがそれらのいくつかを解決しているうちに助けてもらった妖怪が別の妖怪を紹介し、そこから新しい相談を持ち込まれることも増えてきたのである。
誰かの失くし物を探したり、妖術の練習を手伝ったり、ときには喧嘩の仲裁を頼まれたりすることもあった。すべてを引き受けるわけにはいかなかったため最近では相談の内容を確かめ、急ぐものから順に扱うようにしている。グレるりんたちにもただ噂を持ってくるのではなく、何に困っているのかをできるだけ詳しく聞いてくるよう頼んでいた。
そんな折、えこひい鬼から正天寺の近くに不思議な水晶玉を持つ妖怪がいると教えられたのだった。他人の隠された力を見抜くことができ、占いのようなことも得意らしい。
ユキはその話を聞いたときから、ぜひ一度会ってみたいと思っていた。
水晶玉を手に入れたいわけではない。そもそも持ち主から奪ったところで、自分に使いこなせるとは限らない。けれど、持ち主と仲良くなれれば、何か分からないことがあったときに力を借りられるかもしれない。
そして何より、確かめてみたいことが一つあった。
「……ねえ、りゅーくん」
「何なのだ?」
りゅーくんは氷のクワガタを抱えたまま、顔を上げた。
「あなたの頭にある水晶玉って、いろいろなものが見えるんでしょう?」
「うん! りゅーくんの水晶玉はすごいのだ。相手がどんな力を持ってるか、これからどんなことができそうか、見えることがあるのだ!」
りゅーくんは得意げに胸を張ったが、すぐに少しだけ口を尖らせた。
「でも、自分のことは見えないのだ。りゅーくんがどんな龍になれるかは、何回やっても分からないのだ……」
「そうなのね。少し残念ね」
「うん……。でも、だからこそ、りゅーくんはいっぱい頑張るのだ!」
そう答えると、りゅーくんは再び元気を取り戻したらしく、氷のクワガタを草の上へ置いて、ちょこちょこと歩かせる真似を始めた。ユキは彼の無邪気な様子をしばらく眺めてから、何気ない調子で尋ねた。
「……それじゃあ、これから先のことも見えたりするのかしら?」
「未来のことか?」
「ええ。例えば、誰かが大人になったらどんなふうに暮らしているのか、とか」
りゅーくんは少し考えた後、頭の水晶玉を両手で支えた。
「見えるときもあるのだ。でも、未来は途中で変わることがあるから、難しいのだ。いっぱい道があると、りゅーくんにもどれが本当か分からなくなるのだ」
「……そう。じゃあ、はっきり見える未来もあるのね」
「うん! 今のままだと、こうなるっていう道が一つだけ強く見えることもあるのだ!」
ユキの表情が、ほんの少しだけ明るくなった。
それなら、聞いてみたい……自分ではなくケータの未来を。
彼がどんな大人になるのか。今と同じように困っている相手を助け、たくさんの友達に囲まれて暮らしているのか。それとも、もっと遠くの町へ引っ越したり、今とは違う生活を送ったりするのだろうか。
……その未来の中に、自分もいるのだろうか。
「……りゅーくん。お願いがあるんだけれど」
ユキが声をかけると、りゅーくんは氷のクワガタを大事そうに抱え直した。
「何でも言ってほしいのだ! クワガタのお礼をするのだ!」
「うふふ。ありがとう。実は、私にとても大切な友達がいるの。その子がこれからどんなふうに暮らしていくのか、少しだけ見せてもらえないかしら」
「友達か? りゅーくんも友達は大好きなのだ!」
「ええ。私もよ」
ユキは微笑み、ケータのことを説明するとりゅーくんは興味深そうに聞いていたが、やがて目を輝かせた。
「妖怪が見える人間なのか! すごいのだ! りゅーくんも会ってみたいのだ!」
「ええ。いつか紹介するわね」
「約束なのだ!」
りゅーくんは嬉しそうに頷いた後、頭の水晶玉を両手で支え、静かに目を閉じた。いつもは落ち着きなく動き回っている彼が、珍しく真剣な表情になる。水晶玉の内部へ淡い光が集まり、磨き上げた硝子のような表面に白い靄が浮かび始めた。
「その子のこと、よく思い浮かべてほしいのだ」
「……分かったわ」
ケータの顔を思い浮かべることなど、難しくも何ともなかった。目を閉じ強く念じる。
「……あっ、見えてきたのだ!」
りゅーくんの声に、ユキは目を開けた。
水晶玉の内部では、白い靄が少しずつ薄れ、見知らぬ場所の景色が浮かび上がり始めていた。
明るい部屋と、窓から差し込む日差し。大きなソファと、低いテーブル。その向こうに、一人の男性が立っている。背が高く、顔つきも今よりずっと大人びている。しかし笑うときの目元や、少し照れくさそうに頭を掻く仕草には見覚えがあった。
「……ケータくん?」
十年か、それ以上の時間が経ったのだろうか。子供だったケータは立派な大人になり、見知らぬ家の中で、誰かと楽しそうに話している。
見たいと思っていた未来がそこにあるのだと胸が高鳴り思わず顔を近づけると、画面の端から一人の女性が現れた。
長い髪を後ろでまとめ、穏やかな笑みを浮かべている。今より大人びた顔立ちだったが、その女性が誰なのか、ユキにはすぐに分かった。
「…………」
水晶玉の中で、二人が並んだ。
何かを言って笑い、ケータも嬉しそうに頷いている。彼がその肩へ自然に手を添えると、フミちゃんは少し照れくさそうに微笑んだ。
……彼女の腕の中に、赤ん坊がいる。柔らかな毛布に包まれ、安心しきった様子で眠っている。
ケータがそっと手を伸ばし、その子を受け取った。赤ん坊がぐずり出してフミちゃんが笑い、ケータもつられて笑っていた。
──彼の左手には、銀色の指輪が光っていた。
「……あれ?」
そこには、幸せそうな家族がいた。
「……りゅーくん」
「何なのだ?」
思うように言葉が続かず、口を開け閉めする。りゅーくんは水晶玉を見つめ、少し不思議そうに首を傾げた。
「ええと、今はこの未来が一番はっきり見えるのだ。ほかの道はあんまり見えないのだ」
「……そう……」
ユキは、小さく頷いた。
顔から血の気が引いて、胃の奥が強く縮んだ。
思わず口元を押さえたが、喉の奥から熱いものがせり上がり、胸が苦しくなった。息を吸おうとしても、うまく入ってこない。視界の端が暗くなり、水晶玉の中で笑っている二人の姿だけが、妙にはっきりと見えた。
「う゛」
ユキは、慌てて顔を背けた。
ごぽ、と鉄と塩の味が広がるのを感じた。喉までせり上がったものを、どうにか飲み込む。胸の奥には吐き気と似た痛みが残り、指先が小刻みに震えていた。
「……ユキ?」
りゅーくんが、不安そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたのだ? 気分が悪いのだ?」
「……い、いいえ……」
ユキは何とか笑おうとしたが、口元がうまく動かない。自分が今どんな顔をしているのか想像するのも怖かった。
「……ちょっと、驚いただけよ」
「……本当なのか?」
「ええ……。大丈夫……」
りゅーくんは心配そうに尻尾を揺らしたが、ユキはそれ以上話せなかった。
あの未来の中に、少なくとも自分はいない。妖怪ウォッチをつけているのかどうかも分からない。
何も知らずに過ごしていた頃の、あの公園が思い浮かぶ。そのときに感じた胸の痛みが、今になって何倍にも膨れ上がったようだった。
「ごめんなさい、りゅーくん」
ユキは、ふらつく身体を支えながら立ち上がった。
「今日は、もう帰るわね」
「えっ? もう帰っちゃうのか?」
りゅーくんは、氷のクワガタを抱えたまま目を丸くした。
「りゅーくん、もっと遊びたいのだ……」
その言葉を聞いて、ユキは一瞬だけ立ち止まった。
せっかく仲良くなれた相手で何の罪もない、可愛らしい子供の妖怪なのに、今はもう少し一緒に遊ぼうと笑ってあげる余裕すらなかった。
「……また、来るわ。今度は、もっとゆっくりお話ししましょうね」
「……約束なのだ?」
「ええ。約束よ」
りゅーくんは、ようやく少しだけ笑った。
ユキもそれに応えようとしたが、すぐに顔を逸らし、寺の裏手から続く道へ歩き出した。
草むらに残されたりゅーくんは、彼女の後ろ姿をしばらく眺めていた。
それから、頭の水晶玉へ視線を向ける。既に未来の映像は消えていた。
ただ、水晶玉の底には、先ほどまで見えなかった白い靄が、ほんの少し残っている。
「……変なのだ」
りゅーくんは、不思議そうに呟いた。
「……あんなに、強いものがあるのに……」
しかし、自分の見たものが何を意味しているのかまでは、まだ分からなかった。
正天寺を離れてから、ユキは自分がどこを歩いているのか、ほとんど気にしていなかった。
団々坂の住宅街は、いつもと変わらない午後の賑わいに包まれていた。坂道を自転車で下っていく学生がいて、軒先では年配の女性が洗濯物を取り込んでいる。
小さな商店の前では親子連れが立ち話をしており、どこかの家からはテレビの笑い声が聞こえてきた。そうした当たり前の暮らしが、今のユキにはひどく遠いものに思えた。
もし、あの未来でケータが不幸になっていたのなら、まだよかったのかもしれない。誰かに助けを求めているのなら自分が迎えに行けばいい。寂しそうにしているのなら傍にいてあげればいい。自分のことを忘れてしまっているのならもう一度会いに行って、思い出してもらえばいい。
しかし、あの家族にはそんなものは必要なかった。
腕には小さな子供を抱き、その子が眠る様子を二人で嬉しそうに眺めていた。ユキがそこへ現れたとしても、彼はきっと喜んで迎えてくれるだろう。久しぶりだと声をかけ、妻や子供を紹介してくれるに違いない。
そして、自分はその隣で笑わなければならない。
よかったわね、と。
幸せそうで嬉しいわ、と。
…………ケータが幸せになったことを、「ともだち」として祝福しなければならない。
「…………」
ユキは道端の石垣へ手をつき、俯いた。
胃の奥から再び不快なものがこみ上げ、喉がひくりと震えた。何も食べていないのに吐き気だけが続き、息を吸うたびに胸の内側が狭くなっていく。
普段なら気持ちが高ぶると周囲へ冷気が漏れてしまうのだが、今はそれさえ起こらなかった。指先が冷たくなっていることだけは分かるものの、石垣には霜一つ降りていない。
あんな未来、見なければよかったとそんな考えが浮かんだ直後、ユキはゆっくりと首を振った。
見なければ知らないままだった。
今までと同じようにケータへ会いに行き、何も知らずに笑い、いつか彼が自分以外の誰かを選ぶ日を迎えていたかもしれない。それを考えると、知らずにいたほうが幸せだったとは、どうしても思えなかった。
りゅーくんは、未来が変わることもあると言っていた。
あの子はまだ幼いし、水晶玉の使い方も完璧ではないのだろう。だから、見えた景色が必ず現実になるとは限らないはずだった。けれどその一方で、今はあの未来が一番はっきり見えるとも言っていた。
つまり、何もしなければあの未来が待っている。
……自分が間違っていたのだろうか。
ケータに必要としてもらえるように、できることを増やしてきた。困っている妖怪を助け、町に知り合いを作り、彼と一緒に過ごせる機会を増やそうとしてきた。それでも、未来の彼が選んだのはフミちゃんだった。
足りなかったのだろうか。もっと役に立たなければいけなかったのだろうか。それとも、人間ではないというだけで、最初から自分には許されない願いだったのだろうか。
ユキは重たい足取りで坂道を下り始めたが、しばらく歩いたところで、ふと奇妙な感覚に襲われた。
「……あら?」
何かに呼ばれたような気がした。
声が聞こえたわけではない。ただ、自分の胸の内側にあるものがどこか遠くの何かと繋がったような、ひどく不快な感覚だった。
ユキは足を止め、ゆっくりと振り返った。
坂道の途中に、ごく普通の木造家屋が建っていた。
古びた瓦屋根に、少し色褪せた木の外壁。庭には背の高い雑草が伸び、玄関へ続く石畳の間にも草が生えている。特別大きな家ではないが、周囲の住宅より少し奥まった場所にあり、道路からは建物の一部しか見えなかった。
正天寺の近くを歩くとき、何度か前を通ったことがある家だ。
「……何、これ……」
しかしその建物の奥から、とてつもない量の妖気が溢れていた。
ただ強いだけではない。濁った水のように重く、触れたものの気力を奪っていくような陰鬱な気配だった。家の周囲へ広がった妖気はほとんど動いておらず、まるで長い年月をかけて染みついた汚れのように、壁や屋根の内側へ沈んでいる。
ユキは思わず眉をひそめた。
これほど強い妖気なら、近くを通っただけでも分かりそうなものだった。少なくとも自分が知っている妖怪の中で、こんな気配をまとっている者はいない。
ところが少し離れてみると、その妖気は急に感じにくくなった。代わりに胸の奥へ先ほどの苦しさが戻ってくる。もう一度家へ近づくと、今度ははっきりと分かった。
自分が感じているものと、あの家から漏れ出しているものはよく似ている。それは、耐え難い粘り気のある絶望だということ。
不思議な気持ちでじっと見つめていると、玄関の引き戸が少し開いていることに気づいた。
「……誰か、いるのかしら」
声をかけてみたが、返事はなかった。
庭の石畳を歩き、玄関の前まで来ると隙間から暗い室内が見えた。靴箱らしい家具と古い廊下があり、その奥には薄暗い居間が続いている。人が暮らしている様子はあるものの、しばらく掃除されていないらしく、廊下の隅には埃が積もっていた。
「……ごめんください」
ユキは、もう一度声をかけた。
やはり、返事はない。
少し迷った末、彼女は引き戸をそっと開いた。
鳥飼家の中は、外から見た以上に静かだった。
廊下の板はところどころ軋み、壁には色褪せた写真や古い飾りが掛けられている。居間には座布団が二枚残され、低い机の上には空になった茶碗が伏せられていた。
窓には薄いカーテンが掛かっているため昼間でも室内は暗く、誰かが生活していた痕跡だけが取り残されたように残っている。
ユキは入口から何度か声をかけた後、妖気の源を探して奥へ進んだ。
家の中には、いくつもの妖気が滞留していた。
小さな鳥の妖怪がそこにいたような気配もあれば、別の種類の妖怪がしばらく留まっていたらしい場所もある。しかしどれだけ探してもその持ち主は見つからなかった。既にこの家を離れてしまったのか、それとも、どこか別の場所へ連れていかれたのか。
分からないまま居間へ戻ったとき、ユキは正面の壁へ目を向けた。
大きな本棚があった。背の高い木製の棚で、古い本や箱、使い道の分からない道具が所狭しと並べられている。ほかの家具と比べると妙に奥行きがあり、壁へぴったりと押しつけられているように見えた。
その向こう側から、例の妖気が漏れていた。
「……ここ?」
ユキは本棚へ近づき、指先で表面へ触れると、冷気を使わなくても分かるほど、木材が冷たいことがわかる。
次に棚の横へ回り込み、壁との隙間を確かめると本棚の底に奇妙な金具が取りつけられていることに気づいた。家具を固定するためのものにも見えたが、よく見ると床へ埋め込まれた円形の溝に沿って、金具が動くようになっている。
「……まさか」
ユキは、もう一度本棚へ手を掛けた。
今度は、少しだけ力を込める。ぎ、と古い木材が鳴り、床の下から鈍い音が響いた。
次の瞬間、本棚がゆっくりと回転し始めた。
「……えっ!?」
ユキは慌てて手を離そうとしたが、思っていたより勢いよく棚が動いたため、足元の位置がずれてしまった。咄嗟に何かを掴もうとしても間に合わず、彼女は棚の向こうへ開いた隙間へ、前のめりに転がり込んだ。
「きゃっ!」
床へ両手をつき、どうにか顔を打つことだけは避けたものの、膝と着物の裾が埃だらけになってしまった。
「いたた……」
ユキが身体を起こし周囲を見回せば、そこは居間とはまったく違う部屋だった。
薄暗い緑色の壁に、汚れた木の床。奥には古い流し台と金属製の棚が並び、壁の高い位置には細長い窓がいくつも取りつけられている。窓から差し込む光は黄色く濁り、床には枯れた葉や羽毛が散乱していた。片側の扉は板で打ちつけられ、壁際には使われなくなった木箱が積み重なっている。
部屋の中央には、大きな鳥籠が置かれていた。
丸い土台の上へ据えられた、半球形の籠だった。細い竹を何重にも組み合わせたような格子が天井へ向かって湾曲し、頂上には複雑な飾りがついている。籠の周囲には古い布が掛けられ、床には黒ずんだ羽が何枚も落ちていた。
そして、その籠の中に一体の妖怪がいた。
「…………」
丸みを帯びた紫色の胴体から、長く曲がった首が伸びており、垂れ下がった頭には黒い羽毛が覆い被さっている。顔の周囲にはくすんだ赤色の羽が広がり、その奥には小さな青い目が沈んでいた。黒い翼は身体の両側へ力なく垂れ、細い脚の先には鋭い爪が覗いている。
その姿だけでも十分に不気味だったが、ユキが思わず足を止めた理由は別にあった。
妖気の量が桁違いだ。
鳥籠の内側には、黒紫色の靄が幾重にも漂っている。ときおり細い煙のように格子の隙間から漏れ出すものの、すぐに籠の内側へ引き戻され、再び濃い闇のような塊を作っていた。
ユキは自分の胸に手を当てた。家の外で感じたあの奇妙な繋がりは、ここから来ていたのだ。
「……あの」
恐る恐る声をかける。
鳥は、しばらく動かなかったが、やがてゆっくりと顔を持ち上げた。黒い羽の隙間から、小さな青い目が覗く。
「……まいったな」
何日も眠っていない者が、疲れ果てた身体を引きずりながら話しているような空虚で陰気な声が響いた。
「……人がいるよ……」
鳥は、ユキをじっと見つめた。
「……いや、人間じゃないな。妖怪か……」
その目が、わずかに細くなった。
「……何だよ。そんなところで突っ立って……。何見てんだよ……!」
一段上がった妖気に、ユキは思わず一歩下がる。
鳥は彼女の反応など気にしていないらしく、むしろ確かめるように首を傾け、しばらくユキの顔を眺めた後、突然低い笑い声を漏らした。
「……へえ……。なるほどな……」
「……何が、ですか?」
「お前、オレと同じくらい絶望してるな……」
ユキの表情が強張るのを見て、鳥はまた愉快そうに嘴を開いた。
「分かるぜ……。その絶望の行き先は、自分じゃなくて人だ……」
「自分の現実の不甲斐なさを直視するのを恐れる、醜いその感情……。嫉妬という絶望は、人も妖怪も切り離せないモンさ……!」
「……あなたに、何が分かるの」
ユキは、ようやく声を出したが鳥は少しも怯まない。鳥籠に嘴を押し付け捲し立てるように話し続ける。
「分かるんだよ……。オレは死神鳥。絶望した奴のことなら、大抵のことは分かる……。自分には手に入らないものを、ほかの誰かが平気な顔で持っている。そいつが笑ってるだけで腹が立つ。だったら全部壊してやりたいって、そう思うんだろ……?」
死神鳥が籠の中で翼を広げると、黒紫色の靄がゆっくりと膨らみ、格子の隙間から外へ流れ出した。
「……なあ。ここで会えたのも、何かの縁だと思うんだよ……!」
声に、妙な熱がこもり始める。
「オレって、こんなところにいるからさ……。なかなか見つけてもらえないんだ……。前は人間がいろんな鳥の妖怪を連れてきて、騒がしかったんだけどな……。今じゃ、誰も来やしねえ……」
死神鳥は、格子へ翼を押しつけた。衝撃で鳥籠が揺れ、奇怪な音を立てる。
「オレをここから出してくれよ……! オレを飼ってた人間がいなくなっちまって、もうここから出られないんだと思ってたんだ……!」
ユキは、籠の留め具へ視線を向けた。
細い竹の格子は一見すると簡単に壊せそうだったが、よく見ると、ところどころに古い札が貼りつけられていた。札には妖力を抑えるための文字が刻まれており、籠の内側へ流れる妖気を外へ逃がさない仕組みになっているらしい。
死神鳥ほどの妖怪が、こんな場所へ閉じ込められたままになっている理由も、それなら説明がついた。
「……ずっと、ここにいたの?」
「そうだよ……。誰にも見つけてもらえず、外にも出られず……。何年も何年も、こんなところで過ごしてきたんだ……!」
死神鳥は、急に声を荒らげた。
「なあ、出してくれよ! お前だって分かるだろ!? 誰にも必要とされないまま、置いていかれるのがどんな気分か……!」
その言葉とともに、黒い靄がユキの足元へ流れてくる。冷たいものが足首へ触れ、ユキは小さく身を震わせたが死神鳥は構わず話し続ける。
「ここから出してくれれば、お前の大嫌いな奴に絶望を与えてやるよ……! そいつが持ってる幸せも、希望も、全部めちゃくちゃにしてやれる……!」
黒い靄が、ゆっくりとユキの身体を包み始めた。
「……お前が苦しんでるのに、そいつだけ幸せになるなんて、おかしいじゃねえか……!」
死神鳥は、笑った。
「なあ……。そう思うだろ……?」
ユキは、いつの間にか籠のすぐ傍まで歩いていた。足元の感覚が、少しずつ遠のいていく。
死神鳥の声は耳から聞こえているはずなのに、頭の内側へ直接響いてくるようだった。黒い靄が身体へまとわりつき、胸の奥で抑えていた感情を少しずつ引きずり出していく。
何度も思い出したくないと思った光景が、次々と浮かんできた。
そして、そのたびに死神鳥の言葉が重なった。
奪われるくらいなら、先に奪えばいい。誰かが幸せになるせいで自分が不幸になるのなら、その幸せを壊してしまえばいい。それができる力を持っているのだから、使わないほうがおかしい。
「……そう……よね……」
ユキはぼんやりと呟いた。自分の声なのに遠く聞こえることも構わず。死神鳥はそれを聞いて満足そうに笑う。
「そうだろ……? お前だって、本当は分かってるんだよ……。いい子ぶって我慢してたって、何も手に入らない……。欲しいものがあるなら、誰かを不幸にしてでも取ればいいんだ……!」
ユキは、ゆっくりと手を伸ばした。籠の留め具がすぐ目の前にあって、これを外せば死神鳥は自由になる。そして、自分が嫌いな相手へ絶望を与えてくれるという。
「…………」
……ケータが、自分の目の前に立っている。
いつものように少し困った顔をして、何かを言おうとしている。
もし、死神鳥と一緒になって、フミちゃんを不幸にしようとしている自分を見たら。
ケータは何と言うだろう。……きっと怒るだろう。それとも、悲しそうな顔をするのだろうか。
あの子は、自分を助けてくれたとき、何も見返りを求めなかった。困っている妖怪がいたから助けただけだった。
それなのに自分は、彼が好きな人を、自分が嫌いだからという理由で傷つけようとしている。
「……違う……」
ユキは、小さく呟いた。
死神鳥の声が、わずかに途切れた。
「……あぁ?」
「……そんなこと、したくない……」
黒い靄が、さらに濃くなった。
「何言ってんだよ……! さっきまで、あんなに絶望してたくせに……!」
あんな未来は絶対に嫌だったが、だからといってフミちゃんを傷つけてよいわけではない。
それに、自分はもう決めたはずだった。ケータの気持ちを無理やり変えるのではなく、彼自身に選んでもらう。
そうするために、今までいろいろなことをしてきたのだ。町の妖怪たちと知り合い、困っている相手を助け、自分にできることを増やしてきた。
それなのにここで死神鳥へ頼ってしまったら、何のためにあんなに頑張ってきたのか分からなくなる。
「私は……」
ユキは、胸元へ手を当てると同時に、指先に冷気が集まり始めた。
黒い靄がそれを押し潰そうとしたが、彼女は構わず呼吸を整えた。これまで何度も繰り返してきた、妖術の練習と同じ。怖くなったときも、焦ったときも、まずは自分の力がどこへ向かっているのかを確かめる。
冷気を周囲へ漏らさない──必要な場所へ、必要なだけ。
ユキが掌を握りしめると、身体へまとわりついていた黒い靄が一瞬だけ白く凍りついた。
「……なっ!?」
死神鳥が、目を見開いた。
ユキは、そのまま強く息を吐くと凍りついた靄が、細かな破片となって砕け散る。足元へ落ちた黒い粒は、床へ触れる前に薄い煙となって消えていった。
「……はぁ……はぁ……」
ユキは、しばらくその場で呼吸を整えた。
頭の奥にこびりついていた不快な声が、少しずつ遠ざかっていく。不安も、嫉妬も、何も消えていないが、少なくとも今は自分の頭で考えられる。
死神鳥は、呆然と彼女を見つめていた。
「……お前……。自分で……?」
ユキは、ゆっくりと顔を上げた。
「……何なんだよ、お前……。普通、あれだけ絶望してたら、簡単には戻れないはずなのに……!」
焦る死神鳥を真っ直ぐ見つめ、新たに白い霧を纏いながら口を開く。
「……あなた、さっき私のことをいろいろ言っていたわね」
「……あぁ?」
「自分の現実が見られないとか、誰かを不幸にしたいとか……。随分と、私のことを分かったように話していたけれど」
ユキは、籠の前へ一歩近づいた。
「あなた自身は、どうなのかしら」
死神鳥の表情が、わずかに変わった。
「……何だよ……」
「ずっとここに閉じ込められていたのでしょう? 誰も助けに来てくれなくて、もう出られないと思っていた。それで、たまたま現れた私を利用しようとしたのね」
「……!」
「私が絶望していることを見つけて、そこへ取りついた。私の嫌いな相手を不幸にしてあげると言えば、助けてもらえると思ったのでしょう?」
死神鳥が何か言い返そうとしたが、ユキはその前に続けた。
「……あなたが言っていたことも、少しは分かるわ。誰かを羨ましいと思うことも、どうして自分だけと思ってしまうこともあるもの」
ユキは、ゆっくりと首を振った。
「でも、私の絶望は私だけのものなの。勝手に決めつけないで」
籠の留め具へ視線を向けた。
「それに、私たちの立場は全然違うわ」
死神鳥が、怪訝そうに目を細めた。
「あなたは、ここから出たいのでしょう?」
「……そ、そうだよ……!」
「私は別にあなたを助けなくても困らないの」
ユキは、あっさりと答えた。その言葉が、死神鳥には予想外だったらしい。
「……な、何だよ、それ……!」
「だって、そうでしょう? 私は自分でここへ来たのよ。帰ろうと思えば、いつでも帰れるわ。でもあなたは違う。私がこの留め具を外さなければ、ずっとここにいることになるのでしょう?」
ユキは、籠の中へ視線を落とした。
「……だったら、お願いするのはあなたのほうよ」
死神鳥の翼が、小さく震えた。ユキは、その反応を確かめながら続けた。
「私は、あなたを助けてあげてもいいわ。その代わり、これからは私の言うことを聞いてもらう。何かお願いしたときには、きちんと仕事をしてほしいの」
「……は……?」
「私が上で、あなたが下。そういう関係になるということよ」
死神鳥はしばらく呆然としていたが、急に翼を広げた。
「……ふ、ふざけんなよ……! オレを誰だと思ってんだ……!? 死神鳥だぞ……! 人も妖怪も絶望させる、死神鳥だ……!」
「でも、今は鳥籠の中にいるでしょう?」
死神鳥は、口を開いたまま固まった。ユキは、少しだけ首を傾げた。
「……どうするの? 私のお願いを聞いてくれる?」
その問いかけに、死神鳥はすぐには答えられなかった。
目の前の雪女は、確かに自分より弱い部分があるはずだった。
あれほど深い絶望を抱えている。他人を羨み、誰かを失うことを怖がり、未来を知っただけで立っていられなくなるほど傷ついていた。
「……お前……本当に……」
「……嫌なら、別に構わないわよ」
そう言って、ゆっくりと踵を返した。
「私は帰るわ。あなたとは、もう会わないと思うけれど」
「……ちょ、ちょっと待てよ……!」
死神鳥が、慌てて格子へ飛びついた。
「待てって! 何でそうなるんだよ……!」
ユキは足を止めたが振り返らなかった。
「何か用かしら」
「……分かったよ……!」
死神鳥は、悔しそうに嘴を歪めた。
「お前の言うこと、聞いてやるよ……! だから、ここから出してくれ……!」
ユキは、ゆっくりと振り返った。
「……本当に?」
「ああ……! 約束する……!」
「それじゃあ一つだけ、最初に守ってほしいことがあるの」
死神鳥は、警戒するように目を細めた。
「私の命令がない限り、誰にも取りつかないで。人間にも、妖怪にもよ」
「は、はぁ? そりゃ、オレの仕事みたいなもんだろ……!」
死神鳥は自身の一番の武器を取り上げるつもりかと顔をしかめるが、ユキは特に怒った様子もなく彼を見つめている。
「なら、ここに残る?」
「……くっ……!」
死神鳥はしばらく考え込んでいたが、ニヤリと笑うとようやく小さく頷いた。
「……分かったよ……。勝手には取りつかない……。お前が命令したときだけにする……」
「ええ。ありがとう」
ユキは、柔らかく微笑んだ。
「それなら、あなたも今日から私の仲間ね」
鳥籠の留め具は、思っていたよりも簡単に外れた。
ユキが古い札を一枚ずつ剥がし、金具を持ち上げると、格子の一部がゆっくりと開いた。長い間閉じられていたためか、蝶番がぎいっと不快な音を立て、床へ細かな埃が落ちていく。
死神鳥はしばらく動かない。自分が本当に自由になったのか、まだ信じられないらしかった。
「……出られるわよ」
ユキが声をかけると、死神鳥はゆっくりと翼を広げた。
黒い羽が格子の外へ伸び、紫色の身体が長い間閉じ込められていた鳥籠から、ようやく外へ出た。
「……へへ……」
死神鳥は、低く笑った。
「……やっと……やっと出られた……!」
翼を大きく広げ、部屋の中を一度だけ飛び回る。
長い間狭い籠に閉じ込められていたとは思えないほど、動きは素早かった。天井近くまで舞い上がり、壁際を旋回し、最後にユキの前へ降り立つ。
その青い目が、彼女を見つめた。
「……ありがとよ……」
死神鳥はゆっくりと嘴を開き、その直後に口元が不自然に吊り上がった。
「……なーんてな……!」
黒紫色の妖気が、突然膨れ上がった。
ユキの目の前で、濃い闇を押し固めたような球体が生まれる。周囲の空気が激しく吸い込まれ、床に散らばっていた羽毛が一斉に舞い上がった。その中心には、死神鳥の絶望をまとった強烈な風の妖術が渦巻いている。
籠の中にいたときとは妖気の密度がまるで違う。もし直撃すれば、ユキといえども無事では済まない威力だった。
「……悪いな……! 誰が、お前みたいな小娘の言いなりになるかよ……!」
死神鳥は、歪んだ笑みを浮かべた。
「自由になった以上、もうお前に用はねえ……! 今度こそ、オレの絶望を思い知れ……! 奈落へ──」
黒い球体がユキへ向けて放たれようとした瞬間に、ユキは部屋の隅へちらりと視線を送った。
次の瞬間、鋭い金属音が響いた。
「……ぎゃあああっ!?」
死神鳥の悲鳴が、隠し部屋へ響き渡った。黒い妖気が弾け、球体が形を失って消滅する。死神鳥は頭部へ突き刺さった大きな手裏剣に目を剥き、もがくように床へ転がった。
「い、いででででっ!! な、何だよこれぇぇっ!?」
ユキは、一歩も動かなかった。ただ穏やかな表情のまま、死神鳥を見下ろしている。
呼応するように部屋の隅から、一体の妖怪が姿を現した。
青い忍装束に身を包み、頭には巻物のような形の布を載せ、口元には黄色い襟巻きを巻いている。顔の大半は黒い影に覆われ、その奥で小さな黄色い目が光っていた。下半身は煙のように細くなり、床の上を滑るように移動してくる。
その妖怪は、死神鳥の前で静かに膝をついた。
「……御館様」
低く途切れがちな声だった。目線を低くして敬うように見上げる。
「……ご無事で……何より……」
「ありがとう、カイム」
カイム。姿を消し、存在感を極限まで薄めることを得意とする、忍者の妖怪だった。
普段は誰にも気づいてもらえないことを寂しがり仲間を求めていた彼は、以前ユキと出会って以来、彼女を特別な存在として慕うようになっていた。自分の存在を見つけ、名前を呼び、仕事を与えてくれた相手。カイムにとって、それは長い孤独の末に得た、何より大切な繋がりだった。
そして今は、彼女の護衛を務めている。
「……拙者……御館様に刃を向ける者……許さぬ……」
カイムは、床へ転がっている死神鳥を見下ろした。
「……裏切り……無粋……」
「ちょ、ちょっと待てよ……! 何だよお前……! いつからそこにいたんだよ……!?」
死神鳥が痛みに顔を歪めながら叫ぶと、カイムはわずかに首を傾げた。
「……最初から……」
「はぁ!?」
「……御館様を……お守りするため……」
カイムは、静かに答えた。
死神鳥は、思わずユキへ視線を向けた。
「……お、お前……! 最初から、こいつを……!」
ユキは、ゆっくりと頷いた。
「ええ。カイムには、私が危ない目に遭いそうになったら助けてほしいとお願いしていたの」
「……ふ、ふざけんなよ……! だったら最初から言えよ……!」
「どうして?」
ユキは、不思議そうに首を傾げた。
「あなた、約束を守ってくれるって言ったでしょう? それなら、誰が近くにいても関係ないはずよ」
言葉を失った死神鳥を横目に、カイムは彼女の言葉に応じるように頭を下げた。
「……御館様の……仰せのままに……」
それから、死神鳥の頭部へ突き刺さっている手裏剣へ手を伸ばした。
「……引き抜く……」
「ま、待て待て待て! ちょっと待てって! まだ心の準備が……ああああああっ!!」
カイムは、特にためらう様子もなく手裏剣を引き抜いた。
死神鳥は床を転がり回り、しばらく痛みに呻いていたが、やがて何とか身体を起こした。妖怪であるため致命傷には至らなかったものの、頭には大きな腫れが残り、黒い羽毛が何本も抜け落ちている。
ユキはその様子を眺めながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「……ねえ、死神鳥」
「……な、何だよ……」
「さっきのお話、もう一度してもいいかしら」
死神鳥は、びくりと身体を震わせた。ユキは、穏やかな声で続ける。
「私は、あなたを助けてあげたわ。これから自由に外へ出られるし、好きな場所へ行くことだってできる。でも、その代わりに約束を守ってもらう。そういうお話だったでしょう?」
「……そ、それは……」
「あなたが私の言うことを聞いてくれるなら、必要以上のことはしないわ。カイムにも、もう手を出さないように言っておく」
ユキは、隣に立つ忍者妖怪へ目を向けた。
「カイム。今はもう大丈夫よ」
「……御意……」
カイムは手裏剣を静かに下ろしたが、死神鳥から視線を逸らすことはなかった。
ユキは、再び死神鳥へ向き直った。
「……どうするの?」
黒い翼が、小刻みに震えている。
今なら逃げられるかもしれない。鳥籠からは出られたのだし、隠し部屋の出口も開いている。
だが目の前にはゆきおんながいる。その隣には、どこから現れたのか分からない忍者の妖怪がいる。しかもその忍者は自分が妖術を放とうとした瞬間、何の予備動作も見せずに頭へ手裏剣を突き刺してきた。
これ以上逆らえば、次はどうなるか分からない。相手の戦力も不明だ。ひょっとしたら自分でもまともに敵わない相手とだって協力しているのかもしれない。直接的な戦闘はあまり得意ではない。追われる身になれば不利なのはこちらだ。
「……分かったよ……」
死神鳥は、ようやく小さく答えた。
「……今度こそ、ちゃんと従う……。だから、もう勘弁してくれ……!」
少しだけ微笑むユキに恐ろしいものを感じて必死に這いつくばる。
「本当だって……! もう勝手に取りついたりしねえ……! お前の命令があるまでは、誰にも絶望を与えない……!」
「……ええ。分かったわ」
その言葉を聞いて、死神鳥はようやく肩の力を抜いた。
「でも、次はないからね」
ユキは、普段と変わらない柔らかな笑みを浮かべていた。
「あなたが約束を破ったら、私はもう助けてあげないわ。自由にしてあげたことも、今度は考え直さなければならないもの」
「……わ、分かってるよ……」
「それなら、いいの」
ユキがゆっくりと立ち上がると、カイムが静かに一歩下がり死神鳥は床へ座り込んだまま、彼女を見上げている。
その光景は、少し前までとは完全に逆転していた。今は死神鳥のほうがユキの顔色を窺っている。
「それじゃあ、二人とも」
ユキは、穏やかに声をかけた。カイムはすぐに背筋を伸ばし、死神鳥も慌てて顔を上げた。
「そろそろ、帰りましょうか」
「……御館様の……御意のままに……」
カイムは嬉しそうにユキの背後に着き、死神鳥はまだ頭を押さえながら、情けない声で返事をした。
「……ああ……。分かったよ……」
鳥飼家を出る頃には、空が少しずつ夕暮れの色へ変わり始めていた。
坂道の向こうには、茜色に染まった雲が広がり、住宅街の窓には一つ、また一つと明かりが灯り始めている。昼間の暑さはまだ残っていたが、風は少しだけ涼しくなり、遠くからは夕食の支度をする匂いが漂ってきた。
傍らにはカイムが控え、少し離れたところを死神鳥がついてきている。鳥籠から解放されたばかりの死神鳥は、久しぶりに見る外の景色へ何度も目を向けていたが、そのたびにカイムの視線を感じるらしく、すぐに大人しくなっていた。
「……御館様……あの……鳥……」
カイムは、少し離れて歩いている死神鳥へ視線を向けた。
「……信用……なさるのか……?」
「いいえ。まだ、完全には信用していないわ」
死神鳥が、びくりと身体を震わせた。
「でも、約束はしてくれたもの。これからきちんと守ってくれるなら、それでいいと思うの」
カイムは、静かに頷いた。
「……御意……」
それから少しだけ俯き、手を擦り合わせる。
「……拙者も……御館様のため……尽くす……」
「ありがとう、カイム。あなたには、いつも助けてもらっているわね」
その言葉を聞いた瞬間、カイムの黄色い目が、わずかに大きくなった。
「……拙者……」
声が、少しだけ震えた。
「……本当に、御館様と出会えて良かったでござる……!」
「うふふ。これからも、よろしくね」
「……御意……!」
カイムは、嬉しそうに頭を下げた。
その様子を少し後ろから眺めていた死神鳥は、何とも言えない顔をしていた。
さっきまで自分を恐れさせていた忍者が、雪女の一言であんなにも嬉しそうにしている。どうやら、この二体の関係は単純な主従ではないらしい。
けれど、だからといって自分にも同じ扱いが許されるとは思えなかった。死神鳥は、腫れた頭をそっと押さえた。
「……まいったな……」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
「……とんでもない奴についてきちまった……」