僕はヤンデレもバトルも書きたいのかもしれないと思った
少年の心が疼いてしまう
団々坂の外れにある古い東屋では、夕暮れを迎えても数体の妖怪が居残っていた。
屋根を支える柱には蔦が絡み、長いこと手入れされていない木の床には近くの木々から落ちた葉が散らばっている。人間が利用することはほとんどなく、近所の妖怪たちにとっては雨宿りや休憩をするための都合のよい場所になっていた。
その一角で、ユキは集められた報告に目を通していた。
最初は一日に数件ほどだった話が今では何もしなくても集まるようになり、すべてを一人で確かめるのは難しくなっている。幸い持ち込まれる話の大半は急ぎのものではなく、話を聞くだけで解決することもあったため、ユキは相手の得意なことに合わせて少しずつ仕事を任せ始めていた。
そのため、彼女の周囲には以前よりも多くの妖怪が集まっている。
もちろん、全員がユキを心から慕っているわけではなかった。グレるりんなどは今でも不満を隠そうとしないし、死神鳥に至っては隙さえあれば面倒な仕事を断ろうとする。しかし彼らが持ってくる情報や、それぞれの能力が役立っていることは確かだった。
「……それで、昨日の件はどうなったの?」
彼女が尋ねると、向かい側にいた死神鳥が、ひどく面倒くさそうに翼を動かした。
「……ああ、あれな……。頼まれた妖怪には話しておいたよ……。でも、何だか反応が悪くてさ……。オレの顔を見るなり、みんな逃げちまうんだよ……!」
「……あなた、また怖がらせるようなことを言ったんじゃないでしょうね」
「言ってねえよ……! ちょっと、人生は苦労ばかりだって話をしただけじゃねえか……!」
死神鳥は不満そうに嘴を歪めたが、ユキはそこで深く追及しなかった。どうやら、彼に誰かを安心させる仕事を任せるのは、まだ早かったらしい。
代わりに別の報告を持ってきてもらおうとしたところで、死神鳥が急に声を落とした。
「……そういや、ひとつ思い出したことがあるんだよ……」
普段の陰気な調子とは少し違う声にユキが顔を上げると、死神鳥は東屋の外へ目を向け、何かを確かめるように首を伸ばした。
「……昔の話なんだけどな……。オレがまだ、あの忌々しい鳥籠へ閉じ込められる前のことだ……」
「……昔?」
「ああ……。団々坂の森の奥に、変な場所があってさ……。人間が供養だか何だかをする、古い石が並んでるところなんだけど……。あの頃のオレは、そういう薄気味悪いところが好きだったんだよ……!」
死神鳥はそこで一度言葉を切って、思い出しただけで嫌になるとでもいうように身体を小さく震わせた。
「……そこへ入り込んだら、とんでもない妖気がしたんだ……。何がいるのか確かめようとしたら、急に周りが凍り始めて……。氷の波がこっちへ来たと思ったら、もう逃げるしかなかった……!」
ユキは少しだけ目を細めた。死神鳥は、決して弱い妖怪ではない。絶望を与えるとりつきだけでなく、強い風の妖術も扱えるし、相手の心へ干渉することにも長けている。
「その妖怪の姿は見たの?」
「見てねえよ……! 見る余裕なんかなかったんだ……! でも、狐みたいな気配だった気がする……。九本の尾があったとか、そんな噂も聞いたな……」
九本の尾を持つ妖怪なら、一体知っている。キュウビである。
ケータの友達で妖術の特訓を手伝ってくれたこともある、非常に強い狐の妖怪。ユキは何度か彼の炎を見ているが、自分の冷気を容易に打ち消してしまうほどの力には今でも感心させられる。ただ死神鳥の話では、あの場所にいた妖怪は氷を使ったという。
「キュウビとは違うのね」
「知らねえよ……! ただ、あいつは絶対に普通じゃなかった……。オレが今まで会った中でも、あんな気配の奴はほとんどいねえ……!」
死神鳥は、そう言って翼を畳んだ。
そのような妖怪がいるのなら、ぜひ一度会ってみたい。キュウビと同じくらいの力を持つ相手なら自分がこれから何をすればよいのか、何か参考になることを教えてもらえるかもしれない。
けれど死神鳥の記憶だけでは場所も正確には分からなかった。
そこで彼女は、隣に座っていた別の妖怪へ目を向けた。
「……ヨミテング。あなたは、何か知っているかしら?」
少し離れた柱の傍で、分厚い本を開いていた妖怪が顔を上げた。
頭には小さな烏帽子を載せ、暗い色の翼を背負った天狗の妖怪だった。顔には赤みを帯びた羽毛があり、鋭い目つきの奥にはいつもどこか眠たそうな気配が漂っている。傍らには古い本が何冊も積まれており、彼はユキたちが話している間も、ほとんど顔を上げずにページをめくっていた。
「……今、本を読んでる途中なんだけど……」
ヨミテングは、不満そうに呟いた。
しかし、ユキが申し訳なさそうに微笑むと、ため息をつきながら本へ栞を挟んだ。
「……まあ、いいよ。何の話?」
「団々坂の森に、氷を操る狐の妖怪がいるらしいの。昔の記録に、何か残っていないかしら」
ヨミテングは少し考え、積み上げていた本の中から一冊の古書を取り出した。
「ああ。それなら、読んだことがあるかも」
彼は膝の上へ本を広げ、ゆっくりとページをめくり始めた。
「確か、団々坂の奥にある供養地の話だったと思う。昔、身寄りのない妖怪や、帰る場所を失った妖怪のために石を積んでいた場所があって……。そこでは夜になると、銀色の狐が現れるって書いてあった」
「……銀色の狐?」
「うん。九本の尾を持っていて、周囲のものを凍らせるほどの強い力があるらしいよ」
ヨミテングは、指先で古い文章をなぞった。
「……でも、詳しいことはあまり書いてない。姿を見た者が少なくて、どれも噂みたいな話ばかりなんだ」
ユキは、少しだけ身を乗り出した。
「……会う方法は、分かる?」
「……ちょっと待って」
ヨミテングは、さらにページをめくった。その途中で死神鳥が肩越しに覗き込もうとすると、彼は露骨に顔をしかめた。
「……近いよ。静かに読ませてくれない?」
「……何だよ……。ちょっと見てるだけじゃねえか……!」
「……じゃまするなら、容赦しないよ」
普段と変わらない小さな声だったが、その背後で黒い翼がわずかに広がったため、死神鳥はすぐに距離を取った。ヨミテングはそれを確かめると、何事もなかったように本へ視線を戻す。
「……あった」
しばらくして、彼は一つの記述を指差した。
「昔、その場所には食べ物を供える習慣があったらしいよ。特に温かいおでんを置くと銀の狐が姿を現すって書いてある」
「……おでん?」
「どうしておでんなのかは知らないけど。夜に供え物を置いて、しばらく待つんだって」
死神鳥の話と、ヨミテングの持ってきた記録。二つの情報が一致しているのなら、少なくとも何らかの妖怪がその場所へいる可能性は高い。
ただ、会いに行くなら準備が必要だろう。
以前の自分なら強い妖怪へ会うというだけで怖くなっていたかもしれない。しかし今はそれ以上に、その力を確かめてみたいという気持ちが強かった。
「……ありがとう、ヨミテング。とても助かったわ」
ユキが微笑むと、ヨミテングは少しだけ顔を上げた。
「そう。なら、よかった」
それから、すぐに本を開き直した。
「……僕は、続きを読むから。もう少し静かにしてくれると嬉しい」
その日の夜、団々坂の森へ続く細い道には、五体の妖怪が集まっていた。
先頭に立つのはユキだった。普段と同じ青い着物を身につけているが、今夜は足元の冷気を抑えることに普段以上に気を配っている。慣れない場所で相手を刺激しないためでもあり、何より無用な気配を撒き散らしたくなかった。
その少し後ろには、カイムが静かに控えている。
相変わらず存在感が薄く、少し目を離すとそこにいるのかどうか分からなくなるほどだった。ユキが何かを頼めば必ず返事をし、必要なときには誰よりも早く動いてくれる。今夜も特に何か言われたわけではないのに、彼女の周囲を注意深く確かめていた。
その隣では、死神鳥が何度も辺りを見回している。
「……なあ、本当に行くのかよ……。オレ、あそこは嫌なんだって……!」
「……あなたが最初に教えてくれたんでしょう?」
「教えたけどよ……! まさか、本当に行くとは思ってなかったんだよ……!」
死神鳥は不満そうに翼を動かしたが、ユキが振り返るとすぐに口を閉じた。
四体目はヤミ鏡だった。
黒っぽい縁取りを持つ大きな鏡の妖怪で、鏡面は暗い紫色に濁っている。黄色い目は鋭く、中央上部からは赤い舌が覗いており、両側には細い腕が伸びている。鏡の内側には広大な闇の空間があり、その力を他の妖怪へ貸し出すことを生業としているらしかった。
ユキが彼と知り合ったのは、数日前のことだった。
最初は互いの能力について話していただけだったが、彼が鏡の中に作った闇の通路を使って短い距離を移動できると知り、ユキはすぐに交渉を持ちかけた。
ヤミ鏡は最初、危険な仕事は高くつくと渋っていたものの、ユキが困り事の解決を通じて得た報酬の一部を分け、今後も必要に応じて取引を続けると約束するとあっさり協力を承諾したのである。
「いいか、ユキ。今夜の仕事はあくまで特別料金だぜ。おれの鏡が割れそうになったら、すぐ撤退するからな」
「ええ。約束どおりで構わないわ。危なくなったら、私たちを連れて逃げてちょうだい」
「そうこなくっちゃな。お前、話が分かるから気に入ってるんだ」
ヤミ鏡は、怪しげに舌を出して笑った。
彼の鏡面には、今夜のために用意した別の小さな鏡が一枚映っている。森の入口に隠しておいたもので、もし何かあればそこへ通じる短い闇の通路を開いて一行を逃がす手筈だった。ただし一度に多くの妖怪を通すには相応の妖力が必要で、戦闘中に何度も使えば通路が不安定になるらしい。ユキはそうした制約も承知したうえで彼を連れてきていた。
そして、最後の一体はくしゃ武者である。
赤い面のような顔に鋭い黄色い目、頭には大きな角が二本伸び、背中には棘のように逆立った暗褐色の髪が広がっている。紫色の袖を持つ武者姿で、両手にはそれぞれ刃の長い刀を握っていた。
見た目どおり気性が荒く、強い相手を見つけるとすぐに戦いたがるため、仲間の妖怪たちからも少々持て余されている。しかしユキに対しては不思議なほど素直だった。
「主様! 今宵の相手は、相当な手練れと聞き及んでおりまする! 拙者の腕が鳴るでござる!」
くしゃ武者は、二本の刀を軽く鳴らしてみせた。
その隣でカイムが静かに頷く。
「……強敵……油断、禁物……」
「無論でござる! カイム殿、万が一の際には背中を頼むぞ!」
「……承知……」
性格は随分と違うものの、主と認めた相手を守るという点では考えが一致しているらしい。くしゃ武者は正面から敵を斬り伏せることを好み、カイムは姿を隠して機会を窺う。その違いも、二体にとっては互いの得意なことを補い合う理由になっていた。
今夜の相手がどれほど強いのか、まだ分からない。
死神鳥の話は古い記憶だし、ヨミテングの読んだ記録にも、具体的な能力までは書かれていなかった。それでも万が一のことを考えれば、護衛を連れてくるに越したことはない。
森の奥へ進むにつれて、周囲の気配が変わり始めた。
道幅は次第に狭くなり、木々の枝が頭上を覆って月明かりを遮っている。地面には古い落ち葉が積もり、足を踏み出すたびに乾いた音が響く。やがて、周囲から虫の声が消えた。
ユキがその変化に気づいた頃、先頭のカイムが足を止めた。
「……御館様……」
「これは、かなり……」
森の奥から、重く冷たい空気が流れてきている。ユキの妖術によるものではない。彼女が普段扱っているものとは、明らかに質が違う。
やがて木々の間が開け、古い石塔の並ぶ小さな広場が現れた。
中央には苔むした供養塔があり、その周囲を囲むように小さな石がいくつも積み上げられている。長い年月を経て文字はほとんど読めなくなっていたが誰かが時折手入れをしているらしく、石塔の前だけは落ち葉が払われていた。
「……ここね」
死神鳥は、入口から先へ進もうとしなかった。
「……やっぱり、この場所だ……。間違いねえ……! あのときと同じだ……。絶対に何かいる……!」
ユキは、静かに周囲を見回した。
確かに強い妖気が漂っているが、不思議なことに敵意は感じられなかった。
こちらを追い払おうとする気配も、威嚇するような圧力もない。ただ巨大な何かが静かに眠っているような、底知れない存在感だけがあった。
ユキは用意してきた包みを取り出した。
中には、温かいおでんが入っている。大根、卵、こんにゃく、練り物。湯気が立ち上る器を供養塔の前へ置き、彼女は少しだけ姿勢を正した。
「……失礼します」
静かな声が、森の中へ響いた。
「私、ゆきおんなのユキと申します。今日は、ここにいらっしゃる方へお願いがあって来ました」
返事はなかったが、ユキはもう一度頭を下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。もしよろしければ、少しだけお話を聞いていただけませんか?」
しばらく、何も起こらなかった。
ヤミ鏡が鏡面を揺らし、くしゃ武者は周囲を警戒しながら刀の柄へ手を添えた。カイムは静かに目を細め、死神鳥は供養塔からできるだけ離れようとしている。
──供養塔の前に置かれた器から、湯気が消えた。正確には湯気が冷気によって白く凍り、細かな氷の粒へ変わったのである。
「あら?」
ユキが顔を上げた瞬間、森の奥から凄まじい妖気が押し寄せた。木々の枝が一斉に白く染まり、地面へ薄い霜が広がっていく。
「むゥ!」
くしゃ武者が咄嗟にユキの前へ立った。二本の刀を構え、妖気の流れを正面から受け止めようとした瞬間、彼の両腕が震え始めた。
恐怖に怯えたわけではない。目の前に現れようとしている相手の力があまりにも大きく、身体が本能的に踏み込むことを拒んでいた。
背後ではカイムの姿が瞬間的に薄れ、闇へ溶け込むように消えた。ヤミ鏡の鏡面にも黒い光が集まり、いつでも転移できるよう準備が始まっている。
死神鳥に至っては、完全に動きを止めていた。
「……あ……ああ……」
あのときと同じだった。
鳥籠に閉じ込められるよりも前、森の中で遭遇した、あの圧倒的な妖気。自分が何をしたところで抗えない相手。それが今、目の前に現れようとしている。
供養塔の上に銀色の光が集まり始め、やがてその光の中から一体の妖怪が姿を現した。
銀白色に輝く毛並みに、細く整った手足。鋭く優雅な顔立ちと、背後へ広がる九本の大きな尾。
その姿はユキの知るキュウビとよく似ていた。しかし黄金色の毛並みを持つキュウビとは違い目の前の妖怪は月光を映したような銀色の身体をしており、手の周囲には青白い炎が静かに揺らめいていた。
炎の形をしているのに、熱は感じられない。むしろその光へ近づくだけで、身体の芯まで凍りつきそうな冷気が漂っている。妖怪は供養塔の上へ静かに降り立ち、五体の妖怪をゆっくりと見渡した。
「なるほど」
落ち着いた声。キュウビのように相手をからかう響きはなく、どこか格式ばった丁寧さがある。
「これほど大勢でお越しになるとは、珍しいこともあるものですね」
銀色の狐は、供養塔の前に置かれたおでんへ視線を向けた。
「しかも、供え物まで用意してくださったようで。随分と丁寧なお客様です」
それから、ユキへ目を向けた。
「わたしをお呼びになったのは、あなたでしょうか?」
「……はい。突然お邪魔してしまって、ごめんなさい」
銀狐は穏やかに微笑み、九本の尾を揺らし答えた。
「構いませんよ。わざわざここまで来られたのですから、相応の理由がおありなのでしょう。──わたしは犬神。どうぞ、お見知りおきを」
その名を聞いた瞬間、ヤミ鏡の鏡面が小さく震えた。
「……犬神……だと……?」
くしゃ武者も、思わず目を見開いた。
九尾の狐よりも珍しいとされる、銀色の九尾の妖怪。一本の毛を手に入れるだけで末代まで幸運に恵まれるという伝説があり、その強大な妖力についても妖怪たちの間で語り継がれている。
ユキも氷を扱う妖怪として以前から名前だけは聞いたことがあったが、実際に会うのは初めてだった。そして強くなった今なら分かる。この妖怪は、キュウビと同じほどの力を持っている。
少なくとも自分が知っている妖怪の中では、間違いなく最上位に近い存在を前にユキは意を決して息を吸った。
今夜ここへ来るまでに、いくつか考えていたことがある。
相手がどれほどの力を持っているのか確かめ、協力してもらえそうなら条件を提示する。もし話がまとまらなければ、別の方法を考えればいい。
その程度のつもりだったが、犬神の姿を見た瞬間その考えは変わった。これほどの妖怪を、単に力のある協力者として扱うのは惜しい。
むしろ、この妖怪だからこそできることがある。
ユキは、目の前の銀狐を見つめながら、頭の中で考えていた順序を組み替え始めた。
犬神の強さと、その名前が持つ重みに加え、自分がこれまで集めてきた妖怪たち。それらを組み合わせたとき、ある一つの考えが浮かんだ。
それなら、この方法なら。
きっと、ケータの未来を変えられる。
「犬神さん。少し、私のお話を聞いていただけますか?」
犬神は、穏やかに頷いた。
「ええ。もちろんです」
犬神は供養塔の上へ腰を下ろした。
「あなたほどの妖力を持つ妖怪が、わざわざ供え物までしてわたしを呼び出したのです。つまらない用件ではないのでしょう」
「……私には、とても大切な人がいるんです」
犬神が静かに耳を傾けると、ユキはケータのことを話し始めた。
「その人には、幸せになってほしいんです。けれど、私もその隣にいたい。できることなら、誰よりも近くで、ずっと一緒にいたいんです」
ユキは、少しだけ顔を伏せた。
「……でも、今のままでは、きっとそうならない未来があると知ってしまいました。だから、変えたいんです」
ユキは、顔を上げた。
「その人が自分から私を選んでくれるように、私自身がもっと必要とされる存在になりたいんです。そのために、今は少しずつ仲間を増やして、できることを増やしています」
彼女は、背後にいる妖怪たちへ視線を向けた。全員、それぞれが違う理由で自分の傍にいるけれど、彼らの力を合わせれば今まで一人ではできなかったことも可能になる。
「……もし、あなたが協力してくださるなら、私たちはもっとたくさんのことができると思うんです」
犬神は何かを考えるように腕を組み、しばらく黙っていた。
「……なるほど。大切な方のために、力を求めているのですね。その方には、あなたの気持ちは伝わっているのですか?」
ユキは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……まだ、全部は……」
「そうですか……それでは、あなたが望んでいるのはその方の幸福であると同時に、あなた自身の望む幸福でもあるのでしょうね」
「わたしは、それを否定するつもりはありませんよ。妖怪であろうと人間であろうと、自分が望むものを手に入れたいと考えるのは自然なことです」
「もっとも、望むことと、実際に手に入れることは別です。相手が自分の意思で選ぶというのなら、その意思があなたの望みとは違う方向へ向かう可能性も、受け入れなければなりません」
犬神の言葉が終わると、ユキはゆっくりと手を握りしめた。
「……その可能性を変えたいんです。その人が別の誰かを選ぶ未来があるなら、それよりも私を選びたくなる未来を作りたい。……そのために、今、できることを全部やっているんです」
犬神は、彼女の顔をしばらく眺めていたが視線を外しふっと微笑んだ。
「……なかなか、強い願いをお持ちのようですね」
「お願いします。どうか、私に力を貸してください。供え物や、必要なものがあれば、できるだけ用意します。何かやりたいことがあるなら、私たちで手伝います。……あなたが退屈しているなら、きっと今までとは違うこともできると思うんです」
犬神は、少しだけ目を細めた。
「……ほう」
彼は、供養塔の前に置かれたおでんへ視線を向けた。
「確かに退屈はしていましたね。ここへ訪れる者も少なくなりましたし、最近は長い夜を静かに過ごすばかりです」
九本の尾が、ゆっくりと揺れた。
「あなたのお話も、興味深い。供え物や報酬という条件も、悪くありません」
ユキは、思わず顔を上げた。
「……それじゃあ……!」
「ですが」
犬神は、静かに言葉を遮った。
「一つ、確かめておきたいことがあります」
その視線が、ユキから背後の妖怪たちへ移った。
「あなたが、この方々をまとめているのでしょう? それでは、その組織がどれほどの力を持っているのか、見せていただけませんか?」
ユキは、目を瞬かせた。
「……力、ですか?」
「ええ。あなたが実現しようとしていることは、簡単ではないのでしょう。ならば、わたしが力を貸すに値する相手かどうか、確かめる必要があります」
犬神は、穏やかに微笑んだ。
「わたしが満足するようなものを見せていただければ、協力を考えてもよいでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、くしゃ武者の目が輝いた。
「……ほう!」
彼は、二本の刀を握り直した。
「つまり、手合わせを願えるということでござるな!」
「ええ。そう受け取っていただいて構いません」
「御館様! 拙者にお任せくだされ!」
くしゃ武者は、今にも飛び出しそうな勢いで一歩前へ出て、その隣でカイムも静かに姿勢を変えている。ヤミ鏡は、少しだけ嫌そうに鏡面を揺らした。
「おいおい……。まさか本当に戦うのかよ。相手は犬神だぜ? おれの契約に、あんな化け物と正面からやり合うなんて話はなかったはずだぞ」
死神鳥も、すっかり顔色を失っていた。
「……や、やめとけって……。勝てるわけねえんだよ……!」
相手は、キュウビと同じほどの力を持つ妖怪だ。
まともに戦えば、勝てるとは思えない。だが、犬神が求めているのは単純な勝敗ではないのかもしれない。自分たちがどれほどの力を持っているのか。どれほど上手に協力できるのかということを見せるべきだ。
「……分かりました。私たちの力を、見ていただきます」
最初に刀を抜いたのはくしゃ武者だった。
「御館様、しばしお下がりくだされ。まずは拙者が、あの御仁の腕前を確かめて参る!」
両手に握った二本の刀を軽く打ち合わせ、くしゃ武者は嬉々として前へ進み出た。普段なら、ここで名乗りの一つも上げていただろう。
犬神は相変わらず穏やかな表情をしているものの、九本の尾から漏れる妖気があまりにも濃く、わずかに揺れた毛先が周囲の空気を凍らせるたび、武者として培ってきた勘が警鐘を鳴らしていたのだ。
それでも、退くつもりはなかった。くしゃ武者は片足を引き、腰を深く落とした。二本の刀を左右へ開きわずかに斜めへ位置を取る。
「ほう。二刀をお使いですか」
犬神は、興味深そうに目を細めた。
「よろしい。どうぞ、遠慮なく」
その言葉が終わるより早く、くしゃ武者は地面を蹴っていた。
踏み込みによって落ち葉が舞い上がり、武者の身体が一気に犬神の側面へ滑り込む。右の刀を水平に走らせ、相手が避ければ左の刀を上段から叩き込む構えだった。刀身には妖力が込められ、刃の周囲を薄い赤色の光が走っている。
だが、犬神は避けない。銀色の尾が一本、ゆったりと持ち上がる。その動きを見た瞬間、くしゃ武者は反射的に刀の軌道を変えた。
先ほどまで何もなかった空間に、透き通った氷の壁が現れたのである。振り抜きかけていた刀が激しくぶつかり、耳障りな金属音とともに火花が散った。
「……ぬうっ!?」
氷の厚みは指二本分ほどしかなかったが、それでも刀がまったく通らない。
くしゃ武者は咄嗟に左の刀を引き壁の端へ回り込もうとした。ところが犬神の尾がもう一度動くと、氷の端から鋭い突起が伸び、彼の顔面のすぐ横を通り過ぎた。
背後の杉から、鈍い音が響く。チラリと見れば突起が幹へ突き刺さり、樹皮を深く抉っていた。
「……っ!」
もし、ほんの少し顔を動かすのが遅れていたら。
くしゃ武者は考える暇もなく、刀を交差させて後ろへ跳んだ。直後、先ほどまで彼の胸があった位置を、二本目の氷柱が通り抜ける。銀狐の動きは先ほどとほとんど変わっていない。尾を軽く揺らしただけで、こちらが命懸けで確保した間合いをいとも容易く奪ってしまった。
「な、何たる鋭さ……!」
「お見事。今の動きを見てから避けられるとは、なかなかの腕前ですね」
ユキは、既に次の行動へ移っていた。
「……ヤミ鏡!」
「分かってるぜ!」
ヤミ鏡の鏡面が黒く光り、くしゃ武者の退く先へ小さな闇の入口が開いた。彼はそこへ背中から飛び込むと、次の瞬間には犬神の右後方に置かれた小鏡から飛び出していた。逃げ道を確保するだけでなく、別の角度から攻撃を仕掛けるための転移だった。
「今度こそ、いただくでござる!」
振り返りざまの二刀が、犬神の背中へ迫る。
同時にユキは地面へ冷気を走らせ、銀狐の足元に薄い氷を張った。相手を完全に凍らせる必要はない。踏み替える足を一瞬でも止められれば、くしゃ武者の刀が届く。
さらに犬神の左側へ鋭い手裏剣が飛び込んだ。
いつの間にか木々の間へ移動していたカイムは、犬神の視線がくしゃ武者へ向いている間に死角から手裏剣を放っていた。三方向からほとんど同時に攻撃が重なり、わずかな隙間さえ残さない。
そのはずだった。
「なるほど。鏡の力でしたか」
犬神が呟いた。
直後、彼の九本の尾が一斉に広がった。
青白い炎がふわりと灯り、周囲の温度が急激に下がる。ユキの氷が犬神の足元へ届くより早く、地面から厚い霜が盛り上がり、彼女の術を押し返した。
くしゃ武者の二刀は空中へ現れた氷の板に受け止められ、カイムの手裏剣は犬神の左頬を掠める寸前で白く凍りついて止まった。
続いて犬神がゆっくりと顔を動かした瞬間、空中に浮かんでいた手裏剣が今度はカイムのほうへ向きを変えた。
「……っ!」
カイムは咄嗟に姿を消した。手裏剣は彼がいた場所を貫き、背後の木へ深々と突き刺さったが、次の瞬間には木の反対側に忍装束の一部が現れ、細い氷の刃がその布を裂いた。
犬神は、姿の消えたカイムへ目を向けた。
「隠れるのがお上手ですね。ですが、妖気まで完全に消えているわけではないようです」
「……見抜かれた……!」
「くしゃ武者、離れて!」
ユキが叫ぶと、くしゃ武者は即座に刀を引いたが既に彼の下に術はかけられている。
「もう少し、足元をご覧になったほうがよろしいですよ」
「……何っ!?」
くしゃ武者が視線を落とした瞬間、彼の足元から無数の氷の杭が突き上がった。先ほどまで何もなかった地面が裂け、膝ほどの高さだった氷が、あっという間に胸元まで伸びてくる。
くしゃ武者は刀を交差させて防ごうとしたが、攻撃が速すぎた。
「ヤミ鏡!」
「ちくしょう、忙しいったらねえな!」
鏡面が激しく揺れ、くしゃ武者の身体が闇へ飲み込まれた。
直後、氷の杭が互いにぶつかり合い、乾いた破裂音を響かせた。転移が一呼吸遅れていれば、あの隙間に身体を挟まれていたに違いない。
ヤミ鏡の内側から、くしゃ武者が勢いよく吐き出された。
「ぐおっ!?」
彼は地面を二度転がり、どうにか刀を使って身体を止めた。肩で息をしながら顔を上げると、そこには先ほどまで自分が立っていた場所を埋め尽くす氷柱の群れがある。
「助かったでござる、ヤミ鏡殿!」
「へっ、礼なら後でいいぜ。だが、次も間に合うとは思うなよ。あいつ、こっちの出口まで見てやがる!」
ヤミ鏡が示した先で、犬神は穏やかに微笑んでいた。
「よい連携ですね。転移を防御へ利用する判断も、なかなか適切でした」
犬神は、そう言って九本の尾をゆっくりと畳んだ。
「ただ、そちらの鏡がなければ、今の方はどうなっていたのでしょう?」
ユキは唇を噛んだ。犬神は自分たちを試しているが、相手が本気でこちらを倒そうとする前に既に何度も逃げ道を失いかけている。
これ以上同じ戦い方を続ければ、誰かが大怪我をするかもしれない。ユキはそう判断すると、犬神へ向けていた手を一度下ろした。
「……みんな、少しだけ待って」
くしゃ武者が不満そうに顔を上げたが、ユキは彼へ首を振った。今度は正面から斬り込まないよう伝え、ヤミ鏡には鏡の出口を増やしてもらう。カイムには位置を変えてもらい、死神鳥へは、まだ攻撃せずに待機するよう頼んだ。
犬神は、その間も静かに待っていた。彼女たちの相談を邪魔する様子はない。
「よろしい。作戦を練り直すのですね」
犬神は、穏やかに頷いた。
「どうぞ。わたしも、もう少し皆さんの工夫を拝見したいと思っていましたから」
ユキが最初に作ったのは、犬神へ向かう氷の槍ではなかった。
地面へ掌を向けると、薄い氷が周囲の落ち葉を押しのけるように広がり、木々の間へ緩やかな坂を作り始めた。左右には高さの違う氷柱をいくつも立て、枝のように張り出した部分を繋ぎ合わせて、少し複雑な足場へ変えていく。
犬神は、銀色の尾を揺らしながらその様子を眺めていた。
「おや。今度はわたしを閉じ込めるつもりではないのですね」
ユキは返事をせず、くしゃ武者へ目配せした。
彼は刀を構え直し、先ほど作られた氷の坂へ足を掛けた。普通なら滑ってしまうほど滑らかな表面だが、彼の足元にユキが細かな凹凸を刻めば勢いよく踏み込むことができる。
最初の坂を駆け上がり途中で方向を変えると、その身体は犬神の右側へ大きく回り込んだ。
「再び参る!」
くしゃ武者が二刀を振り上げる。
犬神は落ち着いた様子で彼を見上げ、一本の尾を持ち上げた。ところがくしゃ武者が踏み切った瞬間、足元の氷が突然崩れ、彼の身体が予想とは違う方向へ落ちていく。
崩れた氷の下には、ヤミ鏡の通路が開いていた。
「へへっ! 今度はこっちだ!」
くしゃ武者の姿が消え、次の瞬間には犬神の左側へ飛び出す。空中で身体を捻り、二本の刀を交差させながら斬りかかったが、犬神は既にそちらへ顔を向けていた。
銀色の尾が振られる。その動きに合わせて、くしゃ武者の正面へ青白い氷の板が現れた。
「今でござる!」
刀が氷へ触れる寸前、くしゃ武者は自ら身体を捻り、そのまま横へ倒れ込んだ。直後、頭上を猛烈な冷気が通り過ぎ、先ほどまで彼がいた場所を覆っていた氷柱が、根元からまとめて吹き飛んだ。
その向こうから、黒紫色の妖気が押し寄せた。
「いいよ……! 思う存分やってやるからな……!」
死神鳥はいつの間にか氷柱の陰へ移動しており、犬神の視線がくしゃ武者へ向いた瞬間を狙って、絶望の妖気をまとめて放っていた。
黒い靄は風に乗って広がり、銀狐の周囲へ絡みつくように渦を巻く。直接傷つけるというより、相手の心へ入り込み、意識を乱すための妖術だった。
犬神は、初めて少し意外そうな顔をした。黒い靄が九本の尾へまとわりつく。死神鳥は、思わず嘴を歪めた。
「へっ……! どんなに強い奴だって、心の中まで強いとは限らねえんだよ……! さらけだしてやるぜ……。お前の奥にある、嫌なモンをな……!」
靄の中に、ぼんやりとした影が浮かび上がる。
かつての後悔、失ったもの、忘れられない記憶。相手の心にある暗い部分を探り、それを何倍にも膨らませるのが死神鳥の得意とする術だった。
しかし犬神は黒い靄の向こうへ目を向け、何かを懐かしむように小さく微笑んだだけだった。
「わたしにも、思い出したくないことくらいはありますよ」
その言葉に、死神鳥が目を見開いた。
「……だったら……!」
「ですが、随分と古い話です。今さら誰かに見せられたところで、どうということもありません」
犬神の手に、青白い炎が灯る。黒い靄の表面が、音もなく白く凍りついていく。
「……なっ!?」
「興味深い妖術です。ですが、使う相手は選んだほうがよろしいでしょうね」
犬神が軽く手を振ると、凍りついた靄が細かな破片となって砕け散った。絶望の妖気は跡形もなく消え、死神鳥の身体まで薄い霜に包まれ始める。
「ちょ、ちょっと待てよ……! 何でこっちまで凍るんだよ……!?」
死神鳥は慌てて翼を広げたが、その羽先には既に氷が張りついていた。このままでは、まともに飛ぶこともできなくなる。
ユキは、咄嗟に右手を動かした。
死神鳥の足元へ細い氷の柱を立て、彼の身体を押し上げる。さらにその柱を斜めへ伸ばすことで犬神から距離を取らせ、ヤミ鏡のすぐ傍まで運んだ。
「お願い!」
「分かってるって! ったく、次から次へと!」
黒い鏡面が死神鳥を飲み込み、数歩離れた木陰へ吐き出した。
「ぐえっ!」
死神鳥は尻から地面へ落ち、しばらく起き上がれなかった。翼を動かしてみると、幸いにも氷は溶け始めていたが、体力を相当に奪われたらしい。
「……最悪だ……。こんなことになるなら、鳥籠にいたほうがマシだったんじゃねえのか……!」
「怪我はない?」
ユキが尋ねると、死神鳥は不満そうに顔を上げた。
「あるに決まってんだろ……! 心が折れそうなんだよ……!」
「それなら、少し休んでいてちょうだい!」
ユキはそれ以上構わず、犬神へ視線を戻した。
絶望の妖術は通じなかったが、まったく無駄だったわけではない。
犬神が死神鳥へ手を向けた際、銀狐の足元に広がっていた霜が一瞬だけ薄くなっていた。ほかの妖術を使うときには、その分だけ周囲への冷気が弱まるらしい。
カイムにユキが小さく声をかけると、背後の木陰でかすかな衣擦れの音がした。
「……御意……」
返事だけが聞こえ、姿は見えない。
ユキは、手元へ集めた冷気をゆっくりと地面へ落とした。
今度は犬神の周囲ではなく、自分たちの足元を凍らせる。薄い氷の帯が左右へ伸び、木々の根元を縫うように広がっていくと、そこから幾つもの細い氷柱が立ち上がった。
それぞれの氷柱には、表面を磨き上げた鏡のような光沢があった。
「へえ。面白いじゃねえか」
ヤミ鏡が、少しだけ楽しそうに笑った。
「おれの鏡だけじゃなくて、その氷も使うつもりか?」
「ええ。できる?」
「いいぜ。ただし、あとで追加料金だからな!」
ユキは小さく頷き、氷柱の配置を少しずつ変えていった。
ヤミ鏡の力で通路を開けるのは、あくまで鏡と鏡の間だけだった。普通の氷へ直接出入りできるわけではない。しかし、ユキの作った氷柱が周囲の景色を反射することで、鏡の位置を見誤らせることはできる。
氷柱の陰へ小さな鏡を隠せば、通路の出口を悟られにくくなる。
その様子を見ていた銀狐が一歩だけ足を動かすと、足元の霜が一斉に盛り上がりユキの作った氷の帯へ食い込んできた。
「……っ!」
ユキは反射的に妖力を込めた。
自分の氷が、内側から壊されようとしている。犬神の冷気がまるで細い根のように入り込み、氷の構造を少しずつ変えているのだった。
そのまま放置すれば、先ほどと同じように自分の足場を利用されてしまう。ユキは咄嗟に氷の帯を切り離し、犬神へ繋がる部分だけを砕いた。
ぱきん、と乾いた音が響くき、切り離された氷が砕け散る。犬神の冷気もそこで止まった。
「今度はすぐに手放されましたね。よい判断です」
ユキは、荒い息を整えた。
犬神のほうへ氷を伸ばせば、利用される。近づきすぎれば、わずかな冷気で凍らされる。それなら相手に触れない場所へ足場を作り、そこから攻撃すればいい。
氷を武器として使うことばかり考えていたが、今はそれだけでは足りなかった。
犬神は、そんな彼女の様子を眺めていた。
九本の尾が、ゆっくりと揺れている。いつでも攻撃できるというのに、まだ動こうとはしない。まるでユキが何を考えつくのか待っているようだった。
「……くしゃ武者。次は、私が合図をするまで刀を振らないで」
ユキが声をかけると、くしゃ武者は少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「むう……。しかし、御館様。あの御仁へ一太刀も浴びせぬままでは、武者の名折れでござる!」
「分かっているわ。だから、今度こそ届かせたいの」
ユキは、穏やかに答えた。その言葉に、くしゃ武者は目を輝かせた。
「なるほど! 承知いたした!」
彼は二本の刀を構え直し、氷柱の陰へ身を隠した。
ユキがゆっくりと片手を上げると、犬神の左右にある氷柱が一斉に砕け散り、細かな氷の粒が空中へ舞い上がった。
月明かりを反射した氷片が、無数の光を散らす。犬神がその光景を見上げた瞬間、氷片の中から一枚の手裏剣が飛び出した。
先ほどと同じように背後から投げたのではない。ユキの氷柱の陰へ隠れながら位置を変え、犬神が空中の氷へ目を向けた瞬間を狙っていたのである。
犬神は、わずかに首を傾けた。
手裏剣がその頬を掠めようとするが、銀色の尾が一本静かに動いた。氷の板が現れ、手裏剣の進路を塞ぐ。
しかし手裏剣は氷へ触れた瞬間、横へ弾かれるように軌道を変え、犬神の背後へ回り込んだ。カイムが投げたもう一枚の手裏剣が、先ほどのものへ横からぶつかっていたのである。
「ほう?」
犬神が、初めて少し驚いたような声を漏らした。
その瞬間、足元の氷が弾けた。ユキの作った薄い氷が勢いよく盛り上がり、犬神の身体をほんのわずかに持ち上げる。
さらに、ヤミ鏡が通路を開いた。
「行け、くしゃ武者!」
「応ッ!!」
くしゃ武者の身体が闇へ消え、次の瞬間には犬神の正面へ現れた。
今度は二本の刀を振り回さない。右の刀を前へ突き出し、左の刀を身体の横へ引いたまま、相手の動きを見極めている。
犬神が尾を動かすとその瞬間、くしゃ武者は左の刀を振り上げた。犬神の前に現れた氷の板が、二本の刀の間へ割り込むが、くしゃ武者はその板を斬ろうとせず右の刀を地面へ突き立て、その反動で身体を跳ね上げた。
氷の板を飛び越え、犬神の頭上へ躍り出る。
「今でござる!!」
振り下ろされた左の刀に 犬神は顔を上げ、青白い炎が、手元へ集まる。
しかしその直後、犬神の背後にあった氷柱が崩れた。
ユキが最後まで残していた氷だった。砕けた氷が一斉に散り、犬神の九本の尾へ降り注ぐ。
その一瞬だけ、尾の動きが止まった。
くしゃ武者の刀が、犬神へ届く。何重にも張り巡らせた戦術の刃と共に、銀色の毛が数本夜風へ舞い上がる。
犬神の頬へ、浅い傷が一本走る。くしゃ武者は、思わず目を見開いた。
「……当たった……!」
しかし喜ぶ暇はない。犬神が、ゆっくりと手を上げた。
「お見事」
次の瞬間、くしゃ武者の身体を、猛烈な冷気が包み込んだ。
「ぐおおっ!?」
刀を握る両腕が凍りつき、身体が後方へ吹き飛ばされる。氷の粒が周囲へ散り、背後の木々が一斉に白く染まった。ヤミ鏡が慌てて通路を開こうとしたが、その鏡面にも霜が広がり始める。
「ちっ……! 今度は、こっちまで……!」
ヤミ鏡は必死に妖力を込め、どうにか通路を維持しようとした。しかし、犬神の冷気が強すぎて、入口の輪郭が安定しない。
「カイム! くしゃ武者を!」
「……御意!」
カイムが姿を現し、空中へ吹き飛ばされたくしゃ武者へ飛びついた。彼の身体を抱え込むと、そのまま地面へ転がりながら勢いを殺す。二体が着地した瞬間、先ほどまでいた場所へ氷の槍が何本も突き刺さった。
「……ぐっ……!」
くしゃ武者はどうにか立ち上がろうとしたが、両腕が凍りついており、刀を握ることさえできない。
「面目ないッ……!」
カイムが、彼の身体を支えた。
「……無理……するな……」
ユキは、二体の様子を確かめてから、犬神へ視線を戻した。
銀狐は、頬へ触れていた。指先にはほんのわずかな赤い色がついている。犬神は、それを眺めてから、ふっと微笑んだ。
「わたしの毛並みに傷をつけるとは、なかなかのものです」
その言葉とともに、犬神の周囲を漂う妖気が、さらに濃くなった。
「ですが、少々調子に乗りすぎましたね」
九本の尾が、ゆっくりと広がる。
「わたしが本気で反撃していたなら、無事では済まなかったでしょう」
正しい。くしゃ武者の刀は届いたが、その代償として彼はほとんど動けなくなっている。しかも犬神が放った冷気は、明らかに致命傷を避けるよう抑えられていた。
「……さて」
犬神は、静かに口を開いた。
「次は、あなたですね」
その視線が、ユキへ向けられた。
「仲間の方々は、十分に力を見せてくださいました。ですが、あなたご自身の直接的な力はまだ拝見していません」
ユキは、ゆっくりと手を握りしめた。犬神が見たいと言っているのは組織の実力だった。そして、その組織をまとめているのは自分だ。
これ以上、仲間にばかり頼るわけにはいかない。
「分かりました」
ユキは、一歩前へ進み出た。
「……今度は、私が相手になります」
吹雪の奔流が、森の中を喰らっていた。数々の手を尽くし、たった一人で犬神に挑んだユキの戦闘時間は10分を超えていた。純粋な妖力比べならまず勝てない。様々な工夫をし、今までやった事ないような技も試行した。しかし、それでもその差は歴然だった。
「きゃあ!」
「……御館様!!」
彼は空中で吹き飛んだユキを抱え込み、自分の身体を下へ回した。二体は雪の積もった地面へ激しく転がり、ようやく木の根元で止まった。
その直後、くしゃ武者が二本の刀を地面へ突き立てた。
「ぬおおおっ!!」
迫ってきた冷気を受け止めようとするが、刀身へ一瞬で厚い氷が張りつき、彼の身体も膝まで雪へ埋もれてしまう。ヤミ鏡は慌てて通路を開き、死神鳥を含めた仲間たちを一箇所へ集めた。
「おい! もう無理だって! これ以上やったら、本当に洒落にならねえぞ!」
ユキは、カイムに支えられながら、ゆっくりと顔を上げた。
犬神は、少し離れた場所に立っていた。銀色の毛並みには、頬に残った小さな傷以外、ほとんど変化がない。
九本の尾も、静かに揺れている。まるで最初から最後まで軽く身体を動かしていただけのようだった。
自分たちは、これだけの人数で挑んだ。
それぞれ違う能力を使い、何度も工夫して攻撃した。
くしゃ武者は命懸けで間合いへ入り、カイムは何度も危険な位置から奇襲を仕掛けた。ヤミ鏡は鏡の通路を維持するために妖力を使い続け、死神鳥も苦手な相手へ必死に絶望の術を放った。
それなのに、犬神へ与えられた傷は、頬に残った小さな一筋だけだった。
犬神はゆっくりとユキたちへ歩み寄った。
くしゃ武者はまだ刀を構えようとしていたが、凍りついた両腕が思うように動かず、悔しそうに唸っていた。カイムはユキの身体を支えながら、犬神の動きを注意深く見つめている。
彼は、ユキたちの前で足を止めると、静かに微笑んだ。
「なかなか、興味深い戦いでした」
ユキは、荒い息を整えながら顔を上げた。
「……本当、ですか……?」
「ええ。皆さん、それぞれ異なる能力を持っていますね。剣術、隠密、転移、精神への干渉。そして、あなたの氷。組み合わせ方も、なかなか工夫されていました」
犬神は、くしゃ武者へ視線を向けた。
「特に最後の一太刀は見事でした。あれほどの状況からわたしの毛並みに傷をつけるとは思いませんでしたよ」
くしゃ武者は、思わず顔を上げた。
「……おお……!」
嬉しそうに笑いかけたが、すぐに両腕の痛みを思い出したらしく、顔をしかめた。
「しかし、拙者も未熟でござる。あの一撃の後、何もできなかった……!」
犬神は、穏やかに頷き、それからユキへ視線を戻した。
「あなたの指揮も、悪くありませんでした。戦いの途中で方法を変え、仲間の力を組み合わせようとした判断は評価できます」
「ですが、今のままでは、わたしは協力できません。あなた自身が、まだ弱いからです」
ユキは何も答えられなかった。犬神は、彼女の周囲にいる妖怪たちへ目を向けた。
「あなたの仲間は、皆さんよく動いていました。ですが、その力を生かすために、あなたが何度も無理をしていたでしょう。氷で足場を作り、仲間を助け、相手の動きを確かめ、さらに自分でも攻撃する。……それだけのことを、一度にやろうとしていましたね」
犬神は、静かに続けた。
「結果として、あなた自身の身を守る余裕がなくなっていた。わたしが本気であなたを狙っていたなら、最初の数手で決着していたでしょう。もちろん、仲間へ頼ることが悪いわけではありません」
「むしろ、あなたがそれぞれの力を理解し、活用しようとしていることは評価できます。ですが、わたしほどの妖怪を使って何かを成し遂げようというのなら、あなた自身にも相応の力が必要です」
ユキは、ゆっくりと顔を上げた。
「……私が、もっと強くなれば……」
「ええ。そのときは、もう一度お話を伺いましょう」
犬神は、静かに微笑んだ。
「あなたが本当に望むものを手に入れたいのなら、まずは自分の力を磨くことです。今のあなたには、まだできることがあるはずですよ」
胸の奥には、まだ悔しさが残っている。しかしそれ以上に、犬神の戦い方が頭から離れなかった。
あの銀狐は、ほとんど動いていなかった。
尾を振り、手を上げ、足を一歩踏み出しただけで、こちらの連携を崩してしまった。強い妖術を放つだけではなくどこへどれほどの冷気を向ければ相手が動けなくなるのか、すべて分かっているようだった。
自分も、同じ冷気を扱っている。それなのに、あれほどの差がある。
「……今日は、ありがとうございました」
「おや。随分と素直ですね」
「……悔しいですけれど、あなたの言うとおりだと思いますから」
ユキは、少しだけ笑った。
「……もっと、強くなります」
犬神は、その言葉を聞いて満足そうに頷いた。
「よろしい。その言葉、覚えておきましょう」
それから、供養塔の前へ置かれたおでんの器へ視線を向けた。
「それにしても、久しぶりに温かいものをいただきました。なかなか美味しかったですよ」
いつの間にか器が空になっていることにユキは目を瞬かせる。
「次にいらっしゃるときも、同じものを用意していただけると嬉しいですね」
その言葉に、ユキは少しだけ表情を明るくした。
「……ええ。もちろんです」
犬神は、満足そうに頷いた。
「では、今夜はここまでにしましょう。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
彼の周囲に銀色の光が集まり始め、九本の尾がゆっくりと揺れその姿が少しずつ薄れていき、犬神は月明かりの中へ溶け込むように消えた。
同時に、周囲を覆っていた冷気が静かに収まり始めた。木々の霜が溶け、地面の雪が少しずつ消えていく。森には再び虫の声が戻り、供養塔の前には空になったおでんの器だけが残されていた。
犬神が去った後、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
「……みんな、ごめんなさい」
その言葉に、くしゃ武者が顔を上げた。
「何を仰いまする、御館様! 拙者こそ、一太刀も浴びせられず、面目次第もござらん!」
彼は、悔しそうに拳を握りしめた。
「次こそは、必ず……!」
「……拙者も……まだまだ……未熟……」
カイムも意気込むその一方で、ヤミ鏡は大きくため息をついた。
「いやあ、あれは無理だぜ。おれだってそこそこ強い妖怪は見てきたけどよ。あんなの、まともに相手するもんじゃねえ」
彼は、鏡面に残った小さな傷を確かめた。
「ま、今回はおれの鏡が割れなかっただけでも儲けもんだな。次にあいつへ挑むなら、報酬は上乗せしてもらうぜ?」
死神鳥はようやく立ち上がったものの、まだ顔色が悪かった。
「……だから言ったんだよ……。あいつは絶対におかしいんだ……! オレが昔逃げたのも、間違いじゃなかった……!」
「そうね。あなたの話を、もっと真面目に聞いておけばよかったかもしれないわ」
「……だろ……?」
死神鳥は、珍しく得意げになりかけた。しかしユキが続けた言葉を聞いて、すぐに口を閉じた。
「……でも、会えてよかったと思っているの」
彼女は、犬神が消えた供養塔へ視線を向けた。
「自分がどれくらい弱いのか、よく分かったもの」
自分は、今まで強くなったつもりでいた。グレるりんたちを従わせ、死神鳥のとりつきから抜け出し、妖術も以前よりずっと細かく扱えるようになった。
それでも、犬神には何もできなかった。自分の氷が、相手の冷気によって簡単に上書きされる。どれだけ工夫しても、妖力の差が埋まらない。
仲間を集めるだけでは、越えられない壁があるのだ。犬神が言ったように、自分自身の力を磨く必要がある。そうでなければどれほど多くの仲間を集めても、いつか自分の手に負えない相手が現れるかもしれない。
「……カイム」
ユキは、静かに声をかけた。
「……はい、御館様……」
「明日から、少し特訓に付き合ってくれる?」
カイムは、迷わず頷いた。
「……御意……」
くしゃ武者も、すぐに顔を上げた。
「拙者もお供いたしまする! 御館様が強くなられるのであれば、喜んで刀をお貸しいたそう!」
ユキは、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう二人とも、頼りにしているわ」
その言葉を聞いて、カイムは頭を下げ、くしゃ武者は満足そうに胸を張った。
翌日の朝、ユキはさくらニュータウンの公園近くを歩いていた。
昨夜の戦いで身体のあちこちに疲れが残っていたが、妖怪である彼女にとってそれは大きな問題ではなかった。むしろ今は自分がどれほど力を使えるのか、改めて確かめたい気持ちのほうが強かった。
今日はカイムとくしゃ武者に手伝ってもらい、少しずつ特訓を始めるつもりだった。犬神のような強い妖怪と戦うには、単純に冷気の量を増やすだけでは足りない。
今まで意識していなかったことを、一つずつ練習していかなければならないだろう。そんなことを考えていると、背後から聞き慣れた声がした。
「あっ、ユキ!」
振り返ると、そこにはケータが立っていた。
いつもの服装に、妖怪ウォッチを身につけている。隣にはウィスパーも浮かんでいたが、今日は珍しく、二人とも少し真面目な顔をしている。
「ケータくん!!!」
小走りでケータの元に向かい、髪を整えながら返事をする。
「おはよう! 今日はどこかへお出かけするの?」
「うん。……あ、いや、今日はちょっとさ」
ケータは、少しだけ言葉を選ぶように視線を動かす。その様子を見て、ユキは不思議そうに首を傾げた。
「……どうしたの?」
ケータは、ウィスパーへ一度だけ目を向け、ウィスパーが頷く。それから、ケータは改めてユキのほうへ向き直った。
「……ユキ。今日、ちょっと時間ある?」
普段よりも、少しだけ真面目な声にドキリとしながらも頷く。
「……ええ。もちろんよ」
「そっか。よかった」
ケータは、少し安心したように笑った。
「実はさ、ユキに話したいことがあるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ユキの胸がわずかに跳ねた。
ケータが、自分へ話したいこと。それも、わざわざ時間を取ってほしいと言うほどのこと。
何だろうと、普段なら嬉しくてすぐに聞き返していただろう。
けれど今のユキには、一瞬だけ別の考えが浮かんだ。
もしかして、自分が最近していることを何か知られてしまったのだろうか。
グレるりん達や死神鳥、犬神との戦い。ケータはともだちの妖怪が多い。口止めはしてあるが、確証は無い。もしかしたらどれかがケータの耳へ入ったのかもしれない。
「今日の夕方、さんかく公園に来てくれない?」
ケータは、まっすぐユキを見つめた。
「ちゃんと話したいんだ。……ユキに、どうしても伝えたいことがあってさ」
死神鳥不憫でかわいいね
なんか文字数多くなるし不安になってきたので、バトル描写は果たしているのかどうかアンケート(参考にします)
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納得性をもたせるためなら最低限いる
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カットで良い
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もっと欲しい