このビックウェーブに
差し出された手を、ゆきおんなは呆然と見つめていた。
自分の目の前にあるのは、どこにでもいる人間の男の子の手だった。まだ子供らしい丸みを残した指先には、幾度となく虫取りや外遊びをしてきたらしい小さな擦り傷があり、手首には妖怪ウォッチが巻かれている。
先ほどまで自分を取り囲んでいた妖怪たちを、あっという間に追い払ってしまった少年のものだ。
「……あの」
声をかけようとしても、喉の奥がつかえたようになって、うまく言葉が出てこなかった。
助けてもらえたことは分かっている。あの恐ろしい妖怪たちはいなくなり、もう自分を蹴ったり、嫌なことを言ったりする者もいない。それなのに、目の前の少年が差し伸べてくれた手を取ることだけは、どうしてもためらわれた。
自分が触れれば、きっと冷たいと思われる。それだけでは済まないかもしれない。緊張して妖力の加減を間違えてしまえば、せっかく助けてくれたこの少年の手まで凍らせてしまう可能性がある。
そうなれば、彼だって自分から離れていくだろう。これまで何度も繰り返してきたことなのだから、今度だけは違うなどと期待するほうがおかしいのだ。
「……ごめんなさい。私、手が冷たいから」
ゆきおんなは小さく首を振ると、差し出された手から視線を逸らし、袖の中へ指先を隠した。せめて立ち上がるところくらい見せようと、壁に手をついて身体を起こしかけたものの、長いこと同じ姿勢で縮こまっていたせいか、足元がふらついてしまう。
「あっ、危ない!」
ケータは反射的に少女の肩を支えた。
外套越しに伝わってきた冷気は、冷蔵庫から取り出したばかりの氷を素手で触ったときのように鋭く、ケータは思わず肩をすくめた。それでも、目の前で倒れかけている相手を放っておくわけにはいかず、彼女がしっかり立てるようになるまで身体を支え続けた。
「うわっ、ほんとに冷たいね! 大丈夫? ちゃんと立てる?」
「ご、ごめんなさい……!」
少女は慌ててケータから離れようとしたが、かえって足をもつれさせてしまった。ケータがもう一度支えてくれたことで何とか転ばずに済んだものの、彼女はますます申し訳なさそうに俯き、泣き出しそうな顔で謝罪を繰り返している。
そんな様子に、ケータは少し困ってしまった。
別に怒っているわけではないし、彼女に何か悪いことをされたとも思っていない。確かに驚くほど冷たかったが、ゆきおんなという妖怪なのだから、身体が冷たいことくらい不思議ではないだろう。
「そんなに謝らなくてもいいって。寒いのは本当だけど、別に怒ってないよ」
「……でも、あなたまで寒くなっちゃうわ」
「うーん、じゃあ、ちょっと離れて話せばいいんじゃない? ほら、そっちなら日も当たってるし」
ケータが指差した先には、路地の出口へ続く細い道があった。建物の陰から抜ければ、すぐに真夏の陽射しが降り注ぐ表通りへ出られる。
ケータとしては、あんなに寒い場所にいつまでもいたら、いくら夏でも風邪を引いてしまいそうだったので、もう少し暖かいところへ移動したかった。ゆきおんなはしばらく彼の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……ええ。ありがとう」
その返事を聞いたケータは、ようやく安心したように笑った。
「よかった! じゃあ行こう!」
二人が歩き始めると、ジバニャンもその後ろからついてきた。先ほどの戦いで少し埃のついた腹巻きを前足ではたきながら、時折ゆきおんなのほうへ視線を向けていたが、彼女がまだ緊張していることに気づいたのか、わざわざ話しかけようとはしなかった。
一方のウィスパーは、路地に残された冷気の痕跡を確かめながら、何やら考え込んでいた。
「ふむ……。あの冷気の強さからすると、やはりゆきおんなで間違いなさそうですねぇ。しかし、あれほどの力を持ちながら、あの妖怪たちに抵抗できなかったとは……」
「ねえ、ウィスパー。ゆきおんなって、そんなに強い妖怪なの?」
「ええ、本来はかなり強力な氷の妖術を扱う妖怪なのですよ。ただ、ゆきおんなは自分の冷気をうまく抑えられないことがありましてね。そのせいで、本人も困っていることが多いようです」
そこまで説明したところで、ウィスパーは少女が少し後ろを歩いていることに気づき、慌てて口を閉じた。本人がいるところであまり詳しく説明するのも失礼だろうと考えたのだが、当のゆきおんなは怒るどころか、申し訳なさそうな顔で頷いている。
「……そうなの。私、昔から冷気を抑えるのが苦手で……。暑いから少し涼しくしてほしいって頼まれても、うまく加減ができなくて、いつも冷やしすぎちゃうの」
小さな声で話しながら、彼女は自分の袖口を見つめた。
そこには薄い霜が付着しており、歩くたびに細かな氷の粒が地面へ落ちている。ケータが興味深そうにそれを見つめると、ゆきおんなは慌てて腕を身体へ引き寄せたが、少年は特に気にする様子もなく、むしろ不思議そうに首を傾げた。
「へぇ……。でも、寒くするのが得意なんだったら、夏は人気者になれそうなのにね」
「……え?」
「だって、こんなに暑いんだよ? オレなんか、さっきから暑くて仕方なかったし。涼しくしてもらえるなら、すっごく助かると思うけどなぁ」
あまりにもあっけらかんとした意見に、ゆきおんなは返す言葉を失ってしまった。
冷気を出すことについて、誰かからそんなふうに言われたのは初めてだった。
今まで彼女が聞いてきたのは、寒いから近づくなとか、気味が悪いとか、せっかく頼んでやったのに役に立たないといった言葉ばかりだった。
自分でもうまく扱えない力なのだから、嫌がられても仕方がないと思っていたし、いつの間にか、自分の冷気は周囲に迷惑をかけるだけのものだと考えるようになっていた。
でも同じ力を見ているはずなのに、彼はそれを便利なものとして捉えている。しかも、慰めようとして無理に褒めているわけでもなさそうだった。単純に、夏は暑いから涼しいほうがいいと思っているだけなのだろう。
「……うふふ」
気づけば、ゆきおんなの口から小さな笑い声が漏れていた。
ケータが不思議そうに振り向くと、彼女は慌てて口元を袖で隠したものの、そこには先ほどまでの怯えた表情とは違う、柔らかな笑みが浮かんでいた。
路地を抜けたところにある小さな公園まで来ると、ケータは木陰に置かれたベンチを見つけ、そこで少し休むことにした。ケータはベンチへ腰を下ろしたが、ゆきおんなは少し離れたところに立ったままだった。
「座らないの?」
「……いいの?」
「もちろん! 空いてるし」
そう言って隣の場所を軽く叩くと、少女は嬉しそうに一歩踏み出した。しかし、すぐに思い直したように足を止め、ケータから少し距離を置いてベンチの端へ腰を下ろした。
二人の間には、小さな子供がもう一人座れそうなほどの隙間が空いている。ケータはその距離を少し不思議に思ったものの、先ほどの冷気のことを思い出すと、彼女なりに気を遣ってくれているのだろうと納得した。
「そういえば、まだちゃんと自己紹介してなかったよね。オレ、天野景太。みんなにはケータって呼ばれてるんだ」
「……ケータ、くん?」
「うん! そう呼んでくれていいよ」
少女は彼の名前を確かめるように、小さな声で繰り返した。
「……ケータくん」
その響きが気に入ったのか、彼女はほんの少しだけ頬を緩めた。
少女にとってその名前は、もう随分と特別なものになり始めていた。自分を助けてくれた少年の名前を知ることができたという事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなるような、不思議な感覚があったのだ。
「それで、こっちがウィスパー。オレが妖怪ウォッチを手に入れたときから、ずっと一緒にいるんだ」
「うぃす! わたくし、妖怪執事のウィスパーと申します。以後、お見知りおきを」
いつものように胸を張ったウィスパーが、芝居がかった仕草で一礼する。
続いてケータがジバニャンを紹介すると、赤い猫妖怪は照れくさそうに頭を掻いた。
「オレっちはジバニャンだニャン。さっきのやつらなら、また来ても追い払ってやるニャン!」
「……ありがとう。あなた、とっても強いのね」
素直に褒められたジバニャンは、思わず頬を緩ませた。
「まあ、オレっちもいろいろあって強くなったからニャン!」
得意げに胸を張るジバニャンの姿を見て、ゆきおんなはまた小さく笑った。
その表情を眺めながら、ケータは彼女が思っていたよりもずっと話しやすそうな妖怪だと感じていた。確かに最初は怯えていたが、少しずつ緊張が解けてくると、穏やかな声で話してくれるし、ジバニャンの冗談にも笑ってくれる。
こんな子がどうしてあんな目に遭わなければならなかったのか、ますます分からなくなってしまう。
「ねえ、ゆきおんなって、いつもあの辺にいるの?」
ケータが尋ねると、少女は少し考えるように視線を落とした。
「……そうね。あの辺りには、時々来るわ。人が少ないから、誰かを寒がらせることもないし……」
「そっか。でも、あいつらもいるんでしょ? またいじめられたりしない?」
その問いに、ゆきおんなはすぐには答えられなかった。
グレるりんたちがあの場所に現れるのは、決して今日が初めてではない。彼らは少女が抵抗しないことを知っており、気まぐれに姿を見つけては、冷気を出せと命令したり、持っていた駄菓子を取り上げたりしていた。
最初の頃は断っていたし、何度か逃げ出したこともある。
しかし、逃げたところで別の場所で見つかってしまうし、反撃しようとして冷気を暴走させれば、今度は自分が悪いことをしたように責められる。
そんなことが続くうちに、彼女は彼らと出会ったら、ただ早く終わることを願って我慢するようになっていた。
「……また、来るかもしれないわ。でも、私があまり外に出なければ……」
「えーっ、そんなの嫌じゃん!」
思わず声を上げたケータに、少女は驚いて顔を上げた。
「だって、悪いのはあいつらなのに、何で君が隠れてなきゃいけないんだよ。お菓子だって買いに行きたいでしょ?」
「……お菓子?」
「うん。さっき落ちてたの、駄菓子だったよね。好きなの?」
ゆきおんなは、思いがけない質問に目を瞬かせた。自分がいじめられていたことばかり気にしていたので、好きな食べ物について尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。
「……ええ。好きよ。甘いものも、しょっぱいものも……。あまりたくさんは食べられないけれど、いろんな種類があるから、見ているだけでも楽しいの」
話しているうちに、少しだけ表情が明るくなる。
ケータも駄菓子は好きだった。ヨロズマートへ向かおうとしていたのも、今日はどんなお菓子を買おうかと考えていたからである。
「へぇ! オレも好きなんだ! 今日もお菓子買いに行こうと思ってたんだよね」
「そうなの?」
「うん! あ、そうだ!」
ケータは何か思いついたらしく、ぱっと顔を輝かせた。
「明日さ、お菓子買って持ってくるよ! 今日のはあいつらに踏まれちゃったし、一緒に食べようよ!」
「…………え?」
少女は、最初、その言葉の意味をうまく理解できなかった。
明日、ケータは今、確かに明日と言った。今日だけではなく、また自分に会いに来てくれるというのだろうか。しかも、わざわざお菓子を買って、一緒に食べようと言ってくれている。
「……でも、そんな……悪いわ。私、あなたに何もしてあげられないのに……」
「別に何かしてもらおうと思ってるわけじゃないよ。オレもお菓子食べたいしさ。誰かと一緒に食べたほうがおいしいじゃん!」
ケータはごく当たり前のことを言ったつもりだったが、少女はそれ以上何も言えなくなってしまった。
何もしてあげられないのに、役に立てないのに、それでも、一緒にいてくれる。そんなことを言ってくれる相手が、今までいただろうか。
「……うん」
少女は俯き、袖に隠した手を胸元へ引き寄せた。
「……ありがとう。ケータくん」
その声は少し震えていたが、先ほどまでの怯えとは違うものが混じっていた。
翌日、ゆきおんなは朝から落ち着かなかった。
昨日、ケータが帰っていった後も、彼女はしばらく公園のベンチから動けずにいた。少年と話していた場所を眺めていると、今にもあの元気な声が聞こえてきそうで、立ち去るのが惜しくなってしまったのだ。
帰り際、ケータは明日も来ると約束してくれた。
その言葉が嬉しくて、何度も思い返した。しかし、時間が経つにつれて、別の考えも頭をもたげてくる。
本当に来てくれるのだろうか。
昨日は自分が可哀想だったから、ああ言ってくれただけではないのか。
一晩経ってしまえば、わざわざ自分のところへ来る理由などないと気づいて、約束を忘れてしまうかもしれない。
そう考えるたびに胸が苦しくなり、彼女は何度も頭を振った。ケータは優しい人だった。あんなに怖い妖怪たちの前に立って、自分を助けてくれたのだから、きっと約束だって守ってくれるはずだ。
信じたい。けれど、信じて裏切られたときのことを考えると、どうしても怖くなってしまう。
結局、ゆきおんなは昨日よりずっと早い時間から公園の近くへやって来ていた。
いつケータが現れてもすぐに分かるよう、路地の出口が見える場所に腰を下ろし、通りを行き交う人々の姿を眺め続ける。夏の日差しは相変わらず強かったが、彼女の周囲だけはひんやりとした空気が漂っており、足元の草には薄い霜が降りていた。
人間には彼女の姿が見えない。そのことを、今までは安心できることだと思っていた。
けれど今日は、誰にも気づかれずに待っている時間が長く感じられた。
「……ケータくん」
試しに名前を口にしてみると、昨日知ったばかりの名前なのに、不思議とすんなり声に出せた。
「……ケータくん」
それだけで頬が緩みそうになって、ゆきおんなは慌てて口元を隠した。
何をしているのだろう。彼がいないところで名前を呼んだからといって、返事が返ってくるわけでもないのに。
それでも、声に出している間だけは、昨日の出来事がまだ自分のものとして残っているような気がした。
そんなことを考えていたときだった。
「おーい!」
聞き覚えのある声が、通りの向こうから響いてきた。
ゆきおんなは弾かれたように顔を上げた。
陽射しの中を、小さな袋を提げた少年が走ってくる。その隣には白い妖怪が浮かんでおり、少年が走るたびに何か小言を言っているようだった。
「いたいた! よかった、ここにいたんだ!」
ケータは少女の姿を見つけるなり、嬉しそうに手を振った。
その瞬間、ゆきおんなの胸の奥で、何かが大きく跳ねた。
──本当に来てくれた!
──約束を覚えていてくれた!
──自分に会うために、またここまで来てくれた!
「あ……」
声が出ない。
立ち上がろうとしても、足にうまく力が入らなかった。どうにか身体を起こしたものの、近づいてくる少年から目を離すことができず、ただ呆然とその姿を見つめていた。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった。ヨロズマートでお菓子選んでたら、思ったより時間かかっちゃってさ!」
「……え……あ、ううん……」
「ほら、いろいろ買ってきたよ! 昨日、駄菓子が好きって言ってたでしょ?」
ケータが袋を持ち上げる。
透明なビニール越しに見えたのは、色とりどりの駄菓子だった。小さなチョコレート菓子やラムネ、棒状のスナック菓子に、個包装された飴まで入っている。
どれも特別に高価なものではない。
けれど、少女にとっては、昨日までのどんな宝物よりも眩しく見えた。
「……私の、ために?」
「うん! 何が好きか分からなかったから、いろいろ買ってきちゃった。好きなの選んでいいよ!」
ケータは何のためらいもなく袋を差し出した。
少女はその中身を見つめたまま、しばらく動けない。自分のために何かを買ってきてくれた人がいる。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
自分の好きなものを覚えていてくれたことも、何を選べば喜ぶか考えてくれたことも、全部が嬉しかった。
「……ありがとう」
ようやく絞り出した声は、ひどく小さかった。
しかし、ケータはちゃんと聞き取ってくれたらしく、満足そうに笑った。
「どういたしまして! じゃあ、あっちで食べようよ!」
公園の木陰にあるベンチへ移動すると、ケータは袋から駄菓子を取り出し、二人の間に並べ始めた。
昨日と同じ場所だったが、ゆきおんなの座る位置は少し違っていた。まだケータを寒がらせてしまうことが心配だったものの、今日は彼の顔がよく見える程度の距離を選んでいる。
ケータはラムネ菓子の袋を開けながら、昨日のことや、ヨロズマートで何を買おうか迷ったことを楽しそうに話していた。ゆきおんなはその一つひとつに耳を傾け、ときどき小さく笑った。
少年の話には、何か特別な内容があるわけではない。
いつもの時間に起きて、朝ご飯を食べ、母親からあまりお菓子を食べすぎないよう注意されて、それからヨロズマートへ行った。途中でウィスパーがお菓子の買いすぎを心配したので、結局予定より少しだけ減らしたらしい。
紡がれるのはただの日常の話で。それなのに、ゆきおんなには不思議なくらい面白く感じられた。
「それでさ、ウィスパーったら、お菓子ばっかり食べてたら身体に悪いって、ずーっと言ってるんだよ」
「当然でしょう、ケータくん! わたくしはあなたの健康を心配しているのです。せっかくの夏休みに、お菓子の食べすぎでお腹を壊してしまっては困りますからねぇ」
「もう、分かってるってば!」
「本当に分かっていらっしゃいますか? まったく、昨日も今日もお菓子ばかりで……」
ウィスパーは呆れたように首を振ったが、ケータはそれを気にする様子もなくラムネを一粒口に放り込んだ。そのやり取りを見ていたゆきおんなは、思わず口元を緩めた。
「……うふふ。二人とも、仲がいいのね」
「そうかなぁ? ウィスパー、いつも小言ばっかり言ってるけど」
「それはケータくんが、わたくしに心配をかけてばかりいるからです!」
「ほら、また言ってる!」
ケータが笑うと、ゆきおんなもつられて笑った。
昨日まで、こんなふうに誰かと笑い合う時間が自分にも訪れるなど、考えたこともなかった。誰かと話せば寒がられる。近づけば嫌がられる。
目の前にいる少年は、自分が隣に座っていることを嫌がっていない。それどころか、自分が笑うたびに嬉しそうな顔をする。その事実が、ゆきおんなには信じられないほど幸せだった。
「ねえ、どれ食べる?」
ケータが袋を差し出してくる。少女は迷った末に、小さなチョコレート菓子を一つ選んだ。
「……これ、好きなの。甘くて、おいしいから」
「へぇ、そうなんだ! じゃあ、次もこれ買ってこようかな」
「……次?」
「うん。また一緒に食べるときにさ」
ケータは何でもないことのように答えた。
しかし、ゆきおんなはそこで動きを止めてしまった。その言葉が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。
昨日だけではなく、今日も会いに来てくれた。今、彼はまた次のことを話している。一度きりの親切ではないのだろうか。
……自分は、本当にこの人と何度も会っていいのだろうか。
「……ケータくん」
「ん?」
「……また、来てくれるの?」
少女が尋ねると、ケータは少し不思議そうに首を傾げた。
「え? うん、もちろん。オレも楽しいし」
「……楽しい?」
「うん! こうやって一緒にお菓子食べたり、話したりするの、楽しいよ」
その返事を聞いた瞬間、ゆきおんなの胸がぎゅっと締めつけられた。
役に立てたわけでも、何か特別なことをしたわけでもないのに、ただ隣に座って、少し話をして、お菓子を食べているだけなのに。それだけで、この人は楽しいと言ってくれる。
「……そっか」
少女は俯き、膝の上で両手を重ねた。
「……うふふ。嬉しいわ」
声が震えないようにするので、精一杯だった。
しばらくして、ケータは持ってきた水筒を取り出した。
「そういえばさ、昨日のことなんだけど」
「……昨日?」
「うん。君、自分も寒いって言ってたでしょ?」
ゆきおんなは、きょとんと目を瞬かせた。
確かに昨日、冷気を抑えるのが苦手だという話をしたとき、自分自身も冷え性なのだと少しだけ話した覚えがある。ただ、それは会話の途中で何気なく口にしたことであり、わざわざ覚えていてもらえるような話ではなかったはずだった。
「……ええ。でも、どうして?」
「ほら、オレは暑いから冷たいもの飲みたいけど、君は寒いんだったら、温かいもののほうがいいのかなって思って」
ケータは水筒の蓋を開けた。
中には、家から持ってきた麦茶が入っている。自分用の冷たいものとは別に、少女が飲めるよう少し温かいものを用意してきたのだという。
「お母さんに頼んで、ぬるめにしてもらったんだ。熱すぎると飲みにくいと思ってさ。飲む?」
ゆきおんなは、差し出された水筒の蓋を見つめた。
そこから、ほんのわずかに湯気が立っている。夏の昼下がりに、わざわざ温かい飲み物を持ってくるなんて、少し変わっているかもしれない。
「…………」
彼女は何も答えられなかった。
自分のことを覚えていてくれた。寒いと話したことを、ちゃんと聞いていてくれた。
周りの誰もが自分の冷気を迷惑がり、暑いときだけ都合よく涼しくしろと言ってきたのに、彼は自分の身体が寒いことまで気にかけてくれている。
それがどれほど嬉しいことなのか、きっとケータには分からないだろう。本人にとっては、友達が寒がっているから温かい飲み物を持ってきた、それだけのことなのだから。
「……どうしたの?」
返事がないことを不思議に思ったケータが顔を覗き込むと、ゆきおんなは慌てて首を振った。
「う、ううん……。何でもないの」
そう言ってから、彼女はおそるおそる水筒の蓋を受け取った。
冷たい指先に、ほんのりと温もりが伝わってくる。それは、彼女が普段感じている冷気とはまったく異なるものだった。
両手で大切に包み込むように持ち、ゆっくりと口をつける。
温かい麦茶が喉を通る。特別な味がするわけではない。どこにでもある、普通の麦茶だ。しかし、ゆきおんなはその味を、一生忘れられないもののように感じた。
「……おいしい」
思わず漏れた言葉に、ケータは嬉しそうに笑った。
「ほんと? よかった!」
その笑顔を見た途端、少女は胸の奥がどうしようもなく苦しくなるのを感じた。
──どうして、この人はこんなに優しいのだろう。
──どうして、自分なんかのために、こんなにいろいろしてくれるのだろう。
──自分が笑うと、どうしてこの人まで嬉しそうに笑ってくれるのだろう。
考えても、考えても、答えが分からない。
ただ一つ分かるのは、今この瞬間、自分が今まで生きてきた中で一番幸せだということだった。
「……ケータくん」
「ん?」
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
「えへへ。そんなにお礼言わなくてもいいって」
少年は少し照れくさそうに笑った。
ゆきおんなは、その顔から目を逸らしたくなくてずっと見つめていた。
楽しい時間は、思っていたよりずっと早く過ぎていった。
陽射しが少し傾き始めた頃、ケータは時計を確かめると、そろそろ帰らなければならないことを思い出した。
「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ帰らないと、お母さんに怒られちゃうや」
「おや、もうそんな時間ですか。確かに、これ以上遅くなっては心配をかけてしまいますねぇ」
ウィスパーも空を見上げ、家へ戻ることに賛成した。
ケータが立ち上がると、ゆきおんなもそれにつられるように腰を浮かせた。しかし、彼が帰るのだと分かった途端、胸の奥に奇妙な寂しさが広がり、さっきまで温かかった指先が急に冷えていくような気がした。
「……もう、帰っちゃうのね」
「うん。ごめんね、もっと遊びたかったんだけど」
「……ううん。いいの。お家の人が心配するものね」
少女は微笑んで頷いた。
ケータには帰る家がある。家族がいて、友達がいて、明日になればまた別の用事だってあるだろう。
そんなことは分かっている。
それなのに、彼が立ち去ろうとする姿を見ているだけで、どうしてこんなにも心細くなってしまうのだろうか。
「……あの、ケータくん」
気づけば、呼び止めていた。
少年が振り向く。
「どうしたの?」
「……明日も、会えるかしら?」
自分でも、ずいぶん勇気のいる質問だった。
明日も会いたい。本当は今日だって、まだ帰ってほしくない。けれど、そんなわがままを言って嫌われてしまったら、きっと立ち直れない。
だから、せめて明日の約束だけでも欲しかった。
ケータは少し考え込むと、指を立てて言った。
「明日かぁ……。午前中はちょっと用事があるんだけど、午後なら大丈夫だと思うよ!」
「……本当?」
「うん! じゃあ、三時くらいにまたここに来るね。今度は何して遊ぼうか?」
その返事を聞いた途端、少女の表情がぱっと明るくなった。
「……うん! 楽しみにしているわ!」
それは、今までで一番大きな声だった。ケータは少し驚いたものの、嬉しそうな少女を見て笑った。
「じゃあ、また明日!」
「……ええ。また明日ね、ケータくん」
ケータが手を振る。
ゆきおんなも、慌てて袖の中から手を出し、小さく振り返した。少年は何度か振り向きながら公園を後にし、ウィスパーを伴って通りの向こうへ消えていった。
ゆきおんなは、その背中が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
一人きりになった公園は、昨日までと何も変わらないはずだった。
木々の間ではセミが鳴き、遠くの道路からは車の走る音が聞こえてくる。夕方が近づいたとはいえ、夏の熱気はまだ地面に残っており、ベンチの木材も陽の当たるところだけがほんのり温かかった。
しかし、ゆきおんなには、その景色がまるで違って見えた。
さっきまでケータが座っていた場所。彼が楽しそうに笑っていたところ。駄菓子を並べてくれたベンチの上。
そこに目を向けるたび、胸の奥がくすぐったくなり、何度も笑みが零れてしまう。
「……ケータくん」
「……うふふ」
ゆきおんなは袖で口元を覆い、誰もいない公園で一人笑った。
どうしてこんなに嬉しいのだろう。
どうして、たった一日一緒に過ごしただけなのに、もう彼に会いたくなっているのだろう。
彼が笑うと嬉しくて、彼が自分の名前を呼ぶと、もっと話してほしくなって、彼が帰ろうとすると、胸が苦しくなる。
誰かを好きになるということが、こんなにも忙しいものだなんて知らなかった。
「…………好き」
思わず零れた言葉に、ゆきおんなは自分で驚いた。
頬がかあっと熱くなる。
慌てて両手で顔を覆ってみたものの、そこから伝わる冷たさでは、胸の奥に生まれた熱を鎮めることができなかった。
「……私、ケータくんのこと……」
言いかけて、恥ずかしくなって口を閉じる。
優しいところも、楽しそうに笑うところも、少し子供っぽいところも、ウィスパーと口喧嘩をしているときの表情も。自分を寒がらせまいとして、わざわざ温かい飲み物を持ってきてくれたところも。
もし、また会えたなら今日よりも、もう少しだけたくさん話してみたい。できれば彼の好きなものを聞いてみたいし、今度は自分が何かしてあげられたら嬉しい。
冷気をうまく抑えられるようになったら、隣に座るときも、もう少し近づいていいだろうか。
そんなことを考えるだけで、頬が緩んでしまう。
「……ああ、もう……」
ゆきおんなは恥ずかしそうに俯いた。
今まで自分の冷たい身体が嫌いだった。
誰かに近づきたくても近づけず、何かをしてあげたくても失敗してしまう。そんな自分には、誰かと仲良くなる資格なんてないのかもしれないと思っていた。
けれど今は、この冷たい身体を、少しでも上手に扱えるようになりたいと思った。彼が隣に座ってくれたとき、寒い思いをさせないように。彼が手を差し伸べてくれたとき、今度はためらわずに握り返せるように。
もし、いつか……本当に、いつかの話だけれど。自分から手を伸ばしても、ケータが嫌がらずに握ってくれたなら。
「…………」
そこまで想像したところで、ゆきおんなはとうとう耐えきれなくなり、両手で顔を覆った。
「……うふふ。どうしよう……」
誰もいない公園に、幸せそうな笑い声が小さく響く。
彼女の足元には、無意識に漏れ出した冷気によって、白い霜が降り始めていた。しかし、そんなことに気づく余裕もなく、ゆきおんなはしばらくの間、ベンチに座ったまま頬を染め続けていた。
やがて、ふと顔を上げる。
彼女の視線が向いたのは、ケータが帰っていった道だった。
明日の午後まで、彼には会えない。さっきまで一緒にいたばかりなのに、もう声が聞きたいと思ってしまう。
「……明日の、三時」
少女は、教えてもらった時刻を小さく口にした。
「……ケータくん」
ゆきおんなは、夕暮れに染まり始めた空を見上げる。昨日までは、明日が来ることに何の楽しみもなかった。
また嫌な妖怪に出会うかもしれないし、冷気を抑えられず誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな不安を抱えながら、ただ何事も起こらずに一日が終わることを願っていた。
それなのに、今は明日が待ち遠しくて仕方がない。
「……ケータくん」
いつか自分も、あの少年に何かを贈りたい。彼が自分にしてくれたように、心から喜んでもらえることをしてあげたい。
……そのためなら、きっと何だって頑張れる。
「……うふふ。大好きよ、ケータくん」
誰にも聞こえないほど小さな声で、少女は囁いた。
夏の夕暮れに、細かな雪が一片だけ舞い上がった。それは風に乗ってほんの少し宙を漂うと、地面に触れるよりも先に、あっけなく溶けて消えていった。
けれど、ゆきおんなの胸に芽生えた想いだけは、真夏の暑さにも、夕暮れの温かな風にも、少しも溶けることはなかった。