おおもり山の奥深く、登山道から大きく外れた雑木林の一角に、真夏とは思えないほど冷たい空気が漂っていた。
木々の間から差し込む陽光は、地面に届くまでに何度も枝葉に遮られ、薄暗い林床へまだら模様を落としている。周囲には背の高い杉やクヌギが立ち並び、腐葉土の積もった地面には倒木や苔むした岩が点在していた。
遠くからはセミの鳴き声が絶え間なく聞こえてくるものの、この場所に限っては奇妙なほど静かで、風が吹くたびに枝葉の表面から細かな氷の粒がこぼれ落ちている。
その中心に、一人の少女が立っていた。
彼女は両手を胸の高さまで持ち上げ、目の前に置いた平たい岩へ意識を集中させていた。岩の表面には薄い氷が張りついており、その周囲だけが白く染まっている。氷の厚さはほとんど変わらず、溶けることも、際限なく広がることもなく、一定の状態を保っていた。
今日、彼女が取り組んでいるのは、これまでの特訓とは少し違う課題だった。
冷気を強く放つことでも、細い一点に集中させることでもない。決めた範囲へ、決めた強さの冷気を、長い時間ずっと出し続ける。単純に聞こえるかもしれないが、妖力の加減が苦手な彼女にとっては、これが思っていた以上に難しかった。
最初に試したときは、ほんの数分で岩全体を氷漬けにしてしまった。次に挑戦したときは、冷やしすぎないよう慎重になったせいで、今度は途中で氷が溶け始めてしまった。強くも弱くもならないように、必要な分だけ冷気を流し続けるというのは、瞬間的に妖術を放つこととはまったく違う技術なのだ。
「これくらい、かしら」
ユキは岩の表面を確かめながら、小さく呟いた。
先ほどから氷の厚さはほとんど変わっていない。少なくとも、冷気が突然強くなったり、弱くなったりすることはなくなっていた。周囲の木々に付着した霜は練習を始めた頃の名残であり、今はほとんど増えていない。
彼女は袖口から取り出した小さな砂時計へ視線を落とした。ケータが、長い時間を測るならこれを使えばいいと貸してくれたものである。上の砂はすでに落ちきっており、これまでに何度もひっくり返していたことを考えれば、相当な時間が経っていた。
それでもユキは、まだ練習をやめるつもりはなかった。
昨日、ケータから聞いた話では、今度一緒に遊びに行くとき、小さな水筒を持ってきてくれるらしい。以前のように飲み物を丸ごと凍らせるのではなく、彼が望むちょうどよい冷たさを保てるようになりたい。
そのためには、一瞬だけ上手に冷やすだけでは足りない。長い間、隣に座っていても寒がらせず、飲み物だけを冷たいままにしておけるくらいにならなければならなかった。
もっとも、その話を聞いたケータ自身は、そこまで難しいことを求めているわけではない。
『別に普通に遊べればいいよ。ユキ、あんまり無理しないでね』
そう言って笑った少年の顔を思い出すと、ユキの頬には自然と柔らかな笑みが浮かんだ。
彼はいつもそうだった。
自分が少しでも上手にできるようになると、本当に嬉しそうに褒めてくれるくせに、失敗したからといって責めることはない。できないなら別の方法を考えればいいし、疲れたなら休めばいいと言ってくれる。
その優しさに甘えてもいいのだろうとは思うものの、だからこそ、彼にはもっと頼りにしてもらいたかった。ユキは岩に向けた冷気を一度だけ弱め、もう一度、同じ強さへ戻した。
ぱき、と薄い氷が鳴り、それ以上の変化は起こらなかった。
「……うん。いい感じね」
自分の妖力が、以前よりもずっと素直に言うことを聞いてくれる。その手応えは確かにあったがそれがどの程度の変化なのかまでは、まだ彼女にも分かっていなかった。
今までのユキは、冷気を出しすぎないことばかり考えていた。強く放てば周りに迷惑をかけるし、誰かを凍らせてしまうかもしれない。だから、力を使うときにはいつも怖さが先に立ち、必要以上に抑え込もうとしていた。
しかし、数日間の特訓を通して、彼女は少しずつ別のことを覚え始めていた。
自分の妖力が今どのくらい流れているのか、どこへ向かって広がろうとしているのか。どの程度まで意識して止められるのか。それが以前よりも、ずっとはっきり分かるようになってきている。
「……あと、少しだけ」
ユキは静かに息を吐き、再び集中したそのときだった。
「おやおやぁ? こらまた、えらいところでお会いしましたなぁ」
背後から聞こえてきた声に、ユキの指先が止まった。
聞き覚えのある声だった。妙に馴れ馴れしく、必要以上に長ったらしく、聞いているだけでこちらの返事を待つ気がないと分かる話し方。
ユキはゆっくりと振り返った。
木々の隙間から、四体の妖怪が姿を現していた。
先頭にいるのは、細長い身体と、顔から大きく突き出した長い鼻が特徴的な妖怪だった。蛇のような胴をくねらせながら進み、その長い鼻を得意げに揺らしている。
彼の後ろには、だらしなく身体を傾けた刀の妖怪と、大きな手をひらひらさせる小鬼、富士山を思わせる姿をした、相撲取りのような妖怪が続いていた。
ナガバナ、ダラケ刀、みちび鬼、ふじのやま。
いずれも、ユキがよく知っている妖怪たちだった。
「……あなたたち」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど平静だった。
四体の妖怪は、以前ユキが一人で暮らしていた廃トンネルに出入りしていた者たちだった。
まだケータと出会うよりも前、冷気の制御がまったくできなかった頃、ユキは自分の妖力が人間たちに迷惑をかけないよう、おおもり山にある古い廃トンネルへ身を隠していた。
人間がほとんど立ち入らない、暗くて湿った場所で、そこでなら、冷気を出してしまっても誰かを困らせずに済むと思ったのだ。
けれど、そこにはナガバナたちという先客がいたのだ。
最初のうちは、ただ寒いと文句を言われるだけだった。ユキも自分が悪いのだと思い、何度も謝った。少しでも冷気を抑えようと努力したし、彼らがいる場所からできるだけ離れて過ごすようにもしていた。実際、彼らが根城にしているのは奥の方であり、入口にいれば冷気は届かないはずだった。
しかし、そんなことをしても、状況は変わらなかった。
寒いから出ていけ。お前がいると迷惑だ。妖術も満足に扱えないくせに、どうしてこんなところへ来た。
何度も繰り返されるうちに、いつしかそれは日常的な嫌がらせへ変わっていった。トンネルの奥へ追いやられたり、眠ろうとすると騒がれたり、ときには逃げ道を塞がれて、冷気を出すなと怒鳴られることもあった。
自分がそこにいるだけで迷惑なのだと言われ続けると、やがて何も言い返せなくなった。
結局、ユキは廃トンネルを出て、町へ降りたところで別の妖怪たちに絡まれ、あの日の路地裏でケータと出会うことになる。
もし、あのとき彼に助けてもらえなかったなら、きっと今でも、自分がどこにいれば誰にも迷惑をかけずに済むのか、分からないままだっただろう。
「なんや、えらい久しぶりやないか。こないなとこで何しとるんやと思うたら、また辺り一面冷やしとるやないの。いやぁ、ほんま懲りへん子やなぁ。ワイらが前になんべんも言うたこと、もう忘れてしもうたんか?」
ナガバナが、長い鼻を揺らしながら呆れたように言った。その後ろで、みちび鬼がぴょんぴょんと跳ねる。
「ねえねえ、まだこんなことしてたのぉ? また怒られに来たの?」
幼い子供のような無邪気な声だったが、そこには相手をからかう楽しさが露骨に混じっていた。みちび鬼は以前から、ユキが逃げようとすると別の通路へ誘導し、わざと同じ場所へ戻らせては笑っていた。
隣では、ダラケ刀が面倒くさそうに身体を揺らしている。刃の曲がった刀の姿をしたその妖怪は、相変わらず気だるそうに俯き、今にもその場で寝転がりそうな様子だった。
「……はぁ。見てるだけで、だるかぁ。まだ寒かことしよるとね……。帰るつもりやったのに、まずかねぇ……」
「どすこーい! おいどんは構わぬでごわすが、修行するなら場所を選ぶべきでごわす!」
ふじのやまは、富士山のような青い身体を揺らし、相撲取りらしく腰を落としてみせた。雪国からやって来た彼は氷の上で足腰を鍛えてきた妖怪であり、以前も自分なら多少の冷気など平気だと豪語していた。
しかし実際にはユキの近くがその耐性の許容量を超えたらしく、ナガバナたちと一緒になって出ていけと騒いでいた。
ユキは、四体の姿をしばらく眺めていた。昔なら、彼らの声を聞いただけで身体が強張り、どうすれば怒らせずに済むか考えていただろう。
しかし、今は不思議とそうならなかった。
「……久しぶりね」
ユキは静かに答えた。
「安心して。もう廃トンネルには行かないつもりだから。ここで少し妖術の練習をしていただけなの。あなたたちに迷惑をかけるつもりもないわ」
そう言って、目の前の岩へ向けていた冷気を止める。岩を覆っていた薄い氷が、ゆっくりと溶け始める。
「今日はもう終わりにするわ。だから、気にしなくていいのよ」
ユキは軽く頭を下げ、帰り支度を始めた。
ケータから借りた砂時計を外套の内側へしまい、使っていた小さな布を畳む。ほかにも忘れ物がないことを確かめてから、四体のいる方向とは別の道へ歩き出そうとした。
しかし、それをナガバナが黙って見送るはずもなかった。
「ちょいちょいちょい! 待ちなはれ! 何やねん、その態度は。ワイらがわざわざ声かけとるっちゅうのに、そんな簡単に帰れる思うてんのか? そもそもな、あんたには前々から言うとかなあかんことが山ほどあってやなぁ……」
ナガバナは大袈裟に鼻を振り回し、ユキの行く手を塞いだ。
彼の話が長いことは、ユキもよく知っていた。相手の返事を待つことなく、話題を次々と変えながら喋り続ける。聞き流していると怒り始め、真面目に聞いていると今度は話が終わらなくなるので、以前はどう対応すればいいのか分からず困っていたものだった。
「……何か用事があるの?」
「用事も何も、あんた最近えらい物騒なことしとるらしいやないか」
ナガバナは、待っていましたとばかりに声を潜めた。
「ワイ、聞きましたで。ついこの間、町で何も悪さしとらん妖怪らを、あんたが一方的に攻撃したっちゅう話や。確かグレるりんとかいう、あのリーゼントの兄ちゃんやったかな。仲間と一緒におっただけやのに、いきなり妖術で襲われたんやと。いやぁ、怖い話でっせ。ワイらも昔からあんたのこと知っとるだけに、そんな噂が広まっとるんは残念で残念で……」
ユキは、わずかに眉を動かした。ケータと初めて出会った日、自分を路地裏で囲んでいた妖怪たちの一人。彼らを追い払ってくれたのは、ケータが呼び出したジバニャンである。自分はあのとき、何もできずに震えていただけだった。
それなのに、一方的に攻撃したという噂があるらしい。
「それは、誰から聞いたの?」
「そらもう、あっちこっちからでっせ。あんたも知らんやろうけど、妖怪同士の噂っちゅうもんは意外と広まるんが早いもんでなぁ。ワイかて別に、何でもかんでも鵜呑みにするような性分やないんやけど、今回は話が話だけに──」
「……私が襲ったというのは、違うわ」
ユキは途中で言葉を挟んだ。
「グレるりんたちとは会ったけれど、私が一方的に攻撃したわけじゃないの。あのときは……」
ケータのことを話しかけて、少し迷った。
彼が自分を助けてくれたことは、大切な思い出だった。わざわざ昔のいじめ相手に詳しく話したいとは思わないし、何より、ケータを今回の騒ぎに巻き込む理由もない。
「……とにかく、噂とは違うの。それだけは分かってほしいわ」
「ほぉ~? ほな、やましいことは何もないっちゅうわけか」
にやりと笑ったナガバナに、ユキはようやく気づいた。彼は最初からこちらの説明を聞くつもりなどないのだ。
「ねえねえ、ナガバナぁ! やっぱりこの子、悪いことしたんじゃないのぉ?」
みちび鬼が楽しそうに飛び跳ねる。
「オレ、こういうときはちゃんと反省させたほうがいいと思うなぁ! ねっ、こっちこっちぃ~!」
「どすこい! 道理を外れた行いは、稽古によって正すべきでごわす!」
「……あーあ。もう帰りたかぁ……。でも、ここまで来て何もせんのも、だるかねぇ……」
昔と同じやり方に、ユキは小さく息を吐いた。言い返せば、今度は口答えをしたと責められるし、黙っていれば、認めたことにされる。
どちらを選んでも、結局は自分が悪いことになる。
「……私、帰るわね」
ユキはそう言って、ナガバナの横を通り過ぎようとしたが──
「待ちなはれ言うてるやろ!」
ナガバナの長い鼻が、突然しなった。
鞭のように振り回された鼻がユキの頭上を横切り、背後の木の幹へ激しく叩きつけられる。乾いた音が森に響き、木の皮が細かく砕け散った。
ユキは反射的に身を屈めていた。
鼻は頭巾のすぐ上を通り過ぎたものの、彼女の身体には触れていない。
「……何をするの?」
「そら、あんたが悪いんやろ。人の話を最後まで聞かへんからや。ワイらがこうして注意しとるのに、反省の一つもせず帰ろうとするなんて、ちょっと虫がよすぎるんと違いまっか?」
ナガバナは鼻を戻しながら、得意げに笑った。
「それに、グレるりんらの件もある。ワイらが代わりに、ちょっとお灸据えたらなあかんわけや。そうせんと、また誰かが被害に遭うかもしれへん。なあ、みんな?」
「こっちこっちぃ~! 逃がさないよぉ!」
「おいどんの張り手を受けるでごわす! どすこーい!」
「……だるかぁ。早よ終わらせたかねぇ……」
四体が、ユキを囲むように動き始めた。
その光景を見た瞬間、彼女の脳裏に、薄暗い廃トンネルの景色が蘇った。
出口を塞ぐ大きな身体、からかうような笑い声、何度説明しても、聞いてもらえなかった言葉。逃げようとすると回り込まれ、どうすればいいのか分からなくなって、ただ謝り続けていた自分。
ユキは苦い思い出を噛み潰し、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かったわ」
彼女は、四体の位置を確かめた。
「でも、怪我をしたくないのなら、やめたほうがいいと思う」
ナガバナが、ぽかんと口を開けた。
次の瞬間、大袈裟に笑い始める。
「はっはっは! 何や、急に強気になって! あんたがワイらにそんな口きくようになるとは思わんかったわ! 前はあんなに泣きそうな顔して謝っとったくせに、ちょっと外で暮らしたくらいで偉そうになったんかいな!」
ユキは答えず、ただ、静かに彼らを見つめていた。その態度が気に入らなかったのか、ナガバナは苛立たしげに鼻を振り上げた。
「ええわ! そこまで言うなら、ちょっと痛い目見てもらいまっせ!」
最初に飛び出したのは、みちび鬼だった。
「こっちこっちぃ~!」
小さな身体が素早く横へ跳び、大きな手をひらひらと振る。ユキの注意を引きつけるように左右へ動き、彼女がそちらへ顔を向けた瞬間、反対側からナガバナの長い鼻が振り下ろされた。
しかし、ユキは既に一歩横へ移動しており、鼻は空を切り、地面へ叩きつけられる。
「……おっと?」
ナガバナが目を丸くすると、ユキはそのまま少し距離を取った。
「……もうやめましょう? 私、本当に争うつもりはないの」
「まだそんなこと言うとるんか! ちょこまか逃げるだけやったら、いつまで経っても終わらへんで!」
ナガバナが再び鼻を振り回すと同時に、横からふじのやまが突進してくる。
「どすこーい!」
重い足音とともに、富士山のような身体が迫った。
ふじのやまは腰を落とし、両腕を突き出してユキを押し倒そうとする。しかし、彼の大きな身体が踏み込んだときには、既にユキは進路から外れていた。
ふじのやまの足が、さっきまで彼女の立っていた場所を踏みしめる。
その横を、ユキは外套の裾を揺らしながら静かに通り過ぎた。
「むむっ!? 逃げ足だけは見事でごわすな!」
「……危ないから、もうやめたほうがいいわ」
ユキがそう言っても、ふじのやまは聞く耳を持たなかった。
再び腰を落とし、今度は横へ回り込むように突進してくるが何度攻撃しても、ユキには当たらない。
「……何やねん!」
ナガバナが苛立たしげに鼻を振り回す。
「さっきから逃げてばっかりやないか! ちょっとくらい正面から勝負したらどうや! そもそもな、喧嘩っちゅうもんはお互いにちゃんと向き合うことが大切であって、こっちがこうして誠意を見せて攻撃しとるんやから──」
その長話の途中で、ユキはまた一歩横へ移動した。
鼻が空を切る。勢い余ったナガバナは、危うく自分の鼻を木にぶつけそうになり、慌てて身体をひねった。
「……っ! ちょ、ちょっと待ちぃ!」
「……?」
「何や、その余裕そうな顔は!」
ユキは別に余裕そうな顔をしているつもりはなかった。
ただ、不思議だったのだ。彼らの動きが、以前よりずっと遅く見える。
ナガバナが鼻を振り上げれば、どこへ打ち込んでくるのか、おおよそ分かるし、ふじのやまが踏み込めば、次に身体がどちらへ向かうのか見当がつく。みちび鬼は何度も手招きして注意を逸らそうとするが、実際に攻撃してくる方向を見ていれば慌てる必要はない。
その理由に、ユキはすぐ思い当たった。
ジバニャンである。数日前、ケータたちと一緒に行った特訓で、彼女は何度もジバニャンの動きを見ていた。
最初は目で追うことすら難しかった。
赤い身体がどこへ動くのか分からず、必死になって冷気を放っても、狙った場所にはもう彼がいない。そんなことを何度も繰り返しているうちに、ユキは少しずつ、相手が動き始める前の仕草を見るようになっていた。
足の向きや肩の動き、踏み込むときの重心。どこへ向かって走ろうとしているのか。それらを見ていれば、速い相手でもある程度は動きを予測できる。
今、目の前にいる四体の妖怪は、ジバニャンほど速くなかったし、攻撃する前の動きが大きかった。
「そういうことだったのね」
ユキは、思わず小さく呟いた。
あの特訓は、ただ冷気を当てる練習だったわけではない。自分が知らないうちに、相手の動きを見極める力まで身についていたのだ。
そう思うと、少し嬉しくなった。
「……ケータくんのおかげね」
その小さな声は、四体の妖怪には届かなかった。
しかし、ユキが微笑んだことだけは見えたらしい。ナガバナの顔が、ますます険しくなる。
「何をニヤニヤしとるんや! ワイらを馬鹿にしとるんか!」
「そんなつもりはないわ」
「ほな、ちょっとくらい攻撃を受けてみぃ!」
「どうして?」
ユキは純粋に不思議そうな顔をした。
「私、あなたたちと戦いたくないって言っているでしょう?」
その返事に、ナガバナは言葉を詰まらせ次の瞬間、顔を真っ赤にして怒鳴り始める。
「うるさいわ! もうええ! みんなまとめてかかるんや!」
四体が一斉に動いた。
ダラケ刀が気だるそうな動作で刃を振り、みちび鬼が左右へ跳ね回りながらユキの進路を塞ぐ。ふじのやまは重い身体で正面から迫り、ナガバナはその後ろから長い鼻を振り回した。
ダラケ刀の刃からは、相手のやる気を奪うような、どんよりとした妖気が漏れていた。
妖気に触れた瞬間、身体が少し重くなるのを感じた。何だか、急に何もしたくなくなる。もう避けるのも面倒だし、ここで座り込んでしまえば楽になれるのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
しかし──
『ユキ、今度また一緒に遊ぼうよ!』
ケータの声を思い出した瞬間、ユキはその考えを振り払っていた。
今日の練習が終わったら、また彼に会いに行くつもりだった。せっかく上手にできるようになったところを、見てもらいたい。こんなところで、いつまでも相手をしている場合ではない。
ユキは外套の裾を翻し、ダラケ刀の刃を避け、ふじのやまの腕の下をくぐり抜け、みちび鬼の手招きとは反対方向へ移動する。
「……あれ?」
みちび鬼が首を傾げた。
「ねえねえ、ちょっと待ってよぉ! そっちじゃないってばぁ!」
彼が慌てて追いかけようとしたところで、ナガバナの鼻が横から飛んできた。
「うわぁっ!?」
みちび鬼が飛び退く。
鼻は彼の目の前を通り過ぎ、そのまま地面へ叩きつけられた。
「何やっとるんや、みちび鬼!」
「そっちこそ何やってんのぉ! オレに当たるところだったじゃん!」
「うるさいわ! ちゃんと避けんかい!」
「……だるかねぇ。仲間同士で喧嘩しとる場合やなかろうもん……」
ダラケ刀が、呆れたように刃を下げた。
その一方で、ユキは少し離れたところへ移動し、四体の様子を眺めていた。
別に無理に反撃しなくても、避け続けることはできる。しかも、相手のほうが先に疲れてきている。
「……ふぅ」
ユキは小さく息を吐いた。
長時間、一定の冷気を出し続ける練習をしていたおかげか、以前よりも疲れにくくなっていることにも気づいた。
もちろん、永遠に動き続けられるわけではないがそれでも、今の四体を相手にする程度なら、まだ十分に余裕があった。
しばらくすると、ナガバナたちの動きは目に見えて鈍くなっていった。
「はぁ……はぁ……! 何や、こいつ……!」
ナガバナは長い鼻をだらりと垂らし、肩で息をしていた。
ふじのやまも膝へ手をつき、荒い呼吸を繰り返している。
「ど、どすこい……! おいどん……まだ、負けてはおらぬでごわす……!」
「ねえ、もうやめようよぉ……。オレ、疲れちゃったぁ……」
「……最初からやめとけばよかろうもん。ほんに、だるかぁ……」
ダラケ刀に至っては、もう地面に腰を下ろしていた。
「もういいかしら」
ユキは静かに尋ねた。
「私、今日は帰りたいの。あなたたちも疲れたでしょう? これ以上続けても、いいことなんてないと思うわ」
返事はなかった。
ナガバナは悔しそうに歯を食いしばり、ふじのやまは肩で息をしながら睨みつけている。みちび鬼は地面へ座り込み、ダラケ刀は既に帰りたそうな顔をしていた。
ユキは、それ以上何も言わなかった。
もう相手をする必要はない。今日の練習は十分にできたし、そろそろケータと約束した時間も近づいている。彼女は四体に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
そのときだった。
「……けっ。何やねん、あいつ」
背後から、ナガバナの声が聞こえた。
「ちょっと強なったからって、えらい調子乗りよって。どうせ最近一緒におるっちゅう、人間のガキにでも褒めてもろうたんやろ」
ユキの足が、わずかに止まった。
ナガバナは、それに気づいていなかった。……いや、気づいていたとしても、止めるつもりなどなかったのだろう。
「聞いてまっせ。なんやようわからん人間のガキと、最近よう一緒におるらしいやないか。いやぁ、情けない話やで。妖怪のくせに、人間なんぞに尻尾振って喜んどるんやからなぁ。どうせそのガキも、珍しい妖怪を見つけたから面白がっとるだけやろ。少ししたら飽きて、ほかの妖怪のところへ行ってしまうに決まっとるわ」
ナガバナは、鼻で笑った。
「ま、そもそもそんな人間に懐いとる時点で、たいした頭のないガキなんやろうけどな。お人好しっちゅうんか、アホっちゅうんか。こんな面倒くさい妖怪を相手にしとるんやから、よっぽど物好きなんやろなぁ!」
「は?」
ナガバナが顔を上げたとき、ユキは既に振り返っていた。
眉をわずかに寄せ、青緑色の瞳を細めている。怒鳴っているわけでも、歯を食いしばっているわけでもない、ひどく冷めた顔をしていた。
「……今、何て言ったの?」
感情が見えない声色にナガバナは一瞬だけ戸惑ったものの、すぐに鼻で笑った。
「何や、聞こえへんかったんか? せやからな、あんたが最近一緒におるっちゅう人間のガキが──」
その先は、言葉にならない。ごうっ、と低い音が響き、ユキの足元から白い霜が一気に広がった。
最初は地面を薄く覆う程度だった冷気が、次の瞬間には激しい吹雪となって周囲へ噴き出し、雑木林の空気をまとめて凍りつかせる。草木が白く染まり、落ち葉の下にあった湿った土まで固く凍り、木々の枝には一瞬で分厚い氷が張りついた。
「……なっ!?」
ナガバナが驚いて後ずさる。
しかし、その足元にも既に氷が広がっていた。
「ちょ、ちょっと待ちぃ! 何やこれ!」
彼が足を引き抜こうとした瞬間、氷はさらに厚くなった。
長い鼻を振り回して逃げようとするものの、周囲の空気そのものが凍りつくほどの冷気に晒され、身体が思うように動かない。
「うわぁぁっ!? 寒い寒い寒い!」
みちび鬼が悲鳴を上げる。
逃げようとした彼の足元にも白い氷が走り、地面から伸びた氷の塊が両脚を押さえ込むように固まった。
「ど、どすこいぃぃっ!?」
ふじのやまは踏ん張ろうとしたが、足元の土が凍りついたうえ、膝から下を氷に包まれてしまい、思うように身体を動かせなかった。
「……こ、こりゃ……まずかぁ……!」
ダラケ刀も、さすがにだるそうな顔をしている場合ではなくなったらしい。慌てて逃げようとしたものの、凍りついた地面に足を取られ、身体を大きく傾けたまま動けなくなってしまった。
冷気は、なおも広がり続けていた。ユキを中心に、周囲の雑木林が白く染まっていく。
木々の幹を氷が這い上がり、枝葉の先からは長い氷柱が垂れ下がる。地面には雪が降り積もり、苔むした岩も倒木も、すべてが厚い氷の下へ埋もれていった。
数分前まで真夏の森だった場所が、今や冬の山奥のような景色へ変貌している。
その変化はまだ止まらなかった。
ユキが一歩踏み出すと、その足元から、さらに冷気が広がった。
感情を表しているように、連鎖的に周囲から氷の割れる音が響く。ナガバナは、ようやく自分が何に巻き込まれているのか理解し始めていた。
これは、ただの冷気ではない。
以前、廃トンネルで見ていた、制御できずに漏れ出す妖術とはまったく違う。もっと強く、もっと深く、周囲のすべてをまとめて凍らせてしまうような、途方もない力だった。
「……な、何やねん……」
ナガバナの声が震えた。
「何やねん、これ……! こんなん、聞いてへんで……!」
ユキは答えなかった。
ただ、ゆっくりと歩いてくる。氷の上を、黄色がかった長靴が音もなく進んでいく。
その姿は、数週間前に廃トンネルで泣きそうな顔をしていた少女と、まるで別人のようだった。ナガバナは必死で身体を動かそうとしたが、氷が邪魔をして動けない。
長い鼻も途中まで凍りつき、自由に振り回すことができなくなっていた。
「ま、待て! ちょ、ちょっと落ち着きぃや! 話せば分かるやろ! そもそもな、ワイらかて別に、本気であんたをどうこうするつもりやったわけやのうて──」
ユキが、彼の前で足を止め、ゆっくりと、しゃがみ込んだ。
凍りついたナガバナと、目線の高さを合わせる。その顔には、もう笑みすら浮かんでいなかった。
「……ねえ」
ユキは静かに口を開いた。
「さっき、グレるりんたちの話をしていたわよね」
「……え?」
「私が一方的に襲ったって。町で何もしていない妖怪たちを攻撃したって、そう言ったでしょう?」
ナガバナの顔から、血の気が引く。
「……い、いや、それは……」
「誰から聞いたの?」
ユキは首を傾げた。
「誰が、そんなことを言っていたのかしら。さっきは、あちこちから聞いたって言っていたわよね。なら、誰か一人くらい名前を言えるでしょう?」
「……そ、それは……」
「言えないの?」
ユキの声は、少しも荒れていなかった。
むしろ、普段ケータと話すときと同じような、柔らかな響きさえ残っていた。しかし、その声を聞くたびに、ナガバナの身体を包む氷が少しずつ厚くなっていく。
「……ねえ。答えて?」
「ひっ……!」
ナガバナは必死に首を振った。
「ち、違うんや! ワイは別に、そんなつもりで言うたわけやのうて……!」
「じゃあ、嘘だったのね」
ユキは、彼の言い訳を最後まで聞かなかった。
「誰かから聞いたんじゃなくて、あなたが勝手に作った話だった。そういうことでいいのかしら」
「……っ」
ナガバナは、何も答えられなかった。
答えれば、自分が嘘をついたと認めることになる。けれど、黙っていれば、目の前の少女が何をするか分からない。
その恐怖に耐えきれず、彼はとうとう声を絞り出した。
「……そ、そうや……」
「聞こえない」
「う、嘘やった!! 誰からも聞いてへん! ワイが勝手に言うただけや!」
ユキは、しばらく彼を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……そう。やっぱりね」
ナガバナは、ようやく許してもらえるのではないかと思い安堵の息を吐こうとしたがユキは立ち上がらず、むしろ、少しだけ顔を近づけた。
「……じゃあ、もう一つ」
その声を聞いた瞬間、ナガバナの身体が強張った。
「さっき、ケータくんのことを悪く言ったでしょう?」
「……え?」
「人間のガキって。頭が悪いって。私なんかと仲良くしているのは、面白がっているだけだって」
ユキは、一つずつ確かめるように言葉を並べた。
「言ったわよね?」
ナガバナは、慌てて首を振った。
「い、いや! あれは、その……! 別に本気で言うたわけやないんや! ちょっとからかっただけで……!」
「からかった?」
「そ、そうや! 冗談や、冗談! そんな本気にせんでも──」
ぱきんっ! とナガバナの鼻の先に、白い氷が走った。
「ひっ!?」
ユキは、わずかに眉を寄せた。
「……冗談なら、何を言ってもいいの?」
静かな声だった。
「あなたたちは、いつもそう言うのね。ちょっとからかっただけだとか、悪気はなかったとか、そんなつもりじゃなかったとか。私が嫌がっても、寒いと文句を言われても、何度も謝っても、最後にはいつも同じことを言っていたでしょう?」
ユキは、ナガバナの顔をじっと見つめた。
「……私のことを何て言うかは、もうどうでもいいわ。好きにすればいい。あなたたちが私を嫌いでも、別に困らないもの」
そこで一度、言葉を切った。そして、今までとは少し違う声音で続けた。
「……でもね。ケータくんのことは、駄目」
ナガバナは、息を呑んだ。
「あなた、あの子のことを何も知らないでしょう? どんな人なのか、誰にでも優しいのか、困っている妖怪を見つけたらどうするのか。何も知らないくせに、どうしてそんなことが言えるの?」
ユキの目が、ゆっくりと細められる。唇が少し震え、言葉を紡ぐ度に身体が熱くなってくるようだった。
「ケータくんは、私を助けてくれたの。あなたたちみたいに、何も知らないまま嫌なことを言ったりしなかった。私が冷気をうまく扱えなくても、寒い思いをしても、ずっと一緒にいてくれたわ。私のために特訓まで手伝ってくれて……それなのに、あなたは……」
そこで、ユキの声がほんの少しだけ震えた。
今まで自分に向けられてきた悪口なら、我慢できた。冷たいと言われても、役立たずだと言われても、嫌われても、ただ悲しいだけだった。
けれど、ケータのことを悪く言われるのだけは、どうしても許せなかった。
自分にとって、何より大切な人で今までの暗い日々を終わらせてくれた、たった一人の男の子。
その彼を、何も知らない妖怪が笑っている。それが、どうしようもなく腹立たしかった。怒りという感情の発露をユキは今、初めて味わっている。
「謝って。私に嘘をついたこと。それから、ケータくんを馬鹿にしたこと。両方とも、ちゃんと謝って」
ナガバナは、何度も頷いた。
「わ、分かった! 悪かった! ほんまに悪かった! もう二度と言わへん! せやから、これを何とかしてくれへんか!?」
しかし、ユキは首を振った。
「……それじゃ駄目」
「な、何がや!?」
「私が何に怒っているのか、分かっていないでしょう?」
ナガバナは口を開いたが、言葉が出てこない。その沈黙を見て、ユキはさらに静かに続けた。
「あなたは、今までずっと、私が何を言っても聞かなかったわよね。寒いのは嫌だって言われたから、できるだけ離れて暮らした。迷惑をかけないようにしていたつもりだった。それでも、あなたたちは何度も追いかけてきて、私をからかって……」
ユキは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私が謝れば、それで終わりだった。私が泣いても、あなたたちは笑っていた。なのに、自分が怖い思いをしたら、今度はすぐに許してほしいの?」
ナガバナの顔が、恐怖に歪んだ。
ユキは、彼の鼻先へそっと指を伸ばした。触れたところから、薄い霜が広がる。
「……ねえ。どうして?」
「……っ、す、すまん……!」
ナガバナは、ついに声を震わせながら謝り始めた。
「嘘ついて悪かった! あんたが一方的に襲ったなんて、そんな話は聞いてへん! ワイが勝手に言うたんや! それから、その……ケータっちゅう人間のことも、何も知らんのに馬鹿にしてしもうた! ほんまに、ほんまにすまんかった!」
ユキは、しばらく黙っていたが、ようやく指を離した。
「……最初から、そう言ってくれればよかったのに」
その言葉を聞いて、ナガバナは力なく息を吐いた。
「……ああ、そうだ」
ユキは、何かを思い出したように口を開いた。
「一つだけ、お願いがあるの」
ナガバナは、恐る恐る顔を上げた。
「……ケータくんは、あなたみたいな妖怪でも、ともだちになろうとするんでしょうね」
ナガバナは、何を言われているのか分からず目を瞬かせた。
「……でも、そんなこと絶対にさせない」
「あなたたちみたいな妖怪を、ケータくんに近づけたくないの。あの子は優しいから、きっとあなたたちが困っていたら助けようとするでしょう。でも、私は嫌。あなたたちが、あの子の優しさを当たり前みたいに受け取るところなんて、見たくもないわ」
彼女は、凍りついた四体の妖怪を順番に見つめた。
「……だから」
そして、ナガバナへ視線を戻す。
「一生、廃トンネルから出てこないで」
その言葉が、凍りついた森に静かに響いた。
ナガバナの身体がその眼差しを浴びて震え出す。彼女の言っていることが、冗談ではないと分かったからだった。
もし逆らえば、次はどうなるのか──それを考えるだけで、喉が詰まりそうになった。
「……わ、分かった……」
ナガバナは、かすれた声で答えた。
「……もう、近づかへん……。その人間にも、あんたにも……」
「……ええ。そうしてくれると嬉しいわ」
ユキは、ようやく立ち上がった。
そして、そっと両手を下ろす。次の瞬間、四体の妖怪を包んでいた氷が、ぱきぱきと音を立てて割れ始めた。
足元の氷が砕け、凍りついていた鼻や手足が自由になる。
「うわぁぁっ!」
みちび鬼が転がるように逃げ出した。
「ど、どすこい……! おいどん、もう帰るでごわす……!」
ふじのやまも、何度も足を滑らせながら森の奥へ走っていく。
「……こりゃ、もう……だるいとか言っとる場合やなか……!」
ダラケ刀も、普段の気だるさが嘘のような速さで後を追った。
ナガバナは最後まで地面にへたり込んでいたが、ユキがもう一度こちらへ視線を向けると、飛び上がるように立ち上がった。
「ひっ……! わ、分かっとる! もう来ぇへん! 絶対に来ぇへんからな!」
長い鼻を抱えるようにして走り出し、何度も転びそうになりながら、三体の後を追っていった。
森には、静寂が戻っていた。
しかし、景色は以前とはまったく違っていた。
木々は白く凍りつき、地面には厚い雪が積もっている。枝葉の先からは長い氷柱が垂れ下がり、足元の岩も倒木も、すべてが氷に覆われていた。
真夏のおおもり山の一角に、冬の世界が生まれていた。
ユキは、その光景をしばらく見つめていた。
「……これ、私が……?」
自分の手を見下ろす。指先からは、まだ微かな冷気が漏れていた。
先ほどのような激しい妖気は、もう感じられない。あれほど広い範囲を、一瞬で凍らせてしまった。
しかも自分では、そこまで強い力を出したつもりがなかった。怒りに任せて妖術を放った瞬間、身体の奥から何かが溢れ出し、それがそのまま周囲へ広がっていった。
止めようと思えば、止められたのだろうか。
今の自分なら、もっと広い範囲を凍らせることもできるのだろうか。ユキは、ゆっくりと手を握りしめた。
今まで、冷気を抑えることばかり考えていた。
けれど、特訓を続けるうちに、いつの間にか自分の妖力そのものも強くなっていたらしい。正確には、以前から持っていた力を、少しずつ外へ引き出せるようになっていたのかもしれない。
そんなことを考えると、胸の奥に小さな喜びが生まれた。
これだけの力があれば、もし、また誰かがケータを困らせようとしたときに自分が、彼を守ることもできるかもしれない。ジバニャンやキュウビのように、誰かが困っているときに頼られる妖怪になれるかもしれない。
「……ケータくんに、見せたら……」
そこまで考えたところで、ユキは言葉を止めた。
目の前に広がる氷の大地と逃げていった彼らの怯えた顔。そして、つい先ほどまで自分が感じていた、あの激しい怒り。それらを思い出した瞬間、胸の奥にあった喜びが急に冷えていくような気がした。
「…………」
ユキは、ゆっくりと視線を落とし考える。
ナガバナの顔が浮かぶ。自分に嘘をつき、ケータを馬鹿にした妖怪。
あのとき、どうしてあんなにも怒ってしまったのだろう。もちろん、腹が立ったのは確かだった。ケータのことを何も知らないくせに、好き勝手なことを言われたのだから、怒るのは当然だと思う。
……自分は、本当に怒るだけで済ませるつもりだったのだろうか。
氷に包まれて動けなくなったナガバナ。
怯えた顔で謝り続けるそれに、自分の言うことを聞かなければ、もっと強く凍らせることもできる。
そんな考えが、確かに頭をよぎっていた。
あのとき、ほんの一瞬だけ
──もう二度と、あの長い鼻を動かせなくしてしまえばいい。
──もう二度と、あの口からケータの悪口が出てこないようにしてしまえばいい。
そんな、恐ろしいことまで考えてしまっていた。
「っ!」
ユキは、弾かれたように目を開けた。
胸が苦しくなる。そんなことを考えた自分が、信じられなかった。
もし、あのまま怒りに任せて妖術を使い続けていたら、ナガバナたちが謝らなかったら。自分は、どこまでやってしまっていたのだろう。
思い返せば、彼らを凍らせていた間、自分は恐ろしいほど落ち着いていた。相手が怯えていることも、動けなくなっていることも分かっていた。
それなのに、全く怖いとは思わなかった。むしろ、今度は自分の言葉を聞いてくれるのだと、少しだけ満足していた。そのことに気づいた瞬間、ユキは思わず両手で口元を覆った。
「……私……」
声が震えた。
「何を、考えていたの……?」
彼らは、確かにひどいことをした。
自分をいじめたし、嘘もついたし、ケータのことまで馬鹿にした。けれど、だからといって、あんなことをしてよかったのだろうか。
自分は、彼らが怖かったはずだった。
大勢で囲まれ、逃げ道を塞がれ、何度謝っても許してもらえなかったことが、何よりつらかったはずだった。それなのに、さっきの自分は、彼らにまったく同じことをしていた。
いや、それ以上のことをしていたかもしれない。
もし、ここに人間がいたら、何も知らない妖怪が通りかかっていたら。
幸い、周囲には誰もいなかったが、今まで何度も人間に迷惑をかけてはいけないと思って冷気を抑えてきたのに、たった一度の怒りで、こんなにも広い範囲を凍らせてしまった。
「駄目、だわ……」
ユキは氷を解いた後、一度目覚めてしまった暗い感情を押し込めるように足早にその場を去った。
こいつセルフでおはらいしてるよ…