夏休みも半ばに差しかかり、さくらニュータウンの昼下がりには、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。さんかく公園では、アブラゼミの鳴き声が木々の間から降り注ぎ、遊具の影が砂地へくっきりと伸びている。
午前中には小さな子供たちが水鉄砲を持って走り回っていたものの、日差しがいよいよ強くなった今はほとんどの子供が家へ戻ってしまったらしい。誰もいない滑り台が熱を帯び、ブランコが風に揺られて小さな音を立てていた。
その公園へ続く道を、一人の少女が歩いていた。
淡い水色の頭巾に、白い縁取りのある外套。深い青色の着物から覗く小さな手には、色鮮やかな包み紙にくるまれた駄菓子がいくつか握られている。ユキは道端の木陰を選びながらゆっくりと歩き、時折、手元の包み紙を確かめては満足そうに微笑んでいた。
今日は、ケータと特別な約束をしているわけではなかった。
数日前におおもり山で起きた出来事以来、ユキは自分の妖術を人前で使うことに、以前とは少し違う慎重さを持つようになっていた。
あのとき森の一角を覆い尽くした氷を思い出すたびに、胸の奥へ嫌な感覚が蘇ってくる。自分の中にあれほど強い力があったことも、それを誰かに向けてしまったことも、まだうまく整理できていない。少なくともケータの前では、あんなことを二度と起こしたくなかった。
最近では、冷気を出す前にその範囲を決め、気持ちが高ぶってもすぐに力を強めないよう、意識して呼吸を整えるようにしている。今日も手に持った駄菓子を凍らせずに歩けていることが、小さな自信になっていた。
公園へ向かっていたのは、特に用事がなかったからである。
もしケータがいれば、一緒にお菓子を食べよう。いなければ、また別の日に渡せばいい。
そう考えていたユキは、公園の入口が見えたところで、ふと足を止めた。
「あら?」
木陰に置かれたベンチに、見覚えのある少年が座っていた。
赤い星柄の服に、左腕の妖怪ウォッチ。見間違えるはずもない。
ユキの表情が、ぱっと明るくなる。
思いがけず会えたことが嬉しくて、彼女は思わず足を速めようとしたが、名前を呼ぼうと口を開いたところでケータの隣にもう一人、誰かが座っていることに気づいた。
茶色の髪をポニーテールにまとめた、同じくらいの年頃の女の子だった。
明るい色の夏服を着て、膝の上には小さなノートを広げている。ケータが何かを話すたびに顔を向け、ときどき楽しそうに笑っていた。
「……誰、かしら」
ユキは、思わず公園の入口にある大きな木の陰へ身を寄せた。
隠れる必要など、本当はなかった。
普通の人間には妖怪の姿が見えないし、ケータもこちらへ気づいていない。いつものように声をかければ、きっと喜んで迎えてくれるだろう。
けれど、そのときのユキは、どうしてか二人の前へ出ていく気になれなかった。
その女の子と楽しそうに話していたというだけなのに、彼がどんな顔をしているのか、もう少しだけ確かめてみたいと思ってしまったのだ。
「だからさ、これってどうやってまとめたらいいと思う?」
ベンチの上でノートを広げていたケータが、困ったように眉を下げた。その隣に座っていたのは、同じ小学校に通う女の子、木霊文花──フミちゃんだった。
二人は夏休みの自由研究について話しているところだった。
ケータは近所で見つけた昆虫を調べようと考えていたものの、捕まえたり観察したりするのは得意でも、それを分かりやすく文章にまとめるのは少々苦手だった。そこで、たまたま公園で顔を合わせたフミちゃんに相談していたのである。
「うーん……。写真があるなら、見つけた場所と日にちを一緒に書いたらどう? それだけでも、結構分かりやすくなると思うよ」
「なるほど! そうすればいいのか!」
ケータが嬉しそうに頷くと、フミちゃんは少し呆れたように笑った。
「ケータくんって、虫を見つけるのは上手なのに、そういうところは適当だよね」
「うっ……。だって、どうやって書けばいいか分かんなかったんだもん」
「もう。せっかくたくさん調べたんだから、ちゃんとまとめないともったいないよ?」
そう言いながら、フミちゃんはノートの端へ簡単な見本を書き込んだ。
ケータはその手元を覗き込みながら、感心したように目を丸くしている。
「すごいなぁ、フミちゃん。字もきれいだし、こういうの得意だよね」
「えっ? そ、そうかな?」
「うん! オレなんか、こんなにきれいにまとめられないよ」
何気ない褒め言葉だったが、フミちゃんは一瞬だけ手を止めると、少し照れくさそうに視線を落とした。
「……ありがと。ケータくんにそう言ってもらえるなら、ちょっと嬉しいかも」
「えっ?」
ケータが顔を上げた時、フミちゃんも彼のほうを見た。
二人の視線が合う。それだけのことなのに、ケータは急に落ち着かなくなったらしく、慌ててノートへ目を戻した。
「あ、いや、その……! 本当にすごいと思ったからさ!」
「ふふ。分かってるよ」
フミちゃんは、くすっと笑った。
その表情には、からかうような楽しさとほんの少しの照れくささが混じっていた。
ケータはますます困った顔になったが、嫌がっているわけではないらしい。むしろ、フミちゃんが笑っているのを見て、どこか嬉しそうに口元を緩めていた。
その様子を、木陰からユキが見つめていた。
最初は何を話しているのだろうと気になっただけだったが、会話を聞いているうちに、彼女の胸に少しずつ奇妙な感覚が広がり始めた。
いつもと同じようにケータが笑っている。彼は自分と話しているときもよく笑うし、ジバニャンやウィスパーと一緒にいるときも賑やかだ。相手によって態度を大きく変えるような少年ではない。
でも今のケータは、少し違う。
フミちゃんに顔を近づけられると、わずかに肩を強張らせるし、褒められると、普段よりもずっと照れくさそうにする。彼女が笑えば、つられるように笑うくせに、ときどき目が合うと慌てて視線を逸らしてしまう。
その仕草を、ユキは知らなかった。
「……ああ」
ユキは、小さく息を漏らした。
あの子は、ケータくんのことが好きなのかしら。と、そこまで考えてから、すぐに別の疑問が浮かんだ。
じゃあケータくんは、あの子のことをどう思っているのだろう。
「そういえば、ケータくん」
フミちゃんが、ノートを閉じながら話題を変えた。
「自由研究っていえば、そよ風ヒルズのひょうたん池博物館に、昆虫の標本もあるんだって。今度、一緒に見に行かない?」
「えっ、フミちゃんと?」
「うん。私も見てみたいし、ケータくんの宿題にも役立つかもしれないでしょ?」
フミちゃんは、ごく自然にそう言った。
彼女と二人で出かけるということが特別なことなのかどうか、自分でもよく分からない。いつも一緒にいるし、同じ学校に通っているのだから、今さら一緒に遊ぶことくらい珍しくもないはずだった。
けれど、改めて誘われると何だか少し緊張してしまう。
「……あ、うん! もちろん! 行こう!」
ケータが少し慌てた様子で答えると、フミちゃんは目を細めた。
「ふふ。そんなに慌てなくても大丈夫だよ?」
「べ、別に慌ててないって!」
「そう? じゃあ、今度いつがいいか決めようね」
フミちゃんは楽しそうに笑うと、ふと何かに気づいたようにケータのほうへ身を乗り出した。
「あっ、ちょっと待って。ケータくん、髪に葉っぱついてる」
「えっ? どこ?」
「動かないで。取ってあげるから」
フミちゃんが手を伸ばすと、ケータは反射的に身体を強張らせた。指先が髪へ触れ、ほんの小さな葉を摘み取る。
顔を近づけられたケータは、どうしていいか分からないように目を泳がせ、フミちゃんが手を離した後も、少しの間だけ落ち着かない様子で座っていた。
「はい、取れたよ」
「……あ、ありがと」
「どういたしまして」
フミちゃんはそう言って微笑んだ。
その頬も、ほんの少しだけ赤くなっていた。二人の間に流れる空気は、決して気まずいものではなかった。むしろどちらも少し照れくさそうにしながら、相手が傍にいることを楽しんでいるように見えた。
「…………」
そして、その光景を見ていたユキの中で、何かがゆっくりと軋み始めた。
彼女は、無意識に木の幹へ身を寄せた。手の中にあった駄菓子の包み紙が、くしゃりと音を立てる。
ケータが自分と一緒にいるとき、あんな顔をしたことはなかった。
彼はいつも優しかったし、よく笑ってくれたし、自分が頑張れば褒めてくれたし、失敗しても責めなかった。手を握ってくれたことだってある。
それなのに今、フミちゃんを見つめているケータの表情には、ユキがこれまで一度も見たことのないものがあった。
あの女の子は、人間である。ケータと同じ学校に通い、同じ教室で授業を受け、同じ宿題に悩み、同じ夏休みを過ごしている。
秋になればまた学校で会えるし、冬になれば一緒に寒がることもできる。春になれば学年が上がり、やがて小学校を卒業して、中学生になるのだろう。
その先も同じで、一緒に大人になれるのは勿論、これから先も、何年も、何十年も、同じ時間の中を歩いていける。
そして、もし二人がお互いを好きになったなら、友達ではない、もっと別の関係になることだってできるのだ。
……ケータとフミちゃんは、同じ人間なのだから。
ユキは、ゆっくりと自分の手を見下ろした。
冷たい指先。人間とは違う、妖怪の身体。
「友達」その言葉の向こう側には、何があるのだろう。
ケータが大人になったとき、自分はどうなっているのだろう。妖怪である自分は、ずっと今の姿のまま、彼のメダル達の中にいるのだろうか。
それとも、彼が大人になり、家庭を持ち、もっと大切な人ができたとき。自分は、昔仲良くしていた妖怪として、たまに思い出してもらえるだけの存在になってしまうのだろうか。
「…………」
そう考えた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
ケータが誰かを好きになること自体が悪いわけではないし、フミちゃんが悪いことをしているわけでもないということは、ユキにも分かっていたが、あの女の子が羨ましくて仕方がなかった。
同じ人間であるという、ただそれだけの理由で……彼女は、自分がどれだけ望んでも手に入れられないものを、最初から持っている。
それは寂しさとは違う、人間でも妖怪でも切っても切り離せない感情で、醜い嫉妬だった。自分には見せてくれない顔を、彼女が当たり前のように引き出していることが、どうしても許せなくて耐えがたかった。
「なんで」
木の陰で、ユキはそっと拳を握りしめると指先から冷気が流れ、小さな氷の塊が掌の中に生まれる。冷気そのものは、驚くほど静かで、周囲の草木が凍ることも、地面へ霜が広がることもない。すべての冷たさが、握りしめた小さな拳の中に集まっていた。
もし、あの女の子がいなかったら。
不意に浮かんだその考えに息を止める。自分でも驚くほど、自然に思いついてしまったから。
フミちゃんがいなければ、ケータは今、誰と話していただろう。
もしかしたら、自分と一緒にお菓子を食べていたかもしれない。妖術の話を聞いてくれたかもしれない。また新しい遊びに誘ってくれたかもしれない。
「なんであなたなの」
その想像が頭をよぎった瞬間、掌の中の氷へ、さらに力が加わった。
ぱきっ、と小さな音がした。
氷に、ひびが入るのを気づかないまま、さらに指を握り込んだ。
ぱきんっと、今度ははっきりとした音が響いて氷の塊が掌の中で砕け散った。細かな破片が指の隙間から落ち、地面へ触れる前に溶けていく。
「あ」
ユキは、ようやく自分の手を見下ろした。
氷は跡形もなく砕けており、あれほど強く握りしめていたのに、痛みはほとんど感じなかった。
自分は今、何を考えていたのだろう。
あの女の子がいなければいいと。そんなことを、考えてしまったのだろうか。
数日前、おおもり山で怒りに任せて妖術を使い、ナガバナたちを凍らせてしまったときのことが、突然頭をよぎった。
今度は、何も悪いことをしていない女の子に対して、似たような考えを抱いてしまった。
「駄目……」
ユキは小さく呟いた。
慌てて目を伏せ、深く息を吐くと冷気はすぐに落ち着いた。周囲の景色は何も変わっていない。誰も、ユキがそこにいることに気づいていない。そのことに少しだけ安堵したところで、彼女の背後から声がした。
「ユキかニャ? 何してるニャン?」
「……っ!?」
ユキは、飛び上がるほど驚いた。
慌てて振り返る。そこに立っていたのは、赤い猫の妖怪だった。白い顔に丸い頬、腹には黄色い腹巻きを巻き、二本の尻尾の先には青い炎が揺れている。
「ジ、ジバニャン……!」
「ニャ? そんなに驚くことないニャン。さっきから何か見てたみたいだから、声かけただけニャン」
ジバニャンは不思議そうに首を傾げた。
ユキは、慌てて掌に残っていた小さな氷の欠片を払って、いつものように微笑む。
「うふふ。こんにちは、ジバニャン。ちょっとね、ケータくんを見つけたから……」
「ケータ?」
ジバニャンが木の陰から顔を出す。
そして、公園のベンチに座る二人の姿を見つけた。
「あー、フミちゃんと一緒にいるニャン」
彼は、すぐに納得したように頷いた。
「なるほどニャ。あいつ、フミちゃんと話してるときは、いつもあんな感じだからニャン」
「……いつも?」
「そうニャン。何か知らないけど、ちょっとカッコつけたり、急に変なこと言ったりするニャン。見てると面白いニャン」
ジバニャンは、悪戯っぽく笑った。
ユキもつられるように口元を緩めたが、その胸の奥では、先ほどまでとはまた違う痛みが広がっていた。
いつもだと、自分だけが知らなかった。
ケータには、昔からの友達がいる。自分の知らない時間を、当たり前のように共有してきた相手がいる。
ジバニャンも、フミちゃんも……自分よりずっと前から、彼のことを知っている。
「……仲がいいのね、二人とも」
「そうだニャン。仲良しのグループでも一緒にいるし、学校でもよく話してるみたいニャン」
彼女は、もう一度だけ公園へ視線を向けた。ケータがフミちゃんに何かを見せている。
二人は顔を寄せ合い、楽しそうに笑っていた。その光景を見ていると、またあの嫌な考えが浮かんできそうになるのを感じ、そっと目を逸らした。
「……ねえ、ジバニャン」
「ニャ?」
「よかったら、少しお散歩しない?」
ジバニャンは、ぱちぱちと瞬きをした。
「散歩かニャ?」
「ええ。私、まだ町のことをあまり知らないの。もしよかったら、いろいろ教えてほしいなって」
ユキは、少し照れくさそうに笑った。
決して嘘ではない。ケータと出会ってから町のいろいろな場所へ行くようにはなったものの、まだ知らないところのほうが多い。ジバニャンなら、きっと自分が知らない場所も知っているだろう。
それに今は、あの公園から離れたかった。これ以上、ケータとフミちゃんが一緒にいるところを見ていたら、自分がどんなことを考えてしまうか分からない。
「いいニャン! ちょうどオレっちも暇だったし、いろいろ案内してやるニャン!」
ジバニャンは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、まずはオレっちのお気に入りの場所から行くニャン!」
そう言って、勢いよく走り出したジバニャンを横目に、ユキはもう一度だけ公園を振り返った。ケータはまだフミちゃんと話していて、こちらには全く気づいていない。
「……っ」
ユキは、ほんの少しだけ唇を噛んだ後、ジバニャンを追って歩き出した。
次回、日常回!