ジバニャンが最初に案内してくれたのは、さくらニュータウンの住宅街にある、細い路地だった。
大通りから少し外れたところにあるその道は、人間が二人並んで歩くには少々狭く、両側には民家の塀や植え込みが続いている。ところどころに小さな抜け道があり、猫なら簡単に通り抜けられそうな隙間もあった。
「ここはネコの通り道っていうニャン。人間はあんまり来ないけど、猫とか妖怪にとっては結構便利な場所なんだニャン」
「……へぇ。こんなところがあったのね」
ユキは興味深そうに周囲を見回した。
路地の奥には古い木箱が積まれ、塀の上では一匹の野良猫が気持ちよさそうに眠っている。人間の生活圏のすぐ隣にありながら、ここだけは別の世界のように静かだった。
ジバニャンは慣れた様子で路地を進み、ときどき塀の上へ飛び乗っては、ユキへ手を振っていた。
「こっちに来ると、いい日陰があるニャン。夏は涼しいし、誰にも邪魔されずに昼寝できるんだニャン」
「うふふ。ジバニャン、昼寝が好きなのね」
「もちろんニャン! 猫にとって昼寝は大事な仕事なんだニャン!」
得意げに胸を張るジバニャンを見て、ユキは思わず笑った。
彼は、ケータと一緒にいるときとほとんど変わらない調子で、気取らず思ったことをそのまま口にする。けれど、こちらが困っているときにはちゃんと手を貸してくれるし、無理に何かを聞き出そうともしない。
ユキはそんなジバニャンと話しているうちに、少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。
「ねえ、ジバニャン。あなたは、ずっとこの町にいるの?」
何気なく尋ねると、ジバニャンは一瞬だけ歩みを緩めて、少し考えるように空を見上げる。
「まあ、結構長いこといるニャン。でも、最初から妖怪だったわけじゃないニャン」
「……え?」
「オレっち、昔は普通の猫だったんだニャン」
ジバニャンは、驚いて目を丸くするユキの反応を見て少し照れくさそうに笑いながら言った。
「エミちゃんっていう女の子に飼われてたんだニャン。あの頃は、毎日ご飯もらって、遊んでもらって……。まあ、いろいろあったけど、楽しかったニャン」
彼は、いつものように軽い調子で話していたがその声には、普段よりも少しだけ落ち着いた響きが混じっていた。
「……でも、ある日、車にはねられちゃったんだニャン」
ユキは、予想外の言葉に思わず足を止めた。
「車に?」
「そうニャン。それで、妖怪になったんだニャン」
ジバニャンは、何でもないことのように答えた。けれど、その言葉を聞いたユキは、すぐには返事ができなかった。
「……つらく、なかったの?」
ユキがおそるおそる尋ねると、ジバニャンは少しだけ首を傾げた。
「そりゃ、いろいろあったニャン。でも、今はケータもいるし、ほかにも友達がいるニャン。だから、昔のことばっかり考えてても仕方ないニャン」
そう言って、ジバニャンはいつものように笑う。
「それに、オレっち、まだまだ強くなりたいニャン! もっと強くなって、今度こそ車にも負けない妖怪になるニャン!」
空に向かって前足をブンブン振りかぶるジバニャンの顔を、ユキはしばらく見つめていた。
ジバニャンにも、つらい過去があるのだ。自分と同じように、誰かに傷つけられたり、大切なものを失ったりしたことがあるのだ。
けれど、彼は今、楽しそうに笑っている。過去を忘れたわけではないが、それだけに囚われず、今の友達との時間を大切にしている。
その姿を見ていると、ユキは少しだけ羨ましくなった。
「ジバニャンって、強いのね」
「ニャ?」
「……ううん。妖術とか、そういう意味じゃなくて……」
ユキは、うまく言葉を続けられなかったが、ジバニャンは何となく察したらしく、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「そりゃ、オレっちは強いニャン!」
その返事に、ユキは小さく笑って、もう少しだけ彼のことを知ってみたいと思った。
路地を進んでいると、突然、頭上から声がした。
「ジバニャン! そんなところで何してるニャン!」
ユキが顔を上げると、塀の上に一匹の猫妖怪が座っていた。
緑色の身体に、全身から突き出した鋭い棘。赤い腹巻きを巻いたその姿は、どこかジバニャンに似ているものの、目つきは少し険しく、口元には生意気そうな笑みが浮かんでいた。
「ニャッ! トゲニャン!」
ジバニャンが嬉しそうに声を上げる。
塀の上の猫妖怪は、軽やかに飛び降りると、ユキの姿を見て眉を上げた。
「ん? 何だ、お前。見ない顔だニャン」
「あ、初めまして」
ユキは少し戸惑いながら頭を下げた。
「……ユキっていうの。よろしくね」
「ユキ? へぇ。ジバニャン、お前、いつの間にこんな子と知り合ったニャン?」
「ケータの新しい友達だニャン! 今日はオレっちが町を案内してるんだニャン!」
ジバニャンが説明すると、トゲニャンは少し興味深そうにユキを眺めた。
「ふーん。ケータの友達ニャ。まあ、悪い奴じゃなさそうだニャン」
ユキはトゲニャンの試すような目つきに少し緊張した。
彼の頭には、鋭い棘が生えている。うっかり触れれば痛そうだったし、何より、少し気難しそうな性格に見えた。けれど、ジバニャンはそんなことを気にする様子もなく、彼に近付き肩を叩こうとして軽く顔の前で前足を払った瞬間、トゲニャンの顔が歪んだ。
「ふぁ、ふぁ──ふぇっくしょーい!!」
「えっ!?」
「ニャー!?」
そよ風が鼻に当たったと同時に、頭の棘達がジバニャンに向かって発射される。ジバニャンは辛うじて避けたが、それらは後ろにいたユキに到達せんと線を描く。
「──それっ!」
しかし、今のユキにとってそれは十分に対処出来る問題である。瞬間的に氷を圧縮し、等身大の氷山を前に作り出す。棘達は氷壁を貫き切れず、鈍い音を立てて突き刺さっていった。
「あ、危なかった……」
ユキが妖術を解き、ジバニャン達の様子を見ると二人は目を丸くして固まっていた。やがてハッと正気を取り戻すと、ジバニャンは飛び上がって言った。
「凄いニャン! ユキ、もうそんなことまでできるようになったのかニャン!」
「オレっちのトゲを受け止めるなんて……今まではジバニャン以外全員避けきれずに刺さりまくってたのにニャン」
トゲニャンもしっぽの先の尖った焔をゆらゆらと揺らめかせながら驚いている様子だった。
「え、ええ……ケータくんとジバニャン達の特訓のおかげなの。あの後一人でも特訓してて……」
「そうかニャン! 役に立って良かったニャ! あと、トゲニャンはずっと風邪気味なんだニャン。だから、ちょっとの刺激とかでああしてくしゃみしちゃうと頭のトゲが飛んじゃうから気を付けてニャン」
「賑わってるところでくしゃみしちゃうと危ないから、こうやって人気のないところにいることが多いニャン」
昔のユキと同じような境遇に目を瞬かせるが、これはどうやっても治せない類のものらしい。しかし、トゲニャンは元々こういった場所が一番性に合っているようでこのままでも構わないようだった。
「ジバニャン、人に言う前にお前がもっと気を付けろニャン」
「あんなのでくしゃみしちゃうなんて思わなかったニャン!」
「……うふふ、二人とも、仲がいいのね」
「にゃあ」
二人の掛け合いは遠慮がないものだったが、どちらにも明確な棘は無く、寧ろ古い友人との会話を楽しんでいるようで微笑むユキだったが、突然塀の上にいた一匹の野良猫が、小さく鳴いた。
どうやら、身体に細い紐のようなものが絡まってしまったらしい。猫は何とか外そうとしていたが、動けば動くほど紐が引っ張られ、困ったように身をよじっている。
「あれ? あいつ、何やってるニャン?」
ジバニャンが気づいて顔を上げる。
トゲニャンも塀の上へ跳び乗ったが、自分の棘で余計に傷つけてしまうことを心配したのか、すぐには近づかなかった。
「……こんなところで引っかかるなんて、どんくさい猫だニャン」
そう言いながらも、トゲニャンは周囲を見回し、何か使えそうなものがないか探している。ユキは、少し考えてから口を開いた。
「……あの、私がやってみてもいい?」
「お前が?」
「ええ。紐の端だけ、少し凍らせて固くできれば、引っ張りやすくなると思うの」
ジバニャンが目を輝かせた。
「おおっ! それならいけそうニャン!」
ユキは塀の近くまで歩み寄ると、野良猫を驚かせないよう、ゆっくりと手を伸ばした。
冷気を出すが猫の身体には触れないようにしながら、紐の端だけをほんの少し凍らせる。それから固くなった部分をそっと持ち上げると、絡まっていた紐は思っていたより簡単に外れた。
「……はい。これで大丈夫よ」
野良猫は、少し驚いたようにユキを見上げた後、短く鳴いてから塀の向こうへ走り去っていった。その様子を見て、ジバニャンは嬉しそうに笑った。
「やるニャン、ユキ! やっぱり特訓の成果が出てるニャン!」
「……うふふ。ありがとう」
ユキが照れくさそうに笑うと、トゲニャンも少し感心したように目を細めた。
「さっきのと言い、お前、なかなかやるニャン!」
そして、少しだけ口元を緩める。
「友達になるニャン!」
突然の申し出に、ユキは目を丸くした。
「……え?」
「何だニャン、その顔。嫌なのかニャン?」
「う、ううん! そんなことないわ!」
ユキは慌てて首を振った。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……ぜひ、仲良くしてほしいな」
トゲニャンは満足そうに頷いた。
「ふん。まあ、オレっちと友達になれるなんて、運がいいニャン!」
「ニャハハ! 相変わらず素直じゃないニャン!」
「うるさいニャン!」
二匹のやり取りを見て、ユキはまた笑った。ジバニャンと一緒に出かけなければ、こんな出会いもなかっただろう。
ケータの友達になってから、自分の世界が少しずつ広がっている。そのことが、素直に嬉しかった。
トゲニャンと別れた後、ジバニャンはユキをさくら中央シティへ案内した。
住宅街から大通りへ出ると、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
低い家々が並んでいた道には大きな建物が増え、道路を走る車の数も多くなる。高いビルの間には広い歩道が整備され、買い物袋を提げた人々や、仕事帰りらしい大人たちが行き交っていた。
「ここが、さくら中央シティだニャン!」
ジバニャンは、得意げに両前足を広げた。
「この辺にはいろんなお店があるし、食べ物もいっぱいあるニャン! オレっち、たまにこっちまで遊びに来るんだニャン」
「すごい。さくらニュータウンとは全然違うのね」
ユキは、目の前に広がる街並みを興味深そうに見つめた。
以前、町へ降りてきたときにも、こうした大きな建物を見かけたことはあった。しかし、その頃は人間に迷惑をかけない場所を探すことばかり考えていたため、景色を楽しむ余裕などなかった。
今は違う。ジバニャンが隣にいて、どこへ行けば何があるのか教えてくれる。それだけで、今まで何となく怖かった人間の町が少しずつ楽しい場所に変わっていくようだった。
「……ねえ、ジバニャン。あなた、こんなに広い町のことを、よく知っているのね」
「まあ、オレっちも結構あちこち行ってるからニャン。ケータに呼ばれて来ることもあるし、自分で遊びに来ることもあるニャン」
ジバニャンはそう答えると、少し先にある路地を指差した。
「あっ、そうだ! この辺にもう一匹、知り合いがいるニャン!」
ビルの裏手へ回ると、表通りの喧騒が少し遠のき、代わりに換気扇の音や、車のエンジン音が聞こえてきた。壁際には段ボール箱が積まれ、近くの駐車場には何台かの車が停まっている。
その奥から突然、威勢のいい声が響いた。
「おいコラァ! そこ、どけっつってんだろニャ!」
ユキは、思わず足を止めた。
声のした方向を見ると、一匹の猫妖怪が、何やら誰かに向かって怒鳴っていた。
紫色を基調とした身体に、立派なリーゼント。黒っぽい特攻服をまとい、鋭い目つきで周囲を睨みつけているその姿は、どこか不良のような雰囲気を漂わせていた。
ワルニャンだった。彼の目の前には、何匹かの小さな野良猫が集まっている。
どうやら、車が出入りする場所で遊んでいた猫たちを、危ないから離れるよう叱っているらしかった。
「ったく! 車が来るとこでゴロゴロしてんじゃねぇニャ! 轢かれたらどうすんニャ、オマエら!」
ワルニャンは荒っぽい口調で怒鳴りながらも、猫たちが安全な場所へ移動するまで、ずっとその場に立っていた。
ユキは、その様子を見て少し驚いた。外見だけなら、以前自分をいじめていたグレるりんたちを思い出してしまう。しかしワルニャンは、言葉は荒いものの誰かを困らせるために怒っているわけではない。
むしろ、小さな猫たちを守ろうとしている。そんな彼の姿を見ているうちに、ユキは少しずつ緊張を解いた。
「ワルニャーン!」
ジバニャンが声をかける。
ワルニャンは振り返ると、目を丸くした。
「おっ、ジバニャン! 何だ、久しぶりじゃねぇかニャ!」
「久しぶりニャン! 今日は友達を連れてきたニャン!」
ジバニャンがユキを紹介すると、ワルニャンは少し驚いたように眉を上げた。
「へぇ……。オマエが、ジバニャンの新しいダチか」
「初めまして。ユキっていうの」
ユキが頭を下げると、ワルニャンは一瞬だけ黙ってにやりと笑った。
「へっ、礼儀正しいじゃねぇか。気に入ったニャ!」
そして、勢いよく拳を突き出してくる。
「オレはワルニャン! この辺じゃ、ちょっと名の知れたツッパリだニャ! 夜露死苦!」
ユキは、どう反応すればいいのか分からず、少し戸惑った。
すると、ジバニャンが横から笑いながら説明してくれた。
「ワルニャンは見た目は怖いけど、結構いいやつなんだニャン! 困ってる猫とか見つけると、放っておけないんだニャン!」
「おいおい、余計なこと言うなニャ!」
ワルニャンは少し照れくさそうに顔を逸らした。
「別に、あいつらのことなんか心配してねぇニャ! ただ、車の前でフラフラされると、見てるこっちが落ち着かねぇだけだニャ!」
その言葉を聞いて、ユキは小さく笑った。
「……うふふ。優しいのね」
「……は?」
ワルニャンがきょとんとした顔になると、ユキは少しだけ首を傾げた。
「さっきの猫たち、危ないところにいたんでしょう? あなたが怒ってくれなかったら、車に轢かれていたかもしれないもの」
「……ちっ」
ワルニャンは、照れ隠しのように舌打ちして後頭部をかく。
「……何だよ。そんなふうに言われると、調子狂うニャ」
その顔は少しだけ嬉しそうだった。
……怖そうな外見でも、優しい妖怪はいる。以前の自分なら、きっとそれを確かめる前に逃げ出していただろう。
今は少し違って見える。ケータが自分にしてくれたように、まず相手の話を聞いてみようと思えるようになっていた。
「ねえ、ワルニャン」
「何だニャ?」
「……もしよかったら、私とも仲良くしてくれる?」
ユキがそう尋ねると、ワルニャンは一瞬だけ目を丸くした。
それから、勢いよく笑い出した。
「はっはっは! 何だ、そんなことかニャ!」
彼は、得意げに胸を張った。
「いいぜ! オレとオマエは今日からマブダチニャ! 夜露死苦!」
そう言って、もう一度拳を突き出してくる。
ユキは少し迷ってから、小さな拳をそっと合わせた。
「……うふふ。よろしくね」
「新しい友達が増えて良かったニャン!」
さくら中央シティを後にした二人は、しおかぜトンネルを抜け、そよ風ヒルズへ向かった。この辺りまで来ると、街の雰囲気はまた大きく変わっていた。
道幅は広く、街路樹はきれいに整えられ、住宅街には大きな家々が並んでいる。建物の間からは緑の多い公園が見え、遠くにはひょうたん池博物館の姿もあった。
「わぁ……」
ユキは、思わず感嘆の声を漏らした。
「すごく、きれいなところね」
「そうニャン! ここはそよ風ヒルズっていうニャン。大きな家も多いし、池とか公園もあるから、散歩するには結構いいところなんだニャン!」
ジバニャンは、嬉しそうに辺りを見回した。
「特にひょうたん池の近くは、風が気持ちいいニャン。オレっち、たまにあそこで昼寝するんだニャン!」
そう言って、彼は池のある方向へ走り出す。その後を追ったユキの目の前に、大きな池が現れた。
水面には夏の陽射しが反射し、きらきらとした光が揺れている。周囲には木々が植えられ、ベンチや散歩道が整備されていた。池の向こうには博物館の建物が見え、家族連れや散歩中の人々が、思い思いに午後の時間を過ごしている。
ユキは、その景色をしばらく眺めていた。
静かな場所だった。人間がたくさんいるのに、不思議と落ち着く。…ふと、博物館の建物へ目が向いた。
それを見た途端、胸の奥に、あの光景が蘇ってくる。ケータのあの顔を思い出した瞬間、さっきまで穏やかだった気持ちがほんの少しだけ曇った。
ユキは、静かに視線を落とした。
今、この場所を見ている自分と、いつか、フミちゃんと一緒にここへ来るケータ。その二人の時間は、きっと自分の知らないところで過ぎていくのだろう。
「…………」
「あっ! そうだニャン! ここまで来たなら、もう一匹紹介したいやつがいるニャン!」
突然声を上げたジバニャンは、池の反対側へ視線を向けた。
「ロボニャンっていう、ちょっと変わったやつなんだニャン! 普段は工事現場にいるけどこういう晴れた日はこの辺で休憩してることが多いから、会えるかもしれないニャン!」
その言葉を聞いて、ユキは少し驚いた。
「……ロボニャン?」
「そうニャン! 見た目はオレっちに似てるんだけど、身体が全部機械でできてるんだニャン!」
ユキは、思わず目を丸くした。
「とにかく、会えば分かるニャン!」
ロボニャンを見つけたのは、ひょうたん池の近くにある、少し開けた場所だった。金属の身体を持つ猫型の妖怪が、木陰の下で何やら自分の腕を調整していた。
青みがかった金属の装甲に、丸い頭部。ジバニャンによく似た顔立ちをしているものの身体の各所には機械的な継ぎ目があり、腕や脚の動きもどこか硬い。尻尾の先には炎の代わりに機械的な装置が取りつけられており、近づくと小さな駆動音が聞こえてきた。
「ロボニャーン!」
ジバニャンが声をかける。
金属の猫妖怪は、ゆっくりと顔を上げた。
「ゴゴ……ジバニャン……。ヒサシブリ……」
機械的な声だ。言葉は区切られ、どこかぎこちない。ユキは、少し戸惑いながら頭を下げた。
「初めまして。ユキっていうの。よろしくね」
ロボニャンは、彼女の姿をじっと見つめた。
「ゴゴ……ユキ……ハナシ……ハ……」
その声を聞いたジバニャンは、何か思いついたように腹巻きを探り始めた。
「そうだニャン! 前に預かってた、あれがあったニャン!」
彼は腹巻きの中から、小さな金属製の部品を取り出した。それは、手のひらに収まるほどの大きさの、奇妙な形をした装置だった。
「それは?」とユキが尋ねると、ジバニャンは得意げに笑った。
「言語パーツだニャン! これをつけると、ロボニャンがもっと普通に喋れるようになるんだニャン!」
ジバニャンはロボニャンの背後へ回り込み、腹部にある小さな蓋を開けた。
そして、そこへ部品を差し込むとかちん、と小さな音がした。
「ゴゴ……システム……更新……。言語モジュール……接続完了……」
ロボニャンの目が、一瞬だけ明るく光った。
次の瞬間、彼はゆっくりと顔を上げ、先ほどとはまったく違う滑らかな声で話し始めた。
「ふむ。ようやく言語機能が正常に戻ったようだな」
「おおっ! やっぱりこっちのほうが話しやすいニャン!」
ジバニャンが嬉しそうに笑う。
ロボニャンは、得意げに胸を張った。
「私はロボニャン。未来の最新型ロボットだ。君がユキか。ジバニャンから話は聞いている」
「ええ。初めまして」
ユキが改めて頭を下げると、ロボニャンは少し得意げに両腕を広げた。
「どうだ、このボディ。美しいだろう? 強靭な装甲、高性能な駆動装置、そして最新型の演算機能。私ほどのロボットになれば、どんな状況にも対応できるのだ」
そう言いながら、ロボニャンは軽く地面を蹴ると次の瞬間、彼の身体がふわりと宙へ浮かび上がった。
「わっ!」
ユキが思わず声を上げる。
ロボニャンは、その反応を見て満足そうに頷いた。
「驚いたかね? 私ほどの最新型になると、宙に浮くこともできるのだ」
「……すごい。どうやって浮いているの?」
「ふっ、最新型の機密事項だよ」
ロボニャンは得意げに笑った。その横で、ジバニャンは少し呆れたように肩をすくめている。
「また始まったニャン。ロボニャンは、すぐ自分のすごいところを自慢するんだニャン」
「自慢ではない。事実を説明しているだけだ」
ロボニャンは即座に答えた。
「私は最新型なのだから、優れた機能を持っているのは当然のことだろう?」
「はいはい、分かったニャン」
ジバニャンが適当に相槌を打つ。
そのやり取りを見て、ユキは思わず笑った。ロボニャンは、ジバニャンと似ているようで、まったく違う妖怪だった。機械の身体を持っていることも、独特な話し方も、何かにつけて自分の性能を自慢するところも、見ていて飽きない。
不思議と嫌な感じはしなかった。彼は自分を大きく見せたいだけで、誰かを見下したいわけではないのだろう。
「ねえ、ロボニャン」
「何だね?」
「……あなたの身体って、冷たくならないの?」
ユキが尋ねると、ロボニャンは少し考えるように目を細めた。
「冷却機能は備えているが、外部からの低温にも十分対応できる設計になっている。通常の冷気であれば、問題なく活動できるはずだ」
「そうなのね」
ユキは、少し嬉しそうに頷いた。
「……じゃあ、私が近くにいても、大丈夫なのね」
ロボニャンは、きょとんとした顔になった。
「もちろんだ。なぜそんなことを気にする?」
「私、ゆきおんなだから。気をつけていても、時々冷気が漏れてしまうことがあるの」
ユキは、少し照れくさそうに説明した。ロボニャンは、その言葉を聞くと、得意げに胸を張った。
「なるほど。ならば心配はいらない。私の装甲は、多少の低温など問題にしない。むしろ、必要なら君の妖術の制御を補助することも可能だ」
「……本当?」
「もちろんだ。私ほどの最新型なら、その程度は容易いことだよ」
そう言ってロボニャンは自分の腕を軽く叩く。その仕草にユキは小さく笑った。
「……ありがとう。頼もしいのね」
そうしてしばらく話しているうちに、彼はユキのことをすっかり気に入ったらしかった。
「ふむ。君はなかなか面白い妖怪だな」
ロボニャンは、腕を組みながら言った。
「ジバニャンの友達なら、私にとっても歓迎すべき存在だ。何か困ったことがあれば、遠慮なく相談するといい。噂の特訓とやらも気になるしね」
「ありがとう、ロボニャン」
ユキは、嬉しそうに微笑んだ。
「私も、あなたと友達になれたら嬉しいわ」
「もちろんだ。君の申し出を受け入れよう」
ロボニャンは、得意げに頷き、少しだけ姿勢を正した。
「では、私はそろそろ行くとしよう。次の調整作業が待っているのでね」
「もう行くのかニャン?」
ジバニャンが尋ねると、ロボニャンは胸を張った。
「最新型のロボットには、常にやるべきことがあるのだよ」
そう言って、彼はゆっくりと宙へ浮かび上がった。
そして、別れ際に片腕を上げる。
「アイルビーバック!」
その声を残し、ロボニャンは軽い駆動音とともに空へ飛び去っていった。ユキは、しばらくその姿を見送っていた。
「すごいわね。あんなふうに飛べるなんて……」
「まあ、ロボニャンは何でもできるって言いたがるからニャン」
ジバニャンは、少し呆れたように笑った。
「でも、悪いやつじゃないニャン。困ったときは、ちゃんと助けてくれるニャン!」
今日だけで、三人も新しい友達ができた。
トゲニャン。
ワルニャン。
ロボニャン。
それぞれ性格も、話し方も、得意なことも違っていた。けれど、みんなジバニャンの友達であり、自分のことも受け入れてくれた。ケータと出会う前の自分には、想像もできなかった一日だった。
夕方が近づく頃、ユキとジバニャンはひょうたん池のほとりにあるベンチへ腰を下ろしていた。
昼間の強い日差しは少しずつ和らぎ、池の水面には夕陽の色が映り始めている。木々の間を通り抜ける風は、昼間よりもいくらか涼しく、散歩道を歩く人々の姿もまばらになっていた。
ジバニャンは、どこか満足そうに伸びをしている。
「いやー、今日は結構歩いたニャン!」
「ええ! でも、とっても楽しかったわ!」
最初にジバニャンと歩き始めたときは、公園で見た光景を忘れたくて仕方がなかった。しかしこうして町を歩き、知らなかった場所を見つけ、新しい友達と話しているうちに、少しずつ別のことを考えられるようになっていた。
「ジバニャン」
「ニャ?」
「……本当に、ありがとう。あなたが案内してくれなかったら、こんなにたくさんの友達ができるなんて、思わなかったわ」
ジバニャンは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ニャハハ! まあ、オレっちも楽しかったし、また一緒に遊べばいいニャン!」
その言葉に、ユキは嬉しそうに頷いた。
「……ええ。ぜひ、また誘ってね」
しばらく二人は池の水面を眺めながら、今日出会った妖怪たちのことを話して、ユキは何度も笑った。
今まで、自分はケータと一緒にいる時間だけが、何より大切なのだと思っていた。けれど今日のように、ほかの妖怪たちと過ごす時間も悪くない。
ふと視線を上げた先に、ひょうたん池博物館の建物が見えた。
「…………」
自分でも引き摺りすぎている事は理解している。しかし、それでもしこりは取れない。今日一日、ジバニャンに連れられて町を歩いたことで、ユキは別のことにも気づいていた。
この町には、たくさんの妖怪がいる。それぞれに暮らしている場所があり、好きなものがあり、大切にしている相手がいる。
もし、もっとたくさんの妖怪と仲良くなれたなら。もっと多くの場所へ行き、もっと多くのことを知ることができたなら。
ケータが普段どこで何をしているのか、誰と遊んでいるのか、何を楽しみにしているのか。今よりも、ずっとよく分かるようになるのかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
もちろん、今すぐ何かをしようと思ったわけではない。ただ、今日一日で自分の世界が広がったことが嬉しくて、もっといろいろなことを知りたいと思っただけだった。
けれど、その考えの奥には、ほんのわずかに別の願いが混じっていた。
……ケータのことを、もっと知りたい。自分が知らない時間まで、全部。
もし、それを知ることができたなら。今日のように、知らないところで誰かへ特別な笑顔を向けている姿を見て、胸を痛めずに済むのだろうか。
「……ユキ?」
ジバニャンの声に、ユキははっと顔を上げた。
「どうしたニャン? 何か考え事かニャ?」
ユキは、少しだけ迷ったが、すぐにいつものように微笑んだ。
「……ううん。今日は本当に楽しかったなって、思っていたの」
「ニャハハ! ユキ、今日はずっとそれニャン!」
ジバニャンは満足そうに頷いた。
「じゃあ、また今度、ケータも誘って一緒に遊ぶニャン!」
その言葉に、ユキの表情が明るくなった。
「……ええ!」
それは、心からの返事だった。
ケータと、ジバニャンと、今日できた友達たち。みんなで一緒に遊べたら、きっと楽しいだろう。
そのときは、今日見つけたお気に入りの場所を、ケータにも教えてあげたい。トゲニャンのことも、ワルニャンのことも、ロボニャンのことも、全部話してみたい。
そしていつか、あの表情を自分へ向けてもらいたい。その願いだけは、胸の奥で少しずつ、確かな形を持ち始めていた。
夕暮れのひょうたん池に、柔らかな風が吹く。ジバニャンは隣で楽しそうに次の散歩の話をしている。
ユキも、微笑みながらそれを聞いていた。
その笑顔の奥に、まだ誰にも知られていない小さな棘を抱えたまま。