夏の夜、さくらニュータウンの住宅街は、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
日中の暑さを吸い込んだ道路からは、夜になっても生ぬるい空気が立ち上り、民家の庭先では虫の鳴き声が絶え間なく続いている。ときおり遠くの道路を車が通り過ぎ、その音が聞こえなくなると町は再び穏やかな静寂に包まれた。
天野家の二階、ケータの部屋も、既に明かりが落とされていた。
ベッドではケータが薄いタオルケットを腹に掛け、気持ちよさそうに眠っている。枕元には読みかけの漫画が置かれ、勉強机には昆虫の自由研究に使うノートや鉛筆が広げられたままだった。昼間、フミちゃんに教えてもらったらしい見やすい表が、まだ書きかけの状態で残されている。
そんな机の上で、ウィスパーは一冊のノートを眺めていた。
「まったく、ケータくんったら……。あれほど片づけるよう申し上げたのに、結局そのまま寝てしまいましたか。せっかくフミちゃんに教えてもらったのですから、明日はきちんと続きを書いていただきたいものですねぇ」
小声で独り言をこぼしながら、散らばっていた鉛筆を筆箱へ戻す。
宿題そのものを代わりにやってしまうつもりはなかった。ケータが自分で調べ、自分で書くことに意味があるのだからそこまで手を出しては執事としての仕事を間違えてしまう。もっとも明日の朝になれば、本人がどこへ置いたのか分からなくなった消しゴムを一緒に探すことになるのだろうとは思っていた。
ウィスパーがノートを閉じたとき、窓の外からこつん、とガラスを叩くような音がした。振り向いて確かめると、窓の外には赤い猫妖怪が一匹、身を屈めるようにして浮かんでいた。
「……ジバニャン?」
ウィスパーが窓を開けると、ジバニャンは声を潜めたまま片前足を上げた。
「よっ、ウィスパー。ケータはもう寝たかニャ?」
「ええ、つい先ほど。どうしたのです、こんな時間に。チョコボーでも探しに来たのですか?」
「違うニャン。……いや、あったら食べたいけど、今日はそれじゃないニャン」
ウィスパーは呆れたように笑ったものの、すぐにジバニャンの様子が普段とは少し違うことに気づいた。
いつもなら窓が開くなり部屋へ飛び込んできて、ケータの寝顔を覗き込んだり、机の上に何か食べ物が残っていないか探したりする。しかし、今夜のジバニャンは窓枠に前足を掛けたまま部屋へ入ろうとしない。二本の尻尾の先に揺れる青い炎も、いつもより静かだった。
「……何かありましたか?」
問いかけると、ジバニャンはベッドのほうを一度だけ見た。
「ちょっと、ウィスパーに話しておきたいことがあるニャン。ケータが寝てるなら、起こさないほうがいいと思ったニャン」
ウィスパーはそれ以上尋ねず、机の上に置かれたノートを閉じ直した。
「分かりました。でしたらここで聞きましょう」
そう言って窓際へ移動すると、ジバニャンもようやく室内へ入ってきた。彼は窓辺の床へ腰を下ろし、少し考えるように耳を動かした。
「……ユキのことニャン」
ウィスパーの表情が、わずかに変わった。
「ユキさんが、どうかしましたか?」
「いや、何か悪いことされたわけじゃないニャン。今日だって、一緒に町を歩いて、すごく楽しそうだったニャン。オレっちの友達たちとも仲良くなったニャン」
「それは結構なことですね。ユキさんも以前より随分と明るくなりましたし、ケータくん以外にも友達が増えるのはよいことでしょう」
「……うん。オレっちもそう思うニャン」
「む?」
頷いたがその後すぐに続けることはせず、少しだけ言葉を探すように俯いたジバニャンを見てウィスパーは眉をひそめる。
ジバニャンは普段、思ったことをそのまま口にする妖怪である。何かが気に入らなければその場で文句を言うし、嬉しいことがあればすぐ顔に出る。そんな彼が、わざわざ夜になってから訪ねてきて、しかも話し方を迷っている。
それだけで、今夜の用件がただの世間話ではないことは十分に伝わってきた。
「……今日、さんかく公園でユキを見つけたんだニャン」
ジバニャンは、ようやく口を開いた。
「ケータがフミちゃんと話してたときニャン。オレっちは近くを通りかかって、ケータがいるのに気づいたんだけど、そしたら木の陰にユキもいたニャン」
「ほう、二人を見ていたのですか?」
「そうニャン。最初は、声をかけるタイミングを待ってるんだと思ったニャン。でも、何か変だったニャン。ケータたちのほうをじっと見たまま、全然動かなくて……」
ジバニャンは、片前足を持ち上げて握りつぶすような仕草をした。
「オレっちが声をかけるちょっと前、ユキが何かを握り潰したんだニャン……確か、氷ニャン。小さいやつだったけど、パキッて音がして、指の間から欠片が落ちてたニャン」
ウィスパーは腕を組んだ。
「……なるほど」
「それだけなら、別に気にしなかったニャン。ユキは氷の妖術が得意だし、特訓もしてたから、何か練習してたのかもしれないニャン。でも……」
そこでジバニャンは、少しだけ眉を寄せた。
「氷が割れた後の顔が、何だか変だったニャン」
「怒っていたのですか?」
「うーん……怒ってた、のかニャ。よく分かんないニャン。最初はケータのほうを、すごく怖い顔で見てたニャン。でも、氷を割った後は、今度は自分の手を見て、びっくりしたみたいになってたニャン」
「オレっちが声をかけたら、すぐいつものユキに戻ったニャン。普通に挨拶したし、町を案内してほしいって頼んできたニャン。隠れて見てたことも別にごまかさなかったニャン」
ジバニャンは、そこで小さく息を吐いた。
「だから、何が変なのかって聞かれると困るんだけど……。何となく、あのまま一人にしとくのは嫌だったニャン」
窓の外から、虫の鳴き声が聞こえてくる。ウィスパーはジバニャンの顔を見つめながら、話の中で重要そうな部分を頭の中で整理していた。
ユキがケータとフミちゃんを見ていたこと自体は問題ではない。友達が公園にいれば、誰と何を話しているのか気になることもあるだろう。
氷を握り潰したことについても、それだけでは判断できない。彼女は妖術の制御を練習している最中なのだから、力加減を確かめていた可能性もある。
ただ、その前後の表情の変化は気になった。
ケータとフミちゃんを見つめて氷を握り潰す。それを自分で見て驚いて、ジバニャンに声をかけられると、普段どおりに接する。少なくとも、その順番で何かが起きたことは確からしい。
「ジバニャン。一つ確認させてください」
「ニャ?」
「ユキさんが険しい表情をしていたのは、ケータくんとフミちゃんが話している間だったのですね。二人が喧嘩をしていたとか、どちらかが困っている様子だったとか、そういうことはありませんでしたか?」
「全然なかったニャン。むしろ、すごく仲良さそうだったニャン。ケータのやつ、フミちゃんと話すとすぐ照れるから、今日も分かりやすかったニャン」
「……ああ、なるほど」
静かに頷いたウィスパーの反応を見て、ジバニャンが顔を上げる。
「何か分かったのかニャ?」
「いえ、まだ何とも。ただ……以前から、少し気になっていたことがありましてね」
ウィスパーは、机の上から小さな手帳を取り出した。
普段はケータの予定や、調べておきたい妖怪の情報などを書き留めているものである。さすがにすべてを覚えておけるわけではないし、後から確かめる必要が生じたときには、記録しておいたほうが間違いも少ない。
数枚のページをめくり、ある日付のところで手を止めた。ジバニャンも手帳を覗き込む。
「ユキさんの妖術特訓が終わった日のこと、覚えていますか?」
「もちろんニャン。ユキ、最後はちゃんと冷気を抑えられるようになってたニャン。ケータと手を繋いでも、全然凍らせなかったニャン」
「そうです。その直後、ケータくんが『明日は家の用事で来られないかもしれない』と話したのですが……そのとき、ユキさんの足元に霜が降りたのです」
ジバニャンは耳を立てた。
「……そうだったのかニャ?」
「ええ。ほんの一瞬でした。すぐに冷気は収まりましたし、ユキさんも普段どおりに返事をしていましたから、あのときは特に深く考えませんでした」
ウィスパーは手帳を閉じると、天井に視線を向け唸った。
「ただ、今の話を聞くと、少し気になりますねぇ」
ジバニャンはしばらく黙ったのち、小さく首を傾げる。
「ケータが来られないって聞いて、寂しかったんじゃないかニャ?」
「ええ。その可能性は十分にあります。むしろ、今ある情報だけなら、それが一番自然でしょうね」
「じゃあ、やっぱり気にしすぎなのかニャ……」
「ただし、今日のことは別です」
ウィスパーは、そこで少しだけ声を落とした。
「ケータくんが来られなくて寂しいというのと、ケータくんが別のお友達と仲良くしているのを見て、強い感情を抱くというのでは、意味が違ってきますからね」
ジバニャンがはっとしたように顔を上げるとウィスパーは続けた。
「もちろん、これだけでユキさんがフミちゃんへ悪意を抱いていると決めつけることはできません。何を考えていたのかは、本人にしか分からないのです。ただ、もしケータくんが自分以外の誰かと過ごすことをつらく感じているのなら、少し心配ですね」
「やっぱり、そう思うニャン?」
「ええ。ユキさん自身のためにも、です」
その返事は、ジバニャンにとって少し意外だったらしくウィスパーの顔をじっと見つめた。
「ユキのため?」
「そうですよ。考えてもみてください。ケータくんには、学校の友達がいます。ご家族もいますし、わたくしたち妖怪の友達も大勢いる。ユキさんもその中の一人になったわけですが……もし、ケータくんがほかの誰かと仲良くするたびに苦しくなってしまうとしたら、ユキさんはこれから何度も嫌な思いをすることになるでしょう?」
ウィスパーは窓の外へ視線を向けた。静かな住宅街の向こうには、昼間二人が歩いた町が広がっている。
「ケータくんがユキさんを大切にしていないわけではありません。それでも、ずっと一緒にいられるわけではない。そこをうまく受け止められなくなっているとしたら、何か手助けが必要かもしれませんね」
ジバニャンは窓枠に前足を置き、小さく頷いた。
「オレっちも、ユキのこと嫌いじゃないニャン」
「もちろん、分かっていますよ」
「今日だって、いろんなやつと仲良くなってたニャン。トゲニャンがちょっと意地悪なこと言っても怒らなかったし、ワルニャンが小さい猫を助けてたのを見て、優しいって言ってたニャン。ロボニャンの自慢話にも、ちゃんと付き合ってたニャン」
話しているうちに、ジバニャンの声には少しずつ普段の調子が戻ってきた。
ユキと過ごした一日は、決して嫌なものではなかった。
彼女は何度も笑っていたし、新しい友達ができたことを本当に喜んでいた。無理をして誰かに合わせているようには見えなかったし、困っている猫を見つけたときには、自分から助けようともしていた。
「だから、ユキが悪いやつだなんて思いたくないニャン。でも……」
彼は、そこで少しだけ俯いた。
「ひょうたん池のところでも、ちょっと変だったニャン」
ウィスパーは脳内で何かを手繰り寄せるような休符を置いたあと、続きを促した。
「博物館が見えたときニャン。それまではずっと楽しそうだったのに、急に黙って、何か考え込んでたニャン。オレっちがロボニャンの話をしたら、すぐいつもどおりになったけど……」
ウィスパーは、何かに気付いたようにわずかに目を細め、「ひょうたん池博物館」と呟く。
「ニャ?」
「今日、フミちゃんがケータくんを誘っていたのは、確かそこだったはずです」
ジバニャンは、はっと顔を上げた。
「……そうだったニャン!」
「うーむ……単なるかわいい嫉妬なのかはたまた……」
ケータがフミちゃんと話していたとき、博物館へ行こうという話が出ていた。
ジバニャンはそのことを深く気にしていなかった。ケータとフミちゃんが一緒に出かけるのは、別に珍しいことではないし、むしろ二人が照れくさそうにしている様子を、少し面白がっていたくらいだった。
しかし、ユキは違ったのかもしれない。二つの事柄が繋がる。ジバニャンの脳内で何かに辿り着きそうになった時、ウィスパーが少しだけ考え込むように口を開いた。
「それにしても、ユキさんは以前と比べて随分と妖術の扱いが上手になりましたね」
「そうニャン。あれだけ練習したんだから、当然ニャン!」
「ええ。それ自体はよいことです。ただ、気持ちが大きく動いたときにも、周囲へ冷気を漏らさずにいられるようになったというのは、少し興味深い変化ですねぇ」
ジバニャンは、不思議そうに首を傾げた。
「……何か変なのかニャ?」
「変というより、注意しておきたいということです。以前のユキさんなら、驚いたり、困ったりすると、すぐ周囲に霜が降りていました。ところが今日は、手の中の氷を砕くほど力が入っていたのに、周りを凍らせていなかったのでしょう?」
ジバニャンは、公園で見た光景を思い返した。確かに、あのとき木の幹や足元の草が凍っていた覚えはない。ユキの指先から落ちた氷の欠片だけが、わずかに光っていた。
「……つまり?」
「以前なら表に出ていた冷気を、今は抑えられるようになっている。これは、特訓の成果です。ですが……」
ウィスパーは、そこで少しだけ声を落とした。
「冷気が漏れないからといって、気持ちまで落ち着いているとは限らない、ということですね」
ウィスパーは手帳へ視線を落とした。
出会った頃のユキなら感情の赴くままに冷気を放出していたが、それを抑える術を会得した今のユキはその機微が分かり辛い。今はまだ些細な芽吹きかもしれないが、それが肥大するのかしないのかを少しずつ確かめていく必要がある。
もちろん、四六時中ユキを追い回すつもりはなかった。そんなことをすれば、今度はこちらが彼女を不必要に怯えさせてしまうだろう。
それに、何よりウィスパーにはケータの傍にいるという仕事がある。
「…… ジバニャン。あなたは、いつもケータくんと一緒にいるわけではありませんよね」
「そうニャン。呼ばれたら行くけど、オレっちにだって自分の時間があるニャン。今日みたいに町を歩いてることもあるし、昼寝してることもあるニャン」
「ええ。それでよいのです。ケータくんの友達だからといって、ずっと付き添っていなければならないわけではありません」
ウィスパーは、静かに続けた。
「ですが、わたくしは違います。妖怪執事として、基本的にはケータくんと行動を共にしています。学校へ行くときも、遊びに出かけるときも、何か妖怪の問題が起きたときも……大抵は傍にいる」
言いながら、彼はベッドのほうへ視線を向けた。
ケータは、相変わらず無防備な寝顔を見せている。
ウィスパーが妖怪執事として仕えることになった少年で、自分のことを妖怪だと知っても怖がらず、仲良くしてくれたともだち。そして、これまで何度も危ない目に遭いながら、そのたびに誰かを助けようとしてきた英雄だった。
「ですから、普段の様子を見る役目は、わたくしが引き受けましょう。うぃす」
ウィスパーは、はっきりと言った。
「ケータくんがユキさんと会うときには、できるだけ一緒にいます。もちろん、邪魔をするつもりはありません。二人が楽しく遊んでいるなら、それで結構です。ただ、何か様子がおかしいと感じたときには、きちんと確かめます」
ジバニャンは、真剣な顔で聞いていた。
「……オレっちは、何をすればいいニャン?」
「あなたは今までどおり、ケータくんの友達でいてください。それから、ユキさんの友達でもいてほしいのです。もし彼女が困っている様子を見かけたら、話を聞いてあげてください。今日のように、一緒に遊ぶのもよいでしょう」
ウィスパーは、そこで少しだけ微笑んだ。
「そのうえで、本当に気になることがあったら、また教えていただければ助かります」
「ウィスパー……」
「いつもそんな感じなら良いのにニャン」
「いつもこんな感じでしょうが!!」