ゴブリンスレイヤー【魔戒騎士異界伝】 作:魔導輪バルバ
お楽しみいただけたら幸いです。
空が、裏返っていた。
鏡のように歪んだ空間には、砕けた石造りの建造物が浮かび、上下の区別さえ曖昧な世界が広がっている。壁だったものが足場となり、地面だったものが頭上へと移り変わる。遠くに見える景色は水面のように揺らぎ、時折、世界そのものが軋むような音を響かせていた。
ここは、現実とは異なる理を持つ異空間。
人間を捕らえ、閉じ込め、喰らうために生み出された、ホラーの巣窟だった。
その異様な世界を、一人の少年が駆けていた。
銀色の鎧が、歪んだ光を受けて鈍く輝く。
肩や腕、脚部を覆う装甲は、魔戒騎士が纏う基本の鎧――ハガネ。
その形状は、ほかのハガネの鎧と同じくありふれたものだった。
唯一他と異なる目の部分には紫色の光が灯り、首元に埋め込まれた紫色の宝玉が、鎧の内側から脈動するように輝いている。
少年は魔戒剣を握り締め、足場となった石壁を蹴った。
直後、頭上から巨大なホラーの爪が振り下ろされる。
「――っ!」
少年は身体を捻り、間一髪で攻撃をかわす。
ホラーの爪が石壁を砕く。飛び散った破片が頬を掠め、銀色の鎧に激突した。着地するより早く、少年は次の足場を探す。
だが、重力の向きが変わった。
足元が消えたかのような浮遊感。身体が宙へ放り出され、砕けた建造物が上下左右から迫ってくる。少年は咄嗟に壁を蹴り、体勢を立て直そうとした。しかし、次の瞬間には、その壁自体が床へと変わっていた。
「くそっ……!」
視界が回転する。
少年は魔戒剣を突き立て、迫り来る瓦礫を弾きながら、どうにか足場を確保した。
息が荒い。
鎧の内側では、疲労と痛みが蓄積していた。
ハガネの鎧を纏える時間には限りがある。
その活動限界が、刻一刻と迫っていた。
それでも、少年は立ち止まらなかった。
立ち止まれば、死ぬ。
そして、この異空間にいるのは自分だけではなかった。
――否。
もう、自分しか残っていなかった。
⸻
思い返せば、すべては番犬所から一体のホラーを討伐するための任務を受けた時から始まった。
ホラーの名は、ゾルデノス。
異空間を作り出し、人間をそこへ引き摺り込み喰らう。そして、奴が好む人間の味は、魔戒騎士の魂。
その外見は、まるで魔戒騎士の鎧を悪意に満ちた形で歪めたかのようだった。左右非対称の装甲。刃物のように突き出した外殻。歪んだ頭部と、魔戒騎士の覚悟を嘲笑うかのように裂けたような口。目の奥では、赤黒い光が不気味に揺らめいていた。
ゾルデノスは、自身の異空間へ獲物を引き摺り込みためには現実世界に姿を現す必要があったが、一度異空間に取り込まれれば、そこは奴にとって有利な領域となる。
空間そのものが歪み、重力の方向さえ定まらない。逃げ道を探すことも、敵の位置を把握することも困難な世界だった。
番犬所から討伐の命を受けた魔戒騎士たちは、称号を持つ騎士からハガネを纏う騎士まで、複数の戦力を集めて任務に臨んだ。魔戒法師たちも同行し、術による支援を行っていた。
しかし、彼らの想定は甘かった。
ゾルデノスの異空間では、普段なら熟練の騎士でさえ容易に行える連携が崩される。足場が変わり、攻撃の方向が狂い、仲間の声さえ歪んだ空間に呑み込まれていく。
一人、また一人と、騎士たちが倒れた。
称号を持つ騎士も、ハガネを纏った騎士も、決して弱かったわけではない。
ただ、敵の領域があまりにも異質だった。
魔戒法師たちもまた、術を駆使して生き延びようとしたが、崩壊する空間とゾルデノスの猛攻に抗いきれなかった。
気づけば、戦場に立つ騎士は自分しか残っていなかった。
⸻
少年は、再びゾルデノスの攻撃を避けた。
巨大な腕が横薙ぎに振るわれ、石柱を粉砕する。
少年はその衝撃に煽られながらも、身体を丸めて瓦礫の隙間へと滑り込んだ。
直後、重力が反転する。
身体が上方へ引かれた。
少年は空中で体勢を立て直し、壁へと向けて足を伸ばす。だが、着地した瞬間、その壁は床へと変わり、足元が崩れた。
再び宙へ投げ出される。
ゾルデノスは、その一瞬の隙を逃さなかった。
巨大な爪が迫る。
少年は魔戒剣を構え、攻撃を受け流そうとした。しかし、衝撃を完全には殺しきれず、身体ごと吹き飛ばされた。
背中が瓦礫に叩きつけられる。
鎧が軋んだ。
紫色の光を放つ目が、一瞬だけ明滅する。
「……まだ、だ」
少年は歯を食いしばり、立ち上がった。
ここで倒れるわけにはいかない。
仲間たちは、もういない。
自分が倒れれば、この任務は失敗に終わる。
それだけではない。
自身が倒された後、ゾルデノスは再び現実世界へ戻り、別の人々を異空間へと引きずり込み喰らうはず。
そんなことを魔戒騎士として断じてさせるわけにいかない。
ならば、ここで討つしかなかった。
少年は魔戒剣を握り直した。
⸻
ゾルデノスの攻撃をかわしながら、少年は周囲を見渡した。
崩れた石造りの建造物。その隙間に、見覚えのある柄が見えた。
一本の魔戒剣。
この異空間に引きずり込まれ、命を落とした仲間のものだった。
少年は一瞬、動きを止めた。
剣を握っていた騎士の姿が脳裏をよぎる。
任務に赴く前気さくに話しかけてくれたこと、共に闘う上で必要な連携の重要さを他の仲間たちに問いていたこと、そして、共に任務へ赴き、同じホラーを討つために戦った大切な仲間。
だが、もう、彼の声を聞くことはできない。
それでも、彼の魂と言うべき魔戒剣だけは残されていた。
少年は視線を戻し、ゾルデノスの動きを見極める。
奴と正面から接近するのは非常に危険だった。敵の攻撃をかわしながら、あの場所まで辿り着かなければならない。
そこで少年はハガネの鎧に備わった背中にある二つの突起へ意識を向けた。
次の瞬間、二本のワイヤーが射出された。
鋭い音を響かせて伸びたワイヤーは、離れた位置に浮かぶ石壁へと突き刺さる。
少年は固定を確認すると、ワイヤーの反動を利用して身体を引き絞った。
そして、一気に射出されたかのように空中へと飛び出した。
瓦礫の間をすり抜け、迫り来る爪をかわす。
獲物がいなくなったことで、ゾルデノスの爪は空を切り瓦礫を粉砕した。
異空間の重力の向きが変わる前に、少年は片方のワイヤーを再度射出した。別の壁に固定し、巻き取られる反動を利用して進路を変える。
少年の身体が空中で大きく旋回する。
そのまま崩れた足場を蹴り、少年は仲間の魔戒剣へと手を伸ばした。
指先が柄に触れ、掴み取る。
少年は仲間の魔戒剣を確保すると、再びワイヤーを使って軌道を変え、ゾルデノスの攻撃範囲から離脱した。
ゾルデノスを見据え、仲間の魔戒剣を強く握り締める。
これで、最後の手段ができた。
だが、勝算があるわけではなかった。
鎧の活動限界は近い。体力も限界に達しつつある。ゾルデノスの異空間は、今もなお自分に牙を向く。
この絶望的な状況で、どうやって奴の核へと攻撃を届かせるのか。
少年は呼吸を整え、ゾルデノスを見据えた。
「……必ず、お前を倒す」
⸻
「GYaaaaaaaaaaaaaaa!!!!」
ゾルデノスが咆哮を上げ、その異形の巨体が歪み、周囲の空間が激しく揺らぐ。
少年は攻撃を避けながら、敵の動きを観察する。その時、ゾルデノスの外殻が大きく開くことを見逃さなかった。
赤黒い光が、歪んだ装甲の奥で脈動している。
ゾルデノスの力の源となる核。
あそこを破壊できれば、ゾルデノスを倒すチャンスが生まれる。しかし、核へ接近するには、縦横無尽に降り注ぐ攻撃を突破しなければならない。今の自分の状態を考えれば、それを可能にできる確率は奇跡に近い。
だが、それでも少年は魔戒剣を構えた。
可能性を信じ、踏み込む。
そこへゾルデノスの巨大な腕が振り下ろされ、少年の進路を塞いだ。
身体を捻ってかわそうとするも、足場が崩れ、思うように動けない。
強大な衝撃が再び鎧を襲う。
少年は吹き飛ばされ、崩れた石柱に激突した。
「ぐっ……!」
視界が揺れる。
鎧の内側で、身体が悲鳴を上げ、口からは血が吐き出た。
もう、長くは持たない。
それでも、少年は自身と魔戒剣と仲間の魔戒剣を決して手放さなかった。
ここまで来て、諦めるわけにはいかない。
「…まだだ!!まだ俺たちは!!」
負けていない。そう心に言い聞かせて、少年は立ち上がろうとした。
そのときだった。
異空間の向こうから、淡い光が現れた。
一つではない。
二つ、三つ。
無数の光が、崩壊する世界を漂いながら、少年のもとへと集まってくる。
やがて無数の光は剣を持つ人の形へと変わった。
その光景に少年は息を呑んだ。
無数の光が人の形へと変わった中に、覚えが顔があった。
この異空間で命を落とした魔戒騎士たち。
ともに戦い、そして志半ばにして帰らぬ人となった仲間たちの魂だった。
彼らは何も語らない。
ただ、静かに少年を取り囲んでいた。
少年は、手にした二本の魔戒剣を見つめた。
自分の剣。
そして、仲間の剣。
それぞれに、守るために戦ってきた者の意志が宿っていた。
「……そうだな」
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
「まだ、俺たちは終わってない!!」
その言葉と共に魂の光が、少年の周囲を巡る。
その輝きは、傷を消すものではなかった。失われた体力を取り戻すものでもない。
ただ、最後の一歩を踏み出すために。
守りし者たちの意志が、少年を支えていた。
⸻
「GuGu、、GRaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!」
ゾルデノスが悪あがきを辞めない少年に苛立ちを抑える事ができず、喚き散らすかの様に荒い咆哮を上げる。自身のテリトリーである異空間が軋めく中、ゾルデノスは再び少年へと襲いかかった。
巨大な爪が振り下ろされる。
しかし、それは先ほどよりも単調な攻撃だった。
少年は身を沈め、紙一重でそれをかわした。
そして、仲間の魔戒剣を両手で握り直すと、怪物の懐へと踏み込んだ。
刃が、核へと突き刺さる。
深く、確実に。
ゾルデノスの動きが止まった。
赤黒い光が激しく明滅し、異形の外殻に亀裂が走る。
身を裂かれるかの様な痛みに耐えかねゾルデノスは絶叫した。
少年は、もう一本の魔戒剣を構え直した。
自分の剣。
魔戒騎士となってから、幾度となく握り、人々を守るために振るってきたかけがえの無い自身にとって半身と言うべき存在。
すべては最後の一撃を放つため。
その瞬間、周囲に漂っていた魂の光が、一斉に少年の鎧へと流れ込んだ。
銀色のハガネが、眩い光に包まれる。
紫色に輝いていた目と首元の宝玉が、光の中で一瞬、見えなくなった。
そして――
ほんの一瞬だけ。
その鎧は、黄金に輝いたかのように見えた。
銀色の鎧が黄金の鎧へと変化したわけではない。
形状は、いつものハガネのままだった。
ただ、無数の魂の光を受けたその瞬間、銀色の装甲が黄金の輝きを帯びていた。
少年は迷わなかった。
「――終わりだ!」
渾身の力を込め、剣を振り下ろす。
刃がゾルデノスの身体を斬り裂いた。
核を貫かれた怪物の巨体が、頭上から足元まで真っ二つに両断される。
次の瞬間、ゾルデノスの身体は光の中で崩壊を始めた。
異空間そのものが、激しく揺らいだ。
⸻
同時に、少年の鎧から光が失われていく。
限界を迎えたハガネが、役目を終えたかのように解け始めた。
黄金の輝きは消え、銀色の装甲が一つ、また一つと光の粒子となって消えていき、最後に淡い光を残して、ハガネは魔界へと返還された。
そこに残ったのは、魔法衣を纏った一人の少年だった。
少年は膝をつき、荒い呼吸を繰り返した。
戦いは終わった。
ゾルデノスは倒された。
それでも、仲間たちは帰ってこない。
少年は、遠ざかっていく魂の光、そして空間を漂う仲間の魔戒剣へ手を伸ばした。
「待ってくれ……!」
指先は、何にも触れなかった。
手を伸ばしても届かなかった。
淡い光が、崩壊する空間の向こうへと消えていく。
少年は手を伸ばしたまま、動けなかった。
彼らと再び会うことは、もうできない。
その事実を理解していても、手を下ろすことができなかった。
認めたくなかったから。
現実は無情にもそんな少年を待ってはくれなかった。
やがて、異空間そのものが崩壊を始める。
それは創り出したゾルデノスが討滅された事を意味しているに他ならない。
石造りの建造物、様々など景色を映し出していた鏡の様な物が砕け、歪んだ空が裂け、脈動していたかような不気味な壁に亀裂が走り、世界の境界が白い光に呑み込まれていく。
少年の身体もまた、その光の中へと沈んでいった。
⸻
目を開けると、青い空が広がっていた。
少年はしばらく、何も考えられなかった。
風が吹いている。
遠くから、鳥の鳴き声が聞こえる。
あの異空間のような歪みも、ゾルデノスの咆哮もない。
ゆっくりと身体を起こす。
周囲には、見知らぬ大地が広がっていた。
仲間たちの姿はない。
司令を受ける時に出会った番犬所からの使いの気配もない。
そして、見慣れた景色も、知っている建造物もなかった。
「……ここは、どこだ?」
答える者は誰もいない。
少年は、自分の手を見つめた。
ゾルデノスから受けた傷は残っている。身体も重く、痛みもある。
その痛みこそが自分は生きている証明だった。
そして、傍らには、自分の魔戒剣があった。
少年は剣を拾い上げ、静かに鞘へと収めた。
帰らなければならない。
自分がどこにいるのかも、どうやって帰るのかも分からない。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
少年は魔戒剣を魔法衣の裏地へと収納すると、見知らぬ大地を見渡した。
ここがどこであろうと、自分が何者であるかは変わらない。
帰るべき場所を胸に抱いたまま、少年は歩き始める。
そして――やがて知る事となる。
この世界にも、人を脅かす怪物がいることを、
人々が冒険者と呼ぶ者たちの存在を、
やがて心を通わせる仲間と出会うことを。
少年は、見知らぬ空の下で立ち上がった。
少年は、魔戒騎士であり、守りし者なのだから。
あとがき紹介。
主人公
魔戒騎士。
歳は18歳。
よくある魔戒騎士の家系の生まれで、ハガネの鎧を纏い闘います。主人公は無名の魔戒騎士ですが、8歳年上の兄は称号持ちの鎧を継承しました。兄への劣等感はない上に正統後継者でないことに不満はなく、牙狼 ハガネを継ぐ者に登場するロンの様にハガネでも十分背負う物が大きいと感じています。
後々にどんな性格か明らかになっていきますので、お楽しみください。
ハガネ
主人公が纏うありふれた魔戒騎士の鎧。
牙狼 ハガネを継ぐ者に登場した白羽創磨、アゴラの三剣士とほぼ同一の形状で、背中にある2本の突起物はアンカーとなっている。主人公の目と宝玉の色は、創磨やアゴラの三剣士と異なり紫色。