ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
接触一件目。対象は羊族生徒、メル。本人の同意を確認後、毛髪に付着した紙片を除去。接触時間、約二秒。
接触二件目。対象は猫族生徒、ユラ。本人からの依頼と同意を確認後、右耳外側に付着した黒板消しの粉を除去。接触回数、二回。合計、約四秒。
帰りの車内で、ルカは端末へ文字を打ち込んだ。
どちらも、事実である。余計な解釈は入れていない。寧夢様がメルの巻き毛へ指を差し入れた瞬間、教室中の呼吸が止まったことも、ユラが自分から右耳を傾けたことも、それを見た時にルカの尾へ力が入ったことも、記載の要否を分ければ明確だった。
最後の一つは、必要ない。
「こうして読むと、私、すごいことをしたみたいですね」
向かいの座席から声がして、ルカは端末をわずかに伏せた。寧夢様は鞄を膝へ乗せ、背もたれに身体を預けている。初めての登校で疲れたのか、朝よりも目元が緩んでいたが、報告の画面を覗く好奇心は残っているらしい。
「すごいことをなさいました」
「紙を取って、粉を払っただけです」
「人間が獣人の髪と耳へ自発的に触れた、と表現すれば意味が変わります」
「……確かに」
寧夢様は自分の右手を見下ろした。昼休みには羊族の巻き毛へ、放課後には猫族の耳へ触れた手だ。その指先を嬉しそうに眺められると、ルカの耳の奥へ、寧夢様が漏らした「柔らかい」という声まで戻ってくる。
巻き毛は、見た目より軽かったらしい。猫族の耳は、毛並みのすぐ下に温かさがあったらしい。
聞いていない。寧夢様が聞き取りの途中で、勝手に話しただけだ。
「学校では、あれくらいの接触はよくあるんですか?」
「獣人同士であれば、珍しくはありません」
「人間相手だと?」
「ありません」
「全然?」
「少なくとも、同じ日に二人の髪と耳へ触れる人間を、私は初めて見ました」
寧夢様の肩が少し縮んだ。
「やっぱり、皆さんを怖がらせましたよね。誰も笑っていませんでしたし」
教室の変化には気づいていたらしい。初めての接触では、周囲にいた生徒が一斉に動きを止めた。二度目は放課後で人数こそ少なかったが、残っていた生徒の視線は、寧夢様の指がユラの耳から離れるまで固定されていた。
あれは恐怖だけではない。驚愕、羨望、期待。中には、明らかに匂いへ反応した者もいた。人間が獣人へ自分から触れるなど、彼女たちの常識では滅多に起きない。その相手が同じ教室の生徒となれば、平静でいろという方が難しい。
「緊張は生じています。ただし、寧夢様は二件とも本人の同意を確認し、目的に必要な範囲で手を離されました。規定上、問題のある接触ではありません」
「じゃあ、触らない方がよかったわけではない?」
ルカは返答を急がなかった。
触らない方がよかった。そう答えれば、護衛としては簡単だ。寧夢様が誰にも触れなければ、匂いに当てられる生徒も、期待する生徒も、たった数秒を特別な意味へ変える生徒も増えない。ルカ自身も、あの手が他の獣人へ触れるところを見なくて済む。
だが、それは今日、二人が自分で選んだことまで否定する答えだった。
「メル様は、ご自身で決めた上で依頼されました。ユラ様は、自分から寧夢様へ頼まれています。私が、後から否定することではありません」
「そっか」
寧夢様は小さく息を吐いた。安心したように、座席へ深く背を預ける。
「よかったです」
「ただし、次も同じように進むとは限りません」
「分かっています。次もちゃんと聞きます」
次。
もう次がある前提だった。
ルカの尻尾が座席の端へ当たりかけ、寸前で止まる。音は出ていない。寧夢様にも気づかれていない。護衛官としての制御は保たれている。
「相手が断りにくい立場であることも、忘れないでください」
「はい。それ、今日少し分かりました」
予想していなかった返答に、ルカは顔を上げた。
寧夢様はもう自分の指先を見ていなかった。窓の外へ流れる街並みを眺めながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「私が聞くと、人間に頼まれたから断れないって思う人もいますよね。メルさんも、最初にルカさんを見ていましたし」
「……はい」
「だから、ルカさんが『私に遠慮しなくていい』って言ってくれて、助かりました。あれがなかったら、メルさんが本当に嫌じゃないのか、私には分からなかったと思います」
ルカは返事をしようとして、言葉を失った。
あの場で優先したのはメルの意思だ。人間から求められた獣人は、それだけで断りにくくなる。だから、寧夢様の希望ではなく自分の嫌悪感を基準に決めるよう伝えた。護衛官として、当然の補助をしただけだった。
寧夢様は、それを見ていた。
触れる許可が出たことだけではなく、許可を出すまでの迷いも、ルカが何を守ろうとしたのかも、寧夢様なりに受け取っていた。
「ルカさん?」
「……職務です」
「職務でも、助かったのは本当です」
今日、同じ言葉を聞いた。
ユラが「当番なので」と引こうとした時、寧夢様は、当番でも助かったのは本当だと返していた。その後に焼き菓子を渡し、ユラの尾を机の脚へ巻きつかせた。
今度は、自分だった。
焼き菓子はない。耳にも触れられていない。ただ名前を呼ばれ、助かったと言われただけだ。それだけなのに、胸の奥へ落ちる重さは、見ていた時に想像したものより大きかった。
「今日、一番助けてもらったのはルカさんだと思います。朝からずっと一緒にいてくれて、私が変なことをしそうになったら止めてくれて、触っていい時も相手が決められるようにしてくれて」
「私は、寧夢様が変なことをなさる前提なのでしょうか」
「違うんですか?」
違うとは言えなかった。
寧夢様が少し笑う。ルカも笑うべき場面だったのかもしれないが、口元を緩めれば、別のものまで顔へ出そうだった。
「私、触ることばかり考えていましたけど」
「存じています」
「即答しないでください。反省しているところです」
「失礼しました」
寧夢様は咳払いをした。頬が少し赤い。
「触るかどうかを決めるのは、触る私じゃなくて、相手なんですよね。ちゃんと聞くのはもちろんですけど、聞き方も考えないといけない。今日、それが分かりました」
真面目な言葉だった。
ルカは端末を持つ手から力を抜いた。昨日までなら、許可を取れば安全に触れる、とだけ考えていた人だ。今も獣人へ触れたい気持ちはまったく隠せていない。それでも、自分の望みより相手の意思を先に置こうとしている。
「ご理解いただけたのでしたら、何よりです」
「はい。これで、もっと安全に触れます」
やはり、そこへ戻った。
ルカは目を閉じたくなったが、護衛中なので耐えた。
「ルカさん?」
「寧夢様の接触意欲が低下したわけではないことを確認しました」
「そこは別の話なので」
「同じ話です」
「近い話ではあります」
認めるのか。
寧夢様は困ったように笑い、それから、ふと表情を改めた。
「あの。ルカさんには、何かお礼できませんか?」
心臓が一度、大きく鳴った。
お礼。
寧夢様から。自分へ。
頭へ浮かんだものを、ルカは即座にすべて消した。髪に触れる手。耳の付け根へ近づく指。首筋へ埋まる顔。どれもお礼として要求してよいものではない。そもそも、護衛対象へ見返りを求めること自体が職務倫理に反する。
「必要ありません」
「でも、ユラさんにはお礼のお菓子を渡したのに」
「私は護衛官です」
「護衛官には、お礼を言うだけでいいんですか?」
「十分です」
十分すぎる。
これ以上を受け取れば、自分がどこまで平静を保てるか分からない。
「何か一つくらい。私にできることで」
寧夢様は引かなかった。命令ではない。善意で、ルカが望むものを選ばせようとしている。だからこそ困る。欲しいものを正直に言えるはずがない。
少し考え、ルカは護衛官として最も正しい答えを選んだ。
「明日も規則を守ってください」
「それは、お礼じゃなくて普段から守るものでは?」
「では、明日も無事に帰宅してください」
「それも普段から目指すものですよね」
「護衛官にとっては、最大の返礼です」
寧夢様は目を瞬かせた。それから、冗談ではないと分かったのか、ゆっくり頷く。
「分かりました。明日も、ルカさんと一緒に帰ってきます」
違う。
無事に帰宅してほしいと言った。自分と一緒に、とは言っていない。
訂正すべきだった。明日の護衛配置はまだ確定しておらず、体調や保護局の判断によって交代する可能性もある。特定の護衛官との帰宅を約束させるような発言は不適切だ。
それなのに、ルカの口から出たのは、別の言葉だった。
「……承知しました」
尻尾が、座席を一度だけ叩いた。
今度は音がした。
寧夢様がそちらを見る。ルカは端末へ視線を落とし、何も起きなかった顔で報告書の続きを開いた。
「今、尻尾が」
「車体の振動です」
「道、平らですけど」
「報告の確認を続けます」
「はい」
追及しないでくれたことが、ありがたかった。
☆
逢苗家へ到着すると、寧夢様は玄関前で車を降りた。屋敷の認可使用人が内側から扉を開け、決められた距離で一礼する。寧夢様は同じように頭を下げてから、車内のルカを振り返った。
「ルカさん。今日は、本当にありがとうございました」
「過分なお言葉です」
「また明日」
明るい声だった。
ルカが返事をする前に、寧夢様は屋敷へ入っていく。閉じた扉の向こうから、使用人へ学校の話を始める声がかすかに聞こえた。羊族の髪がどうだった、猫族の耳がどうだった、と話し出していないことを願う。
車が逢苗家を離れてから、ルカは途中になっていた報告書を開いた。
寧夢様の判断。二件とも、本人の同意を確認し、目的に必要な範囲の接触に留めた。接触後、相手へ痛みや不快感がなかったか確認。周囲へ一時的な緊張あり。重大な混乱なし。
護衛官所見。規則への理解に改善が見られる。ただし、獣人への接触意欲は引き続き強く、継続観察を要する。
入力して、読み返す。
間違ってはいない。寧夢様は成長している。欲望の向きは変わっていないが、相手の意思を考え始めた。ルカが補助した意味も理解していた。明日も同じようにできるなら、今日より少しだけ安心して隣に立てる。
ルカは送信前の確認欄をすべて埋め、報告書をシオンへ送った。ほどなくして、端末にシオン担当官から着信が入る。
「お疲れさまです、ルカ護衛官」
「お疲れさまです」
「初日の接触記録を受領しました。直接接触が二件」
「いずれも本人の同意を確認しています」
「責めているわけではありません。あなたが二件とも許可したことに驚いただけです」
柔らかい声だった。責めてはいない。だが、必要なところへ指を入れてくる声でもある。
「学校内の規定と、当事者の意思に従って判断しました」
「適切です。寧夢様も、接触の前後で確認ができていますね」
「はい」
「あなたが近くにいたから、待てたのでしょう」
今日、寧夢様本人から言われたことと同じだった。
ルカは窓の外へ目を向ける。夕方の街を、獣人たちが行き交っている。車の窓は匂いを通さない。誰もこちらを見ていない。
「そのように評価するのは、まだ早いかと」
「では、現時点では?」
シオンの声に、わずかな笑みが混じった。
「……一定の改善が見られます」
「報告書の通りですね。明日の護衛も、継続をお願いします」
胸の奥が、明らかに緩んだ。
「承知しました」
職務上の返答に迷う理由はなかった。胸の奥が緩んだことまで、声から悟られていないことを願った。
「それと、学校側からも経過連絡が届いています。メル様、ユラ様ともに、接触後の体調異常はありません」
「そうですか」
今度は、声へ出る前に息が抜けた。緊張や羞恥はあっても、二人とも身体を崩してはいない。自分の判断で許可した以上、その結果を確認するまでが護衛官の責任だった。
「ユラ様は、明日の交流当番も継続を希望されています。学校から、護衛上の懸念があるか確認を求められました」
猫族の耳へ触れた寧夢様の指と、その指を受け入れるように傾いたユラの姿が戻ってくる。胸の内側に生じたものと、護衛上の判断は別だ。
「今日と同じ管理体制であれば、差し止める理由はありません」
「承知しました。そのように回答します」
シオンは何も指摘しなかった。ただ、短い連絡事項を続け、通話を終えた。
車内が静かになる。
ルカは端末へ戻り、送信済みの報告書の控えをもう一度確認した。必要なことはすべて書いてある。接触の相手、部位、時間、前後の反応。寧夢様の判断。護衛官としての所見。
書いていないこともある。
寧夢様が他の獣人へ触れるたび、止める理由を探してしまったこと。自分の補助へ感謝され、嬉しかったこと。お礼に何が欲しいかと聞かれた瞬間、職務では許されない答えがいくつも浮かんだこと。
そして、明日も自分と一緒に帰ると言われて、安心したこと。
どれも接触記録には必要ない。護衛官所見にも、希望欄にも書けない。
ルカは報告書の控えを閉じ、端末を伏せた。
明日も、自分が寧夢様の隣に立つ。
今は、それで十分だった。