ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
登校二日目。私は、自分の右手の置き場所に困っていた。
机の上へ出していると、視線が集まる。膝の上へ隠すと、今度は自分が何かを警戒しているみたいになる。頬杖は態度が悪いし、制服のポケットへ入れるのも授業前の姿勢としてどうかと思う。
結果、私は教科書の上に両手を重ね、妙に行儀の良い生徒になっていた。
昨日、この右手はメルさんの巻き毛から紙を取り、ユラさんの耳から黒板消しの粉を払った。教室にいた皆はその両方を見ている。人間が獣人の髪や耳へ自分から触れること自体が珍しいらしいので、その手が翌朝も普通に机の上へ置かれていれば、気になるのは仕方ない。
仕方ないのだけど、手だけ見られるのは落ち着かなかった。
「おはようございます、逢苗様」
左隣から声をかけられ、私は顔を上げた。
ユラさんが自分の席の前に立っている。黒と白の混じった短い髪はきれいに整えられ、三角の耳にも昨日の白い粉は残っていない。当たり前だ。私が取ったのだから。
右耳を見た瞬間、指先に柔らかさと温かさが戻ってきた。
猫耳……!
落ち着こう。昨日、十分に堪能した。いや、堪能するために触ったわけではない。粉を取るためである。目的を取り違えてはいけない。
「おはようございます、ユラさん。今日もよろしくお願いします」
「はい。その、本日も交流当番を担当します」
「聞きました。続けたいって希望してくれたんですよね」
朝の車内で、ルカさんから教えてもらった。昨日の接触後も体調に問題はなく、ユラさん本人が今日の交流当番を続けたいと希望したらしい。
ユラさんの耳が、ぴんと立った。
「学校から、連絡が」
「はい。嬉しかったです。昨日で嫌になっていなかったんだなって」
「嫌には、なっていません」
返事が早い。
でも、もう驚かない。ユラさんは否定したいことがあると、少しだけ返事が早くなる。たぶん。
「耳も、痛くなったりしていませんか?」
「大丈夫です。体調確認でも、異常はありませんでした」
「よかった」
私が笑うと、ユラさんは自分の右耳へ触れかけ、途中で手を下ろした。代わりに椅子を引き、昨日と同じ私の左隣へ座る。机の間隔も、椅子の位置も変わっていない。それなのに、一度触れたことを知ってしまったせいか、昨日より近い。
近い……!
黒い毛の一本一本まで見えそうで、私は慌てて教科書へ視線を落とした。
「寧夢様」
教室の後ろから、ルカさんの声が飛んでくる。
「まだ何もしていません」
「顔を戻してください」
「顔は最初からここにあります」
「表情の話です」
昨日と同じ深緑の制服で壁際に立つルカさんは、今日も完全に仕事中の顔をしていた。ただし、尻尾だけは動いていない。朝の車内では、私が約束どおり一緒に登校できたことを伝えたら、一度だけ座席へ当たりそうになっていたのに。
あれは車体の振動ではないと思う。
「逢苗様」
「はい」
「あまり見ないでいただけると」
「すみません」
今度はユラさんに言われ、私は前を向いた。
右を見ても左を見ても注意される。学校生活、難しい。
始業の鐘が鳴ると、鹿鳴先生が数学の教科書を持って教室へ入ってきた。昨日は人間枠の説明と初回交流が多く、ようやく普通の授業らしい授業が始まる。
黒板へ書かれた数式を見て、私はひそかに安心した。記号も計算の手順も、私の知っているものとほとんど変わらない。世界が変わっても、数字は急に耳や尻尾を生やさなかったらしい。
よかった。本当によかった。
もし数字まで獣人仕様になっていたら、私は何を頼りに高校生活を送ればよいのか分からない。いや、耳と尻尾は十分すぎるほど心の支えになっているけれど、試験の答えにはならない。
「二次関数の続きから始めます」
鹿鳴先生が黒板へ式を書き始める。私はノートを開き、昨日配られた範囲表と見比べながら内容を追った。
思っていたより進んでいる。何年か若返ったとはいえ、一度は習った内容のはずなのに、細かい公式はきれいに頭から抜けていた。世界より先に、私の記憶の方が頼りない。
途中で参照するページを見失い、教科書を一枚戻した時、左から細い指が伸びてきた。
「今は、こちらです」
「ありがとうございます」
ユラさんの指先が、私の教科書の右上を示している。触れてはいない。けれど、昨日より身体をこちらへ傾けている分、肩と肩の距離が近かった。
ふわりと、知らない香りがする。昨日は教室の匂いに紛れて気づかなかった、清潔な布と、少し甘い整毛料のような香り。
猫族用の整毛料……?
気になる。ものすごく気になる。でも授業中である。ここで「何を使っていますか」と聞いたら、数学の質問ではなくなる。
私は教えてもらったページへ目を戻し、必死に式を写した。
成長している。
少なくとも、授業中に整毛料の銘柄を尋ねない程度には。
先生の説明が一区切りつき、各自で問題を解く時間になる。教室へ鉛筆の音が広がる中、私は三問目で早くも手を止めた。答えは出る。しかし途中式が教科書の例と合わない。
「ユラさん、ここって、この式を先に移すんですか?」
「えっと、先に括った方が分かりやすいと思います。ここを」
ユラさんが自分の椅子を少し寄せ、私のノートを覗き込んだ。
近い。
耳も近い。髪も近い。昨日触れた右耳が、私の目の高さより少し下にある。手を伸ばせば届く。もちろん伸ばさない。粉もついていないし、頼まれてもいない。
でも、近い……!
「逢苗様?」
「聞いてます。ここを括るんですよね」
「はい。その後で、同じ形にしてから」
私は意識を数式へ戻した。数学があって助かった。数字には耳も尻尾もなく、見つめても失礼にならない。
たぶん。
休み時間になると、私はようやく机の上から手を離した。右手が注目されていると思うと動かしにくかったけれど、ずっと重ねたままでは次の教科書を出せない。
鞄を開けながら教室を見回し、そこで、昨日とは少し違うことに気づいた。
皆、妙に整っている。
前の席の犬族の子は耳の飾り布を新しいものに替え、窓側にいる狐族の子は長い尾を丁寧に梳いていた。角のある生徒は角飾りの位置を何度も確かめ、鳥族らしい飾羽を持つ子は、窓へ映る自分の横顔をこっそり見ている。
昨日も身だしなみはきちんとしていた。名門校らしく、制服を崩している人もほとんどいない。それでも今日は、毛並みや耳、尻尾にいつも以上の手間がかかっているように見えた。
「今日、皆さん、すごくきれいにしていませんか?」
小声で尋ねると、ユラさんは教室を見回し、少しだけ耳を伏せた。
「気のせいでは、ないと思います」
「何かある日ですか?」
「昨日のことが、ありましたので」
「昨日?」
聞き返してから、自分の右手を見る。
メルさんの髪。ユラさんの耳。
なるほど。
「皆さん、見ていましたから。人間が、髪や耳へ触れるところを」
「それで、いつもより整えてきたんですか?」
「全員がそうとは限りません。ただ、意識はすると思います」
ユラさんの尻尾が、椅子の脚へゆっくり巻きついた。
「逢苗様が、どこを見ているのか」
責める声ではなかった。けれど、私は慌てて教室から視線を戻した。
見ていた。ものすごく見ていた。
「すみません」
「いえ。私に謝られても」
「ユラさんも、今日はいつもより整えてきたんですか?」
何気なく聞いたつもりだった。
ユラさんの耳が立ち、尻尾が椅子の脚へもう一周した。
「……普段どおりです」
「そうなんですね」
普段どおりらしい。
だったら、さっき感じた甘い香りも普段どおりなのだろう。昨日は私が気づかなかっただけだ。そういうことにしておく。
次の教科書を机へ出したところで、前を歩いていた犬族の子の尻尾が目に入った。根元に結ばれた細い紺色のリボンが少しずれ、端が毛の間へ入り込んでいる。
あ。
声をかけようとして、止まった。
昨日のメルさんと同じだ。本人からは見えにくい場所で、飾りがずれている。このままなら気になるだろうし、私ならすぐ直せる。
けれど、昨日と同じではない。
私が見ていたことに気づいたのか、犬族の子が振り返った。耳がわずかに後ろへ傾き、尻尾が止まる。期待しているのか、警戒しているのか、私には分からなかった。
「あの。尻尾のリボンが、少しだけずれています」
私は自分の手を机の上へ置いたまま伝えた。
「右側が、毛の中に入っているみたいです。自分で直せそうですか?」
「は、はい」
犬族の子は尻尾を前へ回し、両手でリボンの位置を確かめた。すぐに毛へ入り込んだ端を見つけ、結び直す。
「ありがとうございます、逢苗様」
「いえ。勝手に見てしまって、すみません」
犬族の子は何か言いかけたようだったが、結局、小さく頭を下げて自分の席へ戻った。
教室の空気が、ゆっくり動き出す。大きな騒ぎにはならなかったものの、近くにいた生徒たちの耳は、会話が終わるまでこちらへ向いていた。
「危なかった」
私が息を吐くと、ユラさんがこちらを見る。
「何がでしょうか」
「昨日の私なら、直しましょうかって聞いていた気がします」
「今日は、聞かなかったんですね」
「はい。頼まれていませんし、私から触っていいか聞くと、断りにくいかもしれないので」
昨日、ルカさんに教えてもらった。私が尋ねれば、それだけで人間からの頼みになる。相手が本当に嫌でなくても、断れないから頷くことがある。
だから、まず本人に直せるかを尋ねた。困っているなら先生やルカさんへ相談してもよかったし、本人ができるならそれで終わりだ。
見事な判断だったと思う。
「ただ、本人から頼まれたら、昨日と同じように確認して」
そこまで言ったところで、ユラさんの尻尾がぴたりと止まった。
「昨日と、同じですか?」
声は小さい。けれど、聞き返し方が少しだけ硬い。
「同じ手順で、という意味です。本人に聞いて、ルカさんにも確認して、必要なところだけ」
「そう、ですよね」
ユラさんは頷いたものの、耳が横へ伏せている。
何か違ったらしい。
私は今の会話を頭の中で戻した。本人から頼まれたら。昨日と同じ。必要なところだけ。安全面では、たぶん間違っていない。
でも、その手順さえ踏めば、誰の耳や尻尾にでも同じように触れると言ったようにも聞こえる。
「ユラさん」
「はい」
「昨日、頼んでくれたの、嬉しかったです」
ユラさんが瞬きをした。
「粉を取れたこともですけど、ユラさんが私に頼んでくれたことが、一番嬉しかったです。誰かに触れたかっただけじゃなくて、ユラさんに頼ってもらえたことが」
「私に」
「はい。だから、誰かに同じことを頼まれても、昨日のことが同じになるわけではないです」
自分で口にして、ようやく分かった。
紙を取る。粉を払う。リボンを直す。やることだけ見れば似ているし、確認する手順も同じかもしれない。でも、メルさんが迷ったことも、ルカさんが自分で決めるよう伝えたことも、ユラさんが私に頼むと決めたことも、それぞれ別だ。
私は、触り方ばかり考えていた。
安全に触る。必要なところだけ触る。許可を取って触る。全部大事だけれど、それだけで誰にでも触れてよいわけではない。そもそも、触ってほしいと思ってもらえる関係の方が先なのだ。
「すみません。同じって言い方、よくなかったですね」
「……いえ」
ユラさんの耳が、ゆっくりこちらへ戻る。
「私が、お願いしたことを覚えていてくださるなら」
「もちろんです。二回触ったことも覚えています」
「回数は、今は関係ありません」
「はい」
そこは違ったらしい。
「また、その」
ユラさんは教科書の角を指先で揃えながら、少しだけ声を落とした。
「何かあった時に、私からお願いしてもよいでしょうか」
「もちろんです。ルカさんや先生の確認が必要な時は、ちゃんと確認します」
「分かりました」
尻尾が椅子の脚からほどけ、先が一度だけ私の方へ動く。すぐに膝の後ろへ隠れてしまったけれど、昨日、粉を取った後にも見た動きだった。
今度は、少し機嫌が直ったように見えた。
たぶん。
「寧夢様」
後ろからルカさんに呼ばれ、私は振り返った。
「今のご判断は適切です」
「聞いていたんですか?」
「護衛中です」
「そうでした」
教室の後ろにいるから忘れそうになるけれど、ルカさんは私と教室全体をずっと見ている。耳もいい。小声にした程度で聞こえなくなるはずがない。
「本人が自分で対処できる場合、寧夢様が接触する必要はありません」
「はい。触る前に、普通に話せるようになる方が先ですね」
「その認識を維持してください」
「頑張ります」
まず普通に話す。相手を知る。困っている時には、勝手に触ろうとせず、どうしてほしいかを聞く。その上で、いつか本人から頼んでもらえたら、安全に触る。
道のりが一段増えた。
でも、なくなったわけではない。
よし。
「寧夢様」
「何も言ってません」
「表情が、別の結論へ到達しています」
「まずは話すところからだと思っただけです」
「その先については考えないでください」
「そこまで無理を言われても」
ルカさんが短く息を吐いた。
隣で、ユラさんの口元がほんの少し緩んだ。接触とは関係のないところで生まれた笑いだったので、私も安心して笑う。
その直後、前の席の犬族の子が、おそるおそるこちらを振り返った。
「逢苗様。授業の速さは、大丈夫でしたか?」
「少し忘れているところがありますけど、たぶん大丈夫です。さっきもユラさんに教えてもらいました」
「人間用の教科書は、内容が違うのかと思っていました」
「同じみたいです。数字に耳は生えていませんでした」
犬族の子が目を瞬かせた。
言い方を間違えた。
「すみません。私も同じ教科書で安心した、という意味です」
「あ、はい」
会話は少しぎこちなかった。それでも、犬族の子はすぐに前を向かず、次の授業の課題についてもう一つ尋ねた。そこへ別の生徒が、昨日の説明で分かりにくかった場所はないかと加わる。
誰も私の手には触れない。私も誰の耳や尻尾にも触れない。近くに立つ時は少し緊張されるし、会話が途切れるたびに誰かの耳が動く。それでも昨日より、話しかけてくれる人は増えていた。
私は一人ずつ顔を見て、分からないことはユラさんにも教えてもらいながら答えた。
触れなくても、近づく方法はある。
当たり前のことを、私は二日目になってようやく実感していた。
☆
帰りの短いホームルームで、鹿鳴先生が明日の予定表を黒板へ貼った。
「明日の午前は、高等部合同の体力測定です。一年生は第二体育館へ集合してください。測定補助には二年生の運動部員が入ります」
教室の空気が少し動いた。
私は配られた予定表を見る。握力。反復横跳び。短距離走。ほかにもいくつか、見覚えのある種目が並んでいた。人間用の基準表は別に用意され、私も基本的には同じ種目を受けるらしい。
獣人さんたちの体力測定。
犬族の全力疾走。猫族の反復横跳び。兎族なら跳ぶ種目がすごいのだろうか。虎族や狼族の生徒もいる。耳と尻尾を持った人たちが、本気で走って跳んで動く。
見たい……!
ものすごく見たい……!
「逢苗様は見学ではなく、測定を受ける側ですからね」
どうやら、そこまで顔に出ていたらしい。
「分かっています」
「また、運動中の生徒へ不用意に近づかないようにしてください。明日もルカ護衛官が同行します」
「はい」
返事をしながら後ろを見ると、ルカさんはすでに予定表を端末へ取り込んでいた。私と目が合う。
「寧夢様」
「近づきません」
「まだ何も申し上げていません」
「顔に書いてありました」
「寧夢様にだけは言われたくありません」
珍しく、少しだけ返事が早かった。
隣では、ユラさんが予定表を鞄へしまっている。今日一日、同じ席にいてくれた。耳にも髪にも触れなかったけれど、昨日より話せたことは多い。ほかのクラスメイトとも、ほんの少しだけ普通の会話ができた。
初日は二人に触れた。
二日目は、誰にも触れなかった。
でも、距離は今日の方が近かった気がする。
「ユラさん。今日もありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また明日」
「はい。また明日」
ユラさんの耳が、今度は隠さずこちらを向いた。
明日は、二年生の先輩たちも来る。
触ることより先に、まず普通に話す。
その方針を、私は明日も守るつもりだった。
少なくとも、今は。