ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
第二体育館へ入った瞬間、私は今日の方針が早くも危うくなっていることを悟った。
触ることより先に、まず普通に話す。
昨日決めた。とても大事な方針である。相手を知らず、頼まれてもいないのに、耳や尻尾ばかり見てはいけない。普通に挨拶して、普通に話して、少しずつ信頼してもらう。その先に、いつか安全な接触があるかもしれない。
ただし、その方針には一つ問題があった。
運動着姿の獣人さんが、大勢いる。
制服の上着に隠れていた肩や腕が見え、尻尾は動かしやすいよう背面の切れ込みからまっすぐ外へ出ている。犬族の子は準備運動だけで耳を弾ませ、猫族の子は足首を回しながら長い尻尾で自然に均衡を取っていた。狼族らしい子は立っているだけでも姿勢がきれいで、短距離走の順番を待つ兎族の子は、今にも床を蹴って跳びそうに踵を浮かせている。
楽園では?
いや、学校である。しかも体力測定である。
「寧夢様。中央の列へ進んでください」
後ろからルカさんに呼ばれ、私は慌てて床の目印へ移動した。今日は保護局の制服ではなく、動きやすい護衛装備を着ている。上着の形はいつもより軽いけれど、深緑の色と胸元の徽章は変わらない。
大型犬らしい耳も、周囲の動きを拾うよう忙しく向きを変えていた。
見たい。
でも今日は、ルカさんも走らないらしい。残念である。
「今、私の方をご覧になった理由を伺ってもよろしいですか」
「護衛官用の運動着もあるんだなと思って」
「本日の私は測定を受けません」
「そうですか」
「残念そうな顔をしないでください」
ばれた。
左隣では、ユラさんが両腕を頭上へ伸ばしていた。黒と白の混じった短い髪が動き、三角の耳が一度だけ横へ倒れる。制服姿より身体の線が分かりやすく、伸びをする動きまで猫っぽい。
しなやか……!
「逢苗様」
「見すぎました。すみません」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあったので」
昨日ルカさんに使った言葉を、今日はユラさんにも使ってしまった。
ユラさんは困ったように耳を伏せ、伸ばしていた腕を下ろす。尻尾の先だけが、運動着の脚へ沿うように隠れた。
「準備運動を、続けてください」
「はい」
私は前を向き、鹿鳴先生の動きに合わせて肩を回した。
周囲では、同じ一年生たちが静かに準備をしている。昨日よりも広い場所なのに、視線が集まっていることは教室より分かりやすかった。私が腕を回せば、近くにいる生徒の耳が動く。屈伸をすれば、何人かの尻尾が止まる。人間が運動しているところを見る機会も珍しいのだろう。
お互いさまである。
私だって、獣人さんが全力で走るところを見るのは初めてだ。
「本日は、握力、上体起こし、反復横跳び、短距離走の順で測定します」
準備運動が終わると、鹿鳴先生が全体へ説明を始めた。
「測定値は種族、体格、年齢別の基準で記録します。他者の数値と単純に比較するものではありません。逢苗様には人間用の基準と器具を用意していますので、無理をせず、異常があればその場で申し出てください」
「はい」
私が返事をすると、壁際のルカさんも小さく頷いた。
体育館の入口から、二年生の運動部員たちが入ってくる。測定器具の準備と記録を手伝うらしく、手には板状の端末や巻き尺を持っていた。一年生よりも動きに慣れがあり、広い体育館の中へ迷いなく散っていく。
その中に、ひときわ背の高い先輩がいた。
短い黒髪の間から、橙褐色の丸い耳が出ている。耳の外側には黒い縞が入り、同じ色の太い尻尾が運動着の後ろから伸びていた。腕や脚には無駄な力が入っていないのに、歩くだけで身体の軸が分かる。陸上競技部、と胸元に小さく記されていた。
虎族……!
テレビでは見た。動画でも見た。でも、同じ体育館で、こちらへ向かって歩いてくる虎族の人は初めてである。
丸い耳。太い尻尾。黒い縞。大型の猫族とはまた違う、力強い身体つき。
かっこいい……!
先輩が、私の前で止まった。
琥珀色の目がまっすぐこちらを見る。人間を前にした獣人さんは、目を合わせた後すぐ逸らすことが多かった。けれど、この先輩は一度こちらの顔を確認すると、次にルカさん、鹿鳴先生、私の手元にある測定表の順で視線を動かしただけだった。
「二年の斑目セナです。陸上競技部で、今日は逢苗様の測定補助に入ります」
声は低すぎず、よく通る。敬語ではあるけれど、遠慮して縮こまる感じがない。
「逢苗寧夢です。よろしくお願いします、斑目先輩」
「ああ。体調は」
「大丈夫です」
「運動は得意か」
「普通だと思います」
「それなら普通のつもりで動け。こちらも、人間だからと勝手に加減はしない。無理そうなら止める」
斑目先輩はそれだけ確認し、私の測定表を受け取った。
人間への接し方として正しいのかは分からない。でも、私は少し安心した。壊れ物のように心配され続けるより、大丈夫と言ったことを一度は信じてもらえる方が気楽だ。
「よろしくお願いします」
「二度目だな」
「大事なので」
丸い耳が、ほんの少しこちらを向いた。
笑ったわけではない。困った様子もない。ただ、変わったものを見たように、私の顔をもう一度確かめる。
「では、握力からだ。器具は人間用へ調整してある」
斑目先輩が、複数の測定器具を収めた低い器材箱を片手で引き寄せた。
さっきは二年生が二人で運んでいた箱だ。それを先輩は、重さを感じさせずに台の横へ移動させ、人間用と記された握力計を取り出す。
すごい。
「斑目先輩、それ、重くないんですか?」
「器材箱としては普通だ」
「さっき、二人で運んでいましたけど」
「私なら一人で動かせるからな」
当たり前のように言われた。
かっこいい……!
「持ち手の位置を合わせる。握ってみろ」
差し出された器具を受け取る。斑目先輩が手を離してから、私は想像より少し重い握力計を両手で支えた。
見られている。
先輩だけではない。順番を待つ一年生も、記録係の二年生も、少し離れたルカさんも、私の手元へ視線を向けていた。
「緊張するか?」
「皆さんが見ているので、少し」
「先日、二人へ触れた手だからだろう」
握力計を落としかけた。
「知ってるんですか?」
「同じ体育館にいた一年が、朝からその話をしている。嫌でも聞こえる」
斑目先輩の丸い耳が、一度だけ動いた。獣人さんの耳はいい。教室の外で話していても、近くにいれば聞こえることがあるらしい。
「安心しろ。測定中に誰へ触れたかを聞くつもりはない」
「安心していい話でしょうか」
「握力計を落とさない程度には安心しろ」
私は器具を持ち直した。
手の大きさに合わせてもらい、右手で握る。合図に合わせて力を込めると、表示された数字を斑目先輩が端末へ入力した。
「二十二・四。痛みは」
「ありません」
「左も同じように」
二回目は、少しだけ落ち着いて握れた。
周囲から小さく息を呑む音が聞こえる。人間として極端に低い数値ではないはずだが、獣人さんの基準ではかなり弱く見えるのだろう。さっき測っていた犬族の子は、私の倍に近い数字を出していた。
「人間って、本当に力が」
順番待ちの誰かが言いかけ、すぐに口を閉じた。
心配そうな視線が増える。
「普通です」
斑目先輩が端末から顔を上げずに言った。
「人間用の基準では、特に問題ない。獣人と同じ数値が出ないことを、弱すぎるとは言わない」
「斑目先輩は、どれくらいなんですか?」
「今はお前の測定中だ」
「すみません」
注意された。
でも、周囲の心配そうな空気は少しだけ薄れた。斑目先輩は私を庇ったというより、測定結果をそのまま説明しただけなのだろう。だからこそ、変に慰められるより納得できた。
次の上体起こしでも、先輩は必要なことだけを短く伝えた。膝の角度。手の位置。制限時間。私が起き上がるたび太い尻尾が視界の端で動いたけれど、数を数える声が止まらないので、こちらも途中で見とれている余裕はない。
「十七、十八、十九。終了」
合図で床へ背中をつける。思っていたよりきつい。息を整えながら起き上がると、斑目先輩がすでに結果を入力していた。
「立てるか」
「はい」
返事をして、自分で立つ。
斑目先輩は手を出さなかった。大丈夫と言った相手へ、必要のない補助はしないらしい。
その距離感も、少し気に入った。
反復横跳びでは、先に二年生の見本が行われた。
斑目先輩が三本の線の中央へ立つ。合図と同時に身体が横へ流れ、次の瞬間には反対側の線を踏んでいた。足音は速いのに上半身はほとんど揺れず、太い尻尾だけが動きと逆の方向へ振れて均衡を取っている。
すごい……!
しなやかで、速くて、きれいだった。
私は回数を数えることも忘れ、尻尾の動きを目で追った。右。左。右。大きく振り回しているわけではない。必要な分だけ動き、身体の向きが変わるより先に次の位置へ収まっている。
終了の笛が鳴り、斑目先輩が中央で止まった。
息はほとんど乱れていない。
そして、こちらを見ていた。
「私の尾が気になるのか?」
心臓が跳ねた。
「え」
「さっきから目で追っている」
まずい。
見すぎた。完全に見すぎた。
「すみません。嫌でしたか?」
「理由を聞いている」
怒っている様子はない。耳も伏せていない。斑目先輩は呼吸を整えながら、私が答えるのを待っていた。
「動きが、きれいだったので。身体が横へ動く時に、尻尾で均衡を取っているんですよね。見たことがなくて」
「怖くはないのか」
「どうしてですか?」
「虎族が全力で動けば、人間には速すぎる。爪も牙もある」
斑目先輩が右手を持ち上げる。今は運動用の薄い手袋をしているが、その下には鋭い爪があるのだろう。
危険。たしかに、そういう見方もできる。
でも、私がさっき見ていたのは、そこではなかった。
「かっこよかったです」
思ったまま答えた。
「速いし、全然ぶれないし、尻尾まで動きがきれいで。もう一回見たいくらいです」
斑目先輩が黙った。
丸い耳がこちらを向いたまま止まり、太い尻尾の先が一度だけ床を打つ。
しまった。
また距離感を間違えた?
「すみません。見世物みたいな言い方をしました」
「いや」
斑目先輩は短く答え、尻尾を床から離した。
「人間に、そう言われたのは初めてだ」
「皆さん、怖がるんですか?」
「怖がるか、力を見せろと命じるか、そのどちらかが多い」
見せてほしいと思った点では、私も後者に近いかもしれない。
顔へ出たらしい。斑目先輩の目が、少し細くなった。
「ただし、今は測定だ。もう一度はない」
「はい」
「残念そうだな」
「少しだけ」
「正直だな、逢苗様は」
初めて、斑目先輩の口元がわずかに緩んだ。
笑うと、目元の鋭さが少しだけやわらぐ。丸い耳はまだ私の方を向いていた。
かわいい。
いや、かっこいい。どちらもである。
「次は逢苗様の番だ。線を踏み越えたら一回。無理に私と同じ速度で動くな」
「無理です」
「分かっているならいい」
私は中央の線へ立った。
合図に合わせて左右へ動く。斑目先輩の見本を見た後では、自分の身体がひどく遅く感じた。しかも尻尾がない。均衡は全部、自分の脚と腰で取らなければならない。
人間、不便では?
今さらである。
それでも転ばないよう必死に線を踏み、終了の笛まで動き続けた。最後の一歩で足が少しもつれたものの、どうにか自分で止まる。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
斑目先輩は近づきかけた足を止めた。私が自分で姿勢を戻したのを確認してから、記録へ数字を入れる。
ルカさんも、壁際から動いていなかった。
二人とも、私が大丈夫と言ったことを信じてくれたらしい。
☆
最後の短距離走は、体育館に隣接する走路で行われた。
秋に近い風が、火照った頬へ気持ちいい。上体起こしと反復横跳びを終えた身体はすでに疲れていたけれど、同じ組の獣人生徒たちはまだ余裕があるように見えた。
犬族の子が走る。耳を後ろへ伏せ、地面を蹴るたび尻尾が低く伸びる。猫族の子は身体の上下動が少なく、するりと前へ進んでいく。種族だけで全員の走り方が決まるわけではないけれど、身体の使い方には、それぞれ少しずつ違いがあった。
見ているだけで楽しい……!
「逢苗様。次だ」
斑目先輩に呼ばれ、私は開始位置へ向かった。
走路の端には低い段差があり、何度も足が通ったせいで土が少し崩れている。私はそこをまたごうとして、靴底を滑らせた。
「あ」
身体が傾く。
転ぶほどではない。片足を出せば戻せる。そう思った時には、目の前へ手が差し出されていた。
「手を貸す。取れるか」
斑目先輩の手だった。
すぐには掴まない。私の腕を勝手に取るのでもなく、届く位置へ掌を出し、こちらが選ぶのを待っている。
薄い運動用手袋に覆われた手。指は私より長く、掌も一回り大きい。
「寧夢様」
ルカさんの声が後ろから届いた。
「立位を戻すための補助として、必要な範囲であれば問題ありません」
「はい」
私は斑目先輩の手を取った。
手袋越しでも、力強さが分かる。握り込まれたわけではないのに、こちらが体重を預けても少しも揺れない。先輩は私を引っ張り上げず、足元が安定するまで支え、それから先に手を開いた。
ほんの数秒。
必要な補助。
先日の二人と同じく、目的のある接触だった。
ただ、斑目先輩の方から迷いなく手を差し出されたことが、今までとは違った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。足は」
「痛くないです」
「なら、走れるな」
「はい」
斑目先輩はそれ以上、接触のことを話さなかった。
けれど、丸い耳の内側が少しだけ赤く見える。太い尻尾も、さっきまでより硬く伸びていた。
近くでは、人間の匂いが強い。
この人も、平気なわけではないのだ。
それでも自分から手を出し、必要な間だけ支え、先に離した。
「斑目先輩」
「何だ」
「無理していませんか?」
先輩が少しだけ目を見開いた。
「匂いとか。近いと、つらい人もいるので」
「強いとは思う」
否定しなかった。
「だが、補助をできないほどではない。自分で判断して手を出した」
「そうですか」
「そうだ。だから、今は走ることだけ考えろ」
「はい」
言い切る声に、迷いはなかった。
嫌なのに我慢しているようには見えない。匂いの影響があることも、近づけば身体が反応することも分かった上で、それでも自分で決めたと言っている。
先日、ルカさんに教わったことを思い出す。
触るかどうかを決めるのは、触る私ではなく、相手だ。
斑目先輩は、触れられるかどうかではなく、自分から触れることまで自分で決めた。
強い人だと思った。
身体だけではなく、たぶん、こういうところも。
「位置についてください」
記録係の先生に呼ばれ、私は開始線へ立った。
今度こそ足元を見る。斑目先輩の手や、太い尻尾や、丸い耳は見ない。少なくとも、走り出すまでは。
合図が鳴った。
私は地面を蹴った。
当然ながら、獣人さんたちのような速さは出ない。それでも最後まで走り切り、今度は転ばずに減速できた。息を切らしながら振り返ると、斑目先輩が記録端末を片手にこちらへ歩いてくる。
「最後まで走れたな」
「はい。遅かったですけど」
「人間用の基準では問題ない。さっきも言った」
「覚えていてくれたんですね」
「自分で言ったことくらい覚えている」
斑目先輩は私の測定表を確認し、次にルカさんへ向き直った。
「この後の整理運動も、私が補助に入る。担当が変わるより、その方が状態を見やすい」
相談というより、自分の判断を伝える言い方だった。
ルカさんはすぐには答えず、斑目先輩の耳、尻尾、呼吸を順に確認する。匂いの影響や、さっきの接触後の状態を見ているのだろう。
「現時点で異常は見られません。学校側の配置に変更がなければ、護衛上の異議はありません」
「分かった」
斑目先輩は短く頷いた。
その会話を少し離れた場所で聞いていたユラさんの尻尾が、運動着の脚へぴたりと沿っている。目が合うと、ユラさんは一度だけ斑目先輩を見てから、私へ視線を戻した。
「逢苗様。足、本当に大丈夫ですか?」
「はい。斑目先輩が支えてくれたので、何ともないです」
「そうですか」
返事はいつもどおり丁寧だった。
ただ、耳が少し横へ伏せていた。
「では行くぞ、逢苗様」
斑目先輩が呼ぶ。
「はい」
「勝手に別の列へ行くな。今日のお前は私の担当だ」
「分かりました」
言われるまま後を追う。太い縞模様の尻尾が、私の少し前でゆったりと揺れていた。
今まで会った獣人さんたちは、人間である私の言葉や動きを待つことが多かった。斑目先輩は違う。必要だと思えば自分から近づき、手を差し出し、続けることまで自分で決める。
怖がっていないわけではない。
匂いの影響がないわけでもない。
それでも、待たない。
虎族の先輩は、どうやらかなり遠慮をしない人らしかった。