ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す!   作:ミソギ・罪と罰

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虎族の先輩は名前で呼ぶ

 整理運動とは、激しく動かした身体を少しずつ落ち着かせるためのものらしい。

 

 今の私には、前を歩く虎族の尻尾から少しずつ目を離すための運動でもあった。

 

 太く、橙褐色の毛に黒い縞が入った尻尾が、セナ先輩の歩調に合わせて左右へ揺れている。反復横跳びの時ほど大きくは動かない。それでも、右足が前へ出れば少し左へ、左足が前へ出れば少し右へと、身体の均衡を取るように動いていた。

 

 見ない。

 

 いや、全く見ないのも不自然だから、ほどほどに見る。

 

 ほどほどとは、どのくらいだろう。

 

「逢苗様。歩幅が乱れている」

 

 前を向いたまま、斑目先輩が言った。

 

「すみません」

「疲れたなら速度を落とす」

「疲れたわけではなくて」

「なら、足元を見ろ」

 

 言われて、私は走路へ視線を落とした。

 

 さっき足を滑らせた場所はもう通り過ぎている。平らな道なのに歩幅が乱れた理由は、先輩の尻尾を目で追っていたからだ。

 

 本人には、まだばれていないと思いたい。

 

「寧夢様」

 

 後ろを歩くルカさんの声がした。

 

「はい」

「整理運動へ集中してください」

「しています」

「前方の尾ではなく、ご自身の呼吸と歩調へ」

 

 ばれていた。

 

 斑目先輩の丸い耳が、こちらへ向く。振り返りはしなかったものの、聞こえている。絶対に聞こえている。

 

「ルカさん」

「事実を申し上げました」

「もう少し小さい声で言ってください」

「小声でも斑目様には聞こえます」

 

 それもそうだった。

 

 私は諦めて歩調を整えた。斑目先輩の尻尾が一度だけ大きく揺れたのは、笑いを堪えたのか、歩く向きを変えたからなのか分からない。

 

 走路を一周し終えると、斑目先輩は私の呼吸と顔色を確認し、水分を取るよう指示した。私は日陰に置いていた水筒を受け取り、少しずつ飲む。冷たい水が喉を通り、ようやく息が落ち着いてきた。

 

 体力測定は思っていたより疲れた。でも、楽しかった。獣人さんたちが本気で動く姿を間近で見られたし、虎族の先輩に手まで貸してもらった。

 

 今日も十分すぎる成果では?

 

 目的は体力測定である。分かっている。

 

「逢苗様」

 

 斑目先輩が記録端末を確認しながら呼んだ。

 

「はい」

「もう一度、逢苗様」

「はい?」

 

 顔を上げると、先輩は少しだけ眉を寄せていた。

 

「呼びにくい」

「私の名字がですか?」

「名字と様を合わせると長い。測定中、何度も呼ぶには向いていない」

 

 そんな理由で人間への呼び方を変えようとする獣人さんは、初めてだった。

 

 ルカさんは私を寧夢様と呼ぶ。ユラさんや学校の皆は逢苗様。お母さんは当然、寧夢。私はどれで呼ばれても自分のことだと分かるので、特にこだわりはない。

 

「寧夢でいいですよ」

 

 軽く答えると、斑目先輩はすぐには呼ばなかった。

 

「確認する。名前だけで呼んでいい、という意味か」

「はい。斑目先輩が呼びやすいなら」

 

 体育館へ戻りかけていたユラさんの足が止まった。

 

 ルカさんも、端末へ向けていた視線を上げる。

 

 私だけが、二人の反応に少し遅れて気づいた。

 

 名前だけ。

 

 この世界では、もしかして軽くない?

 

「嫌なら、今のうちに言え」

 

 斑目先輩は私から目を逸らさずに言った。

 

「あとで聞いていなかったとは言わせない」

「嫌ではないです。ただ、皆さんにとっては、名前で呼ぶのも特別なのかなと思って」

「特別だと思う者は多いだろうな」

「やっぱり」

「だが、呼ばれるのはお前だ。お前が決めればいい」

 

 即答だった。

 

 人間から名前で呼べと命じるのではない。斑目先輩から、名前で呼びたいと申し出て、私が決める。先輩の中では、それで話が終わるらしい。

 

 周囲がどう思うかは大事だ。でも、私の名前をどう呼ばれたいかまで、周囲の常識だけで決めなくてもいい。

 

「では、寧夢でお願いします」

「分かった、寧夢」

 

 一度で、何の迷いもなく呼ばれた。

 

 短い黒髪の間から出た丸い耳が、まっすぐこちらを向いている。呼んだ本人は平然としているのに、少し離れたところでユラさんの尻尾がぴたりと止まり、ルカさんの耳がわずかに後ろへ伏せた。

 

 名前を呼ばれただけだ。

 

 ただ、それだけのはずなのに、空気が変わった気がする。

 

「私も、セナ先輩と呼んでいいですか?」

「先輩もいらない。セナでいい」

 

 さらに一段来た。

 

「でも、年上ですよね」

「一年違うだけだ」

「学校では先輩です」

「呼び方を決めるのは、呼ばれる私だろう」

 

 さっきの言葉を、そのまま返された。

 

 強い。

 

「では、セナさんで」

「まあいい」

 

 完全に希望どおりではなかったらしい。それでも、斑目先輩と呼び続けるよりは短くなったので、ひとまず受け入れてくれた。

 

「よろしくお願いします、セナさん」

「それも二度目だ」

「名前で呼んだのは初めてなので」

「理屈は通っているな」

 

 セナさんの口元が少し緩んだ。

 

 横から、ユラさんが小さく息を吸う音がした。

 

「逢苗様」

「はい」

 

 振り返ると、ユラさんは測定表を胸元へ抱えていた。耳は横へ伏せ、尻尾は運動着の脚へ沿っている。

 

「お名前で、呼ばれるのですね」

「セナさんが呼びにくいと言うので」

「そうですか」

 

 納得したようには見えなかった。

 

「ユラさんも、呼びやすい呼び方で大丈夫ですよ」

 

 そう伝えると、ユラさんの耳が勢いよく立った。

 

「私も、ですか」

「はい。ユラさんが呼ぶ名前ですから」

 

 セナさんの受け売りだけれど、間違ってはいないと思う。

 

 ユラさんは私の顔を見たまま、しばらく口を開かなかった。寧夢、と言おうとしているのかもしれない。そう思った瞬間、こちらまで緊張してくる。

 

「……今は、逢苗様で」

 

 ようやく出たのは、今までどおりの呼び方だった。

 

「分かりました」

 

 無理に変える必要はない。ユラさんがそう決めたなら、それでいい。

 

 私が頷くと、ユラさんは少しだけ安心したように息を吐いた。それでも視線は、私とセナさんの間を一度往復している。

 

「寧夢様」

 

 今度はルカさんに呼ばれた。

 

「ルカさんも、名前で呼んでますよね」

「私は護衛対象の登録名に従っています」

「そういう理由なんですか?」

「そういう理由です」

 

 返事が少し硬い。

 

 セナさんがルカさんを見る。ルカさんも視線を返した。どちらも黙っているのに、妙に空気が張っている。

 

「呼称の変更に、何か問題がありますか?」

 

 セナさんが尋ねた。

 

「寧夢様ご本人が同意されている以上、護衛上の問題はありません。ただし、人間を名前だけで呼ぶことを重く受け取る獣人もいます」

「分かっている」

「でしたら、結構です」

 

 短いやり取りだった。

 

 セナさんは許可を求めたわけではない。問題があるかを確認し、ないと分かれば、それ以上は引かなかった。

 

 やっぱり、遠慮がない。

 

 でも、勝手でもない。

 

 私に聞く。ルカさんにも問題がないか確かめる。その上で、自分がしたい呼び方を選ぶ。

 

 少し、面白い人だと思った。

 

☆

 

 体力測定が終わると、一年生は教室へ戻り、二年生の補助員は器具の片づけに入った。

 

 私も自分の水筒を鞄へ入れ、ルカさんと一緒に体育館を出るつもりだった。ところが、測定表の確認が一つ残っていると言われ、入口近くの長机で待つことになった。

 

 ユラさんは交流当番として私の隣に残り、ルカさんは少し後ろに立っている。ほかの一年生は先に教室へ戻ったため、体育館は急に広く、静かに感じられた。

 

 中では、二年生たちが測定器具を運んでいる。

 

 セナさんは器材箱を抱え、保管場所まで一人で運んでいた。重そうな箱なのに、歩調はまったく変わらない。太い尻尾も床へつかず、後ろへゆったり伸びている。

 

 かっこいい。

 

 そして、尻尾が気になる。

 

 反復横跳びの時は均衡を取るように大きく動いていた。歩いている時は静かに揺れる。箱を持ち上げる瞬間には、身体の後ろで少しだけ太く見えた気がする。力を入れたから毛が立ったのか、角度のせいか。

 

 近くで見てみたい。

 

 できれば触って、毛の密度も確かめたい。

 

 いや、待とう。普通に話す方が先である。

 

 私は視線を測定表へ戻した。

 

「寧夢」

 

 すぐ近くから呼ばれ、肩が跳ねた。

 

 顔を上げると、器材箱を片づけたセナさんが長机の向こうに立っている。いつ戻ってきたのだろう。

 

「はい」

「さっきから、私の尾を見ているな」

 

 ばれていた。

 

「すみません」

「謝罪ではなく、理由を聞きたい」

 

 反復横跳びの時と同じだった。

 

 セナさんは、見られたことだけで怒っているわけではない。私が何を考えて見ているのか、分からないままにしたくないらしい。

 

「動くところが気になって」

「それは聞いた。今は動いていなかっただろう」

「持ち上げる時に少し太く見えたので、毛が立ったのかなと思いました」

「ああ。力を入れた時は、多少膨らむ」

「やっぱり……!」

 

 思わず身を乗り出しかけ、止まった。

 

 セナさんの目が細くなる。

 

「先日、羊族の髪と猫族の耳へ触れたそうだな」

 

 隣で、ユラさんの耳が立った。

 

「はい。メルさんの髪についた紙と、ユラさんの耳についた粉を取りました」

「必要だったから触れたのか」

「そうです」

「触れたかったからではなく?」

 

 直球だった。

 

 ルカさんの耳が、後ろで一度だけ動く。ユラさんは測定表を抱え直し、こちらを見ていた。

 

 ここで違うと言えば、たぶん簡単だ。必要だったから。頼まれたから。それだけだと答えればいい。

 

 でも、それは嘘になる。

 

「触れてみたかったのも、本当です」

 

 私は正直に答えた。

 

 セナさんの丸い耳が止まった。

 

「紙や粉がなくても?」

「はい」

「獣人の髪や耳へ?」

「耳も、尻尾も、毛並みも。相手が嫌でなくて、安全にできるならですけど」

 

 静かになった。

 

 体育館の奥では器具を片づける音が続いている。それなのに、この長机の周りだけ音が遠くなった気がした。

 

 セナさんは私の顔を見ている。

 

 ユラさんは、自分の耳を隠すように少しだけ頭を傾けた。

 

 ルカさんだけは、驚いていない。すでに何度も聞かされているからだろう。

 

「変わっているな」

 

 しばらくして、セナさんが言った。

 

「そうですよね」

「人間は普通、獣人の爪や牙や毛を嫌がる。近づきたくないと言う者の方が多い」

「私は、きれいだと思います」

「尾も?」

「はい。耳もです。動くと感情が分かるところも好きですし、毛並みは種族や場所で違うので」

 

 言いながら、少し早口になっている自覚はあった。

 

「セナさんの尻尾は太くて、動いている時と力を入れた時で形が違って、黒い縞も毛の流れに沿っていて。耳は猫族より丸くて、外側と内側で毛の長さも違いそうで」

 

 セナさんが一歩、後ろへ下がった。

 

 怖がらせた。

 

「すみません」

「いや。少し待て」

 

 丸い耳が横へ向き、太い尻尾が自分の脚へ寄せられる。

 

 拒絶というより、どう受け取ればいいのか分からない様子だった。今までの人間なら、獣人の身体を怖がるか、力を見せるよう命じる。そこで突然、毛の長さや流れが気になる、触って確かめたいと言われたのだから、困惑するのが普通だと思う。

 

「寧夢様の接触意欲は、以前から確認されています」

 

 ルカさんが淡々と言った。

 

「やはり、知っていたのか」

「護衛官ですので」

「止めないのか?」

「必要のない接触は止めます。本人の意思と安全が確認できる場合は、学校規定に従って判断します」

 

 セナさんはルカさんを見た後、今度はユラさんへ視線を向けた。

 

「先日、耳へ触れさせたのは、お前が望んだのか」

「粉を取っていただくよう、私からお願いしました」

 

 ユラさんは少しだけ胸を張った。

 

「逢苗様が勝手に触れたわけではありません」

「そうか」

 

 短い返事だった。

 

 セナさんはもう一度、私を見る。

 

「なら、触れたいと本人へ頼めばいいだろう」

「それが、簡単ではなくて」

「なぜだ」

「人間から頼まれると、嫌でも断りにくい人がいるからです」

 

 私は先日、ルカさんから教わったことを説明した。人間は希少で、獣人より立場が強い。私が触らせてほしいと尋ねるだけでも、相手には命令のように聞こえることがある。

 

 だから、許可を取れば必ず大丈夫というわけではない。相手が自分で選べるようにして、断っても何も失わないと分かってもらわなければいけない。

 

「面倒だな」

 

 セナさんは率直に言った。

 

「はい。かなり」

「それでも触れたいのか」

「触れたいです」

 

 そこは迷わなかった。

 

 セナさんの目が、少しだけ見開かれる。

 

「なので、まず普通に話して、相手を知って、頼ってもらえるようになろうと思っています。その先で、相手から触ってもいいと言ってもらえたら、一番安全なので」

「ずいぶん遠回りだ」

「先日、ようやく気づきました」

 

 セナさんは黙り込んだ。

 

 黒い縞の入った太い尻尾が、脚の後ろでゆっくり一度だけ動く。さっきまでの困惑とは少し違う、考える時の動きに見えた。

 

「獣人の方から申し出ればいい、ということか」

「え?」

「人間のお前から頼むと断りにくい。なら、触れてほしい獣人が自分から言えばいい」

 

 ものすごく単純な答えだった。

 

「そうですね。ユラさんの時も、そうでした」

 

 私が隣を見ると、ユラさんの耳が少し赤くなった。

 

「私は、粉を取っていただいただけです」

「はい。でも、ユラさんから頼んでくれたのが嬉しかったです」

「それは、昨日も聞きました」

 

 尻尾が測定表の後ろへ隠れる。

 

 セナさんは私たちのやり取りを見ていた。何かを理解したというより、知らない習性を観察しているような顔だった。

 

「寧夢」

「はい」

「私は、まだ触れろとは言っていない」

「分かっています」

「尾を見るなとも言っていない」

「……見てもいいんですか?」

「見られる理由は分かった。今のところ、それだけだ」

 

 許可ではある。

 

 触る許可ではない。近づく許可でもない。ただ、見ている理由を理解した上で、見るなとは言わない。それだけ。

 

 でも、十分だった。

 

「ありがとうございます」

「礼を言うほどのことか?」

「私には大事です」

 

 セナさんの耳が、またわずかにこちらを向いた。

 

「変な人間だな」

「よく言われます」

「否定しないのか」

「最近は、難しくなってきました」

 

 ルカさんが後ろで小さく頷いた気配がした。

 

 否定してほしかった。

 

 セナさんは測定表の最終確認欄へ印を入れ、私の前へ置いた。直接手渡しはせず、長机の上を滑らせる。接触はない。

 

「今日の結果は、明日、担任から返却される。補助記録の確認があるから、昼に私も教室へ行く」

「明日も会えるんですね」

「記録のためだ」

「それでも、会えるのは本当です」

 

 セナさんの尻尾が一度だけ止まった。

 

 私は測定表を受け取り、鞄へしまう。

 

「では、また明日。セナさん」

「ああ。また明日、寧夢」

 

 二度目の名前は、一度目より自然だった。

 

 隣でユラさんの耳が揺れ、後ろではルカさんの尻尾が床へ当たりそうになって止まる。

 

 私はまだ、名前で呼ぶことがこの世界でどれほど重いのか、きちんと分かっていない。

 

 ただ、セナさんは私が変わっていると知った。

 

 獣人の耳も、尻尾も、毛並みも、触れてみたいと思っていることまで。

 

 それでも明日、また来ると言った。

 

 かなり遠いと思っていた道の先から、虎族の先輩だけが、こちらへ歩いてきているような気がした。

 

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