ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
昼休みになったら、高等部へ行く。
ミミルは朝から何度もそう決めて、そのたびに、やっぱり明日にしようと思い直していた。
寧夢様と最後に話したのは、人間枠の編入初日。廊下で名前を呼ばれ、近づかないと言われて落ち込み、それでも嫌ではなかったと伝え、最後には自分から制服の袖へ触れてしまった。
思い返すだけで、右手の指先が熱くなる。
あの日から、寧夢様の噂は付属中等部まで届いていた。同じ教室の羊族の髪から紙を取り、猫族の耳についた粉を払ったこと。合同体力測定では、虎族の上級生が補助を務めたこと。どこまで正確なのかは分からないけれど、人間が獣人へ二度も触れたという話は、中等部でも昼休み一回分の話題になった。
寧夢様の周りには、もうたくさんの獣人がいる。
当たり前だ。高等部へ編入したのだから、同級生も先輩もいる。交流当番の生徒とは毎日話すだろうし、護衛官はずっとそばにいる。中等部のミミルが廊下で一度会っただけでも、寧夢様は困らない。
だから、会いに行かなくてもいい。
そう考えると胸の奥が痛くなり、ミミルは机の下で弁当の包みを握り直した。
「今日も行かないの?」
前の席の友人が振り返った。
「きょ、今日もって」
「昨日も一昨日も、高等部の方を見てたから」
「見ていただけです」
「今日はお弁当まで持ったままだけど」
ミミルは膝の上へ弁当を隠した。
隠しても遅い。
「共用食堂へ行くかもしれないので」
「いつも教室で食べてるのに?」
「今日から、変わるかもしれません」
苦しい言い訳だった。
友人は長い耳を少し傾けたものの、それ以上は追及しなかった。代わりに、机の端へ置いていた水筒をミミルの弁当の横へ押す。
「忘れてる」
「……ありがとう」
「行くなら、昼休みが終わる前に帰ってきてね」
「行くとは言っていません」
「うん。行かないなら、ここで一緒に食べよう」
どちらを選んでも責めない言い方だった。
寧夢様と少し似ていると思った瞬間、また会いたくなった。
ミミルは弁当と水筒を抱え、椅子から立ち上がった。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
教室を出るまでに、二度ほど足が止まった。それでも今度は、席へ戻らなかった。
☆
付属中等部と高等部は渡り廊下でつながっている。
普段なら、図書館や共用食堂へ行く生徒に混じって通れる場所だ。ただ今日は、廊下がいつもより長く感じられた。高等部へ近づくほど知らない制服が増え、背の高い生徒や肉食種の生徒も多くなる。誰かの話し声が響くたび、ミミルの耳は勝手に伏せそうになった。
途中の職員室で訪問先を伝えると、高等部側へ短い確認が入った。護衛官と担任が教室にいるため、挨拶と昼食の同席は可能。ただし、接触は禁止。返ってきた言葉はそれだけで、ミミルは何度も頷いた。
禁止されなくても、自分から触れる勇気なんてない。
前は、触れてしまったけれど。
高等部一年の教室が並ぶ廊下へ入ると、甘い匂いがわずかに届いた。壁も窓も見慣れないのに、それだけで進む方向が分かってしまう。
胸が速くなる。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。たぶん、両方だった。
開いた教室の戸口から、中を覗く。
寧夢様は、窓側の席にいた。
机の上には弁当箱があり、左隣には猫族の生徒が座っている。黒と白の混じった短い髪と、きちんと揃えられた三角の耳。交流当番のユラ先輩だと、噂で聞いた特徴に合っていた。
教室の後方には、犬族のルカ護衛官。寧夢様との間に誰が入っても、すぐ動ける位置へ立っている。
そして、寧夢様の机の向かいには、虎族の上級生がいた。
短い黒髪。丸い耳。橙褐色に黒い縞の入った太い尾。机の横へ立っているだけなのに姿勢がきれいで、周囲の視線をまったく気にしていない。
「補助記録はこれで終わりだ。担任の確認も取った」
「ありがとうございます、セナさん」
「礼は担当教員に言え。私は事実を記入しただけだ」
「でも、持ってきてくれたのはセナさんなので」
「なら、受け取っておく」
セナ先輩の片手には、記録用紙とは別に細長い包みがあった。
「セナさん、それ、お昼ですか?」
「ああ。記録を届けた後、ここで食べるつもりで持ってきた。都合が悪いなら食堂へ行く」
「悪くないです。ぜひ」
「なら、そうする」
寧夢様が、虎族の先輩を名前で呼んでいる。
それだけでも驚いたのに、先輩は記録用紙を机へ置くと、何でもないことのように言った。
「寧夢。昨日の脚に痛みはないか」
「ありません。少し筋肉痛ですけど」
「それは運動不足だな」
「否定できません」
名前だけ。
敬称も、名字もない。人間へそんな呼び方をする獣人を、ミミルは初めて見た。しかも、寧夢様は怒るどころか、ごく普通に返事をしている。
すごい。
虎族の先輩も。そんなふうに呼ばせている寧夢様も。
ミミルは戸口の陰へ半歩下がった。挨拶だけするつもりだった。けれど、あの輪の中へ入れる気がしない。ユラ先輩は寧夢様の隣にいて、虎族の先輩は名前で呼び、ルカ護衛官はずっとそばにいる。
自分は、名前を呼ばれただけで何日も眠れなくなったのに。
帰ろう。
そう決めて踵を浮かせた時、虎族の丸い耳がこちらを向いた。
琥珀色の目が、まっすぐミミルを見る。
「そこにいる兎族。誰かに用か?」
身体が固まった。
教室の中にいた何人かも、戸口へ視線を向ける。その中で、寧夢様がミミルを見つけた。
「ミミルちゃん……!」
顔が明るくなる。
寧夢様は椅子から立ちかけたけれど、すぐに動きを止めた。前に、近づかないと約束したからだと思う。代わりに、席に座ったまま身体をこちらへ向ける。
「こんにちは、ミミルちゃん」
それだけだった。
どうして来たのかも、近くへ来られるのかも聞かない。手招きもしない。ただ、前と同じ声で名前を呼び、ミミルの返事を待っている。
言わなければ。
挨拶をしに来た。それだけのために、ここまで歩いてきたのだから。
「こ、こんにちは……寧夢様」
声は小さかった。
それでも届いたらしく、寧夢様は嬉しそうに笑った。
「こんにちは。会えて嬉しいです」
耳が一気に熱くなる。
挨拶を返しただけなのに。まだ戸口に立っているだけなのに、来てよかったと思ってしまった。
「ミミル様」
ルカ護衛官が、教室の後ろから静かに呼んだ。
「職員室から連絡は受けています。入室して会話される場合は、寧夢様との間に一席分の距離を保ってください」
「は、はい」
入ってもいい。
許可が出たのに、足はすぐに動かなかった。教室の中にはたくさんの目があり、寧夢様の匂いは戸口より近くなる。何より、寧夢様のそばには、自分よりずっと堂々とした先輩たちがいる。
「弁当を持っているな」
虎族の先輩が言った。
ミミルは反射的に包みを胸へ抱えた。
「ここで食べるつもりだったのか?」
「えっと、その……できたら、と思って」
「なら、席はある」
先輩は空いていた机を一つ引き、寧夢様の正面から少し右へずらした。自分はその隣へ移り、寧夢様との間に十分な距離を残す。
「ここなら条件にも合う。来るか?」
迷いのない声だった。
でも、命令ではなかった。来い、ではなく、来るか。断る余地が残っている。
ミミルは寧夢様を見る。
寧夢様は何も言わなかった。期待していることは、表情を見れば分かる。けれど、来てほしいとも、早くとも言わず、膝の上へ両手を置いて待っている。
前と同じだった。
近づくかどうかを、ミミルに決めさせてくれる。
「……行きます」
一歩目は、足が震えた。
二歩目で、寧夢様の匂いが少し濃くなる。
三歩目には、もう引き返したい気持ちと、絶対に帰りたくない気持ちが半分ずつになっていた。
それでも机までたどり着き、弁当を置く。椅子へ座ると、ユラ先輩が小さく頭を下げた。
「高等部一年のユラです。逢苗様の交流当番をしています」
「付属中等部三年の、ミミルです」
ミミルも慌てて頭を下げた。
「その、お名前は聞いています」
「私も、ミミルさんのお名前は」
二人とも、そこで言葉が止まった。
何をどこまで聞いているのか、お互いに分かってしまったからだと思う。ミミルは寧夢様の袖へ触れた兎族。ユラ先輩は寧夢様に耳へ触れてもらった猫族。
先に目を逸らしたのは、ミミルだった。
耳へ触れてもらった。
噂で聞いた時より、本人を前にした方が胸へ重く落ちる。羨ましい。でも、触れられたら自分がどうなるのかも分からない。羨ましいのに、怖い。気持ちが忙しかった。
「二年の斑目セナだ」
虎族の先輩は、二人の間に流れたものを気にする様子もなく名乗った。
「昨日、寧夢の体力測定を補助した」
「斑目、先輩」
「私を知っているのか」
「陸上競技部の、短距離の方ですよね。中等部でも、お名前を聞いたことがあります」
「そうか」
それだけ言うと、セナ先輩は持ってきた細長い包みを開き、パンを取り出した。人間のいる席へ自分から入り、名前だけで呼び、年下の兎族にも普段どおりに話す。何もかもが自然に見える。
まぶしい人だと思った。
「ミミルちゃん、お昼、まだだったんだね」
寧夢様に呼ばれ、ミミルは包みの結び目へ視線を落とした。
「はい。あの、ご挨拶だけにするか、ここで食べられたらお願いするか、決められなくて」
「お弁当を持ってきてくれたなら、一緒に食べられたら嬉しいです。でも、無理はしないでね」
「無理では、ないです。緊張はしていますけど」
言ってから、自分の声が前よりまっすぐ出たことに気づいた。
寧夢様も気づいたのか、少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに頷く。
「そっか。教えてくれてありがとう」
また、その言葉だった。
怖くないとは言えない。緊張しないとも言えない。それを正直に話しても、寧夢様は残念そうな顔をしない。来てくれたことと、怖いことを別々に受け取ってくれる。
ミミルはようやく弁当を開いた。小さく切った根菜と葉物、丸いパン。いつもと同じ献立なのに、寧夢様と同じ机の輪に置くと、急に特別なものに見える。
寧夢様の弁当は、今日も見たことのない料理が少しずつ詰められていた。ユラ先輩の弁当には魚が多く、セナ先輩は片手で食べやすいパンと肉が中心らしい。種族が違えば食べるものも違う。それでも四人で同じ時間に包みを開いていることが、不思議だった。
「ミミルちゃんは、今日は授業どうだった?」
「いつもどおりです。午前は、語学と生物がありました」
「生物。いいなあ。どんなところをやるの?」
「今日は、植物の分類です。種族の話ではなくて」
「分かってますよ」
寧夢様は笑った。
馬鹿にされた感じはしなかった。ミミルも少しだけ息を抜き、今朝習った植物の見分け方を話す。途中で言葉が詰まると、寧夢様は急かさず、パンを一口食べながら待ってくれた。
ユラ先輩は、共用庭園に同じ植物があると教えてくれた。セナ先輩は、陸上場の脇にも生えているが、走る時には気にしたことがないと言った。
「踏まないんですか?」
「走路の外だ。踏まない」
「よかったです」
「心配するところはそこなのか」
セナ先輩の口元が少し緩む。
話せた。
寧夢様だけでなく、ユラ先輩とも、セナ先輩とも。ほんの数言だけれど、逃げずに答えられた。
嬉しくなって顔を上げた時、寧夢様の視線がセナ先輩の横へ向いていることに気づいた。
太い縞模様の尻尾が、椅子の後ろでゆっくり揺れている。
寧夢様の目も、それに合わせて左右へ動いていた。
「寧夢」
「はい」
「見てもいいとは言ったが、食事を止めて見ろとは言っていない」
「止まってました?」
「さっきから箸が動いていない」
寧夢様が慌てて弁当へ視線を戻す。
「すみません。今日は動きが小さいなと思って」
「座っているからな」
「なるほど……!」
「納得するほどのことか?」
セナ先輩は呆れているのに、尾を隠さなかった。
昨日までなら、何の話をしているのか分からなかったと思う。でも、ミミルは以前、寧夢様が自分の長い耳へ視線を向け、それでも怖がらなかったことを知っている。いまセナ先輩の尾を追う目も、恐怖には見えなかった。
本当なのだ。
寧夢様は、セナ先輩の尻尾を見たくて食事を忘れている。
普通なら、怖がって目を逸らすはずなのに。
ミミルの耳が、少しだけ立った。自分の耳も見られたら、寧夢様は同じように目を止めるのだろうか。そう考えた途端、見てほしい気持ちと、見られたら隠れたい気持ちが一緒に湧いてくる。
セナ先輩なら、きっと隠れない。
「斑目先輩は、すごいです」
気づくと、口にしていた。
「何がだ」
「寧夢様に、普通にお話しできて。お名前でも呼べて」
セナ先輩の丸い耳が、一度こちらへ向いた。
「許可を取ったから呼んでいる」
「私には、できないです。たぶん」
「名前で呼びたいのか?」
あまりにもまっすぐ聞かれ、ミミルは喉を詰まらせた。
寧夢様を見ることができない。呼んでみたいかもしれない。でも、寧夢、と口にする自分を想像しただけで、胸が苦しくなる。そんな呼び方は、自分には近すぎる。
「……まだ、分かりません」
「なら、今は呼ばなければいい」
セナ先輩は簡単に言った。
「私は呼びたかったから聞いた。お前が同じことをする必要はないだろう」
「でも、私は、挨拶もなかなかできなくて」
「今日はした」
言葉が止まった。
「ここへ来て、寧夢に挨拶して、自分で席まで歩いた。できなかった話を今する必要があるのか?」
セナ先輩の言い方は優しくない。慰めるような声でもない。ただ、ミミルが今日したことを、したこととして数えている。
寧夢様が、こちらを見ていた。
「私も、ミミルちゃんが来てくれて嬉しかったです」
ミミルの耳が跳ねる。
「でも、来られない日があっても嫌いになったりしないからね。今日は来たいって思って、来てくれたんだよね?」
「……はい」
「それなら、今日はそれで十分だと思います」
待ってくれる。
セナ先輩のように、迷わず近づくことはできない。ユラ先輩のように、同じ教室で毎日隣へ座ることもできない。ルカ護衛官のように、ずっとそばで守ることもできない。
それでも寧夢様は、できないことではなく、今日ここへ来たことを見てくれた。
ミミルは弁当の包みの端を握った。胸の奥がいっぱいで、すぐには次の言葉が出ない。
だから、寧夢様は待った。
皆も、急かさなかった。
「あの」
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る少し前、ミミルはようやく顔を上げた。
「また、来てもいいですか」
寧夢様の表情が明るくなる。
「もちろん。私は嬉しいです」
すぐに答えた後、寧夢様はルカ護衛官を見た。
「学校と先生の許可がある時に、ですよね」
「はい。事前に確認が取れていれば、会話と同席に問題はありません」
「だそうです」
寧夢様が笑う。
ミミルも、今度は少しだけ笑えた。
「次は、最初から食べに来ればいい」
セナ先輩が空になった包みを畳みながら言った。
「来るなら、ですが」
「来るかどうかは、お前が決めろ」
「……はい」
同じように歩けなくてもいい。
セナ先輩は、自分で決めて大きく踏み込める。ミミルは何度も立ち止まり、教室へ入るだけで昼休みの半分を使ってしまう。
それでも今日は、自分の足でここまで来た。
弁当を包み直して席を立つと、寧夢様は椅子に座ったまま、ミミルへ手を振った。近づかず、触れず、でも、ちゃんとこちらを見ている。
「またね、ミミルちゃん」
「はい。また、来ます。寧夢様」
今度の声は、戸口からの挨拶より少し大きく出た。
セナ先輩はまぶしい。
けれど、その光に追いつけなくても、寧夢様までの道がなくなるわけではないらしい。
ミミルは熱くなった耳を伏せきらずに、付属中等部へ戻る廊下を歩いた。