ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す!   作:ミソギ・罪と罰

14 / 16
兎族後輩は先輩がまぶしい

 

 昼休みになったら、高等部へ行く。

 

 ミミルは朝から何度もそう決めて、そのたびに、やっぱり明日にしようと思い直していた。

 

 寧夢様と最後に話したのは、人間枠の編入初日。廊下で名前を呼ばれ、近づかないと言われて落ち込み、それでも嫌ではなかったと伝え、最後には自分から制服の袖へ触れてしまった。

 

 思い返すだけで、右手の指先が熱くなる。

 

 あの日から、寧夢様の噂は付属中等部まで届いていた。同じ教室の羊族の髪から紙を取り、猫族の耳についた粉を払ったこと。合同体力測定では、虎族の上級生が補助を務めたこと。どこまで正確なのかは分からないけれど、人間が獣人へ二度も触れたという話は、中等部でも昼休み一回分の話題になった。

 

 寧夢様の周りには、もうたくさんの獣人がいる。

 

 当たり前だ。高等部へ編入したのだから、同級生も先輩もいる。交流当番の生徒とは毎日話すだろうし、護衛官はずっとそばにいる。中等部のミミルが廊下で一度会っただけでも、寧夢様は困らない。

 

 だから、会いに行かなくてもいい。

 

 そう考えると胸の奥が痛くなり、ミミルは机の下で弁当の包みを握り直した。

 

「今日も行かないの?」

 

 前の席の友人が振り返った。

 

「きょ、今日もって」

「昨日も一昨日も、高等部の方を見てたから」

「見ていただけです」

「今日はお弁当まで持ったままだけど」

 

 ミミルは膝の上へ弁当を隠した。

 

 隠しても遅い。

 

「共用食堂へ行くかもしれないので」

「いつも教室で食べてるのに?」

「今日から、変わるかもしれません」

 

 苦しい言い訳だった。

 

 友人は長い耳を少し傾けたものの、それ以上は追及しなかった。代わりに、机の端へ置いていた水筒をミミルの弁当の横へ押す。

 

「忘れてる」

「……ありがとう」

「行くなら、昼休みが終わる前に帰ってきてね」

「行くとは言っていません」

「うん。行かないなら、ここで一緒に食べよう」

 

 どちらを選んでも責めない言い方だった。

 

 寧夢様と少し似ていると思った瞬間、また会いたくなった。

 

 ミミルは弁当と水筒を抱え、椅子から立ち上がった。

 

「……行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 教室を出るまでに、二度ほど足が止まった。それでも今度は、席へ戻らなかった。

 

☆

 

 付属中等部と高等部は渡り廊下でつながっている。

 

 普段なら、図書館や共用食堂へ行く生徒に混じって通れる場所だ。ただ今日は、廊下がいつもより長く感じられた。高等部へ近づくほど知らない制服が増え、背の高い生徒や肉食種の生徒も多くなる。誰かの話し声が響くたび、ミミルの耳は勝手に伏せそうになった。

 

 途中の職員室で訪問先を伝えると、高等部側へ短い確認が入った。護衛官と担任が教室にいるため、挨拶と昼食の同席は可能。ただし、接触は禁止。返ってきた言葉はそれだけで、ミミルは何度も頷いた。

 

 禁止されなくても、自分から触れる勇気なんてない。

 

 前は、触れてしまったけれど。

 

 高等部一年の教室が並ぶ廊下へ入ると、甘い匂いがわずかに届いた。壁も窓も見慣れないのに、それだけで進む方向が分かってしまう。

 

 胸が速くなる。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。たぶん、両方だった。

 

 開いた教室の戸口から、中を覗く。

 

 寧夢様は、窓側の席にいた。

 

 机の上には弁当箱があり、左隣には猫族の生徒が座っている。黒と白の混じった短い髪と、きちんと揃えられた三角の耳。交流当番のユラ先輩だと、噂で聞いた特徴に合っていた。

 

 教室の後方には、犬族のルカ護衛官。寧夢様との間に誰が入っても、すぐ動ける位置へ立っている。

 

 そして、寧夢様の机の向かいには、虎族の上級生がいた。

 

 短い黒髪。丸い耳。橙褐色に黒い縞の入った太い尾。机の横へ立っているだけなのに姿勢がきれいで、周囲の視線をまったく気にしていない。

 

「補助記録はこれで終わりだ。担任の確認も取った」

「ありがとうございます、セナさん」

「礼は担当教員に言え。私は事実を記入しただけだ」

「でも、持ってきてくれたのはセナさんなので」

「なら、受け取っておく」

 

 セナ先輩の片手には、記録用紙とは別に細長い包みがあった。

 

「セナさん、それ、お昼ですか?」

「ああ。記録を届けた後、ここで食べるつもりで持ってきた。都合が悪いなら食堂へ行く」

「悪くないです。ぜひ」

「なら、そうする」

 

 寧夢様が、虎族の先輩を名前で呼んでいる。

 

 それだけでも驚いたのに、先輩は記録用紙を机へ置くと、何でもないことのように言った。

 

「寧夢。昨日の脚に痛みはないか」

「ありません。少し筋肉痛ですけど」

「それは運動不足だな」

「否定できません」

 

 名前だけ。

 

 敬称も、名字もない。人間へそんな呼び方をする獣人を、ミミルは初めて見た。しかも、寧夢様は怒るどころか、ごく普通に返事をしている。

 

 すごい。

 

 虎族の先輩も。そんなふうに呼ばせている寧夢様も。

 

 ミミルは戸口の陰へ半歩下がった。挨拶だけするつもりだった。けれど、あの輪の中へ入れる気がしない。ユラ先輩は寧夢様の隣にいて、虎族の先輩は名前で呼び、ルカ護衛官はずっとそばにいる。

 

 自分は、名前を呼ばれただけで何日も眠れなくなったのに。

 

 帰ろう。

 

 そう決めて踵を浮かせた時、虎族の丸い耳がこちらを向いた。

 

 琥珀色の目が、まっすぐミミルを見る。

 

「そこにいる兎族。誰かに用か?」

 

 身体が固まった。

 

 教室の中にいた何人かも、戸口へ視線を向ける。その中で、寧夢様がミミルを見つけた。

 

「ミミルちゃん……!」

 

 顔が明るくなる。

 

 寧夢様は椅子から立ちかけたけれど、すぐに動きを止めた。前に、近づかないと約束したからだと思う。代わりに、席に座ったまま身体をこちらへ向ける。

 

「こんにちは、ミミルちゃん」

 

 それだけだった。

 

 どうして来たのかも、近くへ来られるのかも聞かない。手招きもしない。ただ、前と同じ声で名前を呼び、ミミルの返事を待っている。

 

 言わなければ。

 

 挨拶をしに来た。それだけのために、ここまで歩いてきたのだから。

 

「こ、こんにちは……寧夢様」

 

 声は小さかった。

 

 それでも届いたらしく、寧夢様は嬉しそうに笑った。

 

「こんにちは。会えて嬉しいです」

 

 耳が一気に熱くなる。

 

 挨拶を返しただけなのに。まだ戸口に立っているだけなのに、来てよかったと思ってしまった。

 

「ミミル様」

 

 ルカ護衛官が、教室の後ろから静かに呼んだ。

 

「職員室から連絡は受けています。入室して会話される場合は、寧夢様との間に一席分の距離を保ってください」

「は、はい」

 

 入ってもいい。

 

 許可が出たのに、足はすぐに動かなかった。教室の中にはたくさんの目があり、寧夢様の匂いは戸口より近くなる。何より、寧夢様のそばには、自分よりずっと堂々とした先輩たちがいる。

 

「弁当を持っているな」

 

 虎族の先輩が言った。

 

 ミミルは反射的に包みを胸へ抱えた。

 

「ここで食べるつもりだったのか?」

「えっと、その……できたら、と思って」

「なら、席はある」

 

 先輩は空いていた机を一つ引き、寧夢様の正面から少し右へずらした。自分はその隣へ移り、寧夢様との間に十分な距離を残す。

 

「ここなら条件にも合う。来るか?」

 

 迷いのない声だった。

 

 でも、命令ではなかった。来い、ではなく、来るか。断る余地が残っている。

 

 ミミルは寧夢様を見る。

 

 寧夢様は何も言わなかった。期待していることは、表情を見れば分かる。けれど、来てほしいとも、早くとも言わず、膝の上へ両手を置いて待っている。

 

 前と同じだった。

 

 近づくかどうかを、ミミルに決めさせてくれる。

 

「……行きます」

 

 一歩目は、足が震えた。

 

 二歩目で、寧夢様の匂いが少し濃くなる。

 

 三歩目には、もう引き返したい気持ちと、絶対に帰りたくない気持ちが半分ずつになっていた。

 

 それでも机までたどり着き、弁当を置く。椅子へ座ると、ユラ先輩が小さく頭を下げた。

 

「高等部一年のユラです。逢苗様の交流当番をしています」

「付属中等部三年の、ミミルです」

 

 ミミルも慌てて頭を下げた。

 

「その、お名前は聞いています」

「私も、ミミルさんのお名前は」

 

 二人とも、そこで言葉が止まった。

 

 何をどこまで聞いているのか、お互いに分かってしまったからだと思う。ミミルは寧夢様の袖へ触れた兎族。ユラ先輩は寧夢様に耳へ触れてもらった猫族。

 

 先に目を逸らしたのは、ミミルだった。

 

 耳へ触れてもらった。

 

 噂で聞いた時より、本人を前にした方が胸へ重く落ちる。羨ましい。でも、触れられたら自分がどうなるのかも分からない。羨ましいのに、怖い。気持ちが忙しかった。

 

「二年の斑目セナだ」

 

 虎族の先輩は、二人の間に流れたものを気にする様子もなく名乗った。

 

「昨日、寧夢の体力測定を補助した」

「斑目、先輩」

「私を知っているのか」

「陸上競技部の、短距離の方ですよね。中等部でも、お名前を聞いたことがあります」

「そうか」

 

 それだけ言うと、セナ先輩は持ってきた細長い包みを開き、パンを取り出した。人間のいる席へ自分から入り、名前だけで呼び、年下の兎族にも普段どおりに話す。何もかもが自然に見える。

 

 まぶしい人だと思った。

 

「ミミルちゃん、お昼、まだだったんだね」

 

 寧夢様に呼ばれ、ミミルは包みの結び目へ視線を落とした。

 

「はい。あの、ご挨拶だけにするか、ここで食べられたらお願いするか、決められなくて」

「お弁当を持ってきてくれたなら、一緒に食べられたら嬉しいです。でも、無理はしないでね」

「無理では、ないです。緊張はしていますけど」

 

 言ってから、自分の声が前よりまっすぐ出たことに気づいた。

 

 寧夢様も気づいたのか、少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに頷く。

 

「そっか。教えてくれてありがとう」

 

 また、その言葉だった。

 

 怖くないとは言えない。緊張しないとも言えない。それを正直に話しても、寧夢様は残念そうな顔をしない。来てくれたことと、怖いことを別々に受け取ってくれる。

 

 ミミルはようやく弁当を開いた。小さく切った根菜と葉物、丸いパン。いつもと同じ献立なのに、寧夢様と同じ机の輪に置くと、急に特別なものに見える。

 

 寧夢様の弁当は、今日も見たことのない料理が少しずつ詰められていた。ユラ先輩の弁当には魚が多く、セナ先輩は片手で食べやすいパンと肉が中心らしい。種族が違えば食べるものも違う。それでも四人で同じ時間に包みを開いていることが、不思議だった。

 

「ミミルちゃんは、今日は授業どうだった?」

「いつもどおりです。午前は、語学と生物がありました」

「生物。いいなあ。どんなところをやるの?」

「今日は、植物の分類です。種族の話ではなくて」

「分かってますよ」

 

 寧夢様は笑った。

 

 馬鹿にされた感じはしなかった。ミミルも少しだけ息を抜き、今朝習った植物の見分け方を話す。途中で言葉が詰まると、寧夢様は急かさず、パンを一口食べながら待ってくれた。

 

 ユラ先輩は、共用庭園に同じ植物があると教えてくれた。セナ先輩は、陸上場の脇にも生えているが、走る時には気にしたことがないと言った。

 

「踏まないんですか?」

「走路の外だ。踏まない」

「よかったです」

「心配するところはそこなのか」

 

 セナ先輩の口元が少し緩む。

 

 話せた。

 

 寧夢様だけでなく、ユラ先輩とも、セナ先輩とも。ほんの数言だけれど、逃げずに答えられた。

 

 嬉しくなって顔を上げた時、寧夢様の視線がセナ先輩の横へ向いていることに気づいた。

 

 太い縞模様の尻尾が、椅子の後ろでゆっくり揺れている。

 

 寧夢様の目も、それに合わせて左右へ動いていた。

 

「寧夢」

「はい」

「見てもいいとは言ったが、食事を止めて見ろとは言っていない」

「止まってました?」

「さっきから箸が動いていない」

 

 寧夢様が慌てて弁当へ視線を戻す。

 

「すみません。今日は動きが小さいなと思って」

「座っているからな」

「なるほど……!」

「納得するほどのことか?」

 

 セナ先輩は呆れているのに、尾を隠さなかった。

 

 昨日までなら、何の話をしているのか分からなかったと思う。でも、ミミルは以前、寧夢様が自分の長い耳へ視線を向け、それでも怖がらなかったことを知っている。いまセナ先輩の尾を追う目も、恐怖には見えなかった。

 

 本当なのだ。

 

 寧夢様は、セナ先輩の尻尾を見たくて食事を忘れている。

 

 普通なら、怖がって目を逸らすはずなのに。

 

 ミミルの耳が、少しだけ立った。自分の耳も見られたら、寧夢様は同じように目を止めるのだろうか。そう考えた途端、見てほしい気持ちと、見られたら隠れたい気持ちが一緒に湧いてくる。

 

 セナ先輩なら、きっと隠れない。

 

「斑目先輩は、すごいです」

 

 気づくと、口にしていた。

 

「何がだ」

「寧夢様に、普通にお話しできて。お名前でも呼べて」

 

 セナ先輩の丸い耳が、一度こちらへ向いた。

 

「許可を取ったから呼んでいる」

「私には、できないです。たぶん」

「名前で呼びたいのか?」

 

 あまりにもまっすぐ聞かれ、ミミルは喉を詰まらせた。

 

 寧夢様を見ることができない。呼んでみたいかもしれない。でも、寧夢、と口にする自分を想像しただけで、胸が苦しくなる。そんな呼び方は、自分には近すぎる。

 

「……まだ、分かりません」

「なら、今は呼ばなければいい」

 

 セナ先輩は簡単に言った。

 

「私は呼びたかったから聞いた。お前が同じことをする必要はないだろう」

「でも、私は、挨拶もなかなかできなくて」

「今日はした」

 

 言葉が止まった。

 

「ここへ来て、寧夢に挨拶して、自分で席まで歩いた。できなかった話を今する必要があるのか?」

 

 セナ先輩の言い方は優しくない。慰めるような声でもない。ただ、ミミルが今日したことを、したこととして数えている。

 

 寧夢様が、こちらを見ていた。

 

「私も、ミミルちゃんが来てくれて嬉しかったです」

 

 ミミルの耳が跳ねる。

 

「でも、来られない日があっても嫌いになったりしないからね。今日は来たいって思って、来てくれたんだよね?」

「……はい」

「それなら、今日はそれで十分だと思います」

 

 待ってくれる。

 

 セナ先輩のように、迷わず近づくことはできない。ユラ先輩のように、同じ教室で毎日隣へ座ることもできない。ルカ護衛官のように、ずっとそばで守ることもできない。

 

 それでも寧夢様は、できないことではなく、今日ここへ来たことを見てくれた。

 

 ミミルは弁当の包みの端を握った。胸の奥がいっぱいで、すぐには次の言葉が出ない。

 

 だから、寧夢様は待った。

 

 皆も、急かさなかった。

 

「あの」

 

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る少し前、ミミルはようやく顔を上げた。

 

「また、来てもいいですか」

 

 寧夢様の表情が明るくなる。

 

「もちろん。私は嬉しいです」

 

 すぐに答えた後、寧夢様はルカ護衛官を見た。

 

「学校と先生の許可がある時に、ですよね」

「はい。事前に確認が取れていれば、会話と同席に問題はありません」

「だそうです」

 

 寧夢様が笑う。

 

 ミミルも、今度は少しだけ笑えた。

 

「次は、最初から食べに来ればいい」

 

 セナ先輩が空になった包みを畳みながら言った。

 

「来るなら、ですが」

「来るかどうかは、お前が決めろ」

「……はい」

 

 同じように歩けなくてもいい。

 

 セナ先輩は、自分で決めて大きく踏み込める。ミミルは何度も立ち止まり、教室へ入るだけで昼休みの半分を使ってしまう。

 

 それでも今日は、自分の足でここまで来た。

 

 弁当を包み直して席を立つと、寧夢様は椅子に座ったまま、ミミルへ手を振った。近づかず、触れず、でも、ちゃんとこちらを見ている。

 

「またね、ミミルちゃん」

「はい。また、来ます。寧夢様」

 

 今度の声は、戸口からの挨拶より少し大きく出た。

 

 セナ先輩はまぶしい。

 

 けれど、その光に追いつけなくても、寧夢様までの道がなくなるわけではないらしい。

 

 ミミルは熱くなった耳を伏せきらずに、付属中等部へ戻る廊下を歩いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。