ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
昼休みが終わる直前、セナさんに放課後の予定を聞かれた。
陸上競技部の練習がある。見に来るか。
そんな、あまりにも魅力的なお誘いだった。
「行きます」
返事をするまで、一秒もかからなかったと思う。
「まだ、許可の確認が済んでいません」
後ろからルカさんに止められた。
セナさんは丸い耳を一度そちらへ向け、教室後方に立つルカさんを見る。
「陸上場は校内だ。顧問も部員もいる。護衛官も同行すれば問題ないと思うが」
「見学自体は可能です。ただし、練習区域への立ち入りと、運動中の生徒への接近は認められません」
「それでいい。寧夢も、走路へ出るな」
「出ません」
即答したけれど、二人とも少しだけ疑うような目を向けてきた。
さすがに出ない。犬族や虎族の全力疾走を間近で見たい気持ちはあるけれど、走っているところへ飛び出したら普通に危ない。それくらいの理性はある。
たぶん。
「寧夢様」
「大丈夫です。本当に見ているだけです」
「今、最後に何か不安な考えが混じりませんでしたか」
「混じってません」
ルカさんの耳は、しばらくこちらを向いたままだった。
それでも学校側へ確認が取れたらしく、放課後の見学は認められた。人間枠の生徒が部活動を見学すること自体は、交流の範囲に含まれるらしい。
つまり今日は、陸上競技部の獣人さんたちが走るところを合法的に見られる。
放課後が待ち遠しい……!
☆
陸上場へ着いた時、練習はすでに始まっていた。
楕円形の走路と、その内側に広がる芝生。校舎の窓から見た時よりずっと広く、地面へ引かれた白線は端までまっすぐ伸びている。見学用の長椅子は走路から十分に離れ、私はルカさんと並んでその手前に立った。
複数の部員が、組ごとに走っている。犬族の生徒は大きな耳を伏せて風を切り、鹿族らしい生徒は長い脚で軽やかに距離を進んでいた。誰も尻尾を邪魔そうにはしていない。走り出す瞬間には姿勢に合わせて伸び、曲がる時には均衡を取るように動いている。
すごい。
体力測定は、決められた種目を順番にこなす場所だった。ここでは、走るために身体を作ってきた人たちが、本気で速さを求めている。耳も、脚も、尾も、全部が一つの動きにつながっていた。
「寧夢様。長椅子へお掛けください」
「立って見ていたいです」
「走路へ近づかないと約束できますか」
「約束します」
ルカさんは私の顔をしばらく見た後、一歩だけ走路側へ移動した。私と白線の間へ、自分の身体を置く位置だった。
信用がない。
正当な評価ではある。
開始位置に、セナさんが立った。
昼休みとは違う、陸上競技部の練習着。腕や脚を動かしやすい形で、太い縞模様の尾は後ろへゆるく伸びている。軽く二度、その場で跳ねる。丸い耳が前へ向き、琥珀色の目は走路の先だけを見ていた。
合図が鳴る。
セナさんの身体が、前へ飛び出した。
速い……!
体力測定で見た反復横跳びも速かった。でも、あれは狭い範囲で切り返す動きだった。今は一歩ごとに地面を強く蹴り、走路を削るように加速していく。短い黒髪が後ろへ流れ、丸い耳は風を受けないよう伏せられ、太い尾が軸のぶれを抑えるよう低く伸びていた。
人間の私には、一つひとつの動きを目で追い切れない。気づけば開始位置から遠ざかり、もう終点へ近づいている。最後まで速度が落ちず、線を越えてから何歩もかけて減速していった。
「かっこいい……!」
声が漏れた。
近くにいた部員の耳がいくつかこちらを向き、何人かが驚いたように目を見開いた。人間が獣人の全力疾走を見て、怖いでも危険でもなく、かっこいいと言ったことの方が理解できないらしい。
セナさんにも聞こえたのか、遠くで丸い耳が一度だけ起き上がった。
そのまま次の組へ移り、何本も走る。休憩中には呼吸を整え、他の部員と短く言葉を交わし、また開始位置へ戻る。疲れているはずなのに、動きは最後まで大きく崩れなかった。
私は見学しているだけなのに、目が忙しい。
走る時の尾。止まる時の耳。腕を振るたびに変わる肩の線。息を整えるために胸が上下し、額へ浮いた汗が夕方の光に反射する。
動画で何度も見た獣人さんの運動とは違う。同じ場所に立つと、地面を蹴る音も、風が動く感じも伝わってくる。しかも、その中心にいるのが、昨日から名前で呼んでくれるセナさんである。
来てよかった。
本当に、ものすごく来てよかった……!
「寧夢様。呼吸をしてください」
「しています」
「先ほどから浅くなっています」
「興奮しているだけです」
「その申告は、安心材料になりません」
ルカさんは職務用の落ち着いた声だった。ただ、大きな耳は少しだけ後ろへ伏せ、尻尾も動いていない。
「ルカさんが訓練しているところも、今度見てみたいです」
思ったことを口にすると、ルカさんの尻尾が一度だけ長椅子へ当たった。
「……護衛官の訓練は、外部見学を前提としていません」
「セナさんの練習も見世物だと思っていませんよ。普段どう動いているのか、知りたくて」
「公開できる範囲は、保護局が判断します」
「そうですか?」
「そうです」
返事が少し早い。
嫌なのだろうか。そこまで拒否されると残念だけれど、ルカさんが嫌なら仕方ない。私はもう一度走路へ視線を戻した。
その横で、長椅子へ当たった尻尾が、今度は反対側へゆっくり動く。
どっちなのだろう。
短距離組は最後の一本を前に長めの休憩へ入り、部員たちは走路をゆっくり一周してから脚を伸ばし始めた。セナさんも呼吸を整えながら、腿の裏や足首を順番に伸ばしている。汗で短い髪の一部が額へ貼りつき、丸い耳は走っている時より少し外へ開いていた。
さすがに疲れている。
でも、近づいてはいけない。私は約束どおり見学場所に残り、こちらへ戻ってくるのを待った。
セナさんは水を飲み、汗を拭い、部員同士で練習内容を確認してから、ようやくこちらへ歩いてきた。運動直後なのに足取りは安定している。太い尾だけが、昼休みより低い位置で揺れていた。
「どうだった」
「すごかったです!」
聞かれた瞬間、言葉が勢いよく出た。
「最初の踏み込みから一気に速くなって、でも上半身はぶれなくて、腕と脚の動きも揃っていて。尻尾も走っている時は低く伸びているのに、曲線へ入ると少し外側へ動いていましたよね。耳も最初は前を向いていたのに、走っている間は伏せていて、終わったらすぐ戻って」
「そこまで見ていたのか」
「見学なので」
「見学の範囲が広いな」
セナさんは少し呆れた顔をした。
でも、嫌そうではない。丸い耳は私の声を拾うようにこちらを向き、尾も隠されていなかった。
「怖くはなかったか?」
「全然。目が追いつかないくらい速かったですけど、もっと見たいと思いました」
「そうか」
短い返事の後、セナさんは水筒を持っていない方の腕を見下ろした。
練習着の袖は肘より上まで短く、前腕の毛並みが見えている。橙褐色の短い毛に、外側へ黒い縞が一本入っていた。耳や尾より毛は短く、走った直後だからか、ところどころ流れが少し乱れている。
整えたい。
いや、待って。
触らない。今日は見るだけ。セナさんから見てもいいと言われたのは尾で、腕へ触れていいとは一度も言われていない。
私は自分の両手を、制服のスカートの横で握った。
「寧夢」
「はい」
「昨日、毛の密度を確かめたいと言っていたな」
覚えられていた。
「言いました」
「尾は駄目だ。耳も触らせない」
「はい」
そこは当然である。少し残念なのも本当だけれど、今日の目的は練習見学だ。すでに十分すぎるほど堪能した。
そう自分へ言い聞かせていると、セナさんが右腕を持ち上げた。
「前腕なら、耳や尾ほど敏感ではない。爪も届かない向きで、私からお前の手が見える」
肘を軽く曲げ、外側をこちらへ向ける。短い毛と黒い縞が、目の前に差し出された。
「ここなら、触ってみるか」
頭の中が、真っ白になった。
「……え?」
「聞こえなかったか」
「聞こえました。聞こえたから、確認しています」
「何を」
「本当に触っていいんですか?」
「私がそう言った」
セナさんは腕を下げない。
夕方の光の下で、短い毛の一本一本が見える。すぐそこにある。手を伸ばせば届く。ずっと触れてみたかった虎族の毛並みを、本人の方から触っていいと言われている。
夢では?
いや、夢ならルカさんがこんなに険しい顔をしていない。
「斑目様」
ルカさんの声は低く、硬かった。
「これは測定や運動補助に必要な接触ではありません」
「分かっている」
「人間から求められた結果でもなく、ご自身から申し出たという認識で間違いありませんか」
「間違いない。昨日、獣人から言えばいいと気づいた。だから、私が決めた」
セナさんは私ではなく、ルカさんを見て答えた。
「右の前腕だけ。毛の流れに沿って一度。私が腕を引いたら、その時点で終わり。それなら問題はあるか?」
具体的だった。
昨日から考えていたのだと思う。どこなら安全か。どんな触れ方なら自分が嫌ではないか。どうすれば途中でやめられるか。その全部を、セナさんが自分で決めてきた。
周囲にいた陸上部員たちの話し声が止まっている。
陸上部員たちは表情を強張らせ、耳まで動かさずに見守っている。人間が獣人の毛並みへ、必要もないのに触れる。それだけでも普通ではないのに、今回は獣人の方から差し出している。
走路に残っていた耳も視線も、ほとんどすべてこちらへ向いていた。
ルカさんはセナさんの呼吸、耳、尾を順に確認する。それから私へ向き直った。
「寧夢様」
「はい」
「斑目様から提示された部位と回数を守れますか」
「守ります」
「途中で腕が引かれた場合、即座に手を離してください」
「はい」
「毛並みを掴む、逆立てる、顔を近づける行為は禁止です」
「しません」
最後の一つだけ、念を押す声が少し強かった。
前科があるので何も言えない。
ルカさんから無香料の清拭布を渡され、私は両手を丁寧に拭いた。いつもなら簡単な動作なのに、指先が少し震えている。触りたくて仕方がなかったはずなのに、本当に許可されると怖い。
私が何かを間違えたら、セナさんが自分から選んだことまで後悔させてしまう。
「嫌なら、お前も断っていい」
セナさんが言った。
「嫌ではないです」
「なら、なぜ止まっている」
「大事に触りたいので、緊張してます」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
セナさんの耳が、ぴたりと止まる。
「……そうか」
その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。
私は右手を持ち上げ、セナさんから見える位置で一度止めた。
「触ります」
「ああ」
指先を、右の前腕へ下ろす。
柔らかい。
でも、耳や尻尾を想像した時のふわふわとは違う。表面はなめらかで、短い毛が同じ方向へ密に揃っている。指を置くだけでは沈まず、その下に鍛えられた腕の硬さと、運動後の熱が伝わってきた。
ゆっくり、毛の流れに沿って手を動かす。
橙褐色の部分を通り、黒い縞へ。色が変わっても毛の感触はほとんど同じで、けれど縞の境目を指先で越えたという事実だけで胸が跳ねる。
虎の毛並み……!
すごい。短い。密度がある。あたたかい。もっと細かく確かめたい。指の腹だけではなく掌でも触れてみたいし、毛流れが変わる場所も探したい。
でも、一度だけ。
私は約束どおり、手首の少し手前で指を止めた。
セナさんは腕を引いていない。それでも、二度目には戻らず、そのまま手を離す。
ほんの数秒だった。
周囲が息を止めていたことに、終わってから気づいた。
セナさんの丸い耳は外側へ開き、太い尾が地面と平行になるほど硬く伸びている。呼吸も、全力で走った直後より浅い気がした。
「大丈夫ですか?」
「問題ない」
返事は早かった。
「でも、尻尾が」
「走った後だからだ」
「さっきの整理運動では、もう少し下がっていましたけど」
「よく見ているな」
「見学なので」
同じ言葉を返すと、セナさんは口を閉じた。
耳の内側が赤い。やっぱり、平気ではないのかもしれない。人間の匂いは近いほど強く、触れられれば影響も出る。分かっていたはずなのに、自分から腕を差し出してくれた。
「無理をさせましたか?」
「させられていない。私が決めたと言っただろう」
声はまだ少し硬い。それでも、腕を隠すような動きはしなかった。
「お前の手が、思っていたより熱かっただけだ」
「運動したのはセナさんなのに」
「知っている」
セナさんの尾が、一度だけ大きく揺れた。
ルカさんは何も言わず、手元の端末へ今の接触を入力している。耳は後ろへ伏せたままで、尻尾も長椅子の脚へぴたりと沿っていた。
必要な接触ではない。セナさんが自分から申し出た。右前腕へ、毛流れに沿って一度。接触後、双方に異常なし。
たぶん、そういう記録になるのだと思う。
でも私の右手には、記録の文字では足りないものが残っていた。短い毛のなめらかさ。腕の熱。触れている間、セナさんが逃げずに待っていたこと。
「セナさん」
「何だ」
「ありがとうございました。本当に、すごくきれいな毛並みでした」
セナさんの耳が、少しだけこちらへ戻る。
「想像していたのと同じだったか?」
「思っていたより短くて、密度がありました。見た目はなめらかですけど、触ると一本一本がしっかりしていて、その下はすごくあたたかくて」
「もういい。感想が細かい」
「大事なので」
顔を逸らされた。
嫌がられたというより、これ以上聞きたくないらしい。耳の赤みが増えているので、照れているのだと思う。たぶん。
私はまだ温かい気がする右手を見た。
一度だけ。もう終わり。
分かっている。でも、次もあるのだろうか。今度はもう少し長く、あるいは別の場所を。そう考えた瞬間、私は口を開きかけて止めた。
自分から頼めば、セナさんは断りにくくなる。
今日はセナさんから言ってくれた。だったら、次もセナさんが決めることだ。
「今、何を言おうとした」
「次も触っていいですか、と聞きそうになりました」
正直に答えると、ルカさんが小さく息を吐いた。
「聞かないのか?」
「私から聞くと、断りにくくなるかもしれないので」
「昨日の話は覚えているらしいな」
「触るために大事なことなので」
セナさんは少し黙り、自分の右腕へ視線を落とした。私が撫でた毛は、ほとんど乱れていない。それでも左手で一度だけ表面をなぞり、毛流れを確かめる。
「次があるなら、私から言う」
「完全予約制ですね……!」
「予約を受け付けるとは言っていない」
「セナさん側からしか予約できない方式」
「方式でもない」
否定されてしまった。
でも、次はないとも言われなかった。
期待してはいけない。期待する。そこはもう仕方ないと思う。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「内容による」
「どうして、触っていいと言ってくれたんですか」
セナさんは、すぐには答えなかった。
陸上場では練習を再開する声が響き、止まっていた周囲の視線も少しずつ外れていく。セナさんの耳はその音を拾いながら、目だけはこちらへ向いたままだった。
「お前は触れたいと言った。だが、自分からは頼まないとも言った」
「はい」
「なら、私が触れさせたいと思うか、確かめる番だろう」
触れさせたいと思うか。
私の希望を叶えるためだけではなく、セナさん自身がどうしたいかを確かめる。その結果が、今日の右腕だった。
「確かめて、どうでした?」
「それは、まだ言わない」
今度は、はっきりと答えを避けられた。
でも、丸い耳はまだこちらを向いている。太い尾も、少しずついつもの高さへ戻りながら、先だけが一度、私の方へ動いた。
悪くはなかったのだと思いたい。
「そろそろ戻る。最後の一本がある」
「まだ走るんですか?」
「見に来たのだろう」
「見ます!」
セナさんは短く頷き、走路へ戻っていく。
その背中を見送りながら、私は右手を握ったり開いたりした。触れたかった毛並みに触れた。しかも、私から頼んだのではなく、セナさんの方から場所と触り方を決め、差し出してくれた。
嬉しい。
ものすごく嬉しい……!
それなのに、今まで誰かへ触れた時とは、少し違う。メルさんとユラさんの時は、必要なことを頼ってもらえたのが嬉しかった。今日は、必要でもないのに、私に触れさせることをセナさんが選んだ。
それがどうしてこんなに落ち着かないのか、まだ分からない。
「寧夢様」
ルカさんが端末を閉じた。
「今の接触は、学校で想定される一般的な交流よりも、個人的なものです」
「そうなんですか?」
「測定補助でも、身だしなみの手入れでもありません。斑目様が、ご自身の意思で寧夢様へ触れさせることを選びました」
「はい。それは分かっています」
「本当に、分かっていますか」
大きな耳が、まっすぐこちらを向いていた。
私は少し考える。
「セナさんが、私を信用してくれたということですよね」
ルカさんは何も言わなかった。
違ったのだろうか。
「ルカさん?」
「……その理解が誤りだとは申し上げません」
正解とも言われなかった。
走路の向こうで、セナさんがもう一度開始位置へ立つ。夕方の風が、短い黒髪と太い縞模様の尾を揺らした。
次があるなら、私から言う。
予約を受け付けているわけではないらしい。それでも、次という言葉は確かにあった。
合図が鳴り、セナさんが走り出す。
私は今度こそ息を忘れないようにしながら、右手に残った熱を握りしめて、その背中を追った。