ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
# 第17話 それ、求愛に見えるぞ
放課後の教室で、私は今日の数学で出された課題の、最後の一問と戦っていた。
授業中はユラさんに途中まで教えてもらったけれど、提出する課題なので、最後くらいは自分で解きたい。そう思って十分ほど粘ったものの、数字は増え、括弧は減らず、ノートの余白だけが順調に埋まっている。
「ここから先、何をすればいいと思いますか?」
「先ほども言いましたけど、先に同じ文字をまとめるんです」
「まとめたはずなんです」
「増えています」
隣から覗き込んだユラさんに、静かに事実を告げられた。本当だ。まとめる前より式が長い。
「数学は難しいですね」
「逢苗様が、途中で違う数字を書いたからだと思います」
「数学以前の問題でした」
消しゴムへ手を伸ばしたところで、教室の戸口から足音が近づいてきた。残っていた生徒たちの耳がいくつか同じ方向へ動き、私も顔を上げる。
「まだいたか」
セナさんだった。肩には陸上部の鞄を掛けているけれど、制服のままで、これから練習へ向かうらしい。
「いました。課題が終わらなくて」
「見れば分かる」
私のノートを一度見て、セナさんは短く答えた。分かってしまうほどひどいらしい。
「練習ですか?」
「その前に、寧夢へ話しておきたいことがある」
丸い耳が、まっすぐこちらを向いている。昨日、前腕へ触れさせてもらった件だろうか。昼休みにユラさんから確認されたばかりなので、追加で学校へ確認しておくことでもあったのかもしれない。私は姿勢を正し、後ろに立つルカさんを見る。
ルカさんは端末から顔を上げたものの、セナさんを止めなかった。護衛同席で話す分には問題ないらしい。
「何でしょう」
「寧夢は、自分のしていることが、獣人からどう見えるか知っているか?」
質問の範囲が広い。
「獣人さんに触りたがる、変わった人間でしょうか」
「それもある」
「否定されなかった」
「事実だろう」
事実だった。
セナさんは近くの机へ鞄を置くと、空いていた椅子を引いた。座る前にユラさんへ目を向ける。
「少し話す。いても構わないか?」
「私は、構いません」
返事をしたユラさんの尻尾が、椅子の横で一度だけ揺れる。帰り支度はほとんど終わっているのに、席を立つ様子はなかった。
セナさんが私の向かいへ座る。教室に残っていた生徒たちは、帰るでも会話へ加わるでもなく、それぞれの作業へ視線を落としたまま、いくつもの耳でこちらの会話を追っている。
「触りたがることだけなら、変わった人間だと思う」
「やっぱり変わってはいるんですね」
「昨日から何度も言っている」
「もう少し柔らかい意味になってきたのかと」
「願望を知った翌日に腕を差し出したからか?」
「はい」
「変わっていると思うことと、関わりたくないと思うことは同じではない」
なるほど。私は変わっているけれど、今のところ関わりを切られるほどではない。ひとまず安心していい評価だろうか。
「だが、今日の話を聞いていて、寧夢は別のことも分かっていないように見えた」
「別のこと?」
「食事を分ける。相手の毛並みを整える。名前や愛称で呼ぶ。耳や尾の動きを覚えて、本人へきれいだ、かわいい、格好いいと言う」
どれも、ここ数日で身に覚えがあった。焼き菓子をユラさんとメルさんへ分けた。メルさんの巻き毛から包み紙を取り、ユラさんの耳から粉を払った。年下だと知ったミミルちゃんをちゃん付けで呼び、セナさんとは名前で呼び合っている。耳や尻尾は、見ているうちに動きの違いまで分かるようになってきた。
セナさんが、机の上で片手を組む。
「それ、求愛に見えるぞ」
教室が静かになった。もともと誰も話していなかったのに、さらに静かになった気がする。廊下を歩く足音と、遠くの運動部の掛け声だけが聞こえた。
「……求愛?」
「そうだ」
「私が?」
「寧夢が」
「誰にですか?」
セナさんは答えず、今しがた並べた行動を思い出せと言うように私を見た。
多くない?
入学してから、まだ数日しか経っていない。なのに、数え方によってはユラさんとメルさんとミミルちゃんとセナさんへ、立て続けに求愛したことになってしまう。しかも学校へ来る前まで戻れば、ルカさんには初対面で抱きつき、耳を撫で、顔を埋めて匂いまで嗅いだ。
最初から最大級では?
「ルカさん」
「はい」
「私、出会った日にルカさんへ求愛していましたか?」
「あれは接触事故です」
間を置かずに訂正された。ただ、大きな耳は左右へ開き、尻尾が制服の脚へぴたりと沿っている。話題にしてはいけなかったらしい。
「今はルカの話をしていない」
セナさんにも戻された。
「でも、食事を分けたのは、お菓子が三つあったからです。毛についたものを取ったのは困っていたからで、ミミルちゃんは年下だったから、ちゃん付けにしていいか聞きました」
「寧夢には、それぞれ理由があるんだろう」
「はい。求愛のつもりはありませんでした」
「分かっている」
即答された。
「分かっているんですか?」
「今の顔を見れば分かる」
そんなに驚いている顔をしているのだろうか。両手で頬を押さえてみる。熱くはないけれど、口が少し開いたままだった。
「斑目先輩。すべての獣人が、同じ行為を求愛と受け取るわけではないと思います」
ユラさんが、机の上で指を組み直しながら言った。
「種族や家ごとに違いますし、食事を分けることだけなら、親しい友人同士でもあります」
「そうだな」
「毛並みを整えることも、必要があって本人が頼んだ場合まで、同じ意味にはならないです」
「それもそうだ」
セナさんは反論しなかった。だったら、どうして求愛に見えると言ったのだろう。私が首を傾げると、セナさんの太い尾が椅子の後ろで一度だけ曲がった。
「私は、獣人社会の作法を教えに来たわけではない」
琥珀色の目が私へ向く。
「私には、そう見えたという話をしている」
さっきまでより、声が少し低かった。
私は頬から手を下ろす。一般的な正解を聞くつもりでいたけれど、セナさんが話そうとしているのは、たぶんそこではない。
「昨日、寧夢は私が走るところを見て、怖がらずに格好いいと言った。毛並みに興味があると知って腕を差し出したら、決めた場所に一度だけ触れ、それ以上を勝手に求めなかった」
セナさんの左手が、制服の袖に覆われた右の前腕へ触れた。昨日、私が撫でた場所をなぞるように動き、指先はすぐに離れる。
「今日も、虎族なら誰でもいいのではなく、私が自分で決めて言葉にするところがすごいと言った。私が嫌なら断ると信じ、自分が嬉しかったことを隠さなかった」
「全部、本当に思ったことです」
「だからだ」
短く返される。
「耳や尾を見られるだけなら、落ち着かない。毛並みに触れたいと言われるだけなら、理解できない。だが、その前後まで合わせれば、私には、寧夢が私個人を選んで近づこうとしているように見えた」
選んで、近づく。今日の昼食で私が言ったことと、よく似ている。一人ずつ違うところを知りたい。誰にでも同じように触れたいのではない。そう説明したらユラさんは安心してくれたけれど、その違いを大事にする態度そのものが、セナさんには求愛に見えたらしい。
「寧夢様」
ルカさんが静かに呼ぶ。
「個々の行為だけで、求愛か否かが決まるわけではありません。関係性、本人の意図、受け取る側の認識が重なって意味が生じます」
「じゃあ、私は求愛していないつもりでも、相手にはそう見えることがある?」
「あります」
今度は否定されなかった。
「人間の方から食事を分けたり、相手の身だしなみに触れたりする行為は、それだけでも獣人側が特別な選択と受け取りやすい傾向があります。ただし、それを一律に恋愛感情と判断することもできません」
「軽いお裾分けのつもりでも?」
「人間から与えられる、という部分は軽くありません。以前にもお伝えしました」
言われた。焼き菓子を渡す前に、相手が軽く受け取るとは限らないと注意されている。
私は二人が嫌かどうかを確認し、ユラさんへはお礼も含むと伝えた。その時は、受け取ってもらえたから成功だと思っていたけれど、成功した交流の重さまでは分かっていなかった。
「ユラさん」
隣を見ると、黒と白の耳がぴんと立った。
「あの焼き菓子も、耳の粉を取ったことも、求愛されたみたいに感じましたか?」
「えっ」
ユラさんの尻尾が、椅子の脚へぶつかる。
「その、同じではないです。焼き菓子と、耳へ触れていただいたことは、意味が違いますし」
「どちらかは、そうだったんですか?」
「そういう聞き方をされても、すぐには」
困らせてしまった。
「ごめんなさい。今すぐ答えなくて大丈夫です」
「いえ。ただ」
ユラさんは伏せかけた耳を戻し、私を見た。
「耳の粉を取っていただいたのは、私からお願いしたことです。逢苗様が間違えてしたことには、しないでください」
思っていたのと違う返事だった。求愛だったか、そうでなかったかではない。ユラさんが気にしたのは、自分で頼んだ行動まで私の失敗に含められることらしい。
「分かりました。あれは間違いにはしません」
「はい」
ユラさんの耳から、少しだけ力が抜けた。でも、求愛に見えたかどうかの答えは出ていない。聞くのが怖いわけではないけれど、本人もすぐに言えないものを、私が急いで決めるべきではなさそうだ。
「セナさんは」
向かいへ視線を戻す。
「昨日、私に求愛されたと思ったんですか?」
「可能性は考えた」
「前腕を触った時に?」
「その前からだ。寧夢は私の走り方や尾を見ていたし、私について知ろうとしていた」
セナさんはそこで言葉を切り、丸い耳を私へ向けた。
「だが、寧夢が獣人の身体へ強く興味を持っていることも知っていた。私だけに向けた行動なのか、自分でも分かっていないのか、判断できなかった」
「自分でも、分かっていませんでした」
「今もだろう」
「はい」
正直に答える。セナさんを格好いいと思う。耳も尾も毛並みも好きで、また触れさせてもらえるなら嬉しい。自分から迷わず決めるところを尊敬していて、もっと話したいとも思っている。
でも、それが恋愛なのかと聞かれると、分からない。
元の世界では、人を好きになる気持ちと、動物を見て抱きしめたくなる気持ちは別だった。でも今は、耳や尾に惹かれた相手と話し、その性格を知り、私自身のことも知ってもらっている。かわいい、触りたい、仲良くなりたい。その全部は本心なのに、どこからが恋なのかだけ、きれいに線を引けなかった。
「求愛のつもりではなかったです」
「そうか」
「でも、セナさん個人を知りたいと思ったのは、本当です。そこまで違うことにしたくないです」
琥珀色の目が、少しだけ細くなる。
「なら、今はそれでいい」
「いいんですか?」
「私も、昨日の接触を何と呼ぶか決めていない」
セナさんの尾が、椅子の後ろでゆっくり一度だけ揺れた。
「ただ、嫌だったとは思っていない。嫌なら腕を差し出していない」
それは、前にも聞いた言葉だった。セナさんは自分で決めた。私はその言葉を信じると伝えた。求愛に見えると言われて驚いたからといって、そこまで疑ったら、今日セナさんを褒めた理由まで嘘になってしまう。
「話してくれて、ありがとうございます」
「寧夢が知らないまま続ければ、ほかの者も困ると思っただけだ」
そう言いながら、セナさんの丸い耳はわずかに外へ向いている。困るのは、ほかの人だけだろうか。気になったけれど、それを聞くには、私にはまだ求愛について分からないことが多すぎた。
「一つだけ確認してもいいですか?」
「何だ」
「セナさんが私を名前で呼ぶのも、求愛ですか?」
教室の耳が、また一斉にこちらへ向く。セナさんは少し考えた後、私から目を逸らさずに答えた。
「どう受け取るかは、寧夢が決めればいい」
教えてくれなかった。いや、たぶん、今度は私が考える番ということなのだろう。
「そろそろ練習へ行く」
セナさんは席を立ち、机の上の鞄を肩へ掛けた。
「寧夢」
「はい」
「知らなかったことを責めているわけではない。だが、知った後も同じようにするなら、自分の行動として考えた方がいい」
それだけ告げ、セナさんは教室を出ていった。廊下へ消える太い尾を目で追いかけそうになり、途中で止める。
見たら求愛になるのだろうか。
違う。たぶん、尾を見ること一つで決まる話ではない。そう説明されたばかりだ。
「難しい……」
「はい」
隣のユラさんが、小さく同意した。
「私、これまで何人に誤解させたんでしょう」
「それは、分かりません」
「ミミルちゃんにも、ちゃんと聞いた方がいいですか?」
ユラさんの尻尾が、今度は反対側へ揺れた。
「ミミルに聞くなら、急に答えを求めない方がいいと思います」
「そうですよね」
すぐに答えられないことは待つ。今日の昼食でも、自分でそう言ったばかりだ。それでも、知らないまま同じ行動を続けるのは怖い。私は友達になるつもりで近づき、相手は求愛されたと思っていたら、いつか大きく食い違ってしまう。逆に、相手が自分から選んでくれたことまで誤解だと決めつければ、それも違うらしい。
求愛ではないと伝える。相手がどう受け取ったかを聞く。嫌ではなかったか確認する。人間だから断れなかった可能性も考える。その上で、本人が選んだと言ったら信じる。やることが多い。
「寧夢様」
ルカさんに呼ばれ、顔を上げる。
「先ほどの課題が、まだ終わっていません」
求愛に気を取られていたせいで、ノートには長くなった式がそのまま残っている。
「……先に数学を確認します」
「そうしてください」
私は消しゴムを持ち直した。隣でユラさんが教科書をこちらへ寄せてくれる。頼んでいないのに手伝おうとしてくれた、と思った直後、それも好意の一つなのだろうかと考えてしまい、手が止まった。
「逢苗様?」
「いえ。まず、同じ文字をまとめます」
今は数学。
求愛については、明日、一人ずつきちんと確認しよう。
私はそう決めて、今度こそ式を消し始めた。