ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
昼休みの後、セナさんから、もう一度練習を見に来ないかと誘われた。
前回は、その後に右の前腕へ触れさせてもらった。今回も何かあるのかと期待してはいけない。あれは予約制で、次があるならセナさんから言うと決まっている。分かっている。分かっているのだけど、午後の授業中は少しだけ落ち着かなかった。
放課後、ルカさんと一緒に陸上競技場へ向かう。前回と同じ見学位置へ案内されると、ちょうど短距離の練習が始まるところだった。
セナさんは練習着姿で、ほかの部員と並んでいる。丸い耳が前を向き、太い尾が低い位置でゆっくり揺れていた。開始の合図が響いた瞬間、全員が地面を蹴る。
速い……!
知っていたはずなのに、目の前で見るとやっぱりすごい。獣人の走りは人間より力強く、一歩ごとの距離が長い。その中でもセナさんは身体の軸がほとんど揺れず、曲がった腕と尾まで一つの動きに見えた。
一番に線を越えても、すぐには速度を落とさない。何歩か先まで駆け抜け、少しずつ歩幅を狭めてから振り返る。橙褐色の尾が大きく揺れ、私を見つけた丸い耳がこちらへ向いた。
格好いい……!
私は拍手しそうになり、周りの部員がしていないことに気づいて手を止めた。危なかった。一人だけ観客のように盛り上がるところだった。
「されても構わないと思います」
隣のルカさんが言う。
「拍手ですか?」
「はい。練習の妨げにならない範囲であれば」
「次はします」
許可が出た。その後も数本の走行を見守り、最後の一本で遠慮なく拍手すると、セナさんの尾が一度だけ高く持ち上がった。ほかの部員の耳もこちらへ向いたけれど、接触した時ほどの緊張はない。人間が練習を見て拍手するだけなら、異常事態ではないらしい。少し安心した。
練習が一区切りつくと、セナさんは首へタオルを掛け、水筒を持ってこちらへ歩いてきた。走った直後なのに足取りは乱れず、呼吸もすでに整い始めている。
「来たな」
「誘ってもらったので。今日も格好よかったです」
「そうか」
短い返事だった。でも、丸い耳が少し前へ傾き、太い尾の先が背後で持ち上がっている。セナさんは褒められると、返事より耳と尾の方が素直になるらしい。
それを指摘したら、また求愛に見えるだろうか。昨日までなら考える前に口へ出していた。今日は一度だけ考え、それでも黙るのは違う気がした。
「セナさん、褒めると耳が前へ向きますね」
丸い耳が止まった。
「知った後も、そういうことを言うんだな」
「言わない方がいいですか?」
「私は嫌ではない」
一度聞いた。答えを信じる。
「では、言います。尻尾も上がっていて、嬉しそうです」
「そこまで見るのか」
「見えたので」
セナさんの尾が一度だけ地面を払った。嫌ではないと言われたので、撤回はしない。
「昨日の話は、考えたか」
求愛に見えると指摘されたことだ。私は考えた結果、今日の昼休みに起きたことを思い出した。
「考えすぎて、ユラさんとミミルちゃんを困らせました」
「何をした?」
「二人が自分で選んだと言ってくれたのに、匂いや人間の立場のせいではないかと何度も聞きました」
「そうか」
「相手に選んでもらおうとしたのに、嫌だという答えしか信じない聞き方になっていました」
「それには気づいたのか」
「ルカさんに教えてもらいました。一度聞いて、答えを信じます」
私は今朝ノートへ書いた一文を、そのまま口にした。セナさんは少し考えるように私を見た後、水筒の蓋を閉めた。
「なら、今日は私の話も一度で信じろ」
「はい」
迷わず答える。セナさんは競技場の脇にある長椅子へ目を向けた。練習中の部員から少し離れているけれど、ルカさんの立ち位置からは全体が見える場所だった。
「座って話したい」
「分かりました」
二人で長椅子へ移動する。ルカさんは数歩後ろに立ち、周囲を確認してから端末を手にした。私的な会話でも、護衛と記録は続くらしい。
セナさんはタオルで額の汗を拭き、隣へ座った。前回腕へ触れた時より距離はある。それでも風向きが変わると、運動後の熱を含んだ毛の匂いが少し届いた。
いい匂い。
いや、今は私が嗅ぐ側の話ではない。
「寧夢」
「はい」
「私は、人間の匂いに影響されないわけではない」
セナさんはまっすぐ前を見たまま言った。
「体力測定で初めて近づいた時から、寧夢の匂いは強かった。手を貸した時も、腕へ触れさせた時も、もっと近くにいたいと思った」
太い尾が、長椅子の後ろでゆっくり揺れる。
「隠そうと思えば隠せる。匂いは関係ないと言った方が、私の意思は強く見えるかもしれない。だが、それは事実ではない」
セナさんらしいと思った。自分に不利かもしれないことも、最初から言葉にする。私が安心する答えではなく、自分が本当に選んだ答えを出そうとしている。
「匂いで近づきたくなったことは、本当なんですね」
「そうだ」
一度だけ確認し、頷く。
「分かりました。信じます」
セナさんの丸い耳が、少しだけこちらへ向いた。
「でも、話はそれで終わらない」
「はい」
「匂いだけなら、近づいた後に距離を取ればいい。寧夢がどんな人間かを知ろうとは思わない」
「匂いは、最初に近づいた理由ですか?」
「入口の一つだ。だが、そこから先へ進むかは相手を見て決める」
水筒を持つ指へ、わずかに力が入る。
「寧夢は、私が人間より速く走ることを怖がらなかった。見世物のように力を求めず、格好いいと言った。私が腕だけと決めれば一度で手を離し、次を自分から要求しなかった」
前回のことを、一つずつ確かめるように話している。
「ミミルが教室へ入れない時も、代わりに決めずに待っていた。自分が間違えた時は、言い訳をして終わらず、どうすればいいか考え直した」
「今日は、かなり間違えましたけど」
「だから考え直したんだろう」
失敗しないことではなく、失敗した後のことまで見られていた。褒められたのとは少し違う。でも、耳や尾がきれいだと言うより、ずっと深いところへ言葉が入ってくる。
「私は、そういう寧夢に興味を持った」
心臓が一度強く鳴り、こちらを向いたセナさんの琥珀色の目と、正面から視線が合った。
「人間だからでも、匂いが好きだからでもない。寧夢だから、もっと知りたいと思っている」
冗談に聞こえる余地はなかった。人間の匂いが好きだから、という説明だけなら、私はまだ気楽に受け止められたと思う。動物に懐かれやすい体質のようなものだと考えれば、自分自身が選ばれたわけではない。
でもセナさんは、匂いに惹かれた事実を隠さないまま、その先で私を知りたいと思ったと言った。匂いだけのせいにも、本能だけのせいにもさせてくれない。
それでも、興味という言葉なら、友達になりたいという意味かもしれない。私が判断できずにいることまで見抜いたように、セナさんは続けた。
「友人としてだけではない」
逃げ道がなくなった。
「私は寧夢を、私から求愛してもいい相手として見ている」
求愛。昨日まで、自分が無自覚にしていたかもしれない行動の名前。それを今度は、セナさんが自分の意思で、私へ向けた。
「……!」
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。頬が熱い。耳はないけれど、もし生えていたら、たぶん今のセナさんには向けられなかったと思う。
後ろから小さく硬い音がした。振り返ると、ルカさんの尻尾が長椅子の脚へ触れたらしい。本人は端末へ視線を落としたままで、表情を変えていない。今はルカさんの反応を考えている場合ではなかった。
「セナさんは、私が好きなんですか?」
「その言葉でまとめてもいい」
あまりにも迷いがない。
「前に、名前で呼ぶのも求愛なのか聞きました」
「聞かれたな」
「あの時は、どうだったんですか?」
セナさんは少し考え、丸い耳を一度だけ外へ向けた。
「あの時は、まだ求愛すると決めていなかった。だが、ほかの者と同じ距離にいるつもりもなかった」
「呼びやすいから、と言っていました」
「それも本当だ。理由は一つでなくていい」
呼びやすかったことも、私との距離を変えたかったことも、どちらも嘘ではなかったらしい。匂いと好意を無理に切り離さなかったのと同じだった。
「でも、匂いの影響もある?」
「ある。それを含めても、寧夢を知った後に残った気持ちは、私のものだ」
今日の昼休みに学んだばかりのことを、試されている気がした。匂いの影響があるなら本当の好意ではない、と私が決めてはいけない。匂いへ惹かれたことと、私を知って興味を持ったこと。その両方があると、セナさんは一度で伝えてくれた。
「信じます」
口にすると、胸の奥がさらに落ち着かなくなった。信じるということは、セナさんが私を好きだという事実を受け取ることである。
すごい。獣人さんに告白された。しかも虎族の、速くて格好よくて、毛並みがものすごく好みの先輩に、好きだと言われた。
嬉しい……!
いや、待って。喜ぶだけでは、返事にならない。
「私は、まだ自分の気持ちが恋愛なのか分かりません」
「知っている」
「耳も尾も毛並みも好きです。走っているところも、迷わず自分で決めるところも格好いいと思っています。もっと話したいし、また触らせてもらえるなら嬉しいです」
「それも知っている」
「全部知られている……」
今さら隠せるとは思っていなかったけれど、あらためて言われると恥ずかしい。セナさんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「今、同じ気持ちだと答える必要はない。分からないなら、分からないと言えばいい」
「嫌なら、嫌だと言っても?」
「当然だ」
いつもの言葉だった。セナさんは私へ近づく時、自分の希望を隠さない。でも、私が断る場所も同時に残してくれる。
「嫌ではないです」
私は一度だけ答えた。
「好きだと言ってもらえて、嬉しいです。まだ同じ言葉では返せないけど、セナさんのことをもっと知りたいです」
セナさんの丸い耳が前を向き、太い尾が長椅子の後ろを一度だけ打った。
「それが、今日の寧夢の答えか」
「はい」
「分かった。信じる」
今度は、私の答えをセナさんが受け取ってくれた。それだけで、さっきまで速かった心臓が少し落ち着く。
「ただし、次に腕へ触れさせるかは別に決める」
「はい。予約は別ですね」
「予約と呼ぶのか」
「違いましたか?」
「大きくは違わない」
よかった。求愛されたからといって、接触許可まで自動で増えるわけではない。そこが変わらないことにも安心した。
セナさんは長椅子から立ち、首のタオルを直した。
「話は終わりだ。私は練習へ戻る」
「伝えるために呼んでくれたんですか?」
「そうだ。寧夢が私の言葉を信じられるようになった後で言いたかった」
昼休みの失敗まで、この話につながっていたらしい。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「でも、嬉しかったので」
セナさんは何も返さず、競技場へ向き直った。丸い耳は前を向いたまま、尾だけがもう一度高く上がる。私は今度こそ、遠慮せず拍手した。
「寧夢様」
セナさんが練習へ戻った後、ルカさんが端末を持ったまま私を呼んだ。
「今の会話は、本日の交流記録へ記載します」
「求愛も記録されるんですか?」
「校内交流が私的な関係へ進む意思を、斑目様が明言されましたので」
ルカさんは端末へ視線を落としたまま、もう一つ付け加えた。
「この記録は学校と保護局へ共有され、必要に応じて、現在の交流条件を継続できるか確認されます」
「求愛は規則違反ではなくても?」
「違反の有無とは別の確認です」
告白されたことと、耳や毛並みへ安全に触れられるかが、どうつながるのかはまだよく分からない。ただ、セナさんが私を友人以上の相手として選んだことで、今までと同じ一般交流ではなくなるらしい。
ルカさんの声は最後まで職務的だった。ただ、大きな耳は少し後ろへ倒れ、尻尾はまだ脚へぴたりと沿っている。
「記録しないでほしいとは言いません」
「承知しました」
私が隠してほしいと頼んでも、ルカさんは職務上、書かなければならなかったのだろう。それでも私の意思を確認してくれた。端末へ文字が打ち込まれていく。
こうして私は、初めて正面から向けられた求愛を、胸の中だけでなく、保護局へ提出される記録の中にも残すことになった。