ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す!   作:ミソギ・罪と罰

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兎耳後輩はたまに変

 代理の騎士が来たのは、ルカさんが部屋を出てから十五分ほど経った頃だった。その十五分の間、私はずっと反省していた。いくら相手の尻尾が嬉しそうに揺れていたからといって、いきなり飛びついて撫でて吸うのはさすがに良くない。相手は人。人である。耳と尻尾があって、毛並みが最高で、抱き心地も匂いも素晴らしかったとしても、人なのである。

 

 ……いや、最後の方は反省じゃなくて反芻だった。危ない……!

 

「逢苗寧夢様。代理護衛官のキリカです」

 

 扉の向こうから聞こえてきた声に、私は慌てて背筋を伸ばした。

 

「ど、どうぞ」

 

 入ってきたのは、黒い制服に身を包んだ、すらりとした女性だった。短く整えられた黒髪からは三角の耳が覗き、腰の後ろでは長い尻尾がゆっくり揺れている。犬系ではない。猫……いや、黒豹っぽい?

 

 大型犬系騎士の次は、黒豹系騎士……!

 

 この世界、私の理性を試しすぎでは……?

 

「本日はルカ護衛官に代わり、私が同行いたします。朝食後の保護局面談、通学許可の最終確認、生活用品店への立ち寄りまで、すべて予定通り進行します」

「よろしくお願いします。あの、ルカさんは大丈夫ですか?」

「休息室で経過観察中です。命に別状はありません」

「命に別状」

 

 思っていたより物々しい言い方が返ってきて、私は思わず復唱してしまった。命に別状はない。つまり、命に別状が出る可能性を想定するような体調不良だったということだろうか。えっ、私、そんな状態の人に飛びついたの……? 最低では……?

 

「私が、その……無理をさせたんですよね。あとでちゃんと謝ります」

「そのようにお伝えします」

 

 キリカさんは淡々と頷いた。表情はあまり変わらない。耳も尻尾も必要最低限しか動かない。プロだ。これは完全にプロの騎士である。……だからといって、油断して触っていい理由にはならない。触らない。今日は触らない。絶対に。

 

「なお、寧夢様。本日の外出中は、私の指示に必ず従ってください」

「はい」

「特に、接触行為は厳禁です」

「はい……」

「匂いを嗅ぐ行為も含みます」

「はい…………」

 

 言い方が具体的すぎる。もしかしてルカさん、報告した? いや、職務上当然か。私だって、護衛対象が急に飛びついてきて首元を吸ったら報告する。報告しない方が怖い。

 

 私は頬の熱を誤魔化すように、胸元の身分札を指先で触った。

 

「今日はちゃんとします」

「承知しました」

 

 信じていない声だった。いや、私も自分を百パーセント信じているわけではないけれど。

 

☆

 

 朝食は、思っていたよりも静かに終わった。お母さんは私とキリカさんを交互に見て、何か言いたそうにしていたけれど、結局「気をつけて」とだけ言って送り出してくれた。たぶん、ルカさんの件はもう伝わっている。お母さんの視線が、昨日よりさらに心配を増していたから。

 

 玄関前には黒い車が用意されていた。運転席にも獣人の人がいて、キリカさんが先に周囲を確認してから、私を後部座席へ促す。完全に要人警護のそれである。

 

 窓の外に流れていく街は、私の知っている都会とよく似ていた。広い道路。信号。高い建物。店の看板。だけど、歩いている人たちの頭には耳があり、後ろ姿には尻尾がある。犬系の人が信号待ちで尻尾を揺らしていて、猫系の人が日陰を選んで歩いていて、狐系っぽい女性がスマホを見ながら器用に尻尾を避けてバッグを持っている。

 

 ……すごい……!

 

 現実が、ずっと画面越しに見ていた夢みたいな光景で満ちている。

 

「寧夢様」

「はい」

「窓に額をつけないでください」

「つけてました?」

「つけていました」

 

 危ない。完全に子どもだった。

 

 私はおとなしく座席に座り直す。キリカさんは向かいの席で、私の様子と外の様子を同時に見ていた。視線の動かし方に無駄がない。ルカさんとは違う意味で隙がない人だ。

 

「外の獣人さんたちって、みんな人間の匂いが分かるんですか?」

「距離や風向きによります。車内であれば、通常は問題ありません」

「通常は」

「窓を開けたり、身を乗り出したりしなければ」

「しません」

 

 たぶん。いや、しない。今日はちゃんとする日だ。

 

 保護局は、中央区の中でもひときわ大きな建物だった。白い石のような外壁に、銀色の紋章。役所というより病院か大学みたいで、入口には何人もの警備員が立っている。車寄せに着くと、キリカさんは先に降りて周囲を確認し、それから私に手で合図した。

 

 外へ出た瞬間、ざわり、と空気が動いた。大げさではなく、本当にそう感じた。入口近くにいた獣人さんたちの視線が、こちらへ一斉に向く。耳が立つ。尻尾が止まる。誰かが小さく息を呑む。

 

 ……え、そんなに?

 

「寧夢様、こちらへ」

 

 キリカさんが半歩前に出る。声は静かだけど、周囲の空気がそれだけで少し引き締まった。

 

 私は慌ててキリカさんの近くに寄る。半径三歩以内。半径三歩以内である。密着は駄目。密着は駄目だけど、近くにいるだけなら規則の範囲内。

 

 正直、心強かった。視線が怖い、というより、全員に見られていることが落ち着かない。私はこの世界の人間がどれだけ珍しいのか、まだ感覚として分かっていなかったのだと思う。

 

 建物の中に入っても、それは変わらなかった。

 

 受付の人は丁寧に頭を下げ、通路にいた職員さんたちは自然な動きで道を空ける。誰も露骨に近づいてこない。むしろ距離を取りすぎているくらいなのに、耳や尻尾だけがこちらを意識している。

 

 すごく見られている。でも、みんなちゃんと距離を守っている。

 

 それが分かると、少しだけ胸が痛くなった。獣人さんたちが危ないから、というより、危ないと思われないように全員が我慢しているように見えたから。

 

「……皆さん、ちゃんとしてるんですね」

「職員ですので」

「そうじゃなくて。ちゃんと我慢して、距離を取ってくれてるんだなって」

 

 何気なくそう言うと、キリカさんがわずかに瞬きをした。

 

「寧夢様は、そう捉えるのですか」

「え?」

「いえ。面談室はこちらです」

 

 今のは、変なことを言っただろうか。

 

 でも、否定されたわけではなさそうだった。キリカさんの尻尾が、ほんの少しだけゆっくり揺れたから。

 

☆

 

 面談は、書類と説明と確認の山だった。健康状態。記憶の混乱がないか。昨日から急に外出意欲が増している理由。明日から通う学校での注意事項。人間枠編入生として守るべき規則。匂い酔いを誘発しないための香油や衣類の管理。聞けば聞くほど、私の生活は思っていたよりも細かく管理されているらしい。

 

 ただ、これを全部窮屈だと言い切るには、周囲があまりにも真面目だった。担当の職員さんも、キリカさんも、私を閉じ込めたいというより、本気で事故を防ぎたいように見える。だから私は、なるべく素直に頷いた。昨日の注意映像で頭に入っていなかった分も、今日はちゃんと聞く。

 

 ちゃんと聞く。ちゃんと守る。

 

 そのうえで、いつか安全にケモミミに触る。

 

「寧夢様」

「はい」

「最後の部分だけ、顔に出ていました」

「最後の部分ってどこですか」

「分かっていないのであれば結構です」

 

 キリカさんは、淡々としているのに妙に鋭い。

 

 面談が終わる頃には、私は軽く疲れていた。説明を聞くだけでこんなに消耗するなんて、明日からの学校生活は大丈夫なんだろうか。人間枠。編入生。名門校。保護対象。改めて並べると、肩書きが多すぎる。

 

 保護局の職員さんから手渡された案内書には、学校名と校章、それから「高等部一年・特別人間枠」と印字されていた。

 

「高等部一年……」

 

 十五歳。高校生。やっぱり現実らしい。元の感覚では、もう一度高校生をやるなんて想像もしていなかった。しかも、周囲は獣人だらけ。授業どころではない気がする。

 

 いや、授業は受けよう。ちゃんと。

 

「この後は生活用品店ですか?」

「はい。学校指定品の受け取りも兼ねています。保護局連携区画内の店舗ですので、一般区域よりは安全です」

「学校の人も来るんですか?」

「一部の生徒は利用します。特に付属中等部、高等部の生徒は、制服や教材の受け取りで訪れることがあります」

「なるほど」

 

 つまり、明日から同じ学校に通う獣人さんたちと会う可能性がある。

 

 私は思わず深呼吸した。落ち着け。ここで変なことをしたら、入学前から噂になる。いや、もう人間枠というだけで噂になっている可能性はあるけど、少なくとも「初日に獣人に飛びついた人間」として噂になるのは避けたい。

 

 ……ルカさんの件は、家の中だからセーフ。セーフということにしておきたい。

 

☆

 

 生活用品店は、保護局の建物と渡り廊下で繋がっていた。店というより、学校指定品の受け取り窓口と、上品な雑貨屋を合わせたような場所だ。棚には文房具、髪留め、香油、布製品、制服の小物が並び、奥の方には採寸室らしき個室もある。

 

 そして当然のように、店内にもケモミミがいた。学生服を着た猫系の子。大きな角のある獣人の男の子。狐系の店員さん。皆、私を見ると一瞬だけ動きを止め、それから慌てたように視線を逸らす。

 

 あまり見られると落ち着かないけれど、見ないようにされるのもそれはそれで寂しい。難しい。

 

「寧夢様、こちらで指定品を確認します。しばらくお待ちください」

「はい」

 

 キリカさんが窓口で書類を出している間、私は三歩以内を守ったまま、近くの棚を眺めた。人間用の香油、獣人用の毛並みブラシ、匂い抑制用の小袋、保護局認可のハンカチ。

 

 毛並みブラシ……!

 

 私は棚の前で足を止めた。ブラシがある。つまり、ブラッシング文化はある。獣人さんたちは自分で毛並みを整えるのだろうか。それとも家族同士で整えるのだろうか。番行為なのか、日常ケアなのか。気になる。ものすごく気になる。

 

「寧夢様」

「見てるだけです」

「何も言っておりません」

 

 言われる前に弁解してしまった。

 

 キリカさんの耳が少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。黒豹系の人の笑い方、控えめすぎて難しい。

 

 その時だった。

 

 棚の向こうで、小さな悲鳴が上がった。

 

「ひゃっ」

 

 振り返ると、書類の束が宙に舞っていた。白い紙がばさばさと床に散らばる。その中心で、兎系の女の子が尻もちをついている。淡い茶色の髪。頭の上には長い耳。体は小柄で、制服の袖から覗く手首も細い。

 

 兎……!

 

 いや、人。人である。兎系の人。

 

 私は一歩踏み出しかけて、すんでのところで止まった。今日はちゃんとする日。勝手に近づかない。勝手に触らない。

 

「キリカさん、助けてもいいですか」

 

 口に出して確認できた。えらい。私は今、ちゃんと成長している。キリカさんは周囲と兎系の女の子を素早く確認し、短く頷いた。

 

「私が間に入ります。寧夢様は、距離を保って声をかけてください」

「はい」

 

 私はキリカさんの後ろから、できるだけゆっくり近づいた。

 

「大丈夫? 怪我してない?」

 

 女の子はびくっと肩を跳ねさせた。伏せかけていた長い耳が、私の声に反応して揺れる。そして、こちらを見た瞬間、真っ赤になった。

 

「に、にんげ……」

「あ、ごめん。驚かせたよね。近づきすぎないから」

 

 私はその場で足を止め、両手を見える位置に上げた。動物相手なら、急に上から手を出すのは良くない。逃げ道を塞がない。声は低すぎず、高すぎず。ゆっくり。……いや、相手は人なんだけど。人なんだけど、怖がらせないための基本はたぶん同じだ。

 

「紙、拾うね。触っていいもの?」

「え、あ、はい……」

 

 女の子が小さく頷いたので、私は床に落ちた書類を拾い始めた。キリカさんも手伝ってくれる。書類には、学校名と、付属中等部の文字があった。

 

「同じ学校の子?」

「は、はい。付属中等部、三年の……ミミル、です」

「ミミルさん。私は逢苗寧夢。明日から高等部に編入する予定なんだ」

「あい、びょう、ねむ……様」

 

 様。

 

 また様である。ルカさんやキリカさんは職務上だからまだ分かるけれど、学生さんにまで様付けされると、なんだか背中がむずむずする。

 

「様じゃなくていいよ。まだ入学前だけど、学校では先輩になるのかな? でも、寧夢で大丈夫」

「そ、そんな、無理です……」

 

 ミミルさんはぶんぶんと首を振った。長い耳も一緒に揺れる。

 

 かわいい……!

 

 まずい、見た目の情報量が強い。小柄な子が耳を揺らしているだけで、私の中の何かが大変なことになる。

 

 でも、ここで飛びついたら終わりだ。社会的に終わる。二話目で同じ失敗を繰り返す主人公にはなりたくない。

 

「じゃあ、呼びやすい呼び方で。立てそう?」

「は、はい」

 

 ミミルさんは立ち上がろうとして、また少しふらついた。反射的に手を出しかけて、私は止める。偉い。止めた。止めたけど、ミミルさんの膝が少し赤くなっているのが見えた。

 

「膝、擦ってるかも」

「え……?」

「痛くない? 無理に立たなくていいよ」

 

 そう言うと、ミミルさんは自分の膝を見下ろして、それからなぜか泣きそうな顔をした。痛かったのだろうか。いや、痛いよね。転んだもんね。

 

「キリカさん、手当てってできますか?」

「店舗内に救護用品があります。店員を呼びます」

「お願いします」

 

 私がそう言った瞬間、ミミルさんの指が、私のスカートの端を掴んだ。ほんの少し。爪先で引っかけるみたいな、弱い力だった。

 

 私は動きを止める。キリカさんも、ぴたりと止まった。

 

「ミミルさん?」

 

 声をかけると、ミミルさんは自分が何をしたのかに気づいたように、慌てて手を離そうとした。でも、その手が震えている。

 

「ご、ごめんなさい。違、違うんです。失礼なことを」

「ううん。大丈夫」

 

 私はその場にしゃがんだ。目線を合わせる。近づきすぎないよう、少しだけ距離を残して。

 

「怖かった?」

 

 ミミルさんは答えなかった。ただ、耳がぺたんと伏せている。息も浅い。緊張している子を前にすると、放っておけない。これはもう性分だ。

 

「私が近くにいると、しんどい?」

 

 そう聞いた瞬間、ミミルさんの目が大きく見開かれた。失敗したかもしれない。人間が近くにいるとしんどいなんて、本人に言いづらいに決まっている。そう思って、私は少し後ろへ下がろうとした。

 

「だったら、少し離れるね」

「や……っ」

 

 小さな声だった。それなのに、はっきり聞こえた。ミミルさんは今度こそ、私の袖を掴んでいた。さっきより強く。けれど、強く引くというより、離れないでほしいと縋るように。

 

「……離れない方がいい?」

 

 こくり、とミミルさんが頷く。

 

 どうしよう……?

 

 怖がっているのか、離れたくないのか、具合が悪いのか、私にはまだ分からない。ただ、少なくとも今この瞬間、乱暴に引き剥がすのは違う気がした。

 

「キリカさん」

「寧夢様、接触は」

「分かってます。触らないです。けど、このまま急に離れる方が怖がらせそうなので、少しだけ」

 

 キリカさんは厳しい顔をした。でも、ミミルさんの耳と手を見て、短く息を吐く。

 

「三十秒です。異常があれば、すぐに離れます」

「ありがとうございます」

 

 私はミミルさんに向き直った。

 

「ミミルさん、私はここにいるからね。ゆっくり息して。大丈夫。急に動かないし、嫌なこともしないから」

 

 ミミルさんの肩が、小さく上下した。吸って、吐く。吸って、吐く。少しずつ呼吸が落ち着いていくのが分かる。伏せていた耳も、ほんの少しだけ戻った。

 

 よかった。パニックみたいになっていたのかもしれない。

 

「手、つかまる? 嫌ならいいよ」

 

 私は掌を上にして、ゆっくり差し出した。掴むかどうかは相手に任せる。これは動物相手でも人相手でも、たぶん大事なことだ。

 

 ミミルさんは、私の手をじっと見つめた。それから、おそるおそる指先を乗せる。小さくて、あたたかい手だった。

 

「大丈夫。ゆっくりでいいよ」

 

 そう言った次の瞬間。

 

 ミミルさんは、私の掌に頬を寄せた。

 

「……へ?」

 

 すり、と。

 

 兎系の女の子の柔らかい頬が、私の掌に触れる。耳が震えて、喉の奥から小さく息が漏れる。私の手を掴んでいた指に、ぎゅっと力がこもった。

 

 えっ……?

 

 これは、どういう状態……?

 

 甘えている? 安心している? 具合が悪くて、何かに寄りかかりたい? いや、兎系の子が頬を擦り寄せてくるって、絵面としてはかわいすぎるけど、状況としてはたぶんまずい。

 

 周囲が静かになっていた。店員さんも、学生さんたちも、全員が息を潜めてこちらを見ている。キリカさんの尻尾も止まっている。

 

 あ、これ、まずいやつだ。

 

「ミミルさん。嫌じゃない? しんどくない?」

「……いい、におい」

 

 小さな声だった。

 

 私は固まった。

 

 いい匂い……?

 

 それはつまり、私の匂いの話だろうか。いや、香油の可能性もある。今朝も高そうな香油の匂いがしていたし。そうだ、たぶん香油。きっと香油。

 

「寧夢様」

 

 キリカさんの声が、低くなった。

 

「お手を」

「は、はい」

 

 私はゆっくり手を引こうとした。すると、ミミルさんの指が私の手を握った。

 

「あ……」

 

 ミミルさん自身も、驚いた顔をしていた。反射的に掴んでしまった、という表情だ。目が潤んでいる。耳は伏せたまま、頬だけが真っ赤になっている。

 

「ご、ごめんなさい、私、こんな、つもりじゃ」

「大丈夫。怒ってないよ」

 

 私はできるだけ柔らかく言った。怒っていない。本当に怒っていない。ただ、状況はたぶん良くない。周囲の空気が「大丈夫ではない」と全力で訴えている。

 

「手、離すね。急に離れるとびっくりするかもしれないから、ゆっくり」

 

 そう予告してから、私は少しずつ手を引いた。ミミルさんの指が、名残惜しそうに離れていく。最後に指先が離れた瞬間、ミミルさんは自分の両手を胸の前でぎゅっと握った。

 

「……ごめんなさい」

「ううん。転んだの、私がびっくりさせたせいかもしれないし」

「違います。私が、勝手に……」

 

 ミミルさんは最後まで言えなかった。

 

 そこへ店員さんが救護用品を持ってきて、キリカさんが私との間に入る。私は素直に一歩下がった。ちゃんと下がった。名残惜しいけど下がった。

 

 ミミルさんは店員さんに膝の手当てをされながら、ずっとこちらをちらちら見ていた。そのたびに、長い耳が少しだけ揺れる。

 

 かわいい……!

 

 でも、今日はもう触らない。

 

 本当に。

 

「寧夢様」

「はい」

「本日の生活用品店での滞在は、予定より短縮します」

「やっぱり?」

「はい」

 

 ですよね。

 

 私は小さく項垂れた。制服の小物とか、毛並みブラシとか、もう少し見たかったけれど仕方がない。原因の半分くらいは私だ。いや、半分どころではないかもしれない。

 

 帰る前に、ミミルさんがこちらへ駆け寄りかけて、店員さんに止められた。本人もはっとして足を止める。その姿が、さっきの私と少し重なった。近づきたいけど、近づいたら駄目。そういう気持ちは、たぶん私にも分かる。

 

「寧夢、様」

「うん」

「また、会えますか」

 

 おずおずとした声だった。私は少し考えた。軽く約束していいのか分からない。人間と獣人の接触には、私が思っているよりずっと多くの決まりがある。

 

 でも、明日から同じ学校に通うのなら。

 

「学校で会えたら、挨拶しよう。近づいていいかは、その時にちゃんと確認してから」

 

 私がそう言うと、ミミルさんの顔がぱっと明るくなった。長い耳が、ふわっと持ち上がる。

 

 あ、これはまずい。

 

 かわいすぎる……!

 

「はい……!」

 

 ミミルさんは大事な約束でもしたみたいに、両手を胸の前で握った。ただの挨拶なんだけどな、と思いかけて、私は今日何度目か分からない反省をする。たぶん、この世界での「ただの」は、私の知っている「ただの」と違う。

 

 それでも、怖がってばかりで何もしないよりは、ちゃんと聞いて、ちゃんと守って、少しずつ近づく方がいいはずだ。

 

 私はミミルさんに手を振って、キリカさんの後に続いた。

 

 背中に、じっと見つめられている気配が残っていた。

 

☆

 

 帰りの車内で、キリカさんは報告書を書いていた。

 

 紙ではなく、薄い端末に指を滑らせている。その横顔は相変わらず無表情で、耳も尻尾もほとんど動かない。

 

「……今日のこと、やっぱり問題になりますか?」

「報告対象ではあります」

「ですよね」

 

 私は座席に沈み込んだ。ルカさんに飛びついた翌日に、今度は兎系の女の子に手を握られて頬を擦り寄せられる。字面だけ見たら、とんでもない人間である。でも、今回は私から触っていない。ちゃんと確認した。ちゃんとキリカさんにも聞いた。だから、少しは成長している……はず。

 

「ミミルさん、具合悪かったんでしょうか」

「匂い酔いの初期症状に近い反応はありました」

「やっぱり……」

 

 私は窓の外を見た。匂い酔い。ルカさんも、たぶんそうだったのだろう。人間の匂いは、私が思っているよりずっと強い。

 

 だけど、ミミルさんは怖がっているだけにも見えなかった。離れようとした時、やだ、と言った。手に頬を寄せた時、少し安心したようにも見えた。

 

 危ないから離れる。

 

 それだけでいいのか、まだ分からない。

 

「キリカさん」

「はい」

「私、獣人さんたちに近づかない方がいいんでしょうか」

 

 キリカさんの指が止まった。

 

 少しの沈黙。

 

「職務上は、距離を保つべきだと申し上げます」

「職務上は」

「はい」

 

 キリカさんは端末を伏せ、私を見た。

 

「ですが、本日のミミル様は、寧夢様が離れようとした時に強い不安反応を示しました。距離を取ることが、常に安全につながるとは限りません」

「……そうなんですね」

「ただし、寧夢様が近づけば別の危険が発生します」

「難しい……」

 

 思わず本音が漏れた。キリカさんは否定しなかった。

 

 私は自分の掌を見下ろす。さっきまでミミルさんの頬が触れていた場所が、まだ少しあたたかい気がした。

 

 柔らかかった。

 

 かわいかった。

 

 でも、たぶん、それだけでは済まない。

 

「明日、学校で会ったら、ちゃんと距離を確認します」

「それがよろしいかと」

「あと、ルカさんにも謝ります」

「それも必要かと」

 

 キリカさんの返事は淡々としていたけれど、さっきより少しだけ声が柔らかかった。

 

 私は窓の外に流れていく街を眺めながら、明日の学校生活を想像する。人間枠の編入生。獣人だらけの名門校。大型犬系の騎士。黒豹系の代理護衛。兎系の付属中等部の女の子。

 

 情報量が多すぎる……!

 

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 怖いことも、分からないことも、たぶん山ほどある。それでも、私はこの世界で、獣人さんたちとちゃんと話してみたい。ちゃんと聞いて、ちゃんと守って、そのうえで。

 

 ……そのうえで、いつか安全に触れる道を探したい。

 

 そう心の中で決意し直したところで、私はふと気づいた。

 

 やっぱり、思考が触る方向に寄っている。でも、まあ。触りたいものは、触りたいのである。

 

 問題は、どうすれば相手に嫌がられず、周囲にも迷惑をかけず、安全に触れるかだ。

 

 その答えを探すためにも、明日からの学校生活はきっと大事になる。

 

 私は自分の掌をもう一度見て、ミミルさんの伏せた耳と、ぱっと明るくなった顔を思い出した。

 

 また会えたら、今度はちゃんと挨拶しよう。

 

 この時の私はまだ知らなかった。

 

 ただ手を差し出しただけのつもりだったその出来事が、兎族の少女にとっては、一晩中眠れなくなるほど大きな事件になっていたことを。

 

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