ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
そのまま家に帰れるものだと思っていた。
思っていたのだけど、人生というものはそう簡単ではないらしい。いや、この場合は人生というより、保護局の判断というべきだろうか。
帰りの車が逢苗家へ向かう道に入る直前、キリカさんの端末が短く鳴った。キリカさんは画面を確認し、ほんの少しだけ眉を動かす。それだけで私は、あ、良くない連絡だな、と察してしまった。
「寧夢様」
「はい」
「申し訳ありません。帰宅前に、保護局の面談室へ戻ります」
「……もしかして、ミミルさんの件ですか」
「はい。追加確認が必要になりました」
ですよね……!
私は座席に沈み込みながら、さっきの出来事を思い返す。転んだ兎系の女の子に声をかけた。距離を取ろうとしたら袖を掴まれた。手を差し出したら頬を寄せられた。いい匂い、と言われた。
こうして並べると、どう考えても追加確認である。
「私、ちゃんと聞いてから動いたつもりだったんですけど」
「それは報告しています」
「じゃあ、少しは情状酌量の余地が」
「寧夢様」
「はい」
「情状酌量という言葉が出る時点で、問題が起きた自覚はあるのですね」
「あります……」
キリカさんは責めるでもなく、淡々と端末へ返答を打ち込んでいる。その横顔があまりにも冷静なので、かえって胃がきゅっとした。
でも、不思議と怖くはなかった。
怒られるかもしれない。規則を増やされるかもしれない。明日からの学校生活がさらに窮屈になるかもしれない。それは嫌だ。ものすごく嫌だ。けれど、ミミルさんの膝の手当てをしてくれた店員さんも、三十秒だけ待ってくれたキリカさんも、たぶん私を罰したいわけではない。
みんな、事故を防ぎたいのだ。
その事故の中心に、私がいる。
……いや、重い。急に重い。
私は自分の掌を見下ろした。ミミルさんの頬の感触はもう残っていないはずなのに、思い出すとまだ少しだけくすぐったい。
柔らかかった。
かわいかった。
そして、たぶん危なかった。
☆
連れていかれたのは、さっきの面談室とは別の部屋だった。
白くて四角い事務室ではなく、淡い木目の床に、低めのソファと丸いテーブルが置かれた相談室みたいな場所だ。窓際には観葉植物があって、棚には香草の入った小瓶が並んでいる。保護局というより、ちょっと高級なカウンセリングルームに近い。
そして、その部屋の中央に、狐系の女性が座っていた。
長い金茶色の髪。頭の上には、同じ色の大きな耳。腰の後ろからは、ふわりと豊かな尻尾が一つ、椅子の横へ流れている。制服は保護局のものだけれど、キリカさんやルカさんのような警護職の硬さはない。細い眼鏡の奥で、柔らかく目を細めている。
狐系。
狐系のお姉さん……!
まずい。これはまた違う方向でまずい。
「逢苗寧夢様ですね。お疲れのところ、お呼び立てして申し訳ありません」
声まで柔らかい。低すぎず、高すぎず、聞いているだけで緊張が解けそうな声だった。
「保護局人間生活調整課のシオンと申します。本日は、明日からの通学に関する最終確認と、先ほどの接触事案について少しお話を伺います」
「よ、よろしくお願いします」
私は慌てて頭を下げた。
すると、シオンさんの耳がぴくりと動いた。
「寧夢様。人間であるあなたが、獣人職員へ深く頭を下げる必要はありませんよ」
「あっ……すみません。癖で」
「謝る必要も、本来はありません」
「それも、すみません……あ」
しまった。謝るなと言われて謝ってしまった。
シオンさんは口元に手を当て、小さく笑った。からかうような笑いではなく、珍しいものを見た時の笑い方だった。
「噂以上ですね」
「噂」
「ルカ護衛官を休息室送りにし、付属中等部の兎族の生徒をその場で放心させた人間がいる、と」
「字面が最悪すぎる……!」
私は両手で顔を覆った。
いや、事実ではある。事実ではあるけど、悪意があったわけではない。ルカさんの時は完全に私が悪いけれど、ミミルさんの時は少しだけ事情がある。少しだけ。たぶん。
「もちろん、報告書は読んでいます。寧夢様が乱暴に接近したわけではないことも、キリカ護衛官に確認を取って動いたことも、ミミル様が自発的に接触したことも」
「じゃあ、怒られるわけでは」
「怒るために呼んだわけではありません」
よかった……!
と思った瞬間、シオンさんはにこりと微笑んだ。
「ただ、今後のために、あなたがどの程度この世界の人間としての影響力を理解しているのか、確認する必要があります」
よくなかった……!
私は姿勢を正した。向かいのソファに座るよう促され、キリカさんは扉の近くに立つ。距離は十分にある。テーブルも挟んでいる。これなら、うっかり触ることはない。
……いや、うっかり触る距離ではない、という事実に安心している時点でどうなのだろうか。
「まず、寧夢様。あなたは今日、ルカ護衛官とミミル様、それぞれに匂い酔い、もしくはそれに近い反応を起こさせました」
「はい……」
「その理由を、どう理解していますか」
「えっと。私が人間で、獣人さんたちは人間の匂いに反応しやすいから、ですよね」
「半分は正解です」
半分。
残り半分が怖い。
「匂いは確かに大きな要素です。ですが、それだけなら訓練済みの護衛官や、保護局連携区画の生徒があそこまで崩れることは稀です」
「え」
「問題は、あなたの態度です」
態度。
私は背筋を伸ばした。まさか、礼儀が悪かったのだろうか。ルカさんには飛びついた。これは悪い。ミミルさんには、ちゃんと声をかけた。たぶん悪くない。いや、手を差し出したのはまずかったかもしれない。
「普通の人間は、獣人にあの距離で謝りません。心配しません。膝の怪我に気づいて、手当てを頼み、自分から目線を合わせることもしません」
「……それ、普通にしないんですか?」
「しません」
シオンさんは、柔らかい声のまま言い切った。
私は言葉に詰まる。
人が転んだら心配する。怪我をしていたら手当てを頼む。怖がっていたら、できるだけ怖がらせないようにする。私にとっては、そういうものだった。
でも、この世界では違う。
人間は守られる側で、獣人は危険な側。少なくとも、多くの人間はそういう距離感で生きている。昨日から何度も聞かされてきたことなのに、私はまだちゃんと実感できていなかった。
「寧夢様。あなたの行動は、善意であっても獣人側には非常に強い意味を持ちます。特に、これまで人間から個人として扱われた経験の少ない者には」
「……尊重」
「はい」
シオンさんの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
「人間の多くは、私たちを遠ざけるべき危険要因、管理すべき本能、あるいは便利な労働力として扱います。もちろん、全員がそうではありません。ですが、制度の中で生きる以上、獣人側はその扱いに慣れざるを得ない」
言葉は穏やかなのに、内容は軽くなかった。
私は膝の上で手を握る。さっきまで触りたいだのかわいいだの考えていた自分が、少し恥ずかしくなる。でも、それを全部間違いだと片づけることも、できなかった。
「守ってもらえるのは、ありがたいです」
言葉を選びながら、私は口を開いた。
「たぶん、私が分かっていないだけで、本当に危ないこともあるんだと思います。ルカさんにも、ミミルさんにも、迷惑をかけました。でも……獣人さんたちが一方的に悪いみたいになるのは、嫌です」
シオンさんの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「一方的に悪い?」
「だって、みんな距離を守ってくれてます。キリカさんも、店員さんも、保護局の職員さんたちも。私の方が分かってなくて、勝手に近づいたり、手を出したりしてるのに、獣人さん側だけが危険ですって言われるのは、なんか……違う気がして」
「制度上は、そう扱わざるを得ません」
シオンさんの声は柔らかいままだった。
でも、今度ははっきり線を引かれた気がした。
「獣人が人間に近づき、人間に被害が出れば、責任を問われるのは獣人側です。たとえ人間側が近づいたとしても、です。ですから保護局としては、寧夢様の『獣人に近づきたい』という発想そのものを、まず危険傾向として扱います」
「危険傾向」
「はい。まして、触れたいという願望は一般的な人間にはほとんど見られません」
うまく言えない。
この世界に来て、まだ一日と少ししか経っていない。制度も、歴史も、獣人さんたちの本能も、私は何も知らない。だから、偉そうなことは言えない。
それでも、ミミルさんの震えた手を思い出す。
ルカさんの荒い呼吸も、嬉しそうに揺れた尻尾も思い出す。
「怖がるだけじゃなくて、ちゃんと知りたいです。どうしたら危なくないのか。どうしたら嫌じゃないのか。どこまでなら近づいていいのか」
「……触れるために?」
「それは、あります」
即答してしまった。
シオンさんが瞬きをする。
キリカさんが扉のそばで小さく息を吐いた気配がした。
いや、ここでごまかしても仕方ない。私は触りたい。ケモミミも尻尾も毛並みも愛でたい。けれど、それだけではない。たぶん。たぶんだけど。
「でも、触るためだけじゃないです。嫌がられるのは嫌なので」
「寧夢様」
「はい」
「確認します。それは比喩や冗談ではなく、獣人の耳、尻尾、毛並みに触れること自体を目的としている、という理解で間違いありませんか」
丁寧な確認だった。
あまりにも丁寧すぎて、逆に自分がとんでもないことを言っているのだと分かる。
「……はい」
シオンさんはしばらく黙った。
さっきまで余裕のある大人という感じだったのに、今は少しだけ、表情の作り方を忘れたように見える。狐耳の先が、ほんの少し伏せていた。
「分かりました。保護局としては、その願望を理解可能な趣味や親愛表現としては扱えません」
「はい……」
「ただし、否認して隠される方が危険です。今日の時点では、明確に申告されたことを評価します」
褒められているのか、要注意人物として記録されたのか。
たぶん、後者寄りである。
☆
「では、実際に距離を確認してみましょう」
シオンさんはそう言って、ソファから立ち上がった。
「距離を」
「はい。明日から学校へ通う以上、獣人と同じ空間で過ごす時間は増えます。規則だけでは判断しづらい場面もあるでしょう。ですから、あなた自身の感覚と、獣人側の反応をすり合わせておく必要があります」
「なるほど」
言っていることは理にかなっている。
理にかなっているのだけど、狐系のお姉さんが立ち上がってこちらへ歩いてくるという絵面のせいで、私は別の意味でも緊張していた。
尻尾が、ふわふわしている。
ふわふわしている……!
「寧夢様」
「はいっ」
「視線が尻尾に固定されています」
「すみません……!」
私は慌てて視線を上げた。
シオンさんは笑っている。笑っているけれど、少しだけ頬が赤い。もしかして、尻尾をじっと見るのも失礼だったのだろうか。そりゃそうだ。人の体の一部を凝視するのは普通に失礼である。
「まず、この距離」
シオンさんはテーブルを挟んだまま立ち止まった。
「一般的な面談距離です。匂いは届きますが、理性を乱すほどではありません」
「はい」
「次に、この距離」
シオンさんがテーブルの横へ回り、ソファ一つ分ほどの距離まで近づく。ふわり、と香草の匂いがした。たぶん、シオンさんの香油だ。甘いけれど、少し青い。
耳の毛並みが見える。
近い。
すごい。
触らない。触らないけど、すごい。
「この距離になると、獣人側は寧夢様の匂いをかなり明確に感じます。訓練を受けていない者なら、会話の継続が難しくなる可能性があります」
「……シオンさんは大丈夫なんですか?」
「私は担当官ですので」
「担当官だと大丈夫なんですか」
「訓練を受けています」
答えになっているようで、なっていない気がする。
よく見ると、シオンさんの指先がテーブルの端を軽く押さえていた。耳は笑っているみたいに立っているけれど、尻尾の先がさっきよりも少し固い。
……もしかして、無理してる?
「シオンさん」
「はい」
「ちょっと疲れてませんか」
シオンさんの笑みが止まった。
「……なぜ、そう思われました?」
「尻尾の先、さっきから動きが硬いので。あと、指に力が入ってます。匂いのせいでしんどいなら、離れてください」
言ってから、私はまた余計なことを言ったかもしれないと気づく。担当官として大丈夫だと言っている人に、しんどいですよね、と決めつけるのは失礼だったかもしれない。
「すみません、変なこと言ったかも」
「……いえ」
シオンさんは、ゆっくり瞬きをした。
その顔は、さっきまでと少し違っていた。余裕のある笑みが剥がれたというより、笑うために力を入れていた場所が、ふっと緩んだような。
「驚いただけです。人間の方に、そのように見られることは少ないので」
「見られる?」
「私たちは通常、見る側です。管理し、調整し、危険を測る側。人間から体調を気遣われることは、あまりありません」
そう言われて、私は少し困った。
だって、気になるものは気になる。目の前の人が無理をしていたら、聞きたくなる。まして狐耳と尻尾があるのだ。耳と尻尾は、どうしても感情が出る。見てしまう。かわいいし、分かりやすいし、かわいい。
……最後に余計なのが混じった。
「あの、お茶とか飲みますか? さっき棚に香草のお茶っぽいものがありましたけど」
「ここは私の面談室です」
「そうでした」
「本来、私があなたにお出しする側です」
「でも、今はシオンさんの方が疲れてそうなので」
シオンさんは黙った。
私はキリカさんを見る。キリカさんは一瞬だけ迷ったあと、部屋の隅にある小さな給湯台へ視線を向けた。
「許可します。寧夢様は、私の位置から離れすぎないように」
「ありがとうございます」
「ただし、シオン担当官との距離は保ってください」
「はい」
私は立ち上がり、給湯台へ向かった。置かれていたポットは保温式で、カップも香草の小瓶もきちんと並んでいる。勝手に使っていいのか少し迷ったけれど、キリカさんが止めないなら大丈夫だろう。
香草の種類はよく分からない。けれど、蓋を開けて一番きつすぎない匂いのものを選ぶ。強すぎる香りは体調が悪い時にしんどいことがある。たぶん、獣人さんでもその辺りは同じ……だと思う。
「薄めでいいですか?」
「……はい」
返事が、少し遅れた。
私はお茶を淹れて、テーブルのシオンさん側へ置いた。近づきすぎないように、腕だけ伸ばす。触れない。匂いも嗅がない。偉い。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
シオンさんがカップを受け取った。
その指先が、ほんの少し震えていた。
……やっぱり無理してたのでは?
「あの、座った方がいいと思います」
「寧夢様」
「はい」
「あなたは本当に、調子を狂わせる方ですね」
シオンさんはそう言って、ソファへ座り直した。怒っている感じではなかった。むしろ、困ったように笑っている。
狐耳が、少しだけ横に倒れていた。
かわいい……!
いや、今はかわいいではない。体調を心配する場面である。
☆
それから少しの間、面談は妙な空気になった。
シオンさんはお茶を飲み、私は向かいのソファに戻り、キリカさんは扉の近くで無表情のまま立っている。誰も怒っていないのに、何かが起きてしまった後の沈黙だけがある。
先に口を開いたのは、シオンさんだった。
「失礼しました。少し、見誤っていたようです」
「見誤る?」
「寧夢様は、獣人に無警戒であると同時に、獣人の反応を見ている」
見ている。
それは、どういう意味だろう。
「耳や尻尾を見ている、という意味ではなく」
「あ、それも見てます」
「正直ですね」
「すみません」
シオンさんは小さく笑った。今度の笑みは、さっきより少しだけ柔らかい。
「あなたは、相手が怯えているか、無理をしているか、嫌がっていないかを見ようとしている。だからこそ厄介です。単なる命令違反なら、禁止すれば済みます。獣人を見下して近づく人間なら、罰則を示せば距離を取らせられます。ですが、あなたは相手の反応によって近づくべきか離れるべきかを考える」
「それって、悪いことですか」
「保護局として、良いことだとは判断できません」
シオンさんはカップを置いた。
「少なくとも、危険です」
やっぱり危険だった。
私は肩を落とす。
「危険なのに、私は悪いことをしているつもりがないって、難しくないですか」
「ええ。難しいです。ですから、管理が必要になります」
「管理……」
「言い方が嫌でしたか?」
「ちょっと」
正直に言うと、シオンさんは意外そうに瞬きをした。
「管理されるのは、ありがたいんです。たぶん、今の私には必要だと思います。でも、管理って言葉だけだと、獣人さんも私も、どっちも物みたいに聞こえるので」
言ってから、また踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど、シオンさんは怒らなかった。
ただ、何かを噛みしめるように目を伏せたあと、ゆっくり首を横に振った。
「言葉が冷たいことは認めます。ですが、現時点で別の扱いはできません」
「別の扱い」
「寧夢様の願望を、交流意欲や親愛として扱うには早すぎます。少なくとも、ルカ護衛官とミミル様の件が起きた直後に、そう判断することはできません」
その言葉は、静かだった。
たぶん、シオンさんはこの世界の制度側の人だ。人間を守るために、獣人を抑える側の人。柔らかく笑っているけれど、その中でたくさんの事故や問題を見てきたのだろう。
だからこそ、簡単には譲らない。
そして、少し疲れている。
「寧夢様」
「はい」
「明日からの通学について、条件を追加します」
「うっ」
変な声が出た。
「外出許可そのものは維持します。学校側にも、あなたの接触傾向については最小限の共有を行います」
「接触傾向」
「柔らかい表現を選んでいます」
「ありがとうございます……?」
感謝していいのか分からない。
シオンさんは端末を操作しながら、淡々と続ける。
「一つ。明日から三日間、登下校時はルカ護衛官、または代理護衛官の同行を必須とします」
「それは元からでは」
「校内移動についても、初日は同行者をつけます」
「校内も」
「はい」
学校でずっと護衛付き。
目立つ。絶対に目立つ。人間枠というだけで目立つのに、護衛付きで歩いたら、完全に珍獣ならぬ珍人間である。
「二つ。ミミル様との再接触は、校内職員または護衛官の立ち会いのもとで行うこと」
「再接触って、挨拶もですか」
「挨拶だけなら可能です。ただし、手を差し出す、目線を合わせて長時間話す、相手が接近を求めた場合に留まる、これらは立ち会い対象です」
「目線を合わせるのも?」
「兎族の中には、捕食者や上位者が目線を合わせて待つ行為を、強い受容として捉える者がいます」
「そんな文化差が……!」
難しい。
良かれと思ってしゃがんだのに、まさかそれ自体が強い意味を持つ場合があるとは思わなかった。いや、でも人間相手でも目線を合わせるのは親密な行為ではある。兎系で、人間で、匂いの問題もあって、そこに手まで差し出したら。
うん。まずい。
だんだん分かってきた。
「三つ。寧夢様は、一日の終わりに私へ簡単な接触記録を提出してください」
「接触記録」
「誰と、どの距離で、何を話し、接触があったか。異常な反応があれば、その内容も」
「日記みたいですね」
「形式は似ています。ただし、目的は許可の拡大ではありません」
シオンさんは微笑んだ。
「接近衝動と接触事故の兆候を把握するための記録です。ただし、提出先は私です」
ん?
今、少しだけ強調された気がする。
「シオンさんに?」
「はい。私が担当します。あなたのような方を、通常の保護対象として扱うには少し無理がありますので」
「それは、私が問題児だからですか」
「個性的だからです」
「柔らかい表現を選んでますね?」
「はい」
認められた。
でも、担当してくれるらしい。怒られるだけではなく、危ない動きを見張ってくれる人が増えるのはありがたい。ありがたい、はずだ。たぶん。
「分かりました。提出します」
「よろしいのですか? 窮屈では」
「窮屈ではあります」
私は正直に言った。
「でも、何が危ないのか分からないまま全部禁止されるより、記録しながら覚える方がいいです。ちゃんと覚えたら、いつか安全に触れるかもしれないですし」
シオンさんが、また黙った。
キリカさんも、なぜか黙った。
……あれ?
「今の、何かおかしかったですか」
「いえ」
「いえ、ではない間でした」
「寧夢様」
「はい」
「そこを目標に置くこと自体は、推奨しません」
「褒められてます?」
「まったく褒めていません」
まったく。
本日一番はっきり言われた。
☆
面談室を出る頃には、窓の外が少し夕方に近づいていた。
結局、学校指定品は後日家に届けてもらえることになり、今日は本当に帰るだけになった。私としては少し残念だけれど、これ以上どこかへ寄ったら、また何かが起きる気もする。自分で言っていて悲しいけど、かなりありえる。
廊下へ出ると、シオンさんが見送りに立ってくれた。
「寧夢様」
「はい」
「本日の内容は、通常の保護対象より慎重に扱います」
「はい」
「過度に悲観する必要はありません。ただし、楽観してよい段階でもありません」
「……はい」
そう言って、シオンさんはほんの少しだけ頭を下げた。
人間に獣人が頭を下げる。それはこの世界では普通なのかもしれない。けれど、さっき「人間が獣人に深く頭を下げる必要はない」と言われたばかりの私には、少し引っかかる。
だから、私は深くではなく、軽く会釈を返した。
シオンさんの耳が、またぴくりと動く。
「寧夢様」
「はい」
「あなたは本当に、危うい方ですね」
「褒めてます?」
「褒めていません」
「ですよね」
思わず肩を落とすと、シオンさんは小さく笑った。
その笑顔は、最初に見た余裕のあるものとは少し違っていた。柔らかいけれど、どこか困っていて、少しだけ疲れていて、それでも完全には突き放していない顔。
「明日の夜、最初の接触記録をお待ちしています」
「はい。忘れないようにします」
「忘れた場合は、こちらから連絡します」
「逃げ場がない」
「保護局ですので」
強い。
狐系担当官、柔らかいのに強い。
私はキリカさんに促されて歩き出した。廊下の角を曲がる前に振り返ると、シオンさんはまだそこに立っていて、こちらを見送っていた。
ふわふわの尻尾が、ゆっくり揺れている。
私は反射的に手を振りかけて、途中で止めた。距離。作法。周囲の視線。気をつけることはたくさんある。
だから、代わりにもう一度だけ軽く会釈した。
シオンさんは少し目を見開き、それから、困ったように笑った。
……あの顔、ちょっとかわいい。
いや、ちょっとどころではない。
かなりかわいい……!
私は前を向き直り、キリカさんの後について歩いた。
ルカさんに謝る。ミミルさんとは学校で挨拶する。シオンさんには接触記録を送る。明日からは高校生。人間枠。護衛付き。獣人だらけ。
情報量は、やっぱり多すぎる。
でも、少しだけ分かってきた気がする。
この世界で誰かに近づくことは、私が思っているよりずっと重い。
それでも、近づきたいと思うなら、ちゃんと知って、ちゃんと聞いて、ちゃんと守らないといけない。
そのうえで。
そのうえで、いつか安全に触れる。
……結局そこに戻るのか、と自分でも思う。
でも、仕方ない。
触りたいものは、触りたいのである。
この時の私はまだ知らなかった。
その日の夜、シオンさんが私の接触記録用の個人回線を設定しながら、報告書の「接近衝動あり」という項目を何度も見返し、それでも私の淹れた薄い香草茶の味を思い出してしまっていたことを。