ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
目を覚ました時、最初に感じたのは消毒薬の匂いだった。
次に、香草。保護局の休息室でよく使われる、匂い酔いを鎮めるための調整香。鼻の奥に残る甘さを薄め、意識を現実へ引き戻すためのものだ。
そして、そのさらに奥に。
まだ、残っている。
「……っ」
ルカは反射的に口元を押さえた。
ありえない。すでに衣服は替えられ、洗浄も済ませ、休息室の空調も最大にしている。護衛官用の消臭処理まで受けた。人間の匂いが残っているはずがない。
残っているはずがないのに、思い出せてしまう。
首筋に触れた息。うなじへ埋まった顔。尻尾を掴まれた感覚。髪を撫でる手。近すぎる体温。
『す~~~~っ』
「忘れろ……!」
誰に聞かせるでもなく吐き捨てた声は、思ったよりも弱かった。
休息室は静かだった。薄い灰色の壁。白い寝台。小さな机。水差しと薬袋。護衛官が任務中に匂い酔い、外傷、過労を起こした時に一時的に寝かされる部屋で、ルカ自身も新人の頃に何度か使ったことがある。
ただし、自分が人間の護衛中に匂い酔いを起こし、代理を立てる側になるとは思っていなかった。
まして、その原因が護衛対象に飛びつかれたことだなどと。
情けない。ルカは顔をしかめ、寝台の縁を片手で握った。思い出すな。反応するな。訓練を受けた認可護衛官が、護衛対象の人間に撫でられたことを反芻してどうする。
あれは事故だ。
接触事故。匂い酔い誘発。護衛官の職務継続不能。報告書に書けばそれだけの事案である。
それだけの、はずだった。
「ルカ護衛官。入ります」
扉の外から声がした。
キリカだった。今日、自分の代理として寧夢様に同行した黒豹族の護衛官。感情を顔に出さず、規則を淡々と処理する、保護局内でも評価の高い同僚だ。
「……どうぞ」
ルカは体を起こし、寝台の端に腰掛けた。まだ少し頭が重い。けれど、動けないほどではない。水を一口飲み、呼吸を整える。
扉が開き、キリカが入ってくる。黒い耳が一度だけ動き、視線がルカの顔、手元、尻尾、呼吸へ順に走った。
「顔色は戻りましたね」
「職務復帰できます」
「医務官の許可が出ていません」
「明朝までには出ます」
「願望を報告されても困ります」
淡々と返され、ルカは黙った。
キリカは机の上に薄い端末を置いた。端末の角には、保護局の内部報告を示す銀色の印が光っている。
「本日の同行報告です。必要部分だけ先に共有します」
「寧夢様は」
「無事に帰宅されています。現在、逢苗家内。外出予定なし」
まず、息が抜けた。
自分が護衛を離れた後も無事だった。無事に帰宅した。その事実だけで、胸の奥に詰まっていたものが少し緩む。表情には出さなかったつもりだったが、息の抜け方までは隠しきれなかったらしい。キリカの視線が、記録端末からルカの顔へ静かに移った。
「続けてください」
「はい。保護局面談は完了。通学許可は維持。ただし、生活用品店で付属中等部の兎族の生徒、ミミル様との接触事案が発生しました」
兎族。
接触事案。
その二つの言葉で、ルカの耳が立った。
「詳細を」
「ミミル様が転倒。寧夢様は私に確認を取った上で接近し、声かけを行いました。最初の判断に重大な違反はありません」
「最初の、ということは」
「ミミル様が寧夢様の袖を掴みました。その後、寧夢様が安心させる目的で手を差し出し、ミミル様が掌に頬を寄せています」
胸の奥が、ざわりと動いた。頬を、掌に。ルカは自分の手を握り、報告を聞く態度としては不自然ではない形をどうにか保った。後輩のような年齢の兎族の生徒が匂い酔いに近い反応を示したのなら、まず確認すべきは安全状態、処置、今後の接触制限である。
なのに、頭の端で別の声がする。掌は近すぎないか。違う。これは職務上の距離感の確認だ。私情ではない。頬を寄せるほど近づいたなら危険だという、ただそれだけの話である。
「……ミミル様の状態は」
「軽度の匂い酔い疑い。膝の擦過傷。帰宅後の経過観察。重篤な異常はありません」
「寧夢様は」
「体調に異常なし。ただし、保護局人間生活調整課のシオン担当官が追加面談を行いました」
シオン。
狐族の担当官。柔らかい物腰で、笑顔のまま相手の逃げ道を塞ぐ女。護衛官の間でも、面倒な調整案件を穏やかに処理することで知られている。
そのシオンが、寧夢様の追加面談を。
「内容は」
「通学条件の追加。初日の校内同行者。ミミル様との再接触制限。一日の終わりの接触記録提出」
「接触記録」
「提出先はシオン担当官です」
ルカの尻尾が跳ねた。
今度は押さえきれなかった。寝台の端を打つ音が、休息室に響く。
キリカが一瞬だけ目を細める。
「……問題がありますか」
「ありません」
「では、その尻尾は」
「職務上の確認です」
「尻尾が?」
「続けてください」
キリカはほんの少しだけ沈黙した。
笑われたわけではない。キリカはそういうことをしない。だからこそ、余計にいたたまれなかった。
「シオン担当官の暫定評価では、寧夢様には接近衝動あり。触れたいという願望は比喩ではなく、耳、尻尾、毛並みへの接触そのものを目的としている。保護局としては、交流意欲ではなく危険傾向として記録する、とのことです」
接近衝動。危険傾向。正しい。あまりにも正しい。寧夢様は危うい。人間としての影響力を理解していない。獣人の反応を、自分が思っているよりずっと軽く見ている。ルカに飛びついた時も、謝りはしたが、自分が何をしたのかは分かっていなかった。
それなのに、その報告書の言葉で寧夢様を括られることに、胸の奥が妙に痛んだ。接近衝動。危険傾向。確かに、そうだ。でも、あの人はそれだけではなかった。
『ルカさん。私の護衛、いつもありがとうございます』
揶揄ではなかった。
人間が獣人に向ける、命令でも、怯えでも、侮蔑でもない言葉。まっすぐ目を見て、隣にいる者へ向けるような感謝。
あれだけで、息が止まりそうになった。
その直後に飛びつかれたから、すべてが台無しになったとも言える。
けれど、台無しになったのは、寧夢様の評価だけではない。
ルカの理性も、同じように壊された。
「ルカ護衛官」
「……聞いています」
「なら、医務官の再検査を受けてください。あなたの反応は、まだ任務復帰可能域に戻っていません」
「戻っています」
「寧夢様の名前を聞くたび、呼吸が乱れています」
「乱れていません」
「今もです」
ルカは口を閉じた。否定の言葉を重ねれば重ねるほど、キリカの指摘を補強するだけだと分かっていた。犬族の身体反応は訓練である程度まで制御できる。できるはずだった。少なくとも、今朝まではできていた。
「一つ、確認してもよろしいですか」
キリカの声が少し低くなった。
「何ですか」
「あなたは、明日も寧夢様の護衛に戻るつもりですか」
「当然です」
「医務官とシオン担当官が許可した場合に限ります」
「許可は取ります」
「なぜ、そこまで」
ルカは答えようとして、止まった。
なぜ。
護衛だから。
任務だから。
逢苗家の担当だから。
寧夢様は危なっかしく、誰かが近くで守らなければならないから。
理由はいくらでも並べられる。どれも嘘ではない。嘘ではないが、今この瞬間、頭の端で妙に引っかかっているものは、そのどれとも少し違っていた。
自分以外の誰かが、寧夢様の半径三歩以内にいる。
いや、三歩以内は護衛規則上かなり問題がある。そこを気にするのは職務として当然だ。当然なのだが。
頬を掌に、は近い。
ルカは軽く咳払いした。
護衛官として、かなりよくない方向に思考が寄っている。
「……担当としての責任です」
「そうですか」
キリカはそれ以上追及しなかった。
ただ、端末を閉じる前に、一つだけ付け加えた。
「寧夢様から、伝言があります」
ルカの耳が立った。
自分でも分かるほど、あからさまに。
「読み上げますか」
「……お願いします」
キリカは端末を見た。
「『ルカさんへ。今日は本当にごめんなさい。体調が悪いのに気づけなくて、無理をさせました。ちゃんと謝りたいです。明日、もし会えたら、嫌じゃない距離を教えてください。お大事に』」
休息室が、静かになった。キリカは読み上げ終えてからも、すぐには端末を閉じなかった。ルカも何も言えなかった。
嫌じゃない距離。寧夢様は、まだ分かっていない。体調が悪かったからではない。無理をしたからでもない。あの距離そのものが、あの匂いそのものが、あの手つきそのものが、獣人にとってどれほど危ういかを。
そして、分かっていないからこそ、嫌だったかどうかを聞く。普通の人間なら、触れていいか、謝るべきか、距離はどこかなど獣人に尋ねない。獣人が嫌がるかもしれないなどと考えない。あの人は考えてしまう。だから危険なのだ。だから距離を置くべきなのだ。
そのはずなのに、「もし会えたら」の一文だけが、胸の奥に残った。
あの人は、ずるい。
いや、ずるいとは何だ。護衛対象に対して使う語彙ではない。
「ルカ護衛官」
キリカの声で、ルカは我に返った。
「顔が赤いです」
「熱です」
「医務官を呼びます」
「不要です」
即答すると、キリカは端末を閉じた。
「あなたも、通常の護衛状態ではありません」
「分かっています」
「分かっているなら、明日の復帰申請は慎重に」
「分かっています」
分かっている。少なくとも、分かっている顔はできる。昨日あれだけ崩れておいて「平常です」は通らない。寧夢様の距離感は危ういし、自分もその危うさに律儀に揺さぶられている。近づきすぎれば、護衛として判断を誤る可能性がある。
それでも、明日の登校初日、寧夢様の隣に立つのが自分ではないなど考えたくなかった。
というより、正直に言えば嫌だった。
☆
医務官の再検査後、ルカは訓練室へ向かった。正式には休息継続を勧められていた。匂い酔い後の過度な運動は推奨されない。分かっている。分かっているが、寝台の上でじっとしていると、余計なことばかり考える。
訓練室は夜間でも使える。保護局の認可護衛官は、不測の事態に備えていつでも体を動かせるよう、各施設に小規模な訓練設備を持っている。ルカは制服の上着を脱ぎ、動きやすい訓練用のシャツに着替えた。髪を一つに結び、手袋を締め、正面の打撃用人形へ向かう。
一撃。二撃。三撃。拳が革を打つ音が、乾いて響く。体は動く。呼吸も乱れていない。判断も遅れていない。問題ない。護衛復帰に支障はない。
そう思った瞬間、首筋に息がかかった記憶が蘇った。
『す~~~~っ』
「っ……!」
拳がずれた。
人形の肩を狙ったはずの打撃が、わずかに外れて支柱を叩く。鈍い痛みが手首に走った。
ルカは歯を食いしばり、もう一度構え直した。踏み込み、打つ。受け流し、回り込む。護衛対象を背に庇う想定。群衆からの押し寄せ。匂い酔い獣人の制止。人間を抱えての退避。
人間を抱える。寧夢様を抱える。想像した瞬間、足の運びが乱れた。
「違う!」
声に出して否定した。
訓練室には誰もいない。いないはずなのに、声が返ってきたような気がした。違わない、と。ルカは壁に手をつき、深く息を吐く。
これは匂いのせいだ。たぶん。人間の匂いに当てられた後遺症。接触事故後の反応。医務官の資料にもある。匂い酔いは、対象への執着、接近欲求、所有錯覚を引き起こすことがある。資料にあるなら仕方ない。仕方ないことにしたい。
けれど、寧夢様の声を思い出す時、最初に浮かぶのは匂いではなかった。
『ルカさん。私の護衛、いつもありがとうございます』
名前を呼ばれ、感謝された。職務です、と返した。過分なお言葉です、と逃げた。それなのに、寧夢様は言った。
『そうだとしても、お世話になっている相手ですから』
お世話になっている相手。人間が、獣人を。ルカは額を壁につけた。
傲慢な人間には慣れている。守られることを当然とし、獣人を遠ざけ、必要な時だけ命じる人間。匂いに当てられた獣人を蔑み、同時に自分たちの匂いを特権として扱う人間。
逢苗家はまだ穏やかな方だ。それでも、人間と獣人の距離は決まっていた。獣人は近づきすぎない。人間は許可しない。護衛は守る。使用人は下がる。それが、この世界の安全な形だった。
寧夢様は、その形の中にいるはずの人間だ。なのに、平然と外へ出ようとする。獣人を「人」と呼ぶ。頭を下げる。感謝する。そして、触りたいと言う。
意味が分からない。本当に、意味が分からない。
獣人に触れたい人間など、普通ではない。まして、耳や尻尾や毛並みを愛でたいなど、保護対象の人間が口にする言葉ではない。保護局が危険傾向と記録するのは当然だ。
当然なのに、あの人の「触りたい」は命令ではなかった。所有でも、侮辱でも、見世物にするためでもなかった。ただ、眩しいものへ手を伸ばす子どものような、どうしようもない衝動だった。
だから危ない。だから困る。
だから、あんなにも嬉しかった。
「……っ」
自覚した瞬間、ルカはその場にしゃがみ込んだ。
終わっている。いや、終わっていない。まだ職務は終わっていない。寧夢様に触れられて、嫌ではなかった。嫌ではないどころか、離れたくなかった。解放された時、安堵より先に、あ、と間の抜けた喪失感があった。
あれほど近くに人間がいたのに。危険だと分かっていたのに。もう一度、と思ってしまった。犬族、それも大型種としての本能か。匂い酔いか。護衛対象への責任感か。名前を呼ばれたことへの動揺か。
どれでもいい。どれでもよくない。
ルカは拳を握りしめた。
自分は、寧夢様を守らなければならない。寧夢様自身の無防備さからも。他の獣人からも。ついでに、職務という言葉で隠しきれなくなりつつある自分からも。
☆
翌朝の復帰許可は、条件付きで下りた。医務官からは、匂い酔い再発の兆候があれば即時交代。シオン担当官からは、寧夢様との接触距離を通常より一段広く取ること。キリカからは、判断に迷った時点で交代要請を検討すること。どれも妥当で、だからこそ言い訳ができなかった。
それでも許可は許可だ。ルカは逢苗家の門前で、制服の襟を正した。深緑の上着。保護局の徽章。手袋。身分証。いつも通りの装備。いつも通りの朝。ただ、胸の奥だけが、いつも通りではなかった。
門が開き、屋敷の使用人が頭を下げてルカを中へ通す。廊下を歩く間、匂い抑制用の香草が焚かれていることに気づいた。逢苗家側も、昨日の報告を受けて対策を増やしたのだろう。正しい。その正しさが、少しだけ寂しい。
寧夢様の部屋の前に立つ。扉を叩く前に、一度だけ深く呼吸した。私は護衛だ。そうでなければならない。
扉を叩く。
「逢苗寧夢様。保護局認可護衛官、ルカです。お迎えに上がりました」
中で、ばたばたと慌てる音がした。
「は、はい! どうぞ!」
声を聞いただけで、耳の先に熱が集まる。ルカは奥歯を噛み、表情だけは崩さないようにした。
扉が開き、寧夢様が立っていた。昨日とは違う制服姿。名門校の高等部制服。白いシャツに、濃紺のジャケット。胸元には保護局の身分札。髪は少しだけ整えきれていない。緊張しているのか、両手を前で握っている。
人間。護衛対象。接近衝動あり。危険傾向。そう頭の中で確認しても、最初に浮かんだ言葉は別だった。
かわいい、と思った。
終わっている。
「ルカさん」
寧夢様は、こちらを見るなり表情を明るくした。危ない、と判断するより早く、胸の奥が緩みそうになる。ルカは姿勢を正し、職務用の声を作った。
「おはようございます、寧夢様。本日より通学時の護衛を担当します。昨日は職務中に体調を崩し、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて! 私の方こそ、本当にごめんなさい!」
寧夢様が勢いよく頭を下げかけ、ルカは一歩、踏み出しそうになった。止めるために。支えるために。近づくために。だが、規則を思い出し、踏みとどまる。
「寧夢様。深く頭を下げる必要はありません」
「あ、そうでした。えっと、じゃあ……昨日は本当にごめんなさい。嫌じゃない距離を教えてください」
真っ直ぐな声だった。昨日と同じように。ルカは喉の奥が詰まるのを感じた。
嫌じゃない距離。そんなものを聞かないでほしい。聞かれたら、答えたくなってしまう。もっと近くでいい、と。触れてもいい、と。
言えるはずがない。
「本日は、通常より距離を広く取ります」
ルカは言った。声は、なんとか震えなかった。
「保護局からの指示です。寧夢様の接近傾向、および私の昨日の反応を踏まえ、登校中の接触は禁止。会話時も、腕一本分以上の距離を維持してください」
「腕一本分」
「はい」
「分かりました。守ります」
寧夢様は素直に頷いた。その素直さが、また胸に刺さる。
「あと、ルカさん」
「はい」
「今日、無理そうだったらちゃんと言ってください。私、たぶん気づくの下手なので」
下手ではない。むしろ、気づかなくていいところまで気づこうとする。シオン担当官の尻尾の動きにも気づいたと聞いた。ミミル様の不安にも気づいた。自分の呼吸にも、目にも、反応にも気づこうとしていた。
そのくせ、自分の影響力には気づかない。本当に、危うい人だ。
「必要な場合は、職務上の判断として申告します」
「はい。お願いします」
寧夢様はほっとしたように笑った。ルカはその笑顔を見て、昨日の訓練室で自覚したことを思い出す。守りたい。近くにいたい。誰にも任せたくない。そのすべてを、そのまま表に出せば職務違反になる。
だから、ルカは敬礼した。
「それでは、登校を開始します」
「よろしくお願いします、ルカさん」
名前を呼ばれただけ。それだけのはずなのに、耳が熱くなる。胸の奥が、どうしようもなく満たされる。
ルカは背を向け、寧夢様の半歩前へ立った。護衛として。あくまで、護衛として。廊下の先へ歩き出すと、後ろから腕一本分の距離を守ってついてくる足音が聞こえた。
近い。遠い。その距離が、たまらなくもどかしい。
ルカは前を向いたまま、心の中で何度も繰り返す。私は護衛だ。そうでなければならない。
けれど、もう知っている。自分が守りたいのは、職務だけではない。