ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
その日の夜、ミミルは自分のベッドの上で、ずっと右の頬を押さえていた。
付属中等部の女子寮は、夜になると静かになる。廊下の照明は落とされ、窓の外では庭木が風に揺れ、遠くの高等部棟だけがまだ少し明るい。机の上には、明日の授業で提出する予定だった課題と、今日受け取るはずだった学校書類の控えが広がっている。
けれど、文字がまったく頭に入ってこなかった。右の頬が、まだ熱い気がする。実際にはもう何時間も前のことなのに、掌に触れた場所だけが、体の中で別の時間を持っているみたいだった。
「……違う」
ミミルは小さく呟いた。
熱いわけではない。保護局の簡易検査でも、体温に異常はなかった。匂い酔いの初期反応は疑われたけれど、休憩して水を飲み、帰寮後も安静にしていれば問題ないと言われた。だから、これは気のせいのはずだ。気のせいのはずなのに、掌に頬を寄せた瞬間のことだけが、何度も何度も戻ってくる。
人間の手は、思っていたより小さかった。いや、違う。逢苗寧夢様の手が、思っていたより小さかった。人間はもっと怖くて、遠くて、近づいてはいけない存在で、手を伸ばされたらそのまま首輪をかけられてしまうような気がしていたし、実際、そういう話はたくさん聞く。人間に気に入られた獣人は幸運だとか、不運だとか。保護対象である人間を怒らせれば一家ごと仕事を失うとか。人間の匂いに当てられて距離を誤った獣人は、保護局の記録に残るとか。
ミミルは兎族だ。大きな音が苦手で、急に近づかれるのも苦手で、肉食種の視線を正面から受けると足がすくむ。同じ学校の中でも、それはよくあることだった。廊下の曲がり角で犬族の上級生とぶつかりそうになれば固まるし、運動場で狼族の声が響けば耳が勝手に伏せる。だから、普通なら人間なんてもっと怖い。怖いはずだった。
『大丈夫ですか』
なのに、あの人は近づく前に止まった。目線を合わせて、声を低くして、手を出す前に確認して、離れようとしてくれた。離れようとしてくれたのに、その時、ミミルは思わず袖を掴んでしまった。
思い出した瞬間、耳が熱くなる。
「……あれは、駄目」
自分で分かっている。人間の袖を掴むなんて、普通はありえない。まして、相手は明日から高等部に編入する人間枠の生徒だ。保護局の護衛官がすぐそばにいたからよかったものの、下手をすれば接近事故としてもっと大きく扱われてもおかしくなかった。なのに、離れないで、と思ってしまった。
机の上の端末が震えた。
ミミルはびくっと肩を跳ねさせ、それから慌てて画面を見る。同室の友人からの短いメッセージだった。
『聞いた。人間様に触ったって本当?』
ミミルは端末を伏せた。
早い。噂が早すぎる。正確には、触ったのではなく、触れてしまった。袖を掴んで、掌に頬を寄せてしまった。いや、正確に言えば、ほとんど自分から触りに行った。もっと悪い。
ミミルは枕を抱え、耳をぺたりと伏せた。
「違うのに……」
何が違うのか、自分でも分からない。匂いに酔っただけ。そう言えば、たぶん説明はつく。人間の匂いは兎族にも強く作用する。特に驚いた直後や、不安が強い時は、安心できる匂いに寄りかかりたくなることがあると保健指導でも聞いた。だから、あれは匂いのせい。それで終わるはずだった。でも、思い出すのは匂いだけではなかった。
床に散らばった書類を見て、慌ててくれた顔。怖がらせないように、少し離れたところで止まってくれた姿。目線を合わせてくれた時の、困ったような優しい声。
『ミミルさん』
名前。人間が、ミミルの名前を呼んだ。それも、命令するためでも、叱るためでも、呼びつけるためでもなく、ちゃんとこちらの返事を待つために。
「……もう一回」
自分の声に、ミミルははっとした。
もう一回。何を。名前を呼ばれたい、と思った。ただそれだけのことに気づいた瞬間、ミミルは枕へ顔を埋めた。耳まで隠したかったけれど、耳は長いので全然隠れない。ずるい。人間なのに。怖いはずなのに。
明日、会えますか、と聞いてしまったのは自分だ。学校で挨拶しましょう、と返してくれたのは寧夢様だ。だから、会ってもおかしくはない。挨拶くらいなら、きっと大丈夫。
大丈夫、のはず。
端末がもう一度震えた。
『返事ないけど生きてる? 保護局に怒られた?』
ミミルは少し迷ってから、短く返した。
『生きてる。怒られてはいない。たぶん』
すぐに返事が来る。
『たぶんって何』
『分からない』
『ミミル、人間様に近づいちゃ駄目だよ。番認定みたいに見えるから』
番。
その文字を見た瞬間、ミミルは端末を落としそうになった。
違う。違う、と思う。思うけれど、掌に頬を寄せる行為が、兎族にとってどれだけ重いかは知っている。怖がりな兎族が自分から頬を預けるのは、相手を安全だと認めた時だ。大丈夫だと、ここにいていいと、体が先に判断した時だ。つまり、かなり、まずい。
「……でも」
ミミルは端末を胸に抱いた。
まずいと分かっていても、嫌ではなかった。むしろ、あの人が離れようとした時の方が、ずっと嫌だった。
☆
翌朝の学校は、いつもより騒がしかった。
ミミルが通う付属中等部は、高等部と同じ敷地の中にある。校門は共通で、校舎は渡り廊下でつながっていて、食堂や図書館など一部の施設も共有している。普段から高等部の生徒を見かけることは珍しくない。
けれど、人間枠の編入生が来る日は別だった。
校門前には保護局の職員が増え、通学路の一部には簡易の誘導線が引かれていた。廊下には「人間生徒通行時の接近規定」「匂い酔い兆候確認」「無許可接触禁止」と書かれた掲示が追加され、朝のホームルーム前から、あちこちで小声の噂が飛び交っている。
「本当に来るんだって」
「高等部でしょ? こっちには関係ないよ」
「でも昨日、付属の子が会ったって」
「誰?」
ミミルは耳を伏せた。
自分です。
とは言えない。言えるわけがない。
教室の隅で小さくなっていると、同じ組の生徒がちらちらこちらを見てくる。昨日のことは、もう一部に広まっているらしい。保護局の正式な報告ではなく、誰かが店内で見ていたのだと思う。
頬を寄せたところまで見られていたらどうしよう。
ミミルは机の下で両手を握った。
思い出しただけで、また頬が熱くなる。
「ミミル、大丈夫?」
前の席の子が振り返った。
心配してくれている声だった。けれど、その視線は少し好奇心も含んでいる。
「う、うん」
「昨日、人間様に会ったって本当?」
「……会った、だけ」
「だけ?」
「転んで、助けてもらって……少し、話しただけ」
嘘ではない。
嘘ではないけれど、かなり大事な部分を抜いている。
前の席の子は目を丸くした。
「助けてもらって?」
「うん」
「人間様に?」
「……うん」
その声が思ったより大きかったのか、近くの席の子たちの耳が一斉にこちらを向いた。
「人間様が助けたの?」
「護衛官じゃなくて?」
「転んだ獣人に?」
「怒られなかったの?」
小さな声が、あちこちから飛んでくる。
ミミルは肩を縮めた。やっぱり、そこがおかしいのだ。人間は助けられる側で、獣人は近づきすぎないようにする側。転んだ獣人がいれば、普通は護衛官か店員が処理する。人間が自分から気にかけるなんて、たぶん、かなり変だ。
「怖くなかったの?」
「最初は、怖かった」
「だよね」
「でも……怖がらせないようにしてくれた」
言葉にすると、胸の奥がふわりと温かくなった。
前の席の子が、信じられないものを見るように瞬きをした。
「人間様が?」
「うん」
「……そんなことあるんだ」
そんなこと。
やっぱり、そうなのだ。
ミミルは膝の上の手を見た。寧夢様の掌とは違う、自分の小さな手。昨日、この手が袖を掴んだ。行かないで、と言ってしまった。
今日会えたら、ちゃんと謝ろう。
そう思った瞬間、廊下の方がざわめいた。
「来た」
誰かが言った。
教室中の耳が、同時に廊下へ向く。ミミルの耳も勝手に立った。
高等部の始業時間にはまだ少し早い。けれど、人間枠の生徒は保護局の確認を受けながら登校するため、誘導ルートの都合で中等部側の渡り廊下を通ることがある。先生からも、見かけても近づかず、声をかける時は護衛官の指示に従うよう言われていた。
近づいてはいけない。
声をかけてもいけないかもしれない。
でも、昨日、挨拶すると約束した。
ミミルは立とうとして、立てなかった。
膝に力が入らない。耳だけが廊下へ向いて、体は机に縫い止められたみたいに動かない。行きたい。行けない。挨拶だけなら。無理。そんな言葉が頭の中でぐるぐる回る。
「ミミル?」
前の席の子が、小さく呼ぶ。
「……無理」
正直な声が出た。
教室の戸口には、すでに何人かの生徒が顔を出していた。先生が「廊下へ出ないでください。距離を取ってください」と声をかけている。ミミルは自分の席の横で、立ち上がりかけたまま固まっていた。
幸か不幸か、ミミルの席は廊下側の前列にあった。開いた戸口から通路が見えるし、通路側からもこちらが見える。動けないままでいるには、あまりにも都合の悪い席だった。
最初に見えたのは、深緑の制服だった。
犬族の護衛官。背が高く、姿勢がまっすぐで、大きな耳と尻尾が凛としている。昨日はいなかった人だ。たぶん、話に聞いたルカ護衛官。
その半歩後ろに、寧夢様がいた。
白いシャツに濃紺のジャケット。胸元の身分札。昨日より少し緊張した顔。けれど、廊下の生徒たちを見て、驚いたように目を丸くし、それから小さく笑った。
その瞬間、廊下の空気が変わった。
人間が笑った。
それだけで、近くにいた生徒たちの耳や尻尾があちこちで反応する。誰かが小さく息を呑み、誰かが一歩下がり、誰かが逆に半歩出かけて先生に止められる。
ミミルは机の端を握った。
昨日より遠い。それなのに、分かる。ふわりと、甘い匂いが届いて、昨日の掌を思い出した。頬を寄せた場所。柔らかくて、あたたかくて、離れたくなかった手。
足が、一歩出そうになる。
駄目。
ミミルは自分の袖を握った。
その時、寧夢様の視線がこちらに向いた。
ぱっと、顔が明るくなる。
「ミミルさん」
名前を呼ばれた。ミミルの耳が、自分でも分かるくらい分かりやすく跳ねる。
「お、おはようございます、逢苗寧夢様」
声が裏返りかけた。
恥ずかしい。
けれど、寧夢様は笑わなかった。むしろ、少しほっとした顔になる。
「おはよう。昨日はごめんね。膝、大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
「よかった。えっと、制服、付属中等部だよね。ミミルさんって、三年生?」
「は、はい」
「じゃあ、私より年下で、学校だと後輩になるのか」
寧夢様はそこで少しだけ考える顔をした。
「ミミルちゃん、って呼んでもいい? あ、嫌だったらさんのままにするけど」
ちゃん。
頭の中で、その音がころんと転がった。
ミミルさん、ではなく、ミミルちゃん。人間が獣人を気安く呼び捨てにする話は聞いたことがある。所有物みたいに呼ぶ話も、笑いながらあだ名をつける話も、聞いたことがある。でも寧夢様の声は、そういうものとは違っていた。年下だから。後輩だから。嫌ならやめるから。そういう、理由と逃げ道を一緒に差し出す呼び方だった。
「……だ、大丈夫、です」
大丈夫ではない。
耳が熱い。
「じゃあ、ミミルちゃん」
「は、はい……!」
「あと、私、昨日ちょっと距離感を間違えたかもしれないから、嫌だったらちゃんと言ってね。今日は近づかないようにするので」
近づかない。
呼び方で浮いた心が、その言葉で一気に落ちた。
息が浅くなる。机の端を握る指に力が入り、爪が木の角を押した。近づかない。それは正しい。昨日のことを考えれば、寧夢様がそう言うのは当たり前だし、保護局も先生もきっとそれを望んでいる。怖がらせないための言葉だと分かる。分かるのに、今のミミルには、もう近くには行かない、と告げられたみたいに聞こえてしまった。
嫌だった。
胸の奥が、はっきり痛かった。
ルカ護衛官が、静かに寧夢様の斜め前へ立つ。威圧ではない。けれど、線を引く動きだった。
「寧夢様。会話は可能ですが、接触および距離の短縮は保護局条件により禁止されています」
「はい。ここで止まります」
寧夢様は素直に頷いて、その場でぴたりと止まった。本当に、止まった。近づこうと思えばできるはずなのに。人間なのに。ミミルが止まってほしいと言う前に、止まってくれた。
「昨日、怖かったよね」
「……怖かった、です」
言ってから、ミミルは慌てた。
怖かった、と人間に言ってしまった。
失礼かもしれない。怒らせたかもしれない。そう思って顔を上げると、寧夢様は少し眉を下げていた。
「そっか。教えてくれてありがとう」
怒っていなかった。ありがとう、と言った。怖かった、と言ったことに。
ミミルは息を忘れた。
「でも」
気づくと、声が出ていた。
「でも、嫌では、なかったです」
廊下の音が遠くなった。
自分で言った言葉の意味が、少し遅れて追いついてくる。嫌ではなかった。人間に近づかれて、手を差し出されて、名前を呼ばれて、嫌ではなかった。それはかなり重い。かなり、かなり重い。でも、嘘ではない。
寧夢様は目を丸くした。
「そうなの?」
「はい」
「そっか……よかった。いや、よくはないかもしれないけど、嫌じゃなかったなら、少し安心しました」
困ったように笑う。
その顔を見たら、胸の奥がきゅうっと温かくなった。
先生が咳払いをする。廊下にいた生徒たちも、教室の中の生徒たちも、こちらを見ている。ルカ護衛官の耳がわずかに動いた。
ミミルはそこで初めて、自分がかなり注目されていることに気づいた。
逃げたい。すごく逃げたい。でも、逃げたくない。寧夢様が、まだこちらを見ているから。
「あの」
「うん」
「昨日、私が袖を掴みました。勝手に触って、ごめんなさい」
「えっ、いや、あれは私がびっくりさせたから」
「違います」
思ったより強い声が出た。
自分でも驚く。寧夢様も、ルカ護衛官も、少しだけ目を開いた。
「違う、と思います。びっくりはしました。でも、寧夢様が離れようとした時、私が……離れないでって、思いました」
言ってしまった。顔が熱い。耳も熱い。尻尾が制服の後ろで小さく跳ねている。
寧夢様は何かを言いかけて、口を閉じた。困ったように、それでも真面目に考える顔をする。
「それは……嬉しい、って言っていいのかな。いや、駄目かな。重い話かもしれない」
小さく呟く声が聞こえた。
不思議な人だと思った。
普通の人間なら、獣人が離れたくないと言えば、喜ぶか、当然だと思うか、気味悪がるかのどれかだと思っていた。けれど、寧夢様は先に、こちらの重さを考えようとしている。
まただ。また、待ってくれている。
ミミルの足が、半歩前に出た。
ルカ護衛官の視線が鋭くなる。
「ミミル様」
静かな制止。
怖い。犬族の護衛官の声は低く、よく通る。昨日のキリカ護衛官とは違う圧がある。ミミルの耳は反射的に伏せかけた。でも、寧夢様がいる。近づいてはいけない。触ってはいけない。分かっている。分かっているのに、言わなければいけない気がした。
「ご、ごめんなさいを」
声が震える。
「ちゃんと、言いたくて」
寧夢様は動かなかった。
動かずに、ルカ護衛官を見た。
「ルカさん」
「許可できません」
即答だった。当然だった。ミミルは胸の奥がしゅんと縮むのを感じた。そうだ。これは無理を言っている。昨日の今日で、保護局の条件もある。人間枠の登校初日で、廊下には他の生徒もいる。
諦めなければ。
そう思った時、廊下の奥から複数の足音が近づいた。高等部の生徒たちが、先生に誘導されながら通路を移動してくる。誰かの鞄が壁に当たり、乾いた音が鳴った。
ミミルの肩が跳ね、反射で足がすくんだ。
「ミミルちゃん」
寧夢様の声がした。
近づかないまま、そこにいる声。
「大丈夫。私はここにいるけど、近づかないから」
息が止まった。ここにいる。近づかない。その両方を同時に言ってくれる人を、ミミルはあまり知らなかった。
気づいた時には、手が伸びていた。
寧夢様の手ではない。腕でもない。制服の袖の端に、ほんの少しだけ、指先が触れた。布越し。一瞬。それだけ。それだけなのに、体の奥がふわりとほどけた。
「……あ」
自分の声か、寧夢様の声か分からなかった。
ルカ護衛官がすぐに一歩出る。寧夢様は動かない。ミミルも、慌てて手を引いた。
「ご、ごめんなさい!」
周囲がざわつく。
先生が近づいてくる。ルカ護衛官の尻尾が一度だけ揺れ、すぐに止まった。
「ミミル様。今の接触は報告対象です」
「はい……」
分かっている。分かっているのに、指先に残った布の感触が消えない。
寧夢様は自分の袖を見て、それからミミルを見た。
「大丈夫?」
「……はい」
「怖かった?」
「少し」
「そっか」
寧夢様は少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ、今のもちゃんと書きます。私が近くにいたことと、ミミルちゃんがびっくりしたことと、袖に触れたこと」
「書く、んですか」
「うん。接触記録に。たぶん、書かないといけないので」
接触記録。保護局に提出する記録。そこに、ミミルの名前が書かれる。普通なら、怖がるべきことだ。記録に残るなんて、いいことではない。先生も、ルカ護衛官も、周囲の生徒も、そういう空気を出している。なのに、寧夢様が自分の名前を書く。その事実に、胸の奥が変なふうに跳ねた。
駄目だ。喜ぶところではない。絶対に違う。
「ミミルちゃん」
また、名前を呼ばれた。
ミミルは顔を上げる。
「昨日のことも、今のことも、嫌だったら嫌って書くし、怖かったら怖かったって書く。だから、もし後で違うと思ったら、先生か保護局の人に言ってね」
優しい。優しいのに、少しずれている。嫌だったかどうかを、また聞いてくれる。怖かったかどうかを、こちらに決めさせてくれる。
ミミルは両手を胸の前で握った。
「嫌では、なかったです」
声は小さかった。
けれど、今度は震えなかった。
「怖かったです。でも、嫌ではなかったです」
寧夢様の目が、少しだけ丸くなる。
それから、嬉しそうに細くなった。
「そっか。教えてくれてありがとう、ミミルちゃん」
まただ。今日だけで、何度も名前を呼ばれている。
ミミルは耳を伏せ、顔を隠すように俯いた。
匂いのせいだと思っていた。昨日からずっと、そう言い聞かせていた。でも、違う。匂いは確かに甘くて、近くにいると頭がふわふわする。袖に触れただけでも、体が安心してしまう。けれど、ミミルが本当に欲しかったのは、それだけではなかった。
名前を呼んでほしかった。待ってほしかった。怖いと言っても、嫌いだと決めつけないでほしかった。寧夢様は、それを全部してしまう。だから、危ない。危ないのに、また会いたい。
「寧夢様、時間です」
ルカ護衛官の声で、寧夢様がはっとする。
「あ、はい。ミミルちゃん、またね。えっと、距離はちゃんと守るので」
「はい」
またね。
たったそれだけの言葉で、胸がいっぱいになる。
寧夢様はルカ護衛官に促され、高等部棟へ向かって歩き出した。腕一本分の距離を保って、護衛官の半歩後ろをついていく。その後ろ姿を、ミミルはしばらく見つめていた。
廊下のざわめきが戻ってくる。
先生に名前を呼ばれ、ミミルはようやく我に返った。
「ミミルさん。あとで保健室と生活指導室に来てください」
「……はい」
怒られる。
たぶん、かなり怒られる。
でも、指先にはまだ、袖の感触が残っていた。
甘い匂いも、少しだけ。
ミミルは自分の指先を胸元に寄せ、それから慌てて手を下ろした。こんなところでそんなことをしたら、また変な噂になる。
もう十分、変な噂にはなっている気がするけれど。
席に戻ると、前の席の子が目を丸くして待っていた。
「ミミル、今の」
「……声をかけられただけ」
「だけ?」
「たぶん」
自信はなかった。
前の席の子は、しばらくミミルを見つめてから、低い声で言った。
「それ、絶対だけじゃないよ」
ミミルは答えられなかった。
机に座り、授業の準備をしようとして、結局何を出せばいいのか分からなくなる。
頭の中では、何度も同じ声が繰り返されていた。
ミミルちゃん。
ミミルちゃん。
ミミルちゃん。
匂いを覚えてしまったことより、袖に触れてしまったことより、その声が一番離れない。
ミミルは教科書で顔を隠しながら、小さく息を吐いた。
明日も、ミミルちゃんと呼んでくれるだろうか。
そう思ってしまった時点で、もうたぶん、昨日の事故はただの事故ではなくなっていた。