ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
接触記録というものは、たぶん一日の終わりに落ち着いて書くものだと思う。
少なくとも、朝の登校途中、まだ教室にも入っていない段階で「本日一件目」が発生するようなものではない。そうであってほしい。そうであってほしかった。
「寧夢様。先ほどのミミル様との接触は、記録対象です」
「はい……」
ルカさんの声はいつも通り落ち着いていた。けれど、その耳はほんの少しだけ後ろへ伏せている。怒っているというより、困っている。あるいは、職務上の深刻な確認かもしれない。
どれにしても、私が朝一番で何かをやらかしたことに変わりはなかった。
ミミルちゃん。
私は心の中で、さっき呼んだばかりの名前をもう一度転がす。付属中等部三年。私より年下で、学校では後輩。昨日は「ミミルさん」と呼んでいたけれど、年下だと分かったら「ちゃん」をつけたくなるのは自然なことだと思う。少なくとも、元の私の感覚では自然だった。
ミミルちゃんは、ちゃん付けを許してくれた。嫌そうではなかった。むしろ耳がふわっと動いて、顔が赤くなって、袖に触れた指先まで小さく震えていて、私としては「かわいい……!」以外の感想が一瞬消えかけた。
いや、消えた。
接触記録になるくらいなのだから、きっと保護局的には何かしらある。でも今の私の頭に残っているのは、ミミルちゃんの丸い耳と、こっちを見上げた時の潤んだ目と、袖の端をそっと掴んだ指先の頼りなさだった。
かわいかった。
ものすごく。
「寧夢様」
「はい」
「本日の接触記録には、ミミル様の件を記載してください。内容は、廊下での会話、袖への接触、周囲の反応、寧夢様ご自身の判断です」
「分かりました。可愛かったことは」
「不要です」
「大事なのに」
「不要です」
ルカさんは、高等部棟へ続く廊下の手前で足を止めた。
廊下の向こうには、制服姿の獣人さんたちがいる。犬族。猫族。鹿っぽい角のある人。鳥の羽根のような髪飾り、ではなく多分本物の飾羽を持つ人。すらりとした狼族らしき上級生。遠目に見ても分かるくらいふわふわの尻尾。
楽園では?
いや、違う。学校である。
私は心の中で自分を叱りつける。ここは教育機関。私は人間枠の編入生。周囲の皆さんは同級生、または先輩後輩であって、観賞対象ではない。
でも、廊下の角で猫族の生徒が緊張して尻尾を膨らませているのを見た瞬間、理性が少しだけ揺れた。
ふわっふわだ。
あれ、本人は緊張しているのだろう。かわいそう。かわいそうなのだけど、尻尾がふわっふわだ。落ち着いて。落ち着け、私。あれは感情反応であって、私を楽しませるためのものではない。
「寧夢様。視線」
「はい。すみません」
ルカさんに短く注意され、私は慌てて前を向く。
見すぎたらしい。
「この学校は、一般区域とは運用が異なります。通学している生徒は、家柄、素行、匂い耐性、対人間作法を審査された者が大半です。人間枠の受け入れを前提とする名門校ですので、無差別な隔離よりも、管理された交流を重視しています」
「管理された交流」
「はい。公式には、相互理解、社交教育、対人間作法の習得です。外では人間の安全確保が第一ですが、校内では獣人生徒が人間と同じ空間で落ち着いて過ごす訓練も目的に含まれます」
「公式には」
「制度上の説明です」
「なるほど」
「同じ教室で過ごす。挨拶を交わす。許可された範囲で会話する。段階に応じて、資料の手渡しや握手のような短時間の交流を行う。人間と接する機会を、上流教育の一環として提供する役割です」
……ふわふわの耳と尻尾に囲まれて、挨拶して、会話して、場合によっては握手。
つまり、外とは違って、学校では触りに行っても良いってことでは……?
いや、違う。触りに行く、ではない。交流する、である。建前としては相互理解で、社交教育で、対人間作法の習得で、私はその教材というか、実習相手というか、たぶんそんな感じだ。
でも、手順を踏めば握手がある。
許可された短時間の交流がある。
天職では?
「寧夢様」
「はい」
「今、かなり前向きな顔をされました」
「してません」
「されています」
「……少ししました」
私は正直に認めた。
だって仕方ない。外では危険。家ではルカさんに迷惑をかけた。保護局ではシオンさんに危険傾向として見られた。そんな中で、学校はある程度の交流を前提にしていると言われたら、希望を見てしまう。
もちろん、だからといって好き勝手に触っていいわけではない。
そこは分かっている。昨日、ルカさんにやらかした。ミミルちゃんの袖接触も記録対象になった。触りたい欲望はある。めちゃくちゃある。でも、触るなら安全に、相手が嫌がらない形で、許可を得て、ちゃんと手順を踏むべきだ。
つまり、私は今日から、手順を守って触るための学校生活を始める。
……言い方が最低な気がする。
「念のため申し上げますが、学校の交流制度は寧夢様の個人的な期待を満たすためのものではありません」
「はい」
「寧夢様?」
「はい。分かっています。すごく分かっています」
ルカさんは少しだけ疑わしそうにこちらを見た。
尻尾が動いていない。完全に職務中の尻尾だ。
高等部棟の廊下は、きれいに磨かれていた。壁には落ち着いた色の掲示板が並び、窓の向こうには整えられた中庭が見える。学校というより、ちょっとしたホテルか、私立の上品な施設みたいだ。
ただ、外の保護区域と違って、床に「近づくな」という線は引かれていなかった。
代わりに、教室前の掲示板には今日の人間枠交流当番らしい名前が、時間帯ごとに丁寧に並んでいた。
安全のために遠ざけるというより、近づく前提で手順を決めている。
なるほど。これは、だいぶ違う。
廊下の生徒たちは私を見ると背筋を伸ばした。目は合う。すぐ逸らす人もいるけれど、完全に逃げるわけではない。むしろ、決められた位置で待っているような感じだった。何人かは小さく息を整えてから会釈する。
良いところの子たち。
そう言われると、たしかに皆、振る舞いがきちんとしている。緊張しているのに、走らない。騒がない。近寄りすぎない。でも、遠ざかりすぎもしない。
すごい。
かわいいだけじゃない。
ちゃんとしている。
「こちらです」
ルカさんが教室の前で立ち止まる。
扉の上には、高等部一年の表示があった。私は今日から、このクラスの生徒になるらしい。らしい、というのも変だけれど、この世界の私にとってはすでに決まっていた進路で、今の私にとっては初めて足を踏み入れる場所だ。
扉の向こうから、ざわめきが聞こえる。
耳がいい人たちばかりなら、こっちの足音も聞こえているのかもしれない。いや、人間の足音がどうこうより、ルカさんの気配とか、護衛官の制服とか、保護局の同行とか、そういうものの方が分かりやすいのだろう。
私は深呼吸した。
「緊張されていますか」
「しています」
「無理に笑う必要はありません」
「でも、交流枠なんですよね?」
言ってから、自分でも言い方がどうかと思った。
ルカさんの耳が、ほんの少しだけ動く。
「笑顔を強制する制度ではありません」
「よかったです。強制で笑うの、かなり難しそうなので」
「寧夢様が自然に笑った場合でも、別の反応が起きる場合があります」
「笑顔まで刺激物扱い」
「事実です」
言い切られてしまった。
私は口元に手を当てる。笑いすぎず、怖い顔にもならず、普通に。普通にって何だろう。昨日からずっと、普通の難易度が高い。
扉が内側から開いた。
現れたのは、鹿族らしい女性の先生だった。穏やかな目元に、細い角。淡い茶色の髪をきっちりまとめ、胸元には教員証。こちらを見ると、先生は丁寧に会釈した。
「逢苗寧夢様。お待ちしておりました。担任の鹿鳴ミサキです」
「逢苗寧夢です。今日からよろしくお願いします」
私は反射で頭を下げかけて、途中で止めた。
深く下げすぎない。
昨日も言われた。人間が獣人に深く頭を下げる必要はない。いや、必要がないというか、この世界では変に見える。だから、軽く。失礼にならない程度に。
軽く会釈すると、先生の目が少しだけ丸くなった。
また何かやったかもしれない。
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします。護衛官の方は教室後方の指定位置へ」
「承知しました」
ルカさんが静かに頷く。
先生が教室内へ向き直った。
「皆さん。逢苗寧夢様が到着されました。事前に説明した通り、起立は不要です。初回交流ですので、まずは着席のままご挨拶を受けます。匂い酔いなど体調に不安がある者は、無理をせず教員か護衛官へ申告すること」
起立は不要。
着席のまま挨拶。
匂い酔い。
転校生の紹介で、ここまで健康管理っぽい言葉が並ぶことがあるだろうか。いや、ここではあるのだろう。私は何とも言えない気持ちで、先生の後について教室に入った。
空気が止まった。
教室には、三十人ほどの生徒がいた。全員が獣人。犬族、猫族、狐族、鳥族、羊族らしき子もいる。制服は同じなのに、耳や尻尾や角や羽根で、それぞれの印象が全然違う。
すごい。かわいい。かっこいい。情報量が多い……!
私は一瞬で脳内が忙しくなったけれど、何とか表に出さないようにした。ここで目を輝かせて全員を見回したら、かなりまずい気がする。見世物みたいに見ていると思われたら嫌だし、そもそも私の視線だけで緊張する人もいる。なので、私は前を見て、黒板の横に立った。
先生が頷いた。
「逢苗様。簡単にご挨拶を」
「はい」
私はクラスを見た。
目が合った猫族の子が、ぴんと耳を立てる。犬族の男の子が背筋を伸ばしすぎて椅子を鳴らす。狐族の子が笑顔を作ろうとして、尻尾だけがそわそわしている。
緊張させている。
でも、目を逸らしすぎるのも違う。
私は息を吸った。
「逢苗寧夢です。人間枠で、今日からこのクラスに編入することになりました」
自分で言っていて、少し不思議な気持ちになる。人間枠。改めて口にすると、まるで自分が授業科目か何かみたいだ。
「この学校の作法や、皆さんとの交流の仕方について、まだ分からないことがたくさんあります。迷惑をかけてしまうこともあると思いますが、気づいたことがあれば教えてもらえると嬉しいです」
ざわ、と空気が揺れた。あれ。普通に言ったつもりだった。けれど、何人かの耳が立ち、何人かの尻尾が止まった。先生も、ほんの少しだけ瞬きをしている。ルカさんは教室後方の指定位置で、表情を変えないままこちらを見ていた。
私は続ける。
「えっと、よろしくお願いします」
軽く会釈。今度は深くしすぎない。したらまた何か起きる。そう思って、本当に軽く頭を下げただけだった。それでも、教室のあちこちで息を呑む音がした。
……軽くでも駄目だった?
難易度が高い。
「逢苗様。ありがとうございます」
先生が穏やかに言った。
「皆さんも、不用意に立ち上がらないように。逢苗様は本日が初回です。交流は予定表に沿って進めます」
不用意に立ち上がらない。つまり今、立ち上がりかけた人がいたということだ。私は心の中で冷や汗をかいた。もしかして、獣人側に「教えてほしい」と言うのも重いのだろうか。いや、でも分からないことを教えてほしいと言わないと、ずっと分からないままだ。学ぶ気はある。迷惑はかけたくない。
ただ、その「教えてほしい」が、こっちの世界ではどう聞こえるのか。まだ分からない。
「では、逢苗様の席を案内します」
先生に促され、私は教室の中央寄りへ向かった。
そこだけ、明らかに空間が違っていた。
一番後ろでも、窓際でもない。教室の中央より少し後ろ、どの席からも見えやすく、前後左右に一人分ずつ余裕を取った机。隣の席は空席ではなく、左右に一つずつ、名札付きの机が置かれている。机の端には小さな白い装置と、交流記録のためらしい細い板。
隔離席、ではない。
むしろ、見られる席だ。
ふれあいコーナー?
いや、言い方。
「こちらが逢苗様の席です。左右の席は、日ごとに交流当番が交代します。本日は初回のため、右隣を空席、左隣をクラス委員のユラさんとします」
「隣、あるんですね」
「はい。校内では、一定の交流を前提にしています。ただし、隣席者は事前講習を終えた生徒に限られます」
なるほど。
外なら危ない。家でも認可使用人や護衛官でなければ危ない。でも、この学校では、家柄と訓練と規定で「近くにいていい獣人さん」が選ばれている。
これは、かなり大事な違いだ。
私は席に手を置き、周囲を見る。クラスメイトたちは、こちらを見ないようにしている。見ないようにしながら、明らかに意識している。耳がこっちを向いていたり、尻尾が机の脚に巻きついていたり、ノートを開く手が止まっていたりする。
この距離で一年過ごすのだろうか。正直、すごく近い。すごく近いし、すごく見られている。そして、ちょっと嬉しい。
……嬉しいと思っている場合ではない。
「先生」
「はい」
「交流当番というのは、私と話す係、ということで合っていますか?」
「はい。授業前後の簡単な案内、資料の手渡し、許可された範囲での会話を担当します。慣れてきた場合は、握手など短時間の交流も行います」
「握手」
声が弾んだ。
弾んでしまった。
先生の耳がぴくりと動き、ルカさんの視線が後ろから来る。
「寧夢様」
「はい。落ち着きます」
私は胸の前で両手を握った。
握手。握手である。許可された接触。ちゃんとした手順のある接触。素晴らしい。いや、素晴らしいけれど、ここで前のめりになったら全部台無しだ。安全に触るためには、触りたい気持ちを安全に畳む必要がある。
矛盾しているようで、たぶん真理だ。
「本日の初回交流担当は、クラス委員のユラさんです」
先生が教卓の方へ視線を向けた。
猫族の女子生徒が、はっと顔を上げる。黒と白の混じった短い髪。頭の上には三角の耳。長い尻尾は椅子の脚にきゅっと巻きついている。机の上には、クラス委員用らしい資料の束が置かれていた。
目が合う。
すぐ逸らされる。
でも、耳はこちらを向いたままだった。
「ユラさん。お願いします」
「は、はい」
ユラさん。
猫族のクラス委員。
彼女は資料の束を持って立ち上がった。動きはきれいだけれど、尻尾が明らかに緊張している。ぴんと立ち、先だけが小刻みに揺れていた。
かわいい。
いや、緊張している。
私は視線を資料に固定した。尻尾を見るな。尻尾を見ると多分、ルカさんにはばれる。いや、もうばれているかもしれない。後ろから刺さる視線が、その可能性をかなり強めていた。
ユラさんは私の机の横まで来ると、資料の端を指で整えた。それから、ほんの一拍だけ息を整え、資料を両手で差し出す。
手渡し。
普通に、手渡しだ。
私は一瞬、感動しかけた。
「逢苗様。本日の時間割、校内案内図、交流規定の簡易版、接触記録の下書き用紙です」
「ありがとうございます、ユラさん」
資料を受け取る時、指先がほんの少し触れた。
柔らかい。
人の手に近いのに、指の付け根あたりが少しだけふにっとしている。毛並みというほどではないけれど、肌の上に薄く短い産毛があって、ぬくもりがあって、緊張しているせいか少し熱い。
……猫!
いや、人!
私は危うく叫びそうになった感想を、喉の奥で全力で飲み込んだ。
ユラさんの耳が、ぴんと立っている。
教室の数人がこちらを見る。
また何か起きた?
「……私の名前を」
「え?」
「い、いえ。失礼しました」
ユラさんは慌てて視線を下げる。尻尾の先が、机の脚にこつんと当たった。
名前を呼んだだけ、のはず。
でも、これまでの流れから考えると、名前を呼ぶだけでも重いことがある。ルカさんも、ミミルちゃんも、シオンさんもそうだった。
私は慎重に言葉を選ぶ。
「クラス委員のお仕事、助かります。私、学校のことがまだ分からないので、迷惑をかけたら教えてください」
ユラさんの耳が、さらに立った。
まずい。
でも、これは言いたい。
「ただ、無理はしなくて大丈夫です。怖かったり、匂いで気分が悪くなったりしたら、先生かルカさんに言ってください。私も、ちゃんと規則を守るので」
言い終えた瞬間、ユラさんの表情が少し変わった。
警戒が消えたわけではない。緊張も解けていない。でも、さっきまでの「人間に何を言われるか分からない」という固さとは違う、困惑に近い顔だった。
「……わ、分かりました」
ユラさんは小さく頷く。
その頷きは本当に小さかったけれど、私は少しほっとした。
よし。今回は手順通り。許可された手渡し。指先の接触。名前を呼んで、感謝して、お願いした。学校側が想定している範囲。これなら大丈夫では?
「寧夢様」
後ろからルカさんの声。
嫌な予感がした。
「はい」
「今の接触と会話を、接触記録に記載してください」
「手順通りでもですか?」
「はい。手順通りだからこそ記録します」
なるほど。事故だから書くのではない。交流したから書くのだ。
「接触記録は、事故報告ではありません。校内では交流記録も兼ねます。距離、会話内容、接触の種類、相手の反応、寧夢様ご自身の判断を残してください」
「分かりました」
「特に今のように、寧夢様が相手の名前を呼び、感謝し、助力を求めた場合、相手に強い反応が出る可能性があります」
「名前と感謝とお願いが記録対象」
「はい」
学校生活、難しすぎない?
私は椅子に座りながら、資料を机の上に置く。接触記録の下書き用紙が一番上にあった。まるで、こうなることを見越していたみたいだ。用紙には、相手の氏名、種族、距離、接触の有無、会話内容、相手の反応、自分の判断、という項目が並んでいる。
私はペンを持った。一件目。ミミルちゃん。袖への接触。怖かったが嫌ではなかった、との本人申告。二件目。ユラさん。資料手渡し。指先が接触。名前を呼んだら耳が立った。感謝したらさらに耳が立った。尻尾が机の脚に当たった。
……これ、書いていいのだろうか。相手の耳や尻尾の反応を書くの、すごく覗き見みたいで申し訳ない。でも、書かないといけないのだろう。
「寧夢様。授業中に記録を始める必要はありません」
「あ、はい」
ルカさんに言われ、私は慌ててペンを置いた。
先生が教壇に戻る。
「それでは、朝の連絡を始めます。皆さん、通常通りに」
通常通り。先生はそう言ったけれど、教室はどう考えても通常通りではなかった。クラスメイトたちは皆、普通の顔をしようとして失敗しているし、ユラさんは私の左隣に座ってからも耳がこちらへ向いているし、ルカさんは壁際に立ったまま微動だにしない。そして私は、人間枠用の少し目立つ席で、接触記録の下書き用紙を前に置いている。
普通の学校生活。その言葉の遠さに、少しだけ笑いそうになった。でも、不思議と嫌ではない。ミミルちゃんは、とにかく可愛かった。ユラさんは、まだ怖がっているけれど、資料を手渡してくれた。クラスの皆も、遠巻きにしているわけではなく、決められた距離の中でこちらを見ている。
距離はある。手順もある。記録もある。それでも、ここでは最初から交流することが前提になっている。私は前を向いた。まずは一日、手順を守って過ごす。目標としては、たぶん普通。でも、今の私にはかなり高い。
そう決意したところで、前の席の犬族の生徒の尻尾が、椅子の下でぱたりと揺れた。
ふわり。
思わず視線が吸い寄せられる。
ルカさんの声が、後ろから飛んだ。
「寧夢様」
「見てません」
「まだ何も言っていません」
教室のどこかで、誰かが小さく吹き出した。
笑い声はすぐに消えたけれど、確かにあった。
私は前を向いたまま、少しだけ口元を緩める。
普通には、まだ遠い。でも、完全に無理というわけでもないのかもしれない。
☆
その日の一時間目が始まる前、猫族のクラス委員であるユラは、ノートの端に小さく文字を書いていた。
逢苗様。
寧夢様。
寧夢、様。
そこまで書いて、慌てて線を引く。
何をしているのか、自分でも分からなかった。人間と同じ教室で過ごすことは、入学時から説明されていた。人間枠の編入があれば、上級生として、あるいは同級生として、一定の交流を行うことになる。家でも学校でも、そういうものだと教えられてきた。
人間は貴重で、誇り高く、獣人に安らぎを与える存在。同じ空間にいてくれるだけでありがたい。言葉をかけられれば名誉。手渡しを許されれば、記録に残る。そういう相手だ。
だから、資料の手渡しくらいで動揺するのはおかしい。指先が触れたくらいで、尻尾が落ち着かなくなるのはおかしい。名前を呼ばれただけだ。ありがとうと言われただけだ。困ったら教えてほしいと言われただけだ。どれも、規定の範囲内。
なのに、普通の人間は獣人の名前を覚えようとしない。普通の人間は、クラス委員の仕事に礼を言わない。普通の人間は、怖かったら先生や護衛官に言っていい、などと言わない。
ユラの尻尾は、さっきから机の下で落ち着かない。自分で押さえようとすると、余計に動く。
隣を見る。
逢苗様は、先生の話を真剣に聞いていた。時々、何かに反応して目を輝かせかけ、そのたびに後ろの護衛官から小さく注意を受けている。
変な人間。何を考えているのか分からない人間。それなのに、少しだけ。ほんの少しだけ、次の当番も自分だったらいいのに、と思ってしまった。
ユラはノートの端を隠し、何もなかった顔で前を向いた。
その耳が、まだ逢苗寧夢の方を向いていることには、気づかないふりをした。