ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
昼休みまでに分かったことが、三つある。
一つ。この学校は人間枠の交流だけに力を入れているわけではなく、授業もしっかり難しい。二つ。数字や記号に見覚えがあっても、数式の途中が一行飛んだだけで、今の私は普通に迷子になる。
そして三つ目。
困って数式を見つめていると、ユラさんがものすごく小さな声で助けてくれる。
「そこは先に、両辺を二倍します。分母が消えるので」
「ありがとうございます」
「いえ」
耳が立った。
朝から何度目だろう。
私が名前を呼んだ時。お礼を言った時。消しゴムを落として拾ってもらった時。ユラさんの耳は、そのたびに小さく反応した。私が見ていることに気づくと、すぐに正面へ戻るので、なるべく見ないようにはしている。
なるべく。絶対に、とは言えない。だって動くので。
「寧夢様」
後ろから飛んできた声に、私は教科書へ視線を戻した。
「授業を聞いています」
「黒板は正面です」
「黒板だけ見続けると、目が疲れるので」
「左隣で休めないでください」
「……はい」
鹿鳴先生は黒板へ向いたまま、細い角の下で少しだけ肩を揺らした。前の席でも、犬族の生徒の耳が横を向いている。もしかすると笑われているのかもしれない。
でも、朝よりは教室の空気が柔らかい。
私が何を見ていたのかまでは、たぶん分かっていない。ただ、護衛官に何度も注意される、少し落ち着きのない人間だということは、だいぶ伝わってしまった気がする。
不本意である。いや、間違ってはいない。
☆
昼休みを告げる音が鳴ると、教室中の緊張が少しだけほどけた。
机の中から昼食を出す子。廊下へ向かう子。友達の席を振り返る子。耳や尻尾がある以外は、元の世界の学校と大きく変わらない。私も鞄の中を探しかけたところで、教室の後ろから使用人さんが運んできた大きな箱を見て、そっと手を止めた。
大きい。お弁当というより、重箱に近い。
「寧夢様の昼食です」
「ありがとうございます。……一人分ですよね?」
「はい」
迷いのない返事だった。
白い布を外すと、中には小さな器がきれいに並んでいた。焼いた魚、薄く切られた肉、色とりどりの野菜、艶のある果物。見覚えのある料理に似ているものもあれば、初めて見るものもある。朝食も豪華だったけれど、お弁当までこの調子らしい。
人間、やっぱりかなりの特権階級では? 分かってたけど!
それでも、毎食こうして見せつけられると落ち着かない。元の世界では、朝に時間がなければコンビニのおにぎりで済ませることだってあった。専門学校の昼休みに、友達と菓子パンを半分ずつ交換したこともある。
今の私は、白い手袋をした使用人さんに重箱を運んでもらっている。落差がすごい。
「こちらへお願いします」
ユラさんが、私の机の横へ小さな補助机を寄せてくれた。朝より動きは落ち着いているけれど、尻尾は椅子の脚から離れない。
その向かい側には、もう一人の女子生徒が立っていた。
淡い金色の髪が、頬の横でやわらかく波打っている。髪、だと思う。たぶん。頭の横には丸みのある耳があり、その周りだけ細かな巻き毛がふわふわと重なっていた。
羊族……!
私は反射的に背筋を伸ばした。
いけない。落ち着け。髪なのか毛なのか聞きたい。毎朝どうやって整えているのかも聞きたい。湿気の日に広がるのか、乾燥すると静電気が起きるのか、専門学校で長毛種のブラッシングを習った時とは当然まったく違うはずで、そもそも彼女は動物ではなく人で。
質問が多い。
まず挨拶。
「逢苗様。昼食の交流当番を務めます、メルと申します。羊族です」
「逢苗寧夢です。よろしくお願いします、メルさん」
私が頭を下げすぎないよう気をつけて会釈すると、メルさんの丸い耳が横へ開いた。
驚いたらしい。
なぜかは分からない。
「ユラさんも、引き続きよろしくお願いします」
「は、はい。私でよければ」
ユラさんの返事は早かった。朝より少しだけ声が大きい。
二人が席につき、ルカさんは私の斜め後ろへ立った。鹿鳴先生も教卓で昼食を広げている。監視されている感じはあるけれど、三人で食卓を囲む形になると、それだけで少し普通の昼休みに近づいた気がした。
「いただきます」
手を合わせると、二人の視線が私の手元へ集まった。
「あれ。こっちでは言いませんか?」
「いえ、言います」
ユラさんが答え、メルさんも小さく頷く。
「人間の方が、私たちと同じように言うとは思っていなくて」
「食べ物への挨拶は同じなんですね。ちょっと安心しました」
私が笑うと、メルさんは一度だけ目を伏せた。ユラさんは箸を持ったまま、こちらを見ている。
見られている。
朝から私もかなり見ているので、人のことは言えない。
「二人のお弁当も、見てもいいですか?」
何気なく尋ねると、二人の手が同時に止まった。
「駄目なら大丈夫です」
「駄目では、ないです」
ユラさんがまた早口で答える。メルさんは自分の弁当箱へ目を落とし、少し迷ってから蓋をこちらへ向けてくれた。
メルさんのお弁当には、葉野菜と豆、それから丸いパンのようなものが入っている。ユラさんの方は魚が多く、切り身の端がきれいに揃っていた。種族ごとの好みなのか、家ごとの違いなのか。聞きたい。すごく聞きたい。
「おいしそうですね」
私が言うと、メルさんの耳がまた横へ広がった。
「逢苗様のものと比べれば、その、普通の昼食です」
「普通でも、おいしそうなものはおいしそうです。そっちの丸いの、パンですか?」
「穀物と豆を練って焼いたものです」
「へえ……! 食感はもちもちですか?」
「も、もちもち……だと思います」
メルさんが困ったように答えた。
聞き方を間違えたかもしれない。でも、少し嬉しそうにも見える。丸い耳の付け根が動き、巻き毛がふわりと揺れた。
ふわり。駄目だ。見ない。
「寧夢様」
「……はい」
「目を逸らすのが遅いです」
「努力はしました」
「結果が伴っておりません」
メルさんが口元を押さえた。隣では、ユラさんの尻尾の先が一度だけ椅子を叩く。
今のは、笑ったということでいいのだろうか。
いいことにしよう。
食事が始まると、最初の数分は妙に静かだった。私は知らない料理の味に驚き、二人は私が箸を動かすたびにわずかに姿勢を固くする。食べ方まで見られていると思うと落ち着かないけれど、ここで変なことをしてはいけないと考えるほど、自分が普段どうやって食べていたのか分からなくなってくる。
箸って、どの指で持つんだっけ。いや、持てている。大丈夫。
「逢苗様」
ユラさんの声に、私は箸を止めた。
「はい」
「その、小皿が逆です」
見ると、私は料理を取るための小皿を伏せたまま使おうとしていた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
ユラさんの耳が立つ。
メルさんが今度こそ小さく笑った。
恥ずかしい。でも、少し助かった。私が失敗しても空気が凍るのではなく、笑ってもらえる。人間枠としてではなく、ちょっと抜けた転校生として見てもらえた気がする。
それからは、少しずつ会話が続いた。午後の授業のこと。食堂には種族ごとの献立があること。中庭の一角は日当たりがよく、猫族の生徒が休み時間によく集まること。
「猫族が、集まる場所」
思わず復唱すると、ユラさんがこちらを見た。
「はい。ですが、逢苗様が行かれる場合は、先生か護衛官への確認が必要だと思います」
「見学だけでも?」
「見学」
「いえ、何でもないです」
見学という言い方はよくなかった。完全に何かの施設を見る人である。
ユラさんは不思議そうに首を傾げた。私が何を期待しているかまでは伝わっていないらしい。よかった。本当によかった。
「猫族の生徒と、お話しされたいのですか?」
メルさんが尋ねた。
「猫族に限らず、皆さんと話してみたいです。私、この学校や皆さんのことをまだ全然知らないので」
嘘ではない。
ただし、全部でもない。
ユラさんの尻尾が、椅子の脚へ巻きついた。朝から何度も見た動きだったので、緊張しているのだろう。私はそれ以上、中庭の話を続けないことにした。
お弁当を半分ほど食べたところで、重箱の隅に小さな包みが並んでいるのを見つけた。薄い紙に一つずつ包まれた、丸い焼き菓子。三つある。
ちょうど三人分。
使用人さんがそこまで考えたのかは分からない。でも、元の世界なら、同じ卓の子に「食べる?」と聞くくらい普通のことだった。
「これ、二人も食べますか?」
静かになった。
さっきまで動いていた箸が止まり、少し離れた席から聞こえていた会話まで、一瞬だけ小さくなった気がする。
また何かやった?
「寧夢様」
ルカさんの声は低いけれど、朝のような即座の制止ではなかった。
「はい」
「お渡しになる理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「三つあるので。私一人で食べるより、一緒に食べた方がおいしいかなと」
正直に答えると、ルカさんは黙った。
数秒。長い。
「駄目ですか?」
「禁止されているわけではありません。ただ、人間から食事を分け与える行為を、獣人側が軽く受け取るとは限りません」
「軽くない?」
私は包みを見た。手のひらに収まる、小さな焼き菓子である。物理的には軽い。
そういう話じゃないか。
「えっと。二人は、嫌ですか?」
私は包みを重箱へ戻し、ユラさんとメルさんを見る。欲しいかではなく、嫌か。朝から同じことばかり聞いている気もするけれど、分からないのだから聞くしかない。
メルさんは丸い耳を伏せ、ユラさんの方を見た。先に答える役を譲ったように見える。
ユラさんは焼き菓子と私を交互に見ていた。瞳が少し大きくなり、尻尾の先は椅子の脚に巻きついたまま動かない。
「嫌では、ないです」
ようやく出た答えは、朝から何度も聞いた言葉だった。
「メルさんは?」
「私も、嫌ではありません。ただ、本当にいただいてよいのかと」
「もちろんです。じゃあ、どうぞ」
私は包みに直接触れないよう、重箱の中にある小さな取り箸で一つずつ持ち上げた。まず朝から何度も助けてくれたユラさんの小皿へ。それから、昼食に付き合ってくれたメルさんの小皿へ置く。
「ユラさんは、今日ずっと助けてもらっているので。お礼も込みです」
ユラさんの耳が、ぴんと立った。
「私に」
「はい。さっきの小皿も教えてもらいましたし」
「それは、当番なので」
「当番でも、助かったのは本当です」
ユラさんは何も言わなくなった。
隣でメルさんが、自分の焼き菓子を見つめている。そちらも食べる様子がない。
「もしかして、苦手でした?」
「いえ。逢苗様からいただいたものを、すぐ食べてしまってよいのか迷っていました」
「食べるためのお菓子なので、食べてもらえると嬉しいです」
私がそう言うと、二人はほとんど同時に包みへ手を伸ばした。
メルさんは慎重に一口かじり、丸い耳をふわりと横へ開く。ユラさんはもっと小さく割り、欠片を口に入れたまま動かなくなった。
「どうですか?」
「おいしいです」
メルさんは素直に答えてくれた。
ユラさんはまだ黙っている。
「ユラさん?」
「……おいしい、です」
少し遅れて、ようやく返事があった。
よかった。
私は残った一つを開け、同じように口へ運ぶ。表面はさくっとしていて、中には甘酸っぱい果実が練り込まれていた。高級そうだけれど、味そのものはどこか懐かしい。
「本当だ。おいしいですね」
私が笑うと、メルさんも小さく頷いた。
ユラさんは、自分の焼き菓子をさらに半分に割っている。とても丁寧だ。
「ゆっくり食べる派ですか?」
「……大事に食べています」
「気に入ったなら、よかったです」
尻尾が、椅子の脚を一度だけ強く締めた。
気に入ってくれたらしい。
人間からのお裾分けが軽くないという話は、まだよく分からない。でも、嫌ではないと確認して、二人とも食べてくれて、笑ってくれた。それなら今は、成功ということにしてもいいと思う。
少なくとも、誰かの耳や尻尾に触ろうとしたわけではない。
偉い。
お菓子を配っただけで自分を褒めるのもどうかと思うけれど、昨日までの実績を考えれば大きな進歩である。
「寧夢様」
「今度は何ですか」
「接触記録へ記載します」
「お菓子もですか?」
「お菓子もです」
学校生活、やっぱり難しい。
でも、悪くない。
☆
昼休みが終わる直前、ユラは机の上に残った薄い包み紙を見つめていた。
捨てるべきだ。
食べ終わった菓子の包みである。中身はもうない。大事に残しておくようなものではないし、そんなことをすれば、自分が人間から食事を与えられた事実に浮かれているように見える。
実際、浮かれている。
逢苗様は、三つあったから分けただけだ。メルにも同じものを渡している。人間から獣人へ食事を与える行為が持つ意味を、たぶん分かっていない。
だから、特別ではない。
『ユラさんは、今日ずっと助けてもらっているので。お礼も込みです』
特別ではないはずなのに、その言葉だけが何度も戻ってくる。
先に渡された。名前を呼ばれた。助かったと言われた。同じ菓子を食べて、おいしいですねと笑われた。
メルも一緒だった。それでも、自分にはお礼が含まれていた。
ユラの尻尾が、机の下で落ち着かない。自分で押さえようとすると、今度は耳が逢苗様の方を向く。
隣では、ルカ護衛官が接触記録を端末へ入力し、逢苗様が小声で尋ねていた。お菓子の名前まで書くんですか。味の感想も必要ですか。そんな質問が聞こえるたび、胸の奥が熱くなる。
自分の名前が、また記録に残る。
今朝までは、それだけで十分だった。
けれど今は、メルの名前も同じところへ書かれることが、少しだけ気に入らない。
少しだけ。本当に、少しだけだ。
ユラは包み紙を小さく折り、捨てるために手の中へ隠した。
なぜか、ごみ箱へ向かうことはできなかった。