ヒトケモ比1:1000でも、私はメスケモを撫で回す! 作:ミソギ・罪と罰
お菓子を分けただけなのに、ルカさんの端末へ入力されることが多い。
相手の名前。渡したもの。会話の内容。二人の反応。私がどう考えて渡したのか。接触はなし。異常もなし。
最後の項目まで入力してから、ルカさんは端末の画面を上から確認していく。横から覗いてみると、私がお菓子を渡した理由まで、さっき答えた通りに記載されていた。ユラさんはおいしいと言ってくれた。メルさんもおいしいと言ってくれた。どちらも体調を崩していないし、教室にも混乱は起きていない。
完璧では?
「寧夢様。ご自身の判断は『喜んでもらえたので成功』でよろしいですか」
「成功ですよね?」
「少なくとも、異常なしと断定するには早いかと」
「二人とも普通に昼食を終えて、机を片づけています」
「食事中に変化がなかったことは記録します。ただし、その後の反応まではまだ確認できません」
「では、現時点では異常なし?」
「そのように記載します」
ルカさんが「異常なし」の前へ、「現時点では」と五文字を足す。急に公的な文章らしくなった気がした。現時点では。便利な言葉である。今後、困った時に使おう。
ルカさんが端末を閉じたところで、私は顔を上げた。昼休みはもうすぐ終わるところで、教室では皆が机を元の位置へ戻していた。メルさんも自分の弁当箱を包み終え、ユラさんと一緒に補助机を運ぼうとしている。
淡い金色の巻き毛が、窓から入った光を受けている。
きれいだ。
昼食中は見すぎないようにしていたけれど、改めて見ると、髪の細さが場所によって少しずつ違う。頬の横はやわらかく波打ち、丸い耳の周りでは細かな輪を作っている。全部同じようにふわふわしているわけではなく、毛先には軽さがあって、根元に近づくほど密度が高そうだった。
触ったら、どんな感触なんだろう。
いや、見るだけ。
私は成長している。
「メルさん」
声をかけると、メルさんが補助机を持ったまま振り返った。丸い耳がこちらを向く。その耳のすぐ下、細かな巻き毛の中に、白いものが引っかかっていた。
お菓子の包み紙だ。
たぶん、開けた時に細く裂けた端が飛んだのだろう。小指の爪より小さな紙片が、金色の毛に絡まっている。
「髪に、紙がついてます」
「え」
メルさんは補助机を置き、耳の下へ手を伸ばした。けれど、指先は紙片の少し上を何度も撫でるだけで、うまく届かない。
「もう少し下です。あ、今度は後ろ」
「こちら、でしょうか」
「もう少し前です」
私が右、左と伝えるたび、メルさんの手が巻き毛の上を迷う。紙片は取れない。むしろ奥へ入り込みそうになっている。
もどかしい。
見えているのに。
私なら、すぐ取れるのに。
「あの」
口を開いた瞬間、後ろでルカさんの靴が小さく鳴った。
まだ何もしていない。
本当に。
「私が取ってもいいですか?」
メルさんの手が止まった。
近くで机を動かしていた生徒たちの耳も、いくつかこちらを向く。ユラさんは補助机の反対側に立ったまま、尻尾をぴたりと止めていた。
しまった。
普通なら、近くにいる友達が髪についたごみを取るくらい、大したことではない。でも、ここでは相手が獣人で、私は人間だ。食べ物を一つ渡すだけでも軽くないと言われたばかりなのに、今度は髪に触ろうとしている。
「嫌なら、自分で取れるまで案内します」
私は両手を膝の上へ置いた。取る気満々に見えないようにするためである。もう遅い気もする。
メルさんは耳の下へ添えていた手を、ゆっくり下ろした。視線が私とルカさんの間を行き来する。
「私が、決めてよいのでしょうか」
「メル様ご自身の髪です」
ルカさんが答えた。
「逢苗様へ遠慮せず、ご自身が嫌かどうかでお決めください」
その言い方は、少しだけありがたかった。私が触りたそうだから許すのではなく、メルさんがどうしたいかで決める。当たり前のことだけれど、この世界では人間の希望が先に置かれやすいらしい。
メルさんはしばらく迷ってから、私の方へ身体を向けた。
「では……お願いします」
お願いします。
触っていい。
合法。
いや、合法という言い方はよくない。
「分かりました。紙だけ取ります」
念のため、自分にも言い聞かせる。
私は椅子から立ち上がり、メルさんへ手を伸ばした。近づくにつれて、彼女の肩がわずかに上がる。丸い耳は横へ開き、巻き毛の隙間から見える頬が少し赤い。
緊張している。
ゆっくり。驚かせない。指先を見える位置から近づける。
「触りますね」
「はい」
紙片の端をつまむために、親指と人差し指を巻き毛の中へ差し入れた。
ふわっ。
柔らかい……!
見た目よりも軽くて、指を押し返すというより、隙間を譲るように沈む。それなのに根元はしっかりしていて、細かな弾力がある。乾いているけれどぱさついてはいない。きちんと手入れされた毛並み、ではなく髪。髪である。人の髪。
でも、ふわふわ。
このまま指を少し開いたら、もう一房すくえる。
手のひらで押さえたら、もっと感触が分かる。
駄目。
紙だけ。
私は指先へ全神経を集め、巻き毛に絡んだ白い端をつまんだ。抵抗を感じたので、引っ張らず、髪を一本ずつ外す。紙片はすぐに取れた。
「取れました」
声が少し上ずった。
まずい。
私はすぐ手を離し、取った紙をメルさんへ見せた。触れていたのは、たぶん二秒くらい。撫でていない。指を滑らせてもいない。紙を取って、離れた。
完璧。
今度こそ、本当に完璧では?
「ありがとうございます」
メルさんは小さく頭を下げた。声が少し震えている。
「痛くなかったですか?」
「はい。とても、丁寧でした」
「よかったです。きれいな髪なので、引っ張りたくなくて」
丸い耳が、巻き毛へ埋もれるように伏せた。
褒め方を間違えた?
でも、きれいなのは本当だ。本人が嫌そうなら謝ろうと思ったけれど、メルさんは伏せた耳の下で、ほんの少し笑っていた。
なら、大丈夫だろうか。
「寧夢様」
ルカさんの声に、私は振り返った。
「はい。取れました。引っ張っていません」
「確認しております」
「本当です。二秒くらいです」
「時間はこちらで記録します」
「はい」
教室は、さっきまでより静かになっていた。近くで机を運んでいた生徒たちは手を止め、こちらを見ないようにしながら、耳だけを向けている。許可を取ったとはいえ、人間が自分から獣人の髪へ触れたのだ。皆にとっては、笑って流せるような出来事ではないらしい。
メルさんは頬を赤くしたまま動かず、ユラさんの尻尾は補助机の脚へきつく巻きついている。緊張させてしまったのは申し訳ない。でも今回は、私はかなり頑張った。誰にも褒めてもらえなくても、自分だけは褒めていいと思う。
紙だけ。
ちゃんと紙だけで我慢した。
「あの、逢苗様」
ユラさんが補助机の向こうから声をかけてきた。
「はい」
「紙を取るだけでしたら、私にもできたと思います」
「あ」
そう言われればそうだった。
メルさんの近くにはユラさんもいた。私は紙を見つけた瞬間、自分が取ることしか考えていなかった。触る前に相手の意思を確認できたのは進歩だけれど、もう一つの選択肢を忘れている。
「ごめんなさい。ユラさんに頼めばよかったですね」
「いえ」
ユラさんの耳が少しだけ外を向いた。
「そういう意味では、ないです」
どういう意味だろう。
聞こうとしたところで、午後の授業を告げる音が鳴った。ユラさんは補助机を持ち上げ、メルさんと一緒に教室の後ろへ運んでいく。長い尻尾は床すれすれまで下がり、先だけが左右へ揺れていた。
怒らせた?
私が先に手を出したから、クラス委員の仕事を取ってしまったのかもしれない。
次からは気をつけよう。
そう決めながら席につくと、ルカさんが接触記録用の端末を取り出した。
「追加で記載します」
「ですよね」
私はおとなしく、聞かれたことだけに答えた。
☆
放課後、黒板を消し終えたユラさんの耳には、白い粉がついていた。
正確には、右耳の外側。黒と白の毛が混じるところへ、うっすらと粉が乗っている。本人は気づいていないらしく、教卓の上に残った資料を揃えながら、何度も耳を動かしていた。
言った方がいい。
でも、昼休みのことがある。
私が触る必要はない。場所を教えれば、自分で払える。あるいはルカさんに頼んでもいい。ユラさんがクラス委員の仕事を終えるまで待っている生徒も、まだ何人か教室に残っている。
選択肢はたくさんある。
「ユラさん。右の耳に、白い粉がついてます」
私は席を立たず、言葉だけで伝えた。
ユラさんの耳がぴんと立つ。右手を伸ばし、耳の先を軽く払った。
「取れましたか?」
「もう少し下です」
指が下へ動く。今度は内側へ入りすぎた。
「外側です。あと少し後ろ」
ユラさんは言われた通りに指を動かすけれど、白い粉はまだ残っている。猫族の耳はよく動く分、自分の手で狙った場所へ触れるのが難しいのかもしれない。
私は両手を机の上で組んだ。
取ってあげたい。
でも、頼まれていない。
昼休みは、見つけた勢いで自分から申し出た。今回は待つ。本人が自分で取るか、誰かに頼むかを決めるまで、口を出さない。
「まだ、ついていますか」
「少しだけ」
ユラさんは手を下ろした。
それから、教室に残っている生徒たちを見た。鹿鳴先生は職員室へ戻っている。メルさんも、別の友達と先に教室を出ていた。最後に視線が向いたのは、私の斜め後ろに立つルカさんだった。
ルカさんは何も言わない。
ユラさんが決めるのを待っている。
「逢苗様」
呼ばれた。
「はい」
ユラさんは資料を胸元へ抱え、右耳を少しだけこちらへ傾けた。尻尾は脚の後ろへ隠れている。
「もし、ご迷惑でなければ」
一度、言葉が止まる。
耳の白い粉は、まだ取れていない。
「私のも、取っていただけますか」
心臓が跳ねた。
触っていい。
猫耳に。
いや、まだそこまで言われていない。粉を取ってほしいと言われただけだ。必要なところへ、必要なだけ触れる。それ以上ではない。
でも。
猫耳。
「もちろんです」
返事が早すぎた。
ユラさんの耳が、白い粉を乗せたままぴんと立つ。ルカさんの視線が横から刺さった。
私は咳払いをして、もう一度言い直した。
「ユラさんが嫌でなければ。触ってもいいですか?」
ユラさんは私を見た。
昼休み、メルさんへ触れる前にも同じことを聞いた。でも今度は、私から申し出たのではない。ユラさんが、自分から頼んでくれた。
その違いが、どうしてか胸の奥に強く残る。
「はい」
ユラさんは、小さく頷いた。
「お願いします」
私はすぐに手を伸ばさないよう、制服の裾をぎゅっと握った。頼まれた。ユラさんの方から。昼休みにメルさんへ触れたのとは違う。その事実が嬉しくて、気を抜くと顔に出てしまいそうだった。
「では、粉のところだけ指で払います。痛かったらすぐ言ってください」
「分かりました」
ユラさんは抱えていた資料を教卓へ戻し、私の前で少しだけ頭を下げた。右耳がこちらへ傾く。白い粉は黒い毛の上に残っていて、近くで見ると思っていたより細かい。
猫耳が、手の届くところにある……!
落ち着こう。目的は黒板消しの粉を取ること。昼休みと同じで、必要な場所へ、必要なだけ触れる。私は右手を持ち上げ、ユラさんから見える位置で一度止めた。
「触りますね」
「はい」
人差し指の腹を、耳の外側へそっと当てた。
短い毛が、指先の向きに合わせてなめらかに伏せた。メルさんの巻き毛とは全然違う。薄い毛並みのすぐ下に耳の形と温かさがあり、触れた瞬間、ぴくりと小さく動く。
猫耳だ……!
声には出さなかった。偉い。
粉を払うように一度だけ指を滑らせる。けれど、耳が動いたせいで、白い跡が少し残った。これは仕方ない。私が悪いのではなく、粉が細かいのと、猫耳が動いたせいである。
「もう一度だけ触ります」
「……お願いします」
今度は親指を添えず、人差し指だけで残った粉を外へ払った。耳の先がまた震えたけれど、ユラさんは逃げなかった。むしろ、最初より少しだけこちらへ傾いたように見える。
気のせいだろうか。
確認したいけれど、確認のために触るのは駄目だ。粉はもう消えている。私は名残惜しさごと手を引いた。
「取れました」
「ありがとうございます」
ユラさんが顔を上げる。右耳だけがまだこちらを向いていて、左耳は落ち着かなさそうに横へ伏せていた。
「痛くなかったですか?」
「はい。大丈夫です。その……」
ユラさんは自分の右耳へ手を伸ばしかけ、途中でやめた。せっかく取った粉を確かめる必要はないと思ったらしい。代わりに、胸元で指を組み直す。
「メルの時より、長かったでしょうか」
「え?」
「いえ。粉は、紙より取りにくそうでしたので」
なるほど。作業時間の確認か。
「そうですね。メルさんは二秒くらいでしたけど、ユラさんは二回触ったので、もう少し長かったです」
「そう、ですか」
ユラさんの尻尾が、脚の後ろからするりと出てきた。先が一度だけ上を向き、すぐに制服の後ろへ隠れる。
なぜか、少し機嫌が直ったように見えた。
「寧夢様。接触時間は競うものではありません」
「競ってません。粉を取っただけです」
「でしたら結構です」
ルカさんの言葉に、ユラさんの耳が両方とも伏せた。
「私も、競ったつもりでは……」
「分かってます。粉の取れにくさの話ですよね」
「はい。そうです」
返事が少し早かったけれど、そこは気にしないことにした。
昼休みは羊族の巻き毛に触れて、放課後は猫族の耳に触れた。どちらも事故ではない。本人に確認して、必要な範囲だけ。昨日の私が聞いたら、学校という場所にどれだけ期待してしまうだろう。
ただ、嬉しかった理由は毛の感触だけではなかった。ユラさんが自分から私へ頼んでくれたことが、思っていた以上に胸へ残っている。触らせてもらえたというより、少しだけ信用してもらえたような気がした。
「寧夢様」
「分かってます。記録ですよね」
ルカさんが端末を開き、昼休みの記録へ追記する。巻き毛から紙片を除去。さらにその下へ、右耳から黒板消しの粉を除去。入力された内容を見届けたところで、ルカさんがこちらを向いた。
「二件とも、ご自身の判断は『相手の同意を確認し、必要な範囲の接触に留めた』でよろしいですか」
「はい。あと、どちらもすごく」
「感触は不要です」
言う前に止められた。
学校初日は、最後まで記録されることが多かった。
でも、明日も楽しみだ。