棚の脚を外してから、思ったよりひどいことになっていると分かった。
折れた木片を拾い、朝霧創真は床に座ったまま顔をしかめた。ネジの穴を中心に亀裂が広がっている。ぐらついていたのも当然だった。
寮の共有スペースには、古い本と雑誌を詰めた棚が二つ並んでいる。そのうち一つを、今朝、五条悟が肘掛け代わりにした。
人が来るたびに揺れるので直そうと思ったのだが、部品を交換するだけでは済まなさそうだ。
「これ、前から割れてたな……」
創真は本を避けておいた机を見やった。
新しい棚を丸ごと作る方が早い。だが、上段には卒業生らしい誰かが残した落書きがあり、横板には真希が付けた傷があった。本人は傷を付けた理由を教えてくれなかった。
とりあえず、脚だけ替えてみるか。
折れた部品を脇に置き、右手を開く。
手のひらの上に、木目のある角材が形を成した。側面にはネジ穴が二つ。棚の底に合うよう、上部の角だけが削れている。
創真は親指で表面をなぞった。ささくれはない。床を傷つけないよう、底には薄いゴムを付け足した。
「創真、いるー?」
廊下から、聞き慣れた声がした。
「います。棚、直してます」
「お、仕事が早いね」
「先生が寄り掛からなければ、昼飯のあとでよかったんですけど」
「そんなに怒らないでよ。今日はいい知らせも持ってきたから」
開いた扉から、目隠しをした長身の教師が入ってくる。その後ろに、見慣れない少年が立っていた。
短い桃色の髪。赤いフードの付いた服。肩に掛けた荷物を持ち直しながら、室内と創真を交互に見ている。
五条が親指で後ろを示した。
「虎杖悠仁。さっき学長の面談が終わったところ。今日から君たちの同級生」
創真は新しい脚を床に置いて立ち上がった。
今朝、五条から連絡は来ていた。宿儺の指を取り込んだ少年を、高専で預かることになったという。詳しい事情は、直接会ってから話すつもりだったらしい。
その少年が、目の前で片手を上げた。
「虎杖です。よろしく!」
「朝霧創真。同じ一年。よろしく、虎杖」
差し出した手を、虎杖が握った。
ずいぶんしっかりした手だった。鍛えている人間の握り方だが、力を込めて試すようなところはない。
「で、そっちの棚は?」
挨拶を終えると、虎杖はすぐに床へ目を向けた。
「脚が折れてた。替えを作ったところ」
「作ったって、今?」
「今。そこ、ちょっと持っててくれる?」
「任せて」
虎杖は荷物を壁際に下ろし、横倒しにした棚の端を持ち上げた。軽々と、と言っていい動きだった。
創真は脚を差し込み、構築したネジを穴へ合わせる。
虎杖の視線が、創真の手元で止まった。
「あ、また出た」
「ネジ?」
「そう。何もなかったよな、そこ」
「何もないところから物を作る術式なんだ。構築術式っていう」
「すげえ。工具とかも?」
創真は空いている方の手にドライバーを作って見せた。
「こういうのも」
「うわ、便利!」
「僕の生徒は優秀でしょ」
五条が横から胸を張る。
「先生、そっちのネジ取ってください」
「はいはい」
教師からネジを受け取り、創真は残りの穴を留めた。虎杖と二人で棚を起こす。押しても揺れなくなったことを確かめてから、机に積んでいた本を戻した。
「ありがと。助かった」
「これくらい全然。俺、こういうの持つの得意だし」
「うん。それは持ち上げたときに分かった」
虎杖が笑った。
その笑顔を見て、創真は少しだけ肩の力を抜いた。
電話で聞いた話は、どれも重かった。呪物を飲み込んだこと。その中に、途方もなく危険な存在がいること。少年自身の処遇さえ、もう決まっているということ。
けれど今は、同じ年の少年が、棚を直すのを手伝ってくれている。
「じゃ、僕は学長と話してくる。創真、寮の案内お願いね」
「分かりました。部屋は?」
「恵の隣。鍵はこれ」
創真は投げ渡された鍵を受け取った。
五条は虎杖に、あとで今後の予定を説明すると伝えてから出ていく。廊下を曲がるまで、その足音はのんびりしていた。
「恵って、伏黒?」
「そう。もう会ったんだよな」
「うん。こっち来る前に、いろいろあって」
虎杖はそう答え、口を閉じた。
それから自分の胸元を見下ろす。
「あのさ。先生から、俺のことってどれくらい聞いてる?」
「宿儺のことと、ここで暮らすことになった理由は、少し」
「そっか」
「詳しい話は、あとで先生も一緒に聞くと思う。今、言っておきたいことがあるなら聞くけど」
創真が言うと、虎杖は一度顔を上げた。
廊下の向こうから、別の足音が近づいてきた。
「面談、終わったのか」
扉の前に伏黒恵が立っていた。虎杖の顔を見てから、起こされた棚へ目を向ける。
「直ったんだな」
「虎杖が持ってくれたから早かった」
「初日から手伝わせるなよ」
「俺から持つって言ったんだって」
虎杖が手を振る。伏黒はそれ以上言わず、壁際の荷物を見た。
「部屋まで運ぶぞ」
「それ俺の荷物。自分で持てるよ」
「分かってる。案内するって意味だ」
「あ、そういうことか」
創真は笑いをこらえながら、鍵を虎杖へ渡した。
「部屋見て、荷物置いて、そのあと飯にしよう。二人とも腹減ってるだろ」
「減ってる!」
虎杖の返事は早かった。
伏黒が小さく息をつき、廊下へ向き直る。
そのときだった。
「随分と、気の抜けた場所だな」
虎杖のものではない声が響いた。
創真が振り向く。虎杖の頬に、もう一つの口が開いていた。
伏黒の手がわずかに動く。創真は彼へ目を向けてから、虎杖の顔を確かめた。
虎杖自身は目を見開き、すぐに頬を手で押さえた。
「おい、勝手に出てくんな」
「その程度で黙ると思うか、小僧」
指の隙間から、低い笑いが漏れた。
創真は虎杖のすぐそばへは寄らず、机との間から一歩だけ場所を変えた。何かあれば動ける位置だった。
「虎杖。身体は動かせる?」
「動く。こいつが勝手にしゃべってるだけ」
「分かった」
創真は短く返した。
手のひらに武器を作ることはしなかった。目の前にいるのは、今も虎杖だ。
頬の口が、ゆっくり笑みの形に歪む。
「そこの小僧。貴様、何を隠している」
創真は答えなかった。
「それだけの呪力を押さえ込み、こんな物を作って遊んでいるのか」
声の調子が変わった。退屈を紛らわせるような響きに、別のものが混じっている。
創真には、その相手がどれほど見抜いているのか分からない。ただ、こちらを試そうとしていることは分かった。
「朝霧、相手にするな」
伏黒の言葉に、創真はうなずいた。
「してない。虎杖が大丈夫か見てる」
「俺は大丈夫。……もう引っ込めって」
虎杖が頬を押さえたまま言う。
一瞬、口の端がつり上がった。
「覚えておくぞ」
それを最後に、異様な口は肌の中へ消えた。
共有スペースが静かになる。窓の外から、鳥の声が聞こえた。
虎杖は自分の頬を二度触り、口がないことを確かめてから顔をしかめた。
「悪い。いきなり」
「謝るのはあいつだろ」
創真はそう答えたが、すぐに笑い話へ戻そうとはしなかった。
「こういうの、今までにもあった?」
「あった。勝手に口だけ出てくる。身体の方は大丈夫」
「先生には伝えとこう。何か変わったら言ってくれ」
「俺からも話す」
伏黒が言い、携帯を取り出した。
創真は床に落ちていた木片を拾い、工具と一緒に箱へ収める。
虎杖はまだ、その場に立っていた。
「……怖くねえの?」
創真の手が止まった。
「あいつは危ないんだろうなとは思う」
「うん」
「さっきも、身体まで動いたらどうするか考えてた。先生呼ぶとか、伏黒と外へ出るとか」
虎杖は黙って聞いていた。
創真は片づけを終え、棚の角をもう一度押した。今度は動かなかった。
「気になることは、これからも聞くと思う。分かんないことが多いから」
「……俺も分かんねえことばっか」
「じゃ、先生に聞くこと増えたな」
虎杖が、少しだけ息を吐いた。
伏黒が携帯をしまう。五条から返信が来たらしく、あとで部屋へ寄るという話を伝えた。
今すぐ一人にしない方がいいだろう。
創真がそう考えたところで、虎杖の腹が鳴った。
三人とも動きを止める。
「……悪い。これは俺」
「分かるよ」
思わず笑ってしまい、創真は口元を手で覆った。虎杖も困ったように笑っている。
伏黒だけが、扉の向こうを指した。
「先に荷物を置け。食堂が閉まる」
*
虎杖の部屋は、伏黒の隣だった。
荷物を運び入れて、風呂場と洗濯機の場所を一通り案内すると、もう夕方になっていた。虎杖は寮の広さに感心し、創真は洗剤を勝手に混ぜないことだけは念を押した。
「誰かやったの?」
「俺」
「そこは普通に失敗するんだ」
「何でもうまくいくわけじゃないんだよ」
伏黒は横で何も言わなかったが、口元が少し緩んでいた。
三人で食堂へ入ると、温かい油と味噌汁の匂いがした。
虎杖が入り口の献立へ寄っていく。創真もその隣へ並び、唐揚げ定食の札を指した。
「俺、今日これにする。虎杖は?」
「迷う。焼き魚もうまそう」
「なら魚にしたら。唐揚げ一個やるから」
「いいの?」
「魚、一口もらうけど」
「それでいこう」
伏黒は先に注文を済ませ、空いている席へ向かった。
創真は虎杖と並んで列に立つ。
宿儺のことも、これからの任務のことも、聞かなければならない話は山ほどある。彼の処遇について、自分が知らないこともあるはずだった。
それでも、夕食は食べる。
目の前の虎杖が、定食のご飯を大盛りにできるか尋ねている。食堂の職員がうなずくと、彼はぱっと顔を明るくした。
「朝霧も大盛り?」
「うん。棚直してたら昼、食いそびれた」
「先に言えよ、それ!」
虎杖が笑いながら、もう一つの茶碗を受け取った。
創真は盆を持ち、伏黒が待っている席へ歩き出した。
同級生が一人増えた日の夕食は、いつもより少し賑やかになりそうだった。