異邦魔王の違法魔法 作:冒険者小隊
咆哮が、全身を叩いた。
ただの音ではなかった。耳から入り込んだ振動が、そのまま体の芯を握り潰そうとしてくる。足が竦む。指先が冷える。逃げろ、と本能が叫んでいた。
「……っ、威圧か!」
バヨネットが歯を食いしばる。膝が勝手に震えていた。ガリアンもベンケイも、そしてアコギも、その場に縫い止められたように動けない。
その中で、ただ一人。
「ビルドアッパー。」
シュバルツの体を、淡い光が包んだ。
肉体ではなく、心を強くする。サンブラルに教わったばかりの、もう一つの使い方。好きで演じている『姐さん』なら、こんな所で竦んだりはしない。
(大丈夫。私は、こういう時に一番前に立つ役なんだから。)
シュバルツは
「何ボサっとしてんのよ、あんたたち!ここで固まってたら、この子たちが全部やられちゃうでしょうが!」
その声が、竦んだ四人の背中を打った。呪縛が、解ける。
「……ったく、姐さんにはかなわねえな!」
バヨネットが
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
シルヴァルクスが跳んだ。
速い。巨体に似合わない、しなやかな跳躍。狙いは、群れの最後尾で足をもつれさせた若いペガサスだった。
「させるか!」
シュバルツが割り込む。盾を構え、真正面から獣の爪を受け止めた。
金属の悲鳴が上がった。
盾の表面に、三本の深い溝が刻まれる。いや、刻まれたのではない。裂かれていた。鋼の盾が、紙のように。
「嘘でしょ……!」
衝撃でシュバルツの体が後ろへ弾き飛ばされる。それでも、盾は手放さなかった。若いペガサスが、その隙に群れの中へ逃げ込む。
「破鋼ってのは、伊達じゃねえってことか。」
バヨネットが舌打ちする。真正面から受ければ、どんな防具もいずれ裂かれる。
「群れを谷の奥に逃がす!」
木の上から、アコギの声が降ってきた。いつの間にか、彼は大木の枝に登っていた。
「この先、右手の岩場を抜ければ谷に出る。木が開けてるから、あいつらでも飛べるはずだ。そこまで俺が誘導する。てめえらは時間を稼げ!」
「おい、一人で――」
「道を読んで逃げ道を作るのは、俺の専門だっつってんだろ!」
言うが早いか、アコギは懐から小さな玉を取り出し、獣の鼻先目がけて投げつけた。破裂した玉から、刺激臭のある煙が広がる。シルヴァルクスが顔を背け、苛立たしげに唸った。
その隙に、アコギは枝から枝へと飛び移り、幻獣の群れを岩場の方へと追い立て始めた。迷いのない動きだった。何度も同じ事をやってきた者の動きだった。
(……あいつ、本当に腕は確かなんだな。)
ガリアンは、その背中を一瞬だけ見送った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
煙が晴れると、シルヴァルクスの目は、残った四人に向けられていた。
「バヨネット、何か見えるか!」
ガリアンが叫ぶ。バヨネットは、獣から目を離さないまま答えた。
「スキャニングじゃ、何か隠してるってことしか分からねえ!」
だが、隠している事は分かる。ならば、どこに隠しているかは、探り方次第で分かるはずだ。サンブラルはそう言った。
視線。重心。呼吸。
バヨネットは、銀の獣の動きだけに意識を集中させた。商談の席で、相手の本音を探る時と同じように。
跳ぶ。爪を振るう。また跳ぶ。その一連の動きの中で、獣が、ある一点だけを、決して地面に近づけないようにしている事に気づいた。
首だ。首元に埋め込まれた、あの黒い鴉の羽根。
攻撃の時も、着地の時も、獣は首を僅かに持ち上げ、羽根を庇っている。
「首の羽根だ!あそこを庇ってやがる!」
「了解!」
ガリアンが、背中のバックパックから新しい武器を引き抜いた。改良したばかりの、
「足を止める!」
ガリアンは剣を振り抜いた。刃から伸びた何本もの鎖が、蛇のようにうねりながら獣の前脚へと絡みつく。以前の試作品なら、ここで鎖が自分の腕にまで絡まっていた。だが今度は違った。鎖は、狙った通りの軌道で、獣の脚だけを捕らえた。
(……できた!)
シルヴァルクスが体勢を崩す。だが、鋼すら裂く爪が、鎖を一本、また一本と引きちぎり始めた。
「長くは持たない!」
「十分だ!」
ベンケイが駆けた。
獣の目が、ベンケイの武器の変化に釣られた。その一瞬、首の守りが甘くなる。
「今だ、バヨネット!」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だが、その時だった。
岩場の方から、悲鳴のような嘶きが上がった。
群れからはぐれた一頭の若いペガサスが、恐慌に駆られて引き返してきたのだ。それも、まっすぐに、戦場のど真ん中へ。
シルヴァルクスの目が、そちらへ向いた。
鎖を引きちぎり、獣が跳ぶ。狙いは、立ち竦んだ若いペガサスの喉元。
誰よりも早く、ベンケイの体が動いていた。
考える暇もなかった。強さを見せようとしたわけでも、英雄らしく振る舞おうとしたわけでもない。ただ、目の前の小さな命を、放っておけなかった。
ベンケイは武器を放り捨て、ペガサスと獣の間に、自分の体ごと飛び込んだ。
銀の爪が、その背中を深々と裂いた。
視界の端で、体力の表示が一気に赤く染まる。痛みの代わりに、全身を貫く衝撃と、冷たい痺れ。膝が崩れる。それでも、ベンケイはペガサスを抱え込むように覆い被さったまま、動かなかった。
獣が、二撃目を振りかぶる。
その時、ベンケイの襟首を、誰かの手が乱暴に掴んだ。
「――ったく、鈍くせえんだよ、てめえは!」
アコギだった。
岩場から駆け戻ってきた彼は、ベンケイとペガサスをまとめて引きずり、獣の爪の届かない木の陰へと転がり込んだ。銀の爪が、一瞬前まで二人がいた地面を、深々と抉る。
「アコギ、さん……」
「喋んな、体力ねえんだろ!」
アコギは回復薬の瓶をベンケイの口に押し込んだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その隙を、バヨネットは見逃さなかった。
ベンケイを追って身を乗り出した獣の首元が、がら空きになっている。
刺突剣が、風を纏った。魔剣の力が、刃の先へと収束していく。
「――そこだ!」
一直線の突き。風の刃が、銀の毛並みを貫き、首元の黒い羽根を捉えた。
硬い手応えが、腕に跳ね返ってきた。
羽根に、亀裂が走る。だが、砕けない。
(浅い……!)
次の瞬間、亀裂の奥から黒い光が溢れ出した。羽根に宿っていた何かが、傷つけられた怒りに応えるように噴き上がる。黒い霧が獣の背から立ち昇り、まるで巨大な鴉の翼のような形を成して、大きく広がった。
シルヴァルクスが咆えた。さっきまでとは比べ物にならない、空そのものを震わせるような咆哮。
「下がれ、バヨネット!」
ガリアンの叫びと同時に、銀の爪が横薙ぎに振るわれた。バヨネットは辛うじて刺突剣で受けたが、そのまま体ごと吹き飛ばされ、背中から大木に叩きつけられる。
「っ、が……!」
獣の動きが、明らかに変わっていた。黒い翼が羽ばたくたびに、巨体が加速する。速すぎて、目で追うのがやっとだった。
ガリアンは、その足元に目を凝らした。
獣は、地面を蹴っていなかった。跳ぶたびに、爪先が土に触れるより早く、黒い翼が巨体を宙へと押し戻している。重さというものが、まるで消えてしまったかのようだった。
(重力ですら支配できない、空の王……。)
告知の一文が、頭をよぎる。
あの黒い羽根は、ただの飾りではなかったのだ。眷属である獣と、主である大鴉とを繋ぐ、管のようなもの。羽根に傷がついた事で、その管の向こうから、主の力そのものが流れ込んできている。今この獣が纏っているのは、クワルクワラフの力の、ほんの一端だ。
「主の力を、羽根から引っ張り込んでやがるのか……!」
ほんの一端で、これなのだ。金曜の空で待つ本体の力を想像して、ガリアンは背筋が冷えるのを感じた。
だが、今は怯んでいる暇はない。荊檻の剣の鎖は、さっきの攻防でほとんど引きちぎられている。
(なら、作ればいい。)
手のひらに意識を集中させる。
「ウェポンメイカー!」
光が収束し、細い鋼線を何重にも編んだ網が形を成した。武器というより、ただの罠だ。だが、今必要なのはそれだった。ガリアンは網を、獣の進路の木々の間に張り巡らせた。
突進してきたシルヴァルクスが、網に頭から突っ込む。鋼線が軋み、一本、また一本と裂けていく。それでも、ほんの僅かに獣の足が鈍った。
「姐さん!」
「分かってる!」
シュバルツが突撃槍を構え、真横から突っ込んだ。
獣が、網を引きちぎりながら身を捻る。槍の穂先が、空を切りかけた。以前の彼女なら、勢いのまま獣の脇を突き抜け、無防備な背中を晒していただろう。
突進の初速は見事です。ですが止まれない。
稽古の夜、ウレインに言われた言葉が、頭の中で響いた。
(止まれないなら――止まってやるわよ!)
シュバルツは、突き抜ける寸前で地面に踵を叩きつけた。ビルドアッパーで強化した脚が、土を抉りながら勢いを殺す。体を捻り、止まった反動ごと、槍の柄を獣の脇腹へと叩き込んだ。
鈍い衝撃音。シルヴァルクスの巨体が横ざまに弾かれ、大木の幹に押しつけられる。
「今よ!」
その瞬間、頭上の枝から、二本の短剣が降ってきた。
アコギだった。ベンケイを木の陰に預け、いつの間にか再び枝の上に戻っていた彼の短剣が、獣の両の前脚を、地面に深々と縫い止める。
「動くんじゃねえよ、デカブツが!」
獣がもがく。黒い翼が暴れ、短剣が軋む。長くは持たない。
だが、それで十分だった。
大木の根元で、バヨネットが身を起こした。体力の表示は半分を切り、足元がふらつく。この距離から獣の懐まで踏み込むには、もう脚が言う事を聞かなかった。
(俺じゃ、届かねえ。……だったら。)
その時、木の陰から、一つの影が歩み出てきた。
ベンケイだった。体力の表示はまだ黄色のまま。背中の傷も癒えきっていない。それでも、その手には、さっき放り捨てたはずの方天戟が握られていた。ウェポンチェンジャーで、手元に呼び戻したのだ。
その背後で、あの若いペガサスが、じっとベンケイの背中を見つめていた。
「ベンケイ!」
バヨネットは刺突剣を振るった。突くためではない。刃に纏わせた風を、真っ直ぐにベンケイの背中へと送り込む。初めて魔王と剣を交えたあの日、シュバルツの突撃を押し出したのと同じ風だった。
風に背を押されたベンケイの体が、一筋の矢のように獣の懐へと飛び込む。
前脚を縫い止められた獣が、顎を開いて迎え撃とうとした。ベンケイは、方天戟を握る手を一瞬だけ緩めた。槍へ。薙刀へ。持ち替えの一瞬に、獣の目がその変化に釣られる。
その隙に、再び方天戟へ。
「――っ、ああああっ!」
渾身の突きが、亀裂の中心を貫いた。
羽根が、砕けた。
黒い翼が、霧散する。シルヴァルクスの咆哮が途中で途切れ、銀の巨体が痙攣し、やがてゆっくりと崩れ落ちた。砕けた羽根の欠片が、黒い霧となって立ち昇り、風に乗って北の方角へと流れていく。霊峰の方角だった。
しばらく、誰も動けなかった。
やがて、森に風の唸りが戻ってきた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……生きてるか、ベンケイ。」
バヨネットが、木の陰を覗き込んだ。回復薬が効いたのか、ベンケイの体力表示は、どうにか黄色まで戻っていた。
「はい……何とか。」
ベンケイは、まだ自分の腕の中にいる若いペガサスを見下ろした。小さな体が、小刻みに震えている。
「……ごめんね。怖かったよね。」
そっと首筋を撫でると、ペガサスは震えながらも、ベンケイの手に鼻先を擦りつけてきた。
ベンケイは、何と声をかけていいか分からなかった。ルクスの言葉が、頭に浮かんでいた。ペガサスが背を許すのは、強い者じゃない。自分を偽らない者だ。
自分は、強くなんかない。向こうでは毎日叱られてばかりの新人で、こっちの英雄の仮面の方がずっと好きで、それに逃げ込みたいと思っている。さっきだって、武器を放り捨てて飛び込んだだけだ。最後の一撃も、皆が作ってくれた隙に、バヨネットの風で背中を押してもらっただけだ。格好良くなんか、全然なかった。
「……僕、本当は全然強くないんだ。」
気づけば、そう口にしていた。
「怖かったし、痛かったし。英雄なんかじゃないんだよ。……それでも、良かったら。」
若いペガサスが、ベンケイの顔をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと前脚を折り、その背を、ベンケイの前に低く差し出した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
谷の方から、羽音が近づいてきた。
アコギが逃がした群れの残りだった。シルヴァルクスが倒れた事を悟ったのか、何頭ものペガサスやグリフォン、ヒッポグリフが、次々と森の開けた場所に降り立ってくる。
その中から、一頭のグリフォンがバヨネットの前に進み出た。鋭い目で、彼の刺突剣をじっと見つめている。一頭の大柄なヒッポグリフは、盾に三本の溝を刻まれたシュバルツに、労わるように首をすり寄せた。そして、好奇心の強そうな小柄なヒッポグリフが、ガリアンの荊檻の剣の鎖を、嘴でつついて遊び始めた。
「……向こうから、来てくれた。」
ガリアンが、呆然と呟いた。
力ずくで従わせない。相手が近づいてくるのを待つ。ルクスの心得が、今になってようやく腑に落ちた。
そして、少し離れた場所で、もう一頭のグリフォンが、アコギの前で立ち止まっていた。
「……俺かよ。」
アコギは困惑したように頭をかき、それから、恐る恐る手を伸ばした。グリフォンは逃げなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
森の上空を、白い翼の影が横切った。
一頭のペガサスが、月光を背に舞い降りてくる。その背には、白銀の鎧に炎の紋章を刻んだ男が跨っていた。
「ルクス!」
ルクスは、倒れたシルヴァルクスの亡骸を見下ろし、それから、四人と、幻獣たちと、そして所属表示を浮かべたアコギを、順番に見回した。
「……遅かったか。いや。」
彼は小さく息を吐き、口元を緩めた。
「助かった、と言うべきだな。」
「こいつの事、知ってたのか?」
バヨネットの問いに、ルクスは頷いた。
「ここ一か月ほど、この森の幻獣が目に見えて減っていた。空から見ていれば、群れの数が日に日に少なくなっていくのが分かる。何者かが狩っているのは確かだった。だから、討伐戦の準備と並行して、ずっと正体を探っていたんだ。」
ルクスは、霊峰の方角へ流れていった黒い霧の跡を見上げた。
「大鴉の眷属、か。戦いの前に、挑んでくる者の翼を先に折っておく。空の王は、存外せこい手を使うらしい。」
それから、彼はアコギに目を向けた。所属表示を見て、一瞬だけ眉をひそめる。だが、アコギの傍らに寄り添うグリフォンを見て、何も言わなかった。
「幻獣が自分から寄ってきたのなら、俺が口を挟む事じゃない。」
それだけ言って、ルクスはペガサスの手綱を引いた。
「金曜の空で会おう、フォーバロンズ。それと、そっちの君もな。」
白い翼が、再び夜空へと舞い上がっていった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
森の出口で、アコギは手に入れたばかりのグリフォンの手綱を握ったまま、四人を振り返った。
「……一つだけ言っとく。」
「何だ?」
「今日は、たまたま利害が一致しただけだ。勘違いすんなよ。」
ぶっきらぼうな口調だった。だが、その目は、最初に森で会った時ほど刺々しくはなかった。
アコギ自身、自分の中の感情を持て余していた。こいつらは、自分を弾いたあのギルドと親しい連中だ。爵位持ちで、角付きの魔王とつるんでいて、何もかもが自分より上にいる。憎んでやるつもりだった。妬んでやるつもりだった。
なのに、目の前で礼を言われて、背中を預けられて、一緒に戦ってしまった。そうしたら、どうにも、嫌いになりきれなかった。
「討伐戦じゃ、てめえらには負けねえからな。報酬は全部、俺が持っていく。」
「望むところだ。」
バヨネットが、にやりと笑った。
「アコギさん。」
ベンケイが、若いペガサスの首筋を撫でながら言った。
「また、助けられました。ありがとうございます。」
アコギは、一瞬だけ言葉に詰まった。それから、顔を背けて、乱暴に言い捨てた。
「……てめえが鈍くせえからだっつってんだろ。次は助けねえぞ。」
グリフォンの背に跨り、アコギは夜の森の向こうへと去っていった。
その背中を見送りながら、シュバルツが小さく笑った。
「あの子、悪い子じゃないわねェ。」
「知ってたよ。」
ベンケイが、静かに答えた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
同じ頃。東の塔の窓辺で、サンブラルは閉じていた目を、ゆっくりと開いた。
四人の影から。そして、あの日門前で追い返した男の影から。二つの方向から流れ込んできた光景を、彼は黙って反芻していた。
北へ流れていった、黒い霧。
「……空の王ってのは、案外臆病なもんだな。」
呟いて、彼は懐の黒鉄の鍵を握り直した。術式は、あと少しで完成する。