2018年11月1日、0時。
新宿はまだ眠っていなかった。終電へ駆け込む会社員、酔っ払いの笑い声、そして客引きの呼び込み。
街灯とネオンが夜を昼のように照らし、人の流れは途切れる気配を見せない。
それが新宿の日常だ。その雑踏の中を、ひとりの男が歩いていた。
「あぁ〜今日も疲れた……早く帰って寝るかぁ」
野原ひろしは首筋を揉みながら息を吐いた。
取引先との付き合いが長引いただけの、よくある残業。
よくある帰宅。帰ればみさえがいて、しんのすけがいて、ひまわりがいて、シロがいる。明日も仕事だ。
「明日の昼メシくらいは豪華にするか……」
独り言を漏らしながら駅へ向かう。双葉商事勤務、35歳。
どこにでもいる平凡なサラリーマン。
もっとも、それは表向きの顔だ。
裏では呪いを祓う高専に所属する準一級呪術師でもある。
我ながらかっこいい。と、ひろしは思っていた。
だが今は仕事帰り。面倒事とは無縁の夜だった。
少なくとも、そのはずだった。……この時までは。
「泳者・野原ひろし」
突然、自分の名前を呼ばれた。ひろしの足が止まる。
「……あ?」振り返る。だが誰も見ていない。
通行人は忙しなく行き交い、こちらへの関心など欠片もなかった。
なんだ、オレの聞き間違いか。
そう思って歩き出そうとした瞬間。
「コガネより通知」
今度ははっきり聞こえた。しかも頭上からだ。
「は?」
反射的に顔を上げる。そして固まった。何かが浮いている。
鳥のように見えた。だが違う。
鳥ではない。呪霊でもない。見覚えのあるどんな式神とも違う。
「うおっ!?」
思わず一歩後退る。危うく転びそうになり、慌てて踏みとどまった。
周囲の視線が刺さる。
だが、そんなものを気にしている余裕はない。
サラリーマンとしての思考が引っ込み、呪術師としての本能が前へ出る。
その切り替わり自体が、異常事態の何よりの証拠だった。
ひろしは警戒しながら距離を取る。しかし相手は微動だにしない。
余計に不気味だった。
ただ空中に浮いたまま、機械のような声を発した。
「死滅回游の泳者登録を確認」
「……は?」理解できなかった。
死滅回游? 泳者?なんだそれ?
聞いたこともない。そもそも何故自分の名前を知っている。
困惑するひろしに、異形は淡々と続ける。
「泳者は他泳者を殺害することで得点を獲得します」
「殺害?」今度は聞き間違いではなかった。
ひろしの眉が寄る。同時に呪術師としての知識が動き始める。
遠隔術式、強制ルール、式神による伝達。どこかで呪詛師に術式を受けたのか。
術式効果を説明することで効果を増幅する“術式の開示”か。
考えながらも視線は逸らさない。
「おい。本体はどこだ?」
問いかける。返答はない。
「おい、聞いてんだよ。答えろ」
返答はない。ただ機械のようにルールを読み上げ続ける。ひろしは舌打ちした。
「厄介な奴に目を付けられたな……」
再び質問しようとした、その時だった。
「お、おい!」
近くで誰かの叫び声が上がった。ひろしはそちらへ目を向ける。
若い男が空を指差していた。
「あ……あれ!見えてるよな!?」
その先を見る。同じ生物がいた。さらに離れた場所でも騒ぎが起きている。
指を差す者、スマホを向ける者、怯える者。
その一方で、何も見えていない様子の人間もいる。
ひろしは顎に手を添え、訝しんだ。
これが自分1人を対象とした術式なら話は簡単だった。
高専へ連絡して終わりだ。だが違う。
複数の人間が、同じものを見ている。
それも1人や2人ではない。目に見えるだけでも多人数を対象とした術式だと判断するには十分だった。
「なにこれ〜! 超ウケるんだけど!」
金髪の若者が笑う。隣の女もスマホを向けながらはしゃいでいる。
その光景を見て、ひろしの脳裏にある男の顔が浮かんだ。
軽薄という2文字がそのまま歩いているような男。
同期の日下部にはさん付けなのに、自分のことは平然と呼び捨てにする生意気な後輩。
そして、現代最強の呪術師、五条悟。
「……あいつに投げりゃあ、ぜ〜んぶ終わりだろ」
鼻で笑う。県外ならともかく、よく都内で大それたことをするもんだ。
命知らずさんめ。現代において、目立った呪詛師の末路は決まっている。
……五条は今、渋谷で任務中のはずだ。
既に任務を終えて、渋谷で遊んでるかもしれない。
知ればすぐに飛んでくる。30分もかからないだろう。
どうせ全部片付けて、その後でドヤ顔をする。
光景がありありと目に浮かぶ。
ひろしはたまらず苦笑いした。
「ざまあみろってんだ」
そう呟いて携帯を取り出す。……だが。
「……は?」
圏外だった。一瞬、思考が止まる。場所を変えても繋がらない。
公衆電話へ向かうも繋がらない。
不快な汗が滲み始めた。
――まさか。
その可能性が頭をよぎった瞬間、ひろしの表情から余裕が消えた。
「故障か……?」
圏外の表示を睨み、ひろしの眉間に皺が寄る。場所を変えてもう一度かける。
だが、結果は同じだった。
「おいおい、冗談だろ……」
嫌な予感が胸の奥でじわりと膨らんでいく。
通信障害。確かにあり得る。だがタイミングが悪すぎる。こんな得体の知れない式神が現れたその直後に? 偶然と片付けるには出来すぎている。
ひろしは足早に別の公衆電話へ向かう。受話器を取り番号を押して耳に当てる。
無音だった。
いや、正確には違う。通信不能を告げる機械音だけが流れ続けていた。
「チッ……!」
受話器を乱暴に戻す。周囲でも同じことが起きていた。
スマホを耳に当てた男が苛立たしげに舌打ちし、駅員へ詰め寄る中年女性がいる。
泣きそうな顔で何度も発信ボタンを押している高校生や、少し離れた場所で幼い子供を抱えながら震える指で電話を掛け続けている母親の姿もある。
しかし結果は同じだった。繋がらない。誰とも、どこにも。
不安は伝染する。人混みのざわめきが徐々に大きくなっていく。
「だから何で繋がらねぇんだよ!」
「こっちは家族と連絡取れねぇんだぞ!」
「はやく警察呼べよ!」
「とっくに警察署まで呼びに行ったよ!」
「パトカーが来ねぇんだよ!」
怒鳴り声、悲鳴、苛立ち、恐怖。それらが少しずつ空気へ溶け出していく。
ひろしは周囲を見回した。
警官の姿はある。駅員もいる。
だが誰一人として状況を把握していない。むしろ一番混乱しているようにすら見えた。
「通知」ざわめきの中に、再びコガネの声が響く。
妙に通る声だった。拡声器でもない。叫んでいるわけでもない。
それなのに、コガネが見えている人、全員の耳に届く。
ひろしは憎々しげに声の主を見据える。
「泳者・野原ひろし。死滅回游の泳者として登録されました」
周囲の人々が空を見上げる。ひろしもまた視線を上げた。
1体だけではない、無数のコガネが駅前、ビルの上、それに交差点。
至る所に浮かんでいる。
「以下、死滅回游における総則を通達します」
その瞬間、ひろしの胃が重く沈んだ。術式だ。
しかも相当大掛かりな。コガネは感情もなく、まるで最初から決められている台本を読むように、機械的に続ける。
「一、泳者は術式覚醒後十九日以内に任意の結界にて死滅回游への参加を宣誓しなければならない」
「二、前項に違反した泳者からは術式を剥奪する」
「三、非泳者は結界に侵入した時点で泳者となり死滅回游への参加を宣誓したものと見做す」
「四、泳者は他泳者の生命を絶つことで点を得る」
ざわめきが消えた。正確には、一瞬だけ凍り付いた。
誰も意味を理解できなかった。
理解したくなかった。数秒遅れて空気が爆発する。
「はぁ!?」 「なんだそれ!」
「ふざけてんのか!?」 「殺せって言ってんの!?」
怒号が飛び交う。当然だった。ひろしでさえ顔をしかめる。
冗談にしては悪質すぎる。だが、コガネは止まらない。
「五、点とは管理者によって泳者の生命に懸けられた価値を指し、原則術師五点、非術師一点とする」
ひろしの目つきが変わる。術師の区分を知っているということは、少なくとも呪術界の存在を把握している者が仕組んでいるということだ。
偶然ではない。部外者でもない。極めて悪質な何者か。
ぞくり、とひろしの背中に悪寒が走る。
「六、泳者は自身に懸けられた点を除いた百点を消費することで管理者と交渉し死滅回游に総則を一つ追加できる」
「七、管理者は死滅回游の永続に著しく障る場合を除き、前項によるルール追加を認めなければならない」
「八、参加または点取得後、十九日以内に得点の変動が見られない場合、その泳者からは術式を剥奪する」
ひろしは眉をひそめた。19日。この現象は長期間にわたって行われることが確定事項のようだ。
「以上です。異議申し立ては受け付けません」
新宿のど真ん中で、誰も笑わなかった。
「速やかに行動を開始してください」
その言葉だけが、奇妙なほど鮮明に耳へ残った。
コガネの声が途切れる。ほんの数秒。
新宿の雑踏が、不気味なほど静まり返った。
誰もが今聞いた内容を理解しきれずにいた。
そして次の瞬間、堰を切ったように怒号が噴き出す。
「ふざけんな!」 「何なんだよこれ!」
「ドッキリか!?」 「殺し合いって何だよ!」
あちこちで罵声が飛ぶ。コガネは何も答えず、ただ空中に浮かんでいるだけだった。まるで嵐の中心に置かれた石像のように。
ひろしの中でもじわじわと怒りが膨らみ、やがて限界に達した。
ブチンと堪忍袋の緒が切れる音がする。
「うるせぇ!」 怒声が夜の街へ響いた。
周囲の何人かが振り返るが、もう止まらなかった。
「誰だ!こんなふざけたルール作った奴は!!」
無機質な式神は沈黙したままだ。
「術式を剥奪だぁ!?」
ひろしは吐き捨てるように言う。
「上等じゃねぇか!おい!!」
胸の奥に長年燻っていた感情が顔を出した。
「オレに術式はねぇんだよ!!」
ぎりり、と奥歯を噛み締めた。
「ないものをどうやって剥奪するんだ!?えぇ!?」
周囲にいた何人かが驚いた顔をする。そんなことはどうでもよかった。
怒りをぶつけずにはいられなかった。
「オレにも術式さえあれば――」
そこまで言って、ひろしは言葉を飲み込んだ。
胸の奥が詰まる。脳裏に浮かんだ顔があった。
日下部篤也。野原ひろしの同期。
そして術式を持たずに一級まで登り詰めた男。
面倒臭がりな性格で協調性があるようでいて、ない。
要領だけは異常に良い。それなのに、誰もが日下部の実力を認めている。
ひろしも認めざるを得なかった。当の本人は否定している。
だが、日下部こそが、一級最強の術師だと理解していた。
『術式さえあれば』
その言葉を、日下部の前でだけは、言いたくなかった。
言えるはずがなかった。術式がなくても強い奴はいる。
現にいる。しかも同期に。
だからその言葉は、強くなるための努力を放棄した、ただの言い訳だ。
少なくとも、ひろしにはそう思えた。
「……チッ」
怒りが収まる。代わりにやってきたのは不快感だった。
自分自身への、そしてこの状況そのものへ。
身体と心が冷え切っていくのを感じた。
冷たい風が吹いた。スーツの裾が揺れる。
ただそれだけのことだったのに、ぞわりと全身の毛が逆立った。
「……?」ひろしの表情が変わる。今のは何だ。
寒さじゃない。恐怖でもない。もっと根本的な、呪術師としての本能に近い何か。警報、警鐘、危険信号。頭の奥で何かが音を立てて鳴り響いている。
「オレは何か大事なことを見落としている」
と、今まで積み重ねてきた知識と経験がそう叫んでいた。
「待てよ……」
ひろしは足を止める。周囲の喧騒が遠のく中、思考を巡らせる。
通信障害、大量の式神、広範囲への同時通知、そして逃げ場のない圧迫感。
「まさか……」ようやく気付く。今さらだった。
あまりにも今さらだった。ひろしはゆっくりと空を見上げた。
夜空は変わらない。黒い東京の夜だ。
星なんて見えない。見慣れた空にいつもの景色。
だが、見えないだけだ。
術師としての感覚が告げている。絶対にある。
あってはならない、忌々しいものが。
「おい……おいおいおい……」
背中を汗が伝い、胃が縮み、息が浅くなる。
「冗談だろ……」
巨大な結界。帳。それも通常の規模ではない。
街区単位でもない。駅単位でもない。街そのものだ。新宿を丸ごと呑み込むほどの巨大な結界の内部に、自分たちは完全に閉じ込められている。
「この一帯全部……帳の中かよ……!」
思わず声が漏れた。これほどの結界を見たことがない。
張ろうと思って張れるものじゃない。
人ひとりの力で成立する規模ではない。だが、現実として存在している。
それが何より恐ろしかった。
それでも街は動いていた。信号は青に変わる。
ネオンは光り、大型モニターはCMを流し続ける。
見た目だけならいつもの新宿だ。だからこそ異様だった。
普通に見える。なのに普通じゃない。
その違和感は静かに広がっていった。
最初はコンビニだった。店員が慌てた様子でシャッターを下ろしている。
続いて牛丼屋、居酒屋、そして24時間営業を売りにしていた店までもが次々と閉まっていく。
街が少しずつ縮んでいく。逃げ場を失うように、檻が閉じていくように。
ひろしは深呼吸した。パニックになっても仕方がない。
今は自分に出来ることを考えよう。
まずは渋谷へ向かう。それが最善だ。五条がいる。
七海がいる。冥冥がいる。……日下部もいる。
高専側の戦力が集中している。
あれだけの面子がいて対処できない問題など、存在しない。
少なくとも、ひろしはそう信じていた。信じたかった。
「とにかく渋谷だ」
誰に言うでもなく呟き、足を踏み出した。
渋谷で起きていることも知らず。五条悟が既に獄門疆へ封印されていることも知らず。高専側の戦力が半壊していることも知らず。ひろしは歩み出す。
新宿の異変も、半日も経てば解決するだろうと本気で思っていた。
そう、思いたかった。
それが野原ひろしにとっての始まりだった。
死滅回游。何者かによって齎された廻る呪いの坩堝。
そして、呪術を与えられた泳者たちによる殺し合いの物語が、今、幕を開ける。