2018年11月6日、4時02分。
白倉の拠点とする雑居ビルは、外の闇を厚手の布で拒んでいた。
窓からの光はない。手元を照らすのは、非常用の小さな灯だけだった。
野原ひろしは、床に並べた荷物を一つひとつ確認していた。
水。乾いた食料。簡単な救急用具。
それと、小さく丸めた紙の束。
病院で集めた領収書の残りだった。
「う〜ん……やっぱり少ないな」
呟くと、向かい側で布を畳んでいた白倉飛鷹が顔を上げた。
「……足りませんか」
「戦う分には、まだどうにかなる。問題は数だ。
使えば使うほど手札が減っていく」
ひろしは紙の束を掌で軽く叩いた。音は乾いている。頼りない。
レジィのように圧倒的な手数で攻めるには、札束ほどの領収書が必要だ。
「オレの術式は、紙がなきゃ始まらない。白倉君の方も、繊維がなきゃ本領は出せないよな」
「はい。この拠点にある布だけだと、守りを続けるのも限界で」
白倉は苦笑した。
警戒心の薄い青年だが、その一点だけは現実をよく見ていた。
確かに水や非常食はある。
だが、安定して補充できる当てがない。
昨日助けた相手と、今日からどう生き延びるか。
話は自然とその方向へ進んでいた。
ひろしは壁に背を預け、考えを口に出した。
「今回の目的は、物資の調達と白倉君の教育だ」
ひろしは広を探すことを候補から外していた。
広がどうでもよくなったからではない。
『いくら探しても無駄だから』と広は言った。
ならば、オレのやることはひとつ。
共に生き抜くと決めた白倉君を育て、守り抜くことだ!
ひろしは瞳に炎を宿し、自分のヒロイックな目標に酔いしれていた。
気づかない白倉は、見栄っ張りモード発動中のひろしに語りかける。
「はい!ご指導ご鞭撻、よろしくお願いします!」
白倉は深々と頭を下げた。ひろしはたじろいだ。
「あぁいやいや、そこまでしなくても……」
実際は逡巡していた。知りたいことは山ほどある。
しかし、今のひろしには白倉という仲間がいる。
今の2人に必要なのは情報より、明日を食いつなぎ、生き残るための手段だった。
「今日は近くの工務店と集英ビルに向かう」
「集英ビルは前に一度、中を把握してる。完全に安全ではないが、手探りよりはマシだ」
「野原さんの知ってる場所なんですね」
「ああ。それに、白倉君にも経験が要る」
ひろしは白倉の顔を見た。
整った顔立ちの青年は、真顔で頷いた。
昨日の路地裏では、人数差に押し込まれていた。
助ける側に回ったつもりが、こちらも危うかった。
同じ失敗を繰り返す余裕はない。
ひろしは続ける。
「潜入の基本と、簡単な呪力操作。必要なら低級相手の実戦だ」
「最初から無理はさせない。だが、ただ見てるだけってわけにもいかない。やれるか?」
「分かりました。ついていきます」
白倉の返事は早かった。ひろしはわずかに目を細めた。
信頼されるのは悪くない。
だが、この青年は信用する基準が甘い。
そこを直さないと、次は本当に死ぬかもしれない。
軽いミーティングを済ませ、2人は拠点を出た。
新宿の闇は深かった。街灯のいくつかは点いているが、人の気配はない。
風が空き缶を転がす音だけが、遠くでころころと鳴った。
ひろしは先頭に立ち、白倉を半歩後ろに置いた。
自分が盾になるつもりで歩き、周囲を注意深く観察する。
「まずは周囲に気を配り、逃げ道になる経路を最低でも1つ以上は見積もる」
ひろしは歩きながら、低い声で指示した。
「入った道だけしか見えてないと、詰まった時点で終わりだ」
「角を曲がる前に、非常階段、裏路地、車止めの隙間」
「使えるものを頭に入れるんだ」
「はい」白倉は一言も聞き逃すまいと真剣に聞いている。
ひろしはその姿勢に感心した。
本当に熱心な子だ。川口にも見せてやりたい。
「それと、残穢。白倉君、見えるか?」
白倉は目を凝らし、歯痒そうに答える。
「はい……見えます。たくさんありすぎて、特定の残穢を辿るのは困難ですが」
ひろしは苦笑いした。無理もない。
新宿は今、呪霊と泳者の跋扈する魔境なのだから。
「それは白倉君のせいじゃない。今は残穢を感じ取ることだけを考えてくれ」
「はい!必ずものにしてみせます」
5時を回った頃、2人は工務店の敷地へ入った。
看板は傾き、入口のガラスは割れている。
中は薄暗く、塗料と埃の匂いが混じっていた。
ひろしは手で制止し、先に中を窺った。
等級の低い呪霊の気配はある。だが、人の気配はない。
「低級の呪霊がいる。白倉君、やるぞ」
「……はい」白倉の声音には覚悟があった。
慎重に歩を進める。棚は倒され、工具が床に散っている。
誰かが必要なものだけ抜いていった形跡があった。
ひろしが受付まわりへ足を向けた、その直後だった。
棚の影が動いた。
低級の呪霊が1体、歪んだ腕を伸ばして出てくる。
等級に区分すると、4級程度だろう。
ひろしは静かに後退し、白倉に場を譲る。
「……白倉君、いけるか?」
「……はい、やれます」
白倉は既に拳に呪力を込め、呪霊を見据えていた。
呪霊が白倉の呪力の流れに気づいた瞬間。
「……はっ!」白倉の拳が呪霊の顔面に吸い込まれ、霧散する。
拳を向けた当人は硬直していた。
「よくやった。上出来だ、白倉君」
(昨日もそうだったが、白倉君は飲み込みが早い)
ひろしが労いの言葉をかけ、白倉は安堵する。
白倉飛鷹の生得術式「呪布操術」。
繊維に呪力を籠め、形状を変化させる術式。
強度や質量は元の繊維に依存するデメリットがある。
さらに呪力消費が激しく、使い勝手は良くない。
そこでひろしは「呪布操術」を伸ばすよりも、簡単な呪力操作から教えることにした。と言っても、昨日の時点で白倉は呪力操作をものにしていたのだが。
今回の教育は実戦でも上手くできるかの確認だ。
基本的な呪力操作と体術が組み合わされば、「呪布操術」によって繊維を武器にして戦うこともできる。
先は長いが、千里の道も何とやらだ。
「白倉君。まずは作業着と防水の上着を探そう。破れてても、生地が厚けりゃいい」
「はい」白倉がゆっくりと奥へと入っていく。
ひろしは受付まわりと事務所を漁った。
請求書、納品書、現場の経費精算。
紙は思ったより残っていた。
レジィ一派以外に、こんなものを欲する泳者は少ないのだろう。
少なくとも今のところは。
「野原さん、ありました。作業着、3着。防水の上着も2着あります」
「よし。持てる分だけ持とう。詰め込んでくれ」
白倉は素直に従い、生地を折り畳んで袋へ詰めた。
その手つきは丁寧だった。
戦場というより、誰かの手伝いをしているようでもある。
ひろしはそんな横顔を見ながら、短く息を吐いた。
順調だ。2人の術式に必要な物資は、確実に手元に集まっている。
最悪の場合、泳者との交戦も可能だ。
「急ごう白倉君。次は集英ビルだ」
ひろしは丸めて小さくした領収書を内ポケットへしまい、白倉を促した。
袋へ詰め終えた白倉がひろしを見て頷く。
2018年11月6日、5時40分。
集英ビルは、以前より静かに見えた。
気配の薄さそのものが、かえって引っ掛かった。
ひろしは正面玄関の前で足を止め、白倉に手で合図した。
自動ドアは開かない。
ガラスの向こうのロビーは薄暗く、受付の椅子が倒れている。
前に来た時よりも、乱雑だった。嫌な予感がする。
「白倉君、荒らされてる。会敵するかもしれない」
「これまで以上に慎重に先に進もう」
警戒を促すひろしに、白倉は真剣な顔つきになる。
「はい、分かりました。警戒は怠りません」
2人は隙間から内部へ入った。
埃と乾いた紙の匂いが鼻をついた。
ひろしはまず非常階段と裏口の位置を確認し、白倉にも目で示した。
逃げ道は2つ。それが確認できてから、奥へ進む。
「……荒れ方が、前と違う」ひろしの声が低く落ちた。
廊下の端に、割れた植木鉢と散乱した書類。
誰かが急いで漁った跡だった。
棚は開き、備蓄用の箱は空になっている。
ひろしは顎に手を当て、周囲を見直した。
自分が把握した範囲では、このビルは比較的マシなはずだった。
その前提が、足元から削れていく。
仕方ないことではあるが、落胆は隠せない。
「野原さん、これ……」白倉がおそるおそる指差す。
壁沿いに、血痕が残っていた。ひろしは注視した。
血痕は古い。だが、まだ残穢が微かに残っている。
呪霊に襲われたか、泳者狩りか、物資の奪い合いか。
……いずれにしろ不気味だった。
「僕にも見えます。これは、残穢ですね」
白倉が壁を観察してる間、ひろしは近づいてくる呪霊の数を数えていた。
「白倉君、3体来るぞ!」
刹那、上階から低い擦過音が落ちてきた。
ひろしと白倉が同時に顔を上げる。呪霊だ。
大きくはない。低級が2体、階上の廊下をよろめく音がする。
ひろしは汗を流す。……か、数を間違えた。
「白倉君。やれるな?」ひろしはゆっくり後退する。
「はい。いつでもいけます」白倉の拳に呪力が灯る。
2体の低級呪霊がこちらの存在に気付き、近づいてくる。
白倉は拳を振りかぶり、近くに来た呪霊に放つ。
しかし、放たれた拳は躱され、呪霊は鋭い爪を白倉の顔に食い込ませようとした。
その瞬間、白倉は僅かに笑みを浮かべ、呪力のこもった頭突きを呪霊の顔面に直撃させた。
衝撃を受け、潰れた呪霊が塵になって消える。
ひろしは思わずガッツポーズをした。
白倉はすぐさま足に呪力を込め、残る呪霊を蹴り上げ、祓った。
すごい。ひろしは白倉の活躍ぶりに感心した。
呪術師として等級に換算するなら4級上位、いや3級になってもおかしくない。
そう考えた矢先、ポッケからすぐさま丸めた領収書を取り出し、焼く。
白銀の閃光が白倉に目掛けて襲いかかってくる。
白倉は思わず目を閉じた。
どちゃっと何かが倒れる音がした。おそるおそる目を開けると、そこにはメスに貫かれ、力尽きた呪霊が横たわっていた。
「ごめんな白倉君、怖い思いをさせて」
ひろしが申し訳なさそうに白倉に謝罪する。
しかし対照的に、白倉は目をきらきらと輝かせていた。
「野原さんすごいです!僕に指導を行いつつ、隠れていた呪霊を炙り出すなんて!!」
誤解である。
「あぁいや違……うん、そうなんだよ、ははは」
最初に気配を感じたのは3体。しかし、出てきたのは2体。
恥ずかしい勘違いをしたと思ったら、もう1体。
「ままならないなぁ〜」ひろしはため息を吐いた。
項垂れるひろしの脳裏にしんのすけが思い浮かぶ。
『とーちゃん、かーちゃんいらないの?』
そんな言葉が聞こえるような気がした。
「ままいらない!じゃなくて、ままならない!!」
ひろしは立ち上がり、幻影の息子を大声で怒鳴りつける。
「あ……あの……野原さん」
白倉が申し訳なさそうに話しかけてくる。
「ん?どうした白倉君?」ひろしはきょとんとしている。
「声……大きいです。見つかっちゃいますよね?」
「………………ままならない、ね」再び項垂れた。
2018年11月6日、10時40分。
集英ビルの探索は5時間にわたって続いた。
荒らされていなければ再度拠点にしようと考えていた。
食料や水は既になかった。代わりに人の痕跡、呪霊の残穢があった。
だが、探索そのものは非常に有意義な時間だった。
各テナントの総務・経理部から衣類や領収書類を確保しつつ、白倉には逃走経路の確保や、会敵した場合の逃げ方を教える。
また、知識だけでは不十分だと考え、白倉に口頭で具体的な逃走方法を伝え、実践させた。
呪霊を見つけたら、まずは気配を消してやり過ごす。
成功したら次は体術で祓う。
ひとしきり各テナントと階層を回り、探索も終わりに近づいた時。
ひろしは白倉を連れて、ある部屋へと向かう。
「……やっぱり、あった」
天井の点検口。そこには食料の備蓄が存在した。
それはひろしが集英ビルを隅々まで調べ、最適とした場所に隠しておいた「予備の予備」だった。
人目に付く備蓄は持っていかれていた。
だが、ここまでは誰も手を伸ばしていなかった。
中には味噌と米、水に乾パンが入っている。
これは集英ビルに逃げ込んだ一般人がひろしに助けを求めた場合に渡すつもりの食料だった。
4つのリュックのうち1つを、誰かに分け与えるために隠しておいたのだ。
こんな形で役立つとは、人生何が起こるか分からないものだと、ひろしは思う。
「帰ろう、白倉君」ひろしは脚立から降り白倉を見る。
「分かりました!一度帰って物資の整理ですね!」
白倉はきらきらと瞳を輝かせている。
ひろしは苦笑した。そうしたいのは山々だが。
ぐうぅ、とひろしのお腹が盛大に鳴った。
「……オホン。白倉君、疲れたろ。昼メシにしよう」
赤面し咳払いして、ひろしは白倉を昼メシに誘った。
「……はい」白倉はそんなひろしを見て、にっこりと笑った。