2018年11月6日、12時32分。
白倉の拠点に戻った頃には、ひろしの腹は限界を訴えていた。
集英ビルを出てからが長かった。
帰り道でも、ひろしは角を曲がるたびに白倉へ逃げ道を教え、残穢の薄い路地を選ばせた。
昼メシにしようと言ったのは10時40分。
それが今、12時を過ぎている。
教育熱心なのか意地汚いのか、我ながら分からなくなってきた。
雑居ビルの階段を上りながら、ひろしは癖で出口を数える。
非常階段と、窓の外の室外機伝いの足場。逃げ道は2つ。
ここは白倉が整えた拠点で、何度見ても感心する。
「ただいま……っと」
窓は厚手の布で塞がれたまま。
布の隙間から漏れた昼の光が、細い筋になって床を這っている。
非常用の小さな灯が、机の上の缶詰を照らし、缶の表面が鈍い光を返していた。
2人は床に座り、歩き通しだった身体を休めた。
工務店と集英ビルで調達した物資を整理することにする。
ひろしはリュックを降ろし、探索の戦利品を並べていった。
作業着3着。防水の上着2着。雑多な衣類6着。
味噌と米。乾パン。丸めた領収書の束。
「野原さん、昼にしましょう」
白倉が缶詰を机に置いた。
サバの水煮、焼き鳥のタレ味、コーン。
几帳面に並べ終えると、サングラスを外してにっこり笑う。
「缶詰ですけど、種類はそれなりにあります」
「ああ。……うん。ありがたい」
ありがたい。ありがたいのだが。
ひろしの目は机の端の袋に吸い寄せられていた。
集英ビルの点検口から回収した米だ。
袋越しに透ける白い粒を見ているだけで、頬張る姿が浮かぶ。
その隣に、味噌のパック。
(缶詰のサバに、乾パンに、水。死滅回游が始まってから、ずっとこんなんだ)
心の中でため息を吐く。
集英ビルで食べたチキンのトマト煮込み定食が忘れられない。
だが、こんな状況で贅沢などできない。
分かってはいる。
だが、こんな状況だからこそ、美味い昼メシを食べてお腹と心を満たしたかった。
ひろしは缶詰の列から視線を上げた。
「白倉君」真剣な声音。
「はい」白倉の緩んでいた表情が引き締まる。
「今日はオレに作らせてくれ。ちゃんとした昼メシ」
白倉がきょとんとする。ひろしは頭を掻いた。
「今日は呪霊を3体も祓って、逃げ方の実践までやったろ。その労いだ。……ちゃんと食わせたいんだよ」
営業マンの経験で、相手を気持ちよくさせる言葉は何通りも持っているはずなのに、こういう時だけは出てこない。
結局、素のまま口にするしかなかった。
「労いですか。……はい、ぜひ」
白倉は嬉しそうに頷いた。
「それで、何を作るんですか?」
白倉の目がきらきらと輝いている。
「今回オレが作るのは……きりたんぽ鍋だ」
ひろしは得意げにふふん、と鼻を鳴らす。
「きりたん……ぽ?」
「秋田の郷土料理だ。米を潰して棒に巻いて、焼いて、鶏と野菜の汁で煮る。本当はごぼうとセリと比内地鶏と醤油なんだが、手元にある材料で味噌味に寄せる」
頭の中で、不意に声が響いた。
『とーちゃん、たんぽぽ食べるの?にがいゾ』
(たんぽぽじゃねえ!たんぽだ!)
幻影の息子に脳内でツッコミを入れて、ひろしは小さく笑った。
全く、こんな時にまで出てくるなよ。
……会いたい。会って抱きしめてやりたい。
いつか、お前にも食わせてやるからな。
「あー!……しまった!」
ひろしは頭を抱える。
手料理を振る舞おうとした矢先、さっそく問題が発生した。
鍋だ。鍋がない。盲点だった。
拠点にあるのは、白倉が缶詰を温めるのに使っている小さなシチュー鍋だけ。
1人前も入らない。
そしてもう1つ、決定的な問題があった。
「再契象」で出せる火は長く保たない。
「オレの術式、出した物を使い始めると、あっという間に消えるんだ。バーナーも、火を点けて数分が限界だと思う」
工務店から確保した領収書から火を出せる時間を計算する。
……心許ない。火が鍋に通るか分からない。
「数分で鍋を温める、ですか」白倉も考え込む。
「そう。だから、薄くて熱がすぐ回って、しかも火が消えた後も冷めにくい鍋が要るんだよ」
「厚い鍋だと温まる前に火が終わる。薄いだけの鍋だと、火が消えた途端に冷える」
条件を並べるほど、無茶な注文に聞こえてくる。
ひろしは苦笑した。
「無理だよな。いいんだ、缶詰でも……」
「……やってみます」
白倉が言った。
サングラスの奥の目が、さっきまでと違う色をしていた。
机の端に畳んであった防水の上着を、白倉が広げる。
工務店で確保した、厚手の黒い生地。
ひろしは慌てた。すぐに消えるバーナーはともかく、生地は貴重だ。
こんなことに使うのは無駄だ。
「待て待て。それ、白倉君の術式の素材だろ。貴重な布だ」
白倉は黒い生地を真剣な眼差しで見つめている。
「解除すれば、元の布に戻ります。それに、一度形にしてしまえば、鍋として使う分には素材はほとんど削れませんよ」
「へぇ〜……そうなのか」
白倉の指先が布に触れる。
呪力が染み込み、繊維が強張っていく音がした。白倉は続ける。
「熱を通したいなら、繊維を密に詰めればいいと思うんです。でも、それだと熱が逃げやすい」
「だから、内側と外側の間に空気の層を挟みます。バーナーの炎にも耐えられるよう、繊維の耐熱性も呪力で引き上げておきます」
ぶつぶつと呟きながら、白倉の手の下で布が形を変えていく。
薄い底、浅い縁、持ち手だけ少し太く。
呪力で繊維全体を覆うのではなく、繊維のより細かい構造へと、少しずつ呪力を這わせていく。
防水加工のおかげで、水を入れても漏れそうにない。
最後に余った布で蓋の形も整える。
変形が終わるまで、約10分ほどかかった。
その間、ひろしは米を洗い、水に浸けておいた。
出来上がったのは、黒く艶のある、見慣れない鍋だった。
布のはずなのに、指で弾くとコン、と乾いた音がする。
ひろしは恐る恐る持ち上げる。
「おおっ軽っ!」思わず声が出た。
「変形させる時が一番消耗するんです。形にしてしまえば、後は呪力を流し続けなくても保ちます」
白倉の額に汗が浮いていた。顔色も少し悪い。
呪布操術はただでさえ呪力の消費が激しい術式だ。
「白倉君、大丈夫か?」
「平気です。野原さんの料理のためですから」
ひろしは何か言いかけて、結局、ごまかすように領収書の束を取り出した。
……次はオレの番だ。
(ここまでやってくれたんだ。オレが失敗するわけにはいかねえ)
ひろしは机に紙を並べた。
工務店の納品書の中から、携帯用ガスバーナーとカセットボンベの記載があるものを選ぶ。
小さく丸めた領収書の束から、文字の部分だけを残した紙片を2枚、指で摘む。
「再契象……」
呟いてから、ひろしは首を傾げた。
広は、再契象ではないと言った。それは確かだ。
だが、そう呼ばなければ説明がつかない現象を起こせる。
本当の術式は別にある。
それが何なのかは、まだ分からない。
まずは再契象を使い熟す。
(ただ、最近は紙を燃やす手が妙に軽い。慣れかな)
深くは考えず、ライターで紙の端を炙った。
紙が燃える。灰が散る。空気が歪む。
ゴトッ、と机に重いものが落ちた。
ガスバーナーだった。
もう1枚燃やすと、カセットボンベが転がる。
「3分もつかどうか。白倉君、急ごう」
「はい!」
白倉が鍋に水を張る。
ひろしがバーナーに火を点けると、シュボッという音と共に、青い炎が黒い鍋の底を舐めた。頬に熱気が触れる。
驚いたのはそこからだった。
「野原さん、もう湯気が!?」白倉は驚愕する。
「うおっ、早ぇ!」ひろしは驚嘆する。
水面がふつふつと泡立つまで、普通の鍋の半分もかからなかった。
バーナーが力を失い、火が弱くなって消える頃には、湯は煮立っていた。
炎が消えても、鍋の中の熱は逃げず、静かに揺れている。
「すげえな、これ」
「保温の層が効いているみたいです」
ひろしは浸けておいた米を鍋に入れた。
湯が冷めないうちに蓋をして、余熱に任せる。
(匂いが出るな)
ひろしは窓の布越しに外の気配を探った。
階下の人の気配は、探索の前に確認してある。
このビルに他の人間はいない。呪霊の気配も薄い。
少なくとも、今は大丈夫だ。
米が炊けるまで、ひろしは具材の準備に回った。
焼き鳥缶を開けて、タレを軽く洗い流す。
ごぼうの代わりに、フリーズドライの味噌汁の具を砕いて入れる。
乾燥ネギ、わかめ、豆腐。
ささやかだが、汁には十分な彩りだ。
15分後、蓋を開けると、ふっくら炊けた米の湯気が顔を撫でた。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「おお……炊けてる」
「炊けてますね」
ひろしは炊けた米を鍋から出して潰し、割り箸に巻きつけていく。
熱い。指先が赤くなる。それでも手が勝手に動いた。
ガキの頃、お袋の隣で教わった手つきだった。
「野原さん、器用ですね」
「形だけは覚えてるんだよ。味は怪しいけどな」
もう1枚、紙を燃やしてバーナーを出す。
短い火で、きりたんぽの表面を炙る。
じゅっ、と米の水気が弾け、白い肌がきつね色に染まっていく。
米の焦げた香ばしい匂いが、拠点の中に広がった。
くう〜っと、白倉の腹が鳴る。
「……すみません」赤面しながら謝罪した。
「いいって。オレのもさっきから鳴りっぱなしだ」
空になった鍋に、ペットボトルの水を注ぐ。
惜しいが、ここは使いどころだ。
さらに1枚の領収書を燃やし、3度目の火を灯す。
湯が沸いたところで、ほぐした鶏を入れ、味噌を溶く。
箸の先でほどけた味噌が、湯の中で茶色い雲のように広がる。
鶏のタレの甘い香りと混じり合っていく。
焼いたきりたんぽを割り入れる。
蓋を閉じて余熱を待つ間、白倉は壁にもたれて水を飲んでいた。
ひろしは何も言わず、紙コップを2つ並べた。
2018年11月6日、13時21分。
蓋を開けると、味噌の香りが立ち昇った。
「いただきます」声が重なる。
まず汁を啜る。熱い。
だが舌に触れた瞬間、味噌の旨味と鶏の脂が一気に広がった。
続けてきりたんぽに箸を入れる。
外は香ばしく、中はもちもち。
汁を吸って、噛むたびに味噌と鶏の旨味が溢れてくる。
十数回の咀嚼のうち、カッと目を見開く。
「うま〜〜〜い!!」
ひろしは思わず叫んだ。
(香ばしく焼いた米が、鶏の旨味を吸い込んで〜〜〜!!口の中を飛び回っている〜〜!!)
(きりたんぽが味噌の海で泳いでる〜!焦げ目が踊って、乾燥ネギがコーラスしてる〜〜!!)
(焼き鳥缶の鶏が、主役みたいな顔で汁の真ん中に鎮座してやがる〜!そこへ豆腐とわかめが拍手を送ってる〜〜!!)
(缶詰とバーナーと呪術。使えるもの全部を使いこなした、人類の勝利だ〜〜!!)
「おいしいです!!!」
白倉は大声で叫んだ。
ひろしと白倉は同時に動きを止めた。
顔を見合わせる。お互い、慌てて口を押さえた。
(……声、でけぇな、オレたち)
(……声、大きかったですね、僕ら)
無言で頷き合う。
どちらからともなく笑いが込み上げた。
肩を震わせながら、声を殺して食べた。
本物ではなかった。セリはない。比内地鶏でもない。
味噌鍋なんて、実家ではやらなかった。
それでも、舌の奥に「あの味」が居た。
覚えているつもりのなかった匂いが、湯気と一緒に立ち昇ってくる。
囲炉裏を囲んだ冬の夜。母親が土鍋をかけていた。
親父は酒を飲んでいて、自分は焼きたてのきりたんぽをふうふうと冷ましながら食べていた。
(キンキンに冷えたビールが飲みて〜〜〜!!)
ひろしはそう思いながら、冷静なフリをする。
「本物の味じゃねえな。セリもないし」
「でも、すごくおいしいです」
白倉は小声で言った。目を閉じて、ふうっと息をつく。
「缶詰ばかりだったのに、こんなに違うんですね。体に染みていくみたいで……最高です」
「大げさだな。……まあ、そう言ってくれると作った甲斐があるよ、ありがとう白倉君」
見栄を張って胸を張ってみせたが、本当は安堵で肩の力が抜けていた。
ちゃんと、美味かった。
2杯目をよそいながら、ひろしは思う。
外には呪霊と泳者がうろついている。
それでも、味噌の匂いと湯気に包まれて、笑える時間がある。
「野原さん」白倉が箸を置いた。
さっきまでとは違う、真面目な目をしていた。
「この鍋、作らせてくれて、ありがとうございました」
「ん?あぁいや、礼を言うのはオレの方で……」
「いえ。野原さんの意図が分かった気がするんです」
白倉は自分の手を真剣に見つめていた。
正確には、「手」ではなく、「皮膚」に着目していた。
「繊維を密にするほど熱は通る。でも保温は落ちる」
「だから、層を挟む。繊維の性質を、僕は今まで『硬くするか、柔らかくするか』でしか見ていませんでした」
そして確信するように、尊敬の眼差しでひろしを見つめる。
ひろしには、何が何だか分からない。
「野原さんは、これに気づかせるために、あえてこの鍋を頼んでくれたんですよね?」
(……え?)ひろしの箸が止まった。
「隠さなくてもいいですよ。僕には分かってます」
「お、おう」勝手に意を汲まれてしまった。
(違ぇよ!ただ鍋が欲しかっただけだよ!!)
声に出せなかった。白倉の目が、あまりにも真っ直ぐだった。
否定する言葉を探すより先に、口が勝手に動いていた。
見栄が張れるなら張っておこう。
「ま、まあな。術式ってのは、使い方次第だからな」
「はい。繊維への理解を深めれば、呪力の消費も抑えられると思います。もっと使いこなせるようになれば、戦いの時にも」
「それは気が早いぞ白倉君。戦いの時は、体術だ」
思ったより強い声が出た。白倉がきょとんとする。
しまった。ひろしは咳払いをした。
「戦う時は、なるべく体を動かすんだ。白倉君の術式は、まだ改良の余地がある。奥の手として使おう」
「……はい。野原さんの教え、まだ僕には難しいです。でも、肝に銘じておきます」
白倉は神妙に頷いた。瞳には敬意が宿っている。
ひろしの本音は、そこにあった。
「呪布操術」は呪力の消費が激しい。
戦闘で使い潰せば、肝心な時に呪力が尽きる。
だから、戦う際は体術と基本的な呪力操作で乗り切れる術師に育てたい。
術式は、自分を守るための切り札にとどめておきたい。
それが、どうして自分の術式の理解を深めるための授業になったのか。
結果オーライというべきか。
「……ままならねぇなあ」ひろしは苦笑した。
「……え?」きょとんとする白倉。
「いや、気にしないでくれ。独り言だ」
『かーちゃん、とーちゃんままいらないって!』
「うるせぇ、ここは出てくるな!」
幻影を怒鳴りつけたひろしを、白倉は不思議そうに見ていた。
ひろしは慌てて3杯目をよそった。
「野原さん、ご馳走様でした。美味しかったです」
白倉が2杯目を食べ終え、満足そうに箸を置く。
「こんなに美味しいのに、本物じゃないんですね」
「そうだなぁ……今回は味噌で代用したが、鶏ガラからしっかりとダシをとり、ごぼうやセリの風味を効かせるのが、本場の味だな」
「いつか本場のきりたんぽ鍋も食べたいです」
そういって、屈託のない笑顔を見せる。
「分かった。約束するよ」
ひろしも笑みを返した。
約束じゃない。生活だった。
同じ鍋を囲んで、同じ飯を食って、明日も同じ飯を食うために生き残る。
昨日までとは違う重さで、その言葉がひろしの胸に落ちた。
湯気の向こうに、家族の顔が浮かんで消えた。
みさえ、しんのすけ、ひまわり、シロ。
それから、橙色の世界で泣いていた少女も。
(広。いつかお前にも、食わせてやりたいな)
居場所は、まだ分からない。
それでも、そう思えること自体が、少しだけ救いだった。
地獄だ、と思う。ここは間違いなく、地獄だ。
それでも笑い合える仲間がいる。
2人だからこそ作れた昼メシに、感謝していた。
「……ありがとうな、白倉君」ぽそりと呟く。
「え?何がですか?」
「いや……ご馳走様でしたって言ったんだ」
ひろしは手を合わせた。……美味かった。
窓を塞ぐ布の向こうで、風が空き缶を転がす音が遠く鳴った。
味噌の匂いが、拠点の中にゆっくりと満ちていく。
同じ鍋を囲んでいるのに、見ている夢は違う。
それでも、2人の腹だけは、同じように満たされていた。