2018年11月6日、13時24分。
吉岡は、6日目になっても出汁を引いていた。
店は半分シャッターを下ろしたままだ。
客は来ない。それでも昆布を水に浸し、鍋を火にかけ、鰹節を落とす日々の手順だけは、手が覚えていた。止めてしまえば、何かが終わってしまう気がした。
京都の街は静かだった。人の声はない。
遠くで空き缶が転がる音がするだけだ。
電気は生きている。水も出る。ただ、誰も来ない。
店先には、客寄せに置いた鉢植えの菊が、手入れもされないまま咲いている。
向かいの八百屋の親爺が、毎朝のように愚痴を言いに来ていたのは、3日前までのことだ。
「ほんまにこの街、どないなってしもたんや」と。
吉岡は適当に相槌を打ちながら、湯のみを出してやった。
その親爺も、昨日から姿を見せない。
鍋から湯気が立ち昇る。
ことこと、と静かに煮える音。
昆布の甘い匂いが、店の中にゆっくりと満ちていく。
「……ええ匂いや」
誰に言うでもなく呟いた時、空が暗くなった。
雲ではなかった。
吉岡はシャッターの隙間から顔を出して、空を見上げる。
黒い小さな影が、無数に群れていた。それは鳥のように見えた。
(またあの、コガネとかいうやつか)
5日前、機械のような声でルールを読み上げていた。
あの気味の悪い鳥だ。あれは喋った。
この群れは、何も喋らない。
羽ばたく音もなく、降りてくる。
通りの向こうで、悲鳴が上がった。
1つではなかった。2つ、3つ。
重なって、途切れて、また別の方角から上がる。
吉岡は反射的にシャッターを下ろした。
がらがらと耳障りな音が店に響いた。
暗闇の中で鍋が煮える音だけが続いている。
隙間から通りを窺う。
向かいの八百屋の前を、何かが横切った。
店先の菊の鉢の隣を、橙色が通り過ぎていく。
咲き残った花が、人の形をして歩いているようだった。
急ぐ様子もなく、歩いている。
走る人々の流れとは逆に、悠々と。
驚くほど、静かだった。
その背後の空気が、不意に濃くなった。
黒い影が地面から滲み出し、形を持ち、駆け出していく。
吉岡は息を止めた。
シャッターの金属の向こうで、何かが砕ける音がした。
次に静寂が来た。
鍋の湯が煮立つ音だけが、最後まで店の中に残っていた。
2018年11月6日、14時02分。
坂口は、掌に小さな火を灯せるだけの泳者だった。
それでも、ここ数日で点は稼いだ。
非術師が1点、術師が5点。計算は単純だ。
弱い術師を見つけて、背後から焼く。
花を摘むようなものだ。
今日までに、術師を2人、非術師を6人。
16点。まだ足りない。
四条の通りを、橙色の男が歩いていた。
(術師、か)
坂口は電柱の影から目を細める。呪力に乱れがなかった。
荒れた街の中で、妙に整っている。
背は高い。肩幅も広い。
橙色の上着の下の身体は、無駄なく締まっていた。
端正な横顔には疲れも昂りもなく、ただ静かだった。
腰には古びた瓢箪が1つ、ぶら下がっている。
強そうには見えない。
むしろ、疲れ切った術師のようにも見えた。
男の周りには、人が倒れていた。
血は多くない。ただ倒れている。
何人かは数えるのを途中でやめた。
(先を越されたのか。……いや、横取りだ)
坂口は唇を舐める。
この男が非術師を1点ずつ拾い集めている。
なら、男を焼けば、5点に加えて溜め込んだ点まで丸ごと手に入る。
男は立ち止まり、路地を覗き込んでいた。
背中が無防備だった。
足音を殺す。掌に火を灯す。
小さな炎が、じりじりと皮膚を焦がす。
心臓の鼓動が、耳の奥で鳴っていた。
距離は10メートル。8メートル。5メートル。
男が手を振った。
振り返ってもいない。
何かを払うような、軽い動作だった。右へ、軽く。
坂口は反射的に左へ跳んだ。
その足元の影から獣の爪が生えた。
火が消えた。
掌ごと腕が肘から先を失っていた。
理解が感覚に追いつかない。
右へ振った手は、囮だった。
そう気づいた時には、男がゆっくりと振り返っていた。
表情はなかった。
凪いだ目が坂口の顔を覗き込んだ。
瞳の奥を探られている。そんな感覚があった。
何か探しているものがあるような。
数秒が永遠のように長かった。
「……違う」
男が初めて声を出した。
坂口は摘む側のつもりだった。
手折られたのは自分の方だった。
視界が暗転する。
最後に見たのは、男がもう自分を見ていない、という事実だった。
2018年11月6日、14時40分。
――大学生は、自販機の裏に隠れていた。
足音はしなかった。ただ、橙色の裾が視界の端を横切った。
水色の自販機が、音もなくひしゃげた。
男は一度も大学生の方を見なかった。
――警官は、拳銃を構えた。引き金を引いた。
男は避けなかった。足元の影が、弾を呑んだ。
男は警官の横を通り過ぎた。
肩が触れそうな距離だったのに、顔すら向けなかった。
警官が振り向こうとした刹那、顔面が抉れた。
声を上げる間もなく、警官はその場に頽れた。
――中年の女は、ブルーシートの陰に身を縮めていた。
シートが、最初に引き裂かれた。
理由は誰にも分からなかった。
男は、その向こうにいた女を見なかった。
――術師の泳者は、2級相当だと自負していた。
呪力を練り、構えた。構えたところで、全てが終わっていた。
男は、その泳者の顔を覗き込んだ。
長く、静かに。
「……違う」
――老人は、杖をついていた。
「お願いや。孫が、まだ家に」
男は足を止めなかった。
老人の横を静かに通り過ぎた。
老人の背後の影から黒い何かが這い出し、音もなく包んだ。
男は振り返らなかった。
足を止めるのは、呪力を持つ者の前だけだった。
2018年11月6日、15時10分。
加茂憲紀はビルの屋上からその光景を見ていた。
加茂家を追われて3日。
行き場を失ったまま京都の街を歩き、泳者の動きを探っていた。
そして、この異変に辿り着いた。
通りの空を黒い群れが旋回している。
鳥の形をしているだけの別のものだ。
その下の路地では影から獣のような何かが滲み出し、人を追っていた。
獣の姿は一瞬で、すぐ影に呑まれて消える。
逃げ惑う人々が、ある一点を避けるように走っていた。
いや、避けているのではない。
囲まれているのだ。
群れと影が、街区を輪のように取り巻いている。
上から見ると、それは花弁のようだった。
幾重にも重なった黒が、中心へ向かって、ゆっくりと閉じていく。
蕾に戻る花のように。
(これは……呪霊の暴走ではない!!)
加茂は眉をひそめる。呪力の配置が、整い過ぎていた。
誰かが意図して作った網だ。
輪の中心に、橙色の男がいた。
路上に倒れた人々が、風に散らされた花弁のように、男の周りに広がっている。
その中心に一輪だけ、橙色が咲いていた。
(……花園だ)
加茂はそう思った。
誰も世話をせず、誰も愛でない、死者だけが咲く禍々しい花園。
それを咲かせているのは、あの男だった。
輪郭が少しずつ見えてくる。
影から獣を呼ぶ手の動き。足元に潜る影の形。
見覚えがあった。
かつて一度、似た術式の使い手と刃を交えたことがある。
だが、あの時の相手とは、まるで別物だった。
影から呼び出される獣は、必要な牙と爪だけを、必要な一瞬だけ現した。
一切の無駄がない。
式神に対する執着が、微塵も感じられなかった。
あの術師が仲間を庇い、式神を惜しんでいた戦い方とは、何もかもが違っていた。
同じ術式の延長線上にあるはずなのに、人が使っているとは思えない、異質な冷たさがあった。
何かが加茂の記憶を引っ掻いた。既視感。
現代の誰かの動きではない。
百年や二百年では利かない、もっと古い、頁の隅に追いやられた何か。
男がまた、1人の顔を覗き込んでいる。
加茂は気づいた。
この男は、呪力を持つ者の前でだけ、足を止める。
非術師には目もくれない。
道端の石のように、淡々と処理していく。
術師だけを、1人ずつ。
覗き込んでは、何も見つけられずに去っていく。
(何を探している……!?)
それは戦いではなかった。
死を肴にした宴だった。
加茂の背中を、冷たいものが這い上がった。
(……逃げなければ)
言葉にはならなかった。
血が全身から引いていく音だけを聞いていた。
ここにいてはいけない。あれに関わってはいけない。
加茂は階段を駆け降りた。
網はすでに彼の足元まで迫っていた。
群れの壁が道を塞ぐ。
背後の影から爪のようなものが這い出してくる。
加茂は手首を裂いた。
噴き出した赤を、一点に束ねる。群れの壁に穴が開いた。
その穴に身体を滑り込ませる。
背中を、何かが掠めた。振り返らなかった。
輪の外へ出た。
2018年11月6日、17時02分。
網は確かに機能していた。
加茂より先に輪へ入った泳者は3人いたが、1人も出られなかった。
加茂が抜けられたのは、見逃されたからではない。
網を破る手段を持っていたからだ。
男は追わなかった。
目的の中に加茂はいなかった。
覗き込まれる距離まで、加茂は近づかなかった。
この日、男は数十人を殺した。
ただただ、不平等に人を殺し続けた。
男の顔は最初から最後まで同じだった。
どこまでも、静かだった。
術師の前でだけ立ち止まり、必ず相手の目を見た。
なぜそうするのかは、誰にも分からない。
見て、探して、見つからなかった時にだけ、短く呟いた。
違う、と。
非術師の命乞いには反応しなかった。
聞こえていないのではない。
意味を処理していなかった。
道端の花を避けて歩く程度の注意すら、払っていなかった。
一度だけ、男は腰の瓢箪を煽った。
酒を呷るように。
周囲に満ちた恐怖と絶望を、そのまま啜っているような顔だった。
ひどく不味いものを飲んだように顔をしかめた。
それがこの日、男が人間らしい表情を見せた唯一の瞬間だった。
宴の盃は、血と絶望で満たされていた。
男はそれを、味わいもせずに飲み干した。
殺した人間の数は、おそらく覚えていない。
殺した人間の顔も、おそらく覚えていない。
男にとっては、ただ通り道にあったものを片付けたに過ぎない。
京都の夕暮れの中を、橙色が静かに去っていく。
吉岡の店では、火にかけたままの鍋が空焚きになり、昆布の焦げた匂いが、閉ざされたシャッターの隙間から、いつまでも漏れていた。
その一角は、1日で花園になった。
誰も世話をしない、誰も愛でない、死者だけが咲く花園に。
2018年11月6日、17時48分。
加茂は、何度目かの角を曲がったところで足を止めた。
追手はいない。
包囲の外へ出たのは自分の足で、その事実は確かなはずだった。
それなのに、背後を振り返る気にはなれなかった。
壁に手をつく。指先が小さく震えていた。
血を操る術師が、自分の血の気も操れずにいる。
滑稽だと思った。笑う余裕はなかった。
目を閉じると、橙色の残像が瞼の裏に焼き付いていた。
影から現れた輪郭。
獣のようで、獣ではなかった。
交えた刃の記憶と照らしても、あれは同じ術式の使い手ではなく、同じ術式を、別の何かが使っているようだった。
そして、あの目。
何かを探し、見つからないまま次の顔へ移っていくような、あの目。
加茂は、男の痕跡を辿ろうとした。
残穢を追えば、せめてどこへ向かうのか、分かるはずだった。
何も残っていなかった。
あれだけの数の死体を積み上げた男の通った道に、残穢の欠片すら見当たらない。
足跡を意図して消している。
それは追われることを恐れているのではなく、ただ邪魔だからそうしているように思えた。
輪郭に引っ掛かっていた何かがようやく形を結ぶ。
かつて加茂家の書庫で読んだ古い記録があった。
誰も注意を払わない、頁の端の一節。
――慶■■■ ■■■■ 影より■を■ぶ。使■手は■
年号の最初の一字だけが、虫食いの中に読めた。
そこから先は、思い出せなかった。
いや、思い出さなかった。
そんなものが、今この時代に、いるはずがない。
そう自分に言い聞かせた時、別の声が脳裏をよぎった。
――そうだ、ひとつ忠告しておこう。
ここの結界に入るなら気をつけた方がいい。
あれは加減を知らないからね。
呼吸が止まった。
あの男はあの時、すでに知っていたのだ。