その少女と出会ったのは、校舎の廊下だった。
最初は、病気か何かにかかっているのかと思った。
ただ体力がないだけで、力尽きていただけだった。
男は初星学園のプロデューサー科に入学したばかりだった。
早く担当アイドルを持ちたいと考えていた。
学園にはいくつか、奇妙な噂があった。
入学試験で筆記は満点、実技は0点。
それでも学園長が、面接で合格を出した新入生がいる、と。
14歳で大学卒業という偉業を成し遂げた天才。
世界でも指折りの才能を持ちながら、全てを投げ打った。
誰も予想しなかった、アイドルの道を選んだ常識外れの少女。
そんな変わり者の担当になるつもりはなかった。
そんな問題児の面倒を見るのは、骨が折れるに決まっている。
そう決めて、廊下を歩いていた。
目の前で、細い身体がふらりと傾いた。
「…………………………………………きゅう」
男は反射で腕を伸ばしていた。驚くほど軽かった。
「おい、しっかりしろ。聞こえるか!?」
くるくる目を回しながら、ぽそぽそと呟く。
「……ちょっと……歩きすぎた、みたい」
歩きすぎた。教室1つ分も歩いていないはずだった。
保健室の先生は、ベッドに寝かされた少女を一目見て言った。
「貧血と、栄養不足と、体力切れ。命に別状はないわ。……ただ、倒れ慣れてるわね、この子」
男は言葉を失った。倒れ慣れている。
「しばらく寝かせておいてあげて。目が覚めたら、水を飲ませてね」
先生が席を外す。保健室に男と少女だけが残された。
少女は30分ほどで目を覚ました。
「ん……んん……」
ぼんやりと天井を見つめ、それから首だけ動かす。
「……あなた、プロデューサー科の、人?」
「そうだよ。ここは保健室だ。水飲むか?」
少女はゆっくり身体を起こした。
「そっか。運んでくれたんだね。ありがとう」
白い腕は、力を入れたら折れてしまいそうに細かった。
男は水の入ったコップを黙って差し出す。
少女は両手で受け取り、ちびちびと飲んだ。
「名前、聞いてもいい?」
「オレは――」
「ううん、やっぱり、いい」
少女は男の言葉を遮って、首を横に振った。
「プロデューサー、って呼ぶ、ね。そのほうが、らしいから」
男は眉を寄せた。まだ担当になると言った覚えはない。
少女は構わず続けた。
「わたしをプロデュースしてほしい」
男は噂の主が目の前の少女だと、ようやく悟った。
断る理由はいくらでもあった。
「申し訳ないが、断る。君には無理だ」
男は真っ直ぐ少女を見る。残酷な返答だった。
「君は今、教室を1つ分歩いて倒れたよな。このままステージに立ったら、1曲歌う前に救急車を呼ぶことになる。……アイドルに向いていない」
保健室に沈黙が落ちた。……言い過ぎたか。
男が謝ろうとした、その時。
少女はふふ、と嬉しそうに笑った。
「そうなんだ。わたし、そんなに向いてないんだ」
「……怒らないのか」
「つめたい目。わたしをすごく低評価してるのがわかるよ」
少女は嬉しそうに言う。男は理解が追いつかない。
「向いていない。だから、やりたいの」
少女は静かに続けた。男は黙って聞いていた。
少女にとっては、学業はどれも簡単なことばかりで、退屈だった。
何でもできて、何を褒められても、少しも嬉しくなかった。
だから、一番向いていないことに挑戦してみたかった。
上手くいかないことから得られる喜びを、知りたかった。
コップの水を舐めたあと、少女は再び持ちかける。
「おためしでいい。いやになったら、契約解除すればいい」
少女は両手を膝の上に揃えて、真っ直ぐ男を見た。
そして柔らかく微笑んだ。男は少女に見惚れていた。
少女は可憐で、美しさと儚さを同時に抱いていた。
……断る理由は、まだいくらでもあった。
それでも、その笑顔に勝てる理由は、1つも見つからなかった。
「……分かった。ただし1ヶ月。結果を出してみろ」
男がため息混じりに言うと、少女はにっこりと笑った。
「うれしい。あのね」
「わたし……アイドルにちっとも向いていないけど」
少女は小さな拳を握りしめる。
「本気で、全力で、頑張るよ」
男に向けて誓う。
男は嬉しそうに目を細めた。
レッスンは、毎日が戦いだった。
少女は歌詞も振り付けも、一目見ただけで完璧に覚えた。
ただ、身体がついてこなかった。
あまりにも体力が無さ過ぎて、通常のレッスンができない。
男の時間は、殆ど少女に費やされた。
「片足立ち、10秒」
男がストップウォッチを構える。少女は真剣な顔で右足を上げた。
「1、2、3……」
3秒で、ぐらりと揺れた。男が慌てて肩を支える。
「……3秒。新記録」
「それは記録じゃねぇよ……」
「ふふん。前は2秒だった、よ」
少女は誇らしげだった。男は頭を抱えた。
水とタオルと替えの上着は、男の鞄の定位置になった。
レッスンが終われば、すぐに少女に手渡す。
少女が汗を拭いている間に、男は汗まみれの上着を丁寧に畳んだ。
スケジュール表の無理な箇所に線を引いて書き直す。
そんな日々が続いた。
昼は食堂で、少女は決まって激辛のカレーを頼んだ。
「プロデューサーも、食べる?」
「お、いいのか?じゃあ一口だけ」
一口で、男は水を3杯飲んだ。顔が赤い。
涙が止まらない。喉が焼ける。
なんちゅうもんを食わせてくれたんや。
男が苦しむ様を見て、少女はにこにこ笑っている。
「食べて、悶絶して……流れる汗を、楽しもう」
少女は顔を真っ赤にして、滝のように汗を流しながら、嬉しそうにカレーを口に運んでいた。
男は絶対に、二度と一口もらわないと誓った。
休日の自主練習は、男が見張りについた。
プロデュースされる前の少女は、休日をひたすら回復に費やしていた。
だが基礎的な体力をつけるには、毎日少しずつでも運動を積み重ねるしかない。
「おい、立て。まだ半分も終わってないぞ」
「きゅう…………………………………………」
少女はくるくる目を回しながら力なく倒れている。
「立て、寝るな。ステージに立つんだろ」
「………………プロデューサーの鬼、悪魔」
ぽそぽそと呟くように抗議する。
それだけの体力はついてきたようだ。
「なんとでも言え。オレはお前をステージに立たせる」
「…………そういうところは、好き」
操り人形が糸に引かれるように力なく起き上がる。
「よし。片足立ち10秒、いくぞ」
男も少女も真剣だった。
男は学園と交渉し、少女の座学を免除してもらった。
少女には体力作りと無駄な動きを省くイメージトレーニングを課した。
少しずつ少しずつ、体力がついた。
片足立ちは、いつの間にか10秒を超えていた。
少女にとって、初めてのオーディションの日が来た。
歌は完璧だった。
振り付けも、一つの間違いもなかった。
審査員が目を見張るのが、舞台袖からでも分かった。
ステージの照明が滲み、少女の周りだけ現実の輪郭がほどけていく。
幻想の中を舞っているような、息を呑む美しさだった。
だが、サビの終盤で足が止まった。
少女の身体は、ふらりと傾いて、ステージの中央に膝をついた。
結果はその日の夕方に出た。
不合格。掲示板の前で、少女は黙って見つめていた。
「……落ちちゃった、ね」
男は何も言えなかった。
慰めの言葉を探したが、どれもしっくりこなかった。
「ごめん、ね」
少女がぽつりと言った。
「謝ることじゃない。お前は頑張ったよ」
「うん。……でも」
少女は掲示板から目を逸らさなかった。
華奢な肩が小さく震えている。
「うまくいかないのが、好きなはずなのに。今日は、
すごく悔しい」
男は息を呑んだ。
この少女が悔しいと口にするのを、初めて聞いた。
「ままならないって、こういうことなんだ、ね」
その声は、今にも消えてしまいそうに細かった。
男は黙って、少女の震える腕を優しく掴んだ。
「なあ、腹減ってないか?」
「……あんまり」
「オレは減った。一緒に食おう」
学園の調理室は、夜になると誰もいなかった。
男は冷蔵庫から、実家から届いたばかりの食材を出して並べた。
米と、鶏と、青い野菜とごぼう。
少女の合格祝いに使おうと、取っておいたものだった。
「オレの実家は秋田なんだ。親が毎回送ってくる」
「……秋田」
少しだけ、少女の声に明るさが戻る。
「わたしも秋田出身」
「おっ!そうだったのか〜!」
「……うん」
少女はふっと笑った。
「じゃあ、一緒にきりたんぽ鍋でも作るか!」
男は米を炊いた。炊きたてを少女に渡す。
「最初に米を潰すんだ。粒が残る程度にな」
「……こう?」
「力はいらない。軽く押すだけだ」
少女は小さな手で、熱い米を潰し始めた。
「ふふ、あつい。……こういうの、好き」
「熱いならふうふうしろ。ほら」
少女が米に息を吹きかける。真剣な顔だった。
男は思わず、笑いを噛み殺した。
棒に米を巻き付ける。少女の巻き方は、不格好だった。
米がぽろぽろと崩れ落ちる。
「あ……」
少女は申し訳なさそうに男を見る。
「失敗したっていい。何回でもやればいいさ」
男が自分の手本を見せる。
少女は真剣な目でそれを真似た。
3本目で、ようやく形になった。
きりたんぽを焼く。
じゅっ、と米の水気が弾ける音がして、表面がきつね色に染まっていく。
香ばしい匂いが調理室に広がった。
鍋に鶏ガラの出汁を張り、ごぼうとセリと鶏を入れる。
醤油を回し入れると、湯気と一緒に懐かしい匂いが立ち昇った。
焼いたきりたんぽを割り入れて、蓋をして待つ。
「七味、ある?」
「ああ、棚の上にあるよ」
少女が背伸びして手を伸ばす。
男は先に七味を取って、少し振った。
少女は不満を隠さず首を振る。
「ぜんぜん足りない」
「おいおい……入れすぎるなよ」
「ぜんぜん足りない、よ」
「せめて容器を別にするとか……」
「プロデューサーも悶絶してほしい。一緒に」
少女は譲らなかった。
男が根負けして、容器ごと渡す。
少女は躊躇なく、赤い粉をたっぷりと鍋に振りかけた。
蓋を開けると、湯気が2人の顔を白く包んだ。
「いただきます」
声が重なった。
少女は箸できりたんぽを持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけて、一口食べた。
目が、ゆっくりと見開かれた。
「……おいしい」
「おいしい、ね。プロデューサー」
にこにこと笑いながら、少女は二口目を口に運ぶ。
落選した悔しさが、湯気の向こうに溶けていくようだった。
男も、鍋を一口啜った。
鶏の旨味と、ごぼうの香りと、セリの苦味。
実家で食べ慣れた、あの味だった。
男は思わず、目を見開いた。
「……うまい」
少女が汗まみれの顔で、くすりと笑う。
目尻にたまっていたものは、きっと汗だろう。
「プロデューサーが作ると、あったかい、ね」
「お前と一緒に作ったからだよ。頑張ったな」
「…………ふふ」
少女は笑いながら、お椀をそっと両手で包んだ。
「……プロデューサー」
「ん?何だ」
「おためし契約。もう少し延ばしても、いい?」
男は箸を止めた。
少女の目は、期待と不安が半分ずつ混ざって、小さく揺れていた。
男は、ゆっくりと笑った。
「……最初からお試しなんてない。本契約だよ」
少女は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、女神を彷彿とさせる美しさだった。
湯気が、2人の間をふわりと満たした。
少女の笑い声と、男の笑い声が、調理室の夜に溶けていく。
――視界が白く滲んでいった。
2018年11月7日、6時12分。
ひろしは目を覚ました。
窓を塞ぐ厚手の布の隙間から、朝の光が細く床を這っている。
白倉の拠点の天井。
見慣れた雑居ビルの、見慣れた匂い。
頬が濡れていた。
ひろしは慌てて手の甲で拭う。
何の夢だったか思い出そうとした。
……思い出せない。
オレは誰かと、何かを頑張っていた。
それだけは、はっきりと胸に残っている。
手のひらに、何かひどく軽いものを支えた感触が残っていた。
「おはようございます、野原さん」
サングラスを外した白倉が、畳んだ布を机に並べながら顔を向けた。
「ごめんな白倉君。オレ、うるさかったよな?」
「いえ、うなされていませんでしたよ。むしろ、笑っていました」
「……笑ってた?」
「はい。いい夢でも、見ましたか?」
ひろしは少し考えてから答えた。
「ああ。……いい夢だった、気がする」
「そうでしたか。……どんな夢です?」
「……忘れちまったよ」
苦笑いして、ひろしは身体を起こした。
癖で、出口を数える。
非常階段と、窓の外の室外機伝いの足場。逃げ道は2つ。
いつも通りの死滅回游の朝だった。
それでも、胸の奥だけが妙に温かい。
誰かと過ごした、苦しくて、ままならない日々。
ひろしの人生のどこを探しても、そんな日々は存在しなかった。
それなのに、その温もりだけが、確かに残っていた。
ひろしは布団代わりの上着を、丁寧に畳み始めた。
「……野原さん、几帳面ですね」
「ああ。みさえ……嫁にうるさく言われてるからな」
指先が勝手に動いていた。
忘れてしまったはずの何かを、身体だけが覚えていた。