2018年11月11日、10時41分。東京第2結界。
――脆すぎる。土塊の質が、あまりにも悪い。
パリッと乾いた音が空間に響く。
崩れた石壁を背にして、腹に大きな風穴を空けた男がぐったりと座り込んでいた。
その下方。膝まで水に浸かる浅瀬の中で、薄い緑の髪を逆立てた男――
ぽんっ、と軽い音が鳴って、傍らにコガネが現れた。尻尾はハート形、鼻は細長い。
「5点が追加されました」
抑揚のない声だった。
水面に浸かった姿勢のまま、鹿紫雲は険しい表情を変えず、吐き捨てるように言い放つ。
「ったりめぇだろ 殺したんだから」
「どいつもこいつも貧弱過ぎる。400年前の方が幾分ましだった」
親指の爪を噛み、不満を露わにする。
「何処にいる 宿儺…!!」
轟くような声音には、400年分の乾きがあった。
雷鳴にも似た音が止み、焦げた匂いだけが残った。
ざぶざぶと音を鳴らしながら鹿紫雲は動かない男に背を向け、次の泳者を探そうとしていた。
「得点が200を超えました」
「100点を消費して、死滅回游にルールを追加しますか?」
鹿紫雲はコガネを見た。
「そうか、ルール……」
口に出しながら、鹿紫雲はわずかに目を細める。
「名前と、強さを測る基準として得点」
「あぁ、ルールを追加すると減っちまうか」
一瞬考え込む。使い道を誤るつもりはなかった。
「じゃあルールの追加回数もだな」
泳者が得点を使ってしまうと、強さを測る基準が機能しない。
それでは意味がない。
「それからどこの結界にいるか」
点在する泳者を探し回るのは性に合わない。
向こうから来るのを待つ気もなかった。
鹿紫雲は不敵な笑みを浮かべ、口を開く。
「コガネ、ルール追加。全泳者の情報を開示させろ」
2018年11月11日、10時42分。東京第1結界。
窓を塞ぐ厚手の布の隙間から、冬の手前の細い光が床へ落ちていた。
ひろしは壁際で膝を立て、指を折っていた。
11日。広が言った13日まで、あと2日。
だが期限はもう1つある。
総則8、参加または点取得から19日。
11月1日に泳者となった自分なら、術式を剥奪されるのは11月19日だ。
残りは8日。
(点は、ゼロ。誰も殺してない)
殺すつもりもなかった。
ただ、期限は待ってくれない。
ひろしは拳を握った。
向かいでは、白倉が昨日の戦いで裂けた袖を縫い直している。
呪布操術ではなく、ただの針と糸だった。
几帳面な手つきを眺めていると、焦りが少しだけ遠のく。
「野原さん、今日の予定ですが」
「ああ。まずは物資の――」
ぽんっ。気の抜けた音がして、ひろしの目の前の空気が弾けた。
反射で身体が動いた。拳に呪力が走る。
だが、振り抜く前に手が止まった。
天使の羽根。悪魔のような尻尾。
虫のような丸い胴体。
腹のあたりには、小さな画面が嵌まっている。
コガネだった。
ほとんど同時に、ぽんっ、
と白倉の前にも1体が現れる。
白倉は針を持ったまま、固まっていた。
「……初日の、あれですね」
「ああ。……あの日以来、見てなかったんだがな」
ひろしの前に浮かぶ個体は、尻尾の先がくるんと丸まっている。
白倉の前の個体は、尻尾がぴんと尖っていた。
同じ式神でも、姿形が微妙に違う。
「リンゴン!リンゴン!リンゴーン!!」
2体の腹の画面が、同時に光った。
「泳者による死滅回游へのルール追加が行われました!!」
コガネの声が重なる。やけに声が大きい。
(ルール追加……総則6のやつか)
100点を払えば、総則を1つ足せる。
誰かが本当にやったのだ。
「〈総則〉9、泳者は他泳者の情報、“名前”“得点”“ルール追加回数”“滞留結界”を参照できる」
声が途切れる。
腹の画面に、縦長の一覧が浮かび上がった。
『泳者一覧』の文字。
その下に1人1枠で、笑った顔の絵、名前、得点、変更、滞留結界が、びっしりと並んでいる。
「ほいよ、これで通知は終いでい」
ひろしの前のコガネが、がらりと調子を変えた。
「……お前さん、さっきと声が違わねえか」
「全体放送は台本読みでい。個人対応は素でいかせてもらうぜ、オッサン」
「オッサンって言うな。……声を落とせ。外に聞こえる」
「へいへい。心配性だねぇ」
白倉の前のコガネは、対照的に背筋を伸ばして浮かんでいた。
「白倉様。総則9の施行に伴い、泳者一覧の閲覧機能をご案内いたします。ご不明な点がございましたら、お申し付けくださいませ」
「あ……ご丁寧にありがとうございます」
白倉が思わず頭を下げる。
「決まりでございますので」
ひろしは両方を見比べた。
「おいおい。同じ式神だよな。なんでこうも違う」
「個体差でい。人間にも真面目なのと不真面目なのがいるだろ」
「自覚はあるのかよ」
「ありまくりよ」
不思議と腹は立たなかった。
営業先の新人研修で、こういうタイプはよく見た。
「そういやお前、今まで1度も出てこなかったよな」
「おいらが出るなぁ、点が入った時と、お上からお達しがある時だけでい」
「あんたは点がゼロだろ?出る幕がねえのよ」
「……ずっと傍にはいたのか」
「見張りも仕事のうちでい」
ひろしは顔をしかめた。
覗き見されていたようで、気分は良くない。
「並びは? 五十音でも得点順でもなさそうだが」
「ランダムでい。ソートなんて気の利いたもんはねえから、手作業でやんな」
「並びに規則性はございません。1枠ずつのご確認となります。恐れ入ります」
「そっちのコガネも同じ答えか。……なあ、ついでに聞きたいんだが」
「恐れ入ります。私は白倉様に憑いておりますので、野原様のご依頼はお受けできません」
「ありゃ、振られたな、オッサン」
「……そういうもんなのか」
「窓口ってなぁそういうもんでい。おいらはあんたの、そっちは白倉の旦那の専属よ」
ひろしはため息をついて、自分の画面に指を伸ばした。触れると一覧がすっと上へ流れる。
最初に探したのは、自分の名前ではなかった。
野原。その2文字だった。
指で送る。名前が流れる。
数百の名が、ただの文字の列になっていく。
指が震えて、1枠飛ばしたかもしれない。
頭まで戻って、最初から送り直した。
途中で自分の名前に行き当たった。野原ひろし。
得点000、変更00回、滞留結界、東京第1。
止まらず送り続ける。
野原みさえ。野原しんのすけ。野原ひまわり。
1文字ずつ頭に並べながら画面を追った。
名前の横の絵は、笑った顔のものと、ドクロのものがある。
ドクロの枠は、もう死んだ泳者のものだ。
そちらも1つ残らず読んだ。
3周目で、指が止まった。
ない。
野原の姓は、自分を含めて3人だけだった。
野原将司、野原健一。どちらも知らない人だ。
非泳者でも、結界に踏み込めば泳者になる。
術式に目覚めても、泳者になる。
名前がないということは、家族はそのどちらにも当てはまらない。
この殺し合いの外にいる。
(……よかった)
膝から力が抜けた。
壁にもたれて、そのまま座り込む。
喉の奥から、息とも声ともつかないものが漏れた。
目頭が熱い。拳で押さえても止まらなかった。
この10日間、家族の顔を何度思い浮かべたか分からない。
結界の外で何かに巻き込まれていないか。
確かめる手段は何もなかった。
通じない携帯を握りしめて、それでも考えずにいられなかった。
一覧に名前がない。
それだけのことが、こんなにも。
みさえは今朝も台所に立っているかもしれない。
しんのすけはまだ布団の中でぐずっているかもしれない。
ひまわりも、シロも。
(生きてる。生きていてくれてる)
胸の底に溜まっていた重いものが、少しだけ流れていった。
「オッサン、泣いてんのか?」
「泣いてねえ」
「ちり紙出してやろうか?ねえけど」
「ねえなら聞くなよ」
ひろしのコガネは茶化すように揺れて、それきり黙った。
白倉は画面から目を離さず、ひろしが顔を上げるまで待っていた。
白倉のコガネも、静かに浮かんだままだった。
「……悪い。家族の名前がなかった」
「そうでしたか。……よかったです」
「ああ。よかった」
ひろしは袖で顔を拭って立ち上がった。目は赤い。
それでも、さっきまでとは違う目をしていた。
守るべきものが無事な場所にあるなら、帰る場所もまだある。
感傷に浸るのは終わり。仕切り直しだ。
「続けよう。ここからが大事だ」
五条悟、日下部篤也、九十九由基、夜蛾正道、七海建人、家入硝子、冥冥、憂憂、庵歌姫、秤金次、星綺羅羅、乙骨憂太、狗巻棘、禪院真希、パンダ、虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇、楽巌寺嘉伸、加茂憲紀、東堂葵、メカ丸、西宮桃、三輪霞、禪院真依、新田新。
知っている術師を順に探していった。
最後まで送り、最初に戻って、もう1度見た。
載っていた高専の名は、2つだけだった。
1つは、虎杖悠仁。
笑った顔の絵。得点000。変更00回。
そして、滞留結界の欄だけが、空白だった。
(虎杖……!)
笑った顔だ。ドクロではない。生きている。
ひろしは画面の前で動けなくなった。
「宿儺の器」東京校1年、虎杖悠仁。
高専でその名を知らない者はいない。
ひろしも悠仁のことはよく知っている。
明るくて優しくて素直で前向きで、他人のためなら平気で自分を後回しにする。
そういう奴だ。
(虎杖……生きててくれて、ありがとうな)
声にはならなかった。
新宿で誰も来なかったこの10日間、高専の仲間たちがどうなったのか、考えないようにしてきた。
その1人が、少なくとも生きている。
それだけで視界が滲んだ。
もう1つの名は、加茂憲紀だった。
得点000。変更00回。滞留結界、京都。
呪術御三家、加茂家の術師で、京都校の3年生。
赤血操術の使い手で、準一級呪術師。
(加茂……京都校の。生きてたのか!)
こちらも笑った顔の絵だった。得点はゼロ。
ひろしと同じように、10日を生き延びて、誰も殺していない。
だが、滞留している結界は京都だ。
結界の外へは出られない。
東京と京都では、会いようがない。
胸の内に名前だけをしまって、ひろしは虎杖の枠へ視線を戻した。
すぐに別の疑問が喉を塞いだ。
(待て。なんで虎杖だけ、結界の欄が空なんだ?)
「……野原さん?」
険しい顔をするひろしを気遣うように話しかける。
「……高専の生徒が載ってる。虎杖悠仁。結界には入ってないのに、なぜか載ってるんだ」
「入っていないのに、ですか。泳者になる条件を満たしていないのに、なぜでしょう?」
「ああ。結界の欄が空ってことは、今はどの結界にもいないってことだろ。たぶん」
ひろしは顎に手を当て、目を閉じた。
数字が合わない時は、まず前提を疑う。
営業で何度も叩き込まれた手順だった。
前提は、載っているのが虎杖本人だということ。
ならばそれを疑う。
本人が条件を満たしていないのに、なぜか泳者としては数えられている。
それなら数えられているのは、本当に虎杖なのか。
(……虎杖の中には、もう1人いる)
悠仁という檻の中に棲む、呪いの王。
史上最強の術師、両面宿儺。
「おい、コガネ。虎杖の枠だけ、なんで結界の欄が空なんだ」
「さあね。おいらは窓口だ。お上の台所事情までは知らねえよ」
「……そうか」
分からない。確証もない。
だが、他に筋の通る説明が浮かばなかった。
「白倉君。たぶん、虎杖の中にいる奴が、泳者として数えられてる」
「中にいる、というのは……?」
「宿儺っていうめちゃくちゃ強い術師だ。悠仁の身体には、そいつが棲みついてるんだよ」
白倉は驚きを隠せず、深く聞きたそうにしている。
それでも今はひろしの話を優先した。
「……その宿儺が、死滅回游の参加者だと?」
「かもしれない、って話だ。虎杖自身は、おそらく何も知らない。死滅回游に巻き込まれてる」
白倉は黙って頷いた。
ひろしは、自分の言葉をもう1度なぞった。
(……中にいる奴が、数えられてる)
その時、背筋に別の寒気が走った。
(待てよ。オレは、どうだった)
初日。術式に目覚めるより前に、コガネはオレの名を呼んだ。「泳者・野原ひろし」と。
あの時、オレはただ新宿の路上にいただけだ。
結界に踏み込んだ覚えもない。
術式はないと、自分でも思っていた。
もし虎杖と同じなのだとしたら。
オレの中にも人がいる。
(……広)
夢の中の少女。
「ひろしは術式に目覚めている」
「13日まで生き延びて」「19日以内に点を獲って」
そして肝心なところで掻き消された声。
(広は、オレの中にいるのか?)
馬鹿な、と首を振った。疑念は振り払えなかった。
(……いいや、逆かもしれない)
「探さなくていい」と広は言った。
居場所を言えないのではなく、探すこと自体が無駄だと。
それが、探す先がこの世の外側にないという意味だったなら。
分からないことが、増えるばかりだ。
オレの術式は何なのか。広は何者なのか。
オレは、なぜ最初から泳者だったのか。
1つ解けるたび、2つ増える。
「野原さん、顔色が」
「……なんでもない。考えがまとまらねえだけだ」
ひろしは息を吐いて、画面に視線を戻した。
五条の名がないことが、喉に刺さった。
あの男なら、初日に突っ込んでくるはずだった。
それが10日経っても来ていない。
それが何を意味するのか、ひろしは考えないことにした。
考えたら、足が止まる。
(広は、13日まで生き延びてと言った)
「白倉君。13日の話、覚えてるよな」
「はい。野原さんに教えてくれた人が、言っていたという」
「あれは、加勢が来るって意味だと思う。13日までに、高専の誰かが結界に入ってくる」
広の名は出さなかった。白倉も聞かなかった。
画面で「広」の字も探した。
広瀬、広田、広志。
それらしい名前はあっても、あの少女だと言い切れるものはない。
顔も歳も載っていない。
載っていたとしても、それが広だと分かる手がかりはない。
(……見つからない、か)
首を振って、画面を送った。
そこで手が凍りついた。
レジィ・スター。滞留結界、東京第1。
得点は41点。同じ結界にいる。
向こうからも、こちらの名前が見えている。
狩人の目に睨まれた感覚を思い出す。身震いした。
「野原さん?」
ひろしの異常を察した白倉が心配そうに見る。
「レジィ。オレが白倉君に出会う前に殺されかけた相手の名前だ。コイツに会ったら即逃げるぞ、白倉君」
「……はい。戦わず、すぐに逃げます」
ひろしは息を整え、同じ東京第1の名を拾っていった。
麗美もいた。
今もレジィのために、身を粉にして点を連れて来ているのだろう。
レジィはその献身に、報いてくれるのだろうか。
そう考えながら、ひろしの目が留まった。
得点は、102。
「102点……?しかも同じ結界か」
術師なら20人分と少し。非術師なら102人分。
レジィの数字を軽々と飛び越えている。
(ひぐるま……ひろみ。見覚えがある。)
珍しい名前だ。おそらく予想は当たっている。
強盗殺人事件の弁護を担当していた弁護士だった。
一審では無罪を勝ち取っていた。
だが、被告の犯行と決めてかかる世論は日車をバッシングしていた。
センセーショナルな報道で顔まで公開されていた。
有能そうだが、同時に不器用な人柄だろうなと勝手に解釈していた。
だが、悪人には見えなかった。
そんな男が、3桁の点を抱えている。
しかも変更は00回。
102点を持ちながら、まだ使っていない。
「白倉君。東京第1、日車寛見。この名前を覚えといてくれ」
「はい。にしても……すごい得点の泳者ですね」
「ああ。レジィ一派より厄介かもしれん。……なんとなくだが」
勘だった。営業で、数字より先に匂いで察した客は、大抵当たっていた。
「コガネ。100点以上の泳者だけ絞って出せるか」
「あいよ。あんたの頼みなら、聞くぜ」
画面の一覧が切り替わった。
3つの枠だけが残る。
「……3人か」
「出たぜ。顔が面白えオッサンへの、特別サービスでい」
「うるせぇ!顔は関係ないだろ!」
白倉が横から、ひろしの画面を覗き込んだ。
日車の枠の下に、2つの名前が並んでいた。
鹿紫雲一。得点100。変更01回。滞留結界、東京第2。
「かしも……はじめ?」
「100点を使って、まだ100点残ってる」
ひろしは声を落とした。
「最低でも、200点はあったことになる」
「200……」
白倉が息を呑む。
術師なら40人、非術師なら200人。
それを10日足らずで。
ひろしは、数字から目を逸らした。
「白倉君。200点稼げる奴が、100点を払ってまでしたことは何だ?」
「……泳者の詳細な情報開示です。」
「それだけ稼げるなら、使い道はいくらでもあったはずだ。それを手放して、全員の名簿を作らせた」
ひろしは顎に手を当てた。
「営業でもな、探してる客がいる時は、まず台帳を作る。全員の名前を並べて、そこにいるかを確かめる」
「……こいつは、誰かを探してるんじゃないか?」
「家族を探してるとか……でしょうか?」
「……オレの見立てでは、たぶん強い奴を探してる」
探しても見つからない相手を探している。
その気持ちだけは、嫌でも分かる。
もう1枠。鹿紫雲より上の数字を持つ名があった。
「はなぞの、しずか……」
2人は息を呑んだ。
261。他泳者に比べて、明らかに異常な点数。
非術師を1人ずつ積んだにしても、術師を何十人も狩ったにしても。
まともな稼ぎ方ではない。
「……京都の泳者ですね」
「ああ。ここからは遠い。だが、気になる」
(京都……加茂と、同じ結界か)
ひろしの背中を、嫌な汗が伝った。
鹿紫雲と靜。点数も結界も違う2人。
それなのに、同じ匂いがした。
2018年11月11日、10時42分。京都結界。
加茂憲紀は、廃ビルの非常階段に腰を下ろしていた。
加茂家を追われて8日。
5日前に裂いた手首の傷は、とうに塞がっている。
それでも橙色の残像だけは、瞼の裏から消えてくれなかった。
ぽんっ、と小さな音がして、目の前にコガネが現れた。
尻尾の先が二股に割れた個体だった。
「リンゴン!リンゴン!リンゴーン!!」
「泳者による死滅回游へのルール追加が行われました!!」
「〈総則〉9、泳者は他泳者の情報、“名前”“得点”“ルール追加回数”“滞留結界”を参照できる」
腹の画面に、名簿が浮かび上がった。
(ルール追加。……誰かが、100点を払ったのか)
加茂は画面に指を伸ばした。
飛ばさず、1枠ずつ送る。高専の者の名を探した。
見つかったのは、2つだけだった。
1つは、虎杖悠仁。笑った顔の絵。得点000。
滞留結界の欄だけが、空白になっている。
(宿儺の器が、なぜ泳者として数えられている)
答えは出なかった。出ないまま、次へ進んだ。
もう1つが、野原ひろしだった。
得点000。変更00回。滞留結界、東京第1。
(野原ひろし。準一級術師……)
術式を持たず、体術だけでその位置にいる男だと聞いている。
顔は知らない。だが、名は知っていた。
絵はドクロではない。笑っている。
(10日経って、点がゼロ。誰も殺していないのか)
その数字が、どういう男なのかを語っていた。
加茂は小さく息を吐いた。
強張っていた肩から、わずかに力が抜けた。
この結界の中にも外にも、味方はいないと思っていた。
(東京に、高専の人間が居る)
さらに画面を送る指が、止まった。
花園靜。得点261。変更00回。滞留結界、京都。
あの日、輪の中で見た死体の数。
覗き込んでは「違う」と呟いた男。
名も顔も知らなかった橙色の男が、数字を伴って画面の中にいた。
確かめる術はない。
だが、他に当てはまる名がなかった。
(……花園、か)
あの光景に自分が付けた名と、同じだった。
笑う気にはならなかった。
2018年11月11日、10時42分。京都結界。
花園靜が空を睨んだ。
ぽんっ、と小さな音がして、頭上にコガネが現れた。
何も言わない。点が入った時でさえ、この個体は声を出さなかった。
花園が空を睨む時にだけ、黙って姿を見せる。
頭には橙色の花輪が乗っていた。
腹の画面が、無言で一覧を映した。
青白い光が顔を照らす。不愉快で目を細めた。
名前の1つ1つを、覗き込むように。
ゆっくり、静かに、最後の枠まで。
数百の名。どれも違った。
探しているものは、どの枠にもなかった。
男は画面から目を離して、虚空を見上げた。
短く呟いた。
「……違う」
この一覧を欲しがった男が、東京にいる。
変更の欄が01回になっていたのは、あの男だけだ。
点を使ってまで一覧を作ったのなら、あの男は何かを掴んでいる。
東京には、何かがある。
花園は静かに口を開いた。
2018年11月11日、10時51分。
「リンゴン!リンゴン!リンゴーン!」
ひろしと白倉の目の前で、コガネが同時に鳴った。
2人は驚き、顔を上げる。
「泳者による死滅回游へのルール追加が行われました!!」
「〈総則〉10、泳者は各結界間を自由に移動できる」
ひろしは慌てて画面を送った。
花園靜。261が、161に。00回が、01回に。
(……判断が早ぇ)
背中を汗が伝った。
一覧が出てから、まだ10分も経っていない。
見て、決めて、100点を払う。迷いが一切ない。
そして望んだのは、結界内の移動。怖気がした。
「ひゃあ、早えな。この御仁、迷う間がゼロだぜ」
「感想それだけかよ!けっこう重要なルールだぞ!」
「100点をポンと払える奴は、ちょいと怖えよ」
「白倉様。結界の外へは出られません。出入りではなく、結界から結界への移動のみが可能となります」
「白倉君のコガネは、補足が丁寧でいいな。……お前は少し見習え」
「見習ったら、オッサンつまんなくなっちまうだろ」
ひろしは眉間を押さえた。
「結界の外へは出られないんですね」
白倉が確認する。
「ああ。結界から結界への移動だけだ。意味は分かるな?」
「京都の花園靜が、他の結界へ来られるようになった」
「……そうだ。人の集まる東京へ来る可能性が高い」
鹿紫雲は人を探すために一覧を作った。
靜は、そこで見つからなかったから、探しに行けるようにした。
……もちろん確証はない。
ただ、探している奴が名簿に目当てを見つけられなかった時、すぐに動きたくなる気持ちは分かる。
「僕たちにとっては、怖い話ですね」
「怖い。だが」
ひろしは拳を開いた。
「このルールはオレ達も利用出来る」
東京第1にいる自分たちも、他の結界へ行ける。
「虎杖を除けば、一覧に載ってる高専の人間は、京都の加茂憲紀だけだ」
「13日までに加勢が来るなら、他の連中も必ずどこかの結界に入ってくる。入れば滞留結界の欄が埋まる」
「名前を見つけたらそこへ向かう、ですね」
「そうだ。一覧は見張る。動けるようにもなった」
ひろしは少し間を置いた。
「それでな。13日までに高専の誰とも会えなかったら、京都へ行く。加茂憲紀に会いに」
「……その方は?」
「呪術界の名門、御三家のひとつ、加茂家。次期当主とされる加茂憲紀だ。京都校の3年生で、オレよりも強い。頼りになる」
「京都というと……花園靜と同じ結界ですよね」
「ああ。だからこれは最後の手だ。あいつは強いとはいえ、まだ学生だ。1人であそこには置いとけない」
白倉は少し考えてから、頷いた。
「分かりました。その時は、僕も行きます」
「……ありがとうな。ただし、先に動いてくれるなら話は早い。加茂の欄が書き換わったら、そこが合流地点だ」
花園に感謝する気にはなれなかった。
感謝するには、あの数字が重すぎた。
ひろしはリュックを引き寄せた。
「物資を詰めなおす。逃げ道も、行き先ごとに洗いなおす」
「それから白倉君、高専のことをもう少し教える」
「信用できる奴と、そうでない奴と、癖の強い奴」
「はい!お願いします」白倉は深く頭を下げた。
「だから、そこまでしなくていい……」
少しだけ空気が緩む。窓の布の向こうで、風が空き缶を転がした。
2018年11月11日、10時51分。京都結界。
「リンゴン!リンゴン!リンゴーン!」
「泳者による死滅回游へのルール追加が行われました!!」
「〈総則〉10、泳者は、各結界間を自由に移動できる」
加茂は画面を送り、花園靜の欄を確かめた。
261が、161。00回が、01回。
(……あの男が、使った)
背筋を冷たいものが這った。
名簿を見て、決めて、100点を払う。迷いが一切ない。
そして、あの日の声が耳の奥で蘇った。
『ここの結界に入るなら気をつけた方がいい。』
あの忠告は、京都結界に入る者に向けたものだった。
出る道が、たった今できた。
花園靜がどこへ向かうかは分からない。
それなら、高専の人間がいる場所へ向かう方がいい。
「……逃げるのではない」
誰に言うでもなく呟いた。合流だ。
加茂家の名は、生き延びて初めて意味を持つ。
動くのは、日が落ちてからだ。橙色の男は、昼の街を歩く。
それまでに、少しでも血を戻しておく。
加茂は壁に預けていた背を離し、立ち上がった。
2018年11月11日、11時38分。
2体のコガネは、ひろしと白倉の傍らを漂っていた。
腹の画面の光は、まだ消えていない。
探し人のいる強者が、2人。
1人は点を手放して名簿を作った。
1人は点を手放して道を作った。
どちらも、まだ何も見つけていない。
(オレも、そうだ)
ひろしは「広」の字を、もう1度だけ探した。
やはりなかった。それ以上は探さなかった。
(諦めたわけじゃねぇ)
もう1度だけ、野原の姓を探した。
やはり、家族の名前はない。
それが今は、たまらなく嬉しかった。
それから、加茂の枠を開いた。
滞留結界、京都。まだ書き変わっていない。
最後に、虎杖の枠に目を戻した。
笑った顔の絵が、名簿の中で小さく光っている。
(加茂、虎杖、……生きててくれて、ありがとな)
向かいで、白倉が縫いかけの袖をそっと置いた。
「白倉君」
「はい」
「ありがとうな」
今度は、誤魔化さなかった。
「1人だったら、今日の名簿は、見られなかった。隣にいてくれて助かってるよ」
白倉はふっと表情をほどいた。
「こちらこそです、野原さん」
ひろしはリュックの紐を強く締めた。
13日まで、あと2日。
画面の中で、笑った顔の絵が小さく光っていた。
2018年11月11日、12時05分。仙台結界。
三輪霞と日下部篤也は、乙骨憂太が仙台結界の平定に動き出す前に、結界へ足を踏み入れていた。