2018年11月11日、12時05分。仙台結界。
「よぉ 俺はコガネ!!」
「この結界では死滅回游っていう殺し合いのゲームが開催中だ!」
「一度足を踏み入れたらオマエも泳者!!」
「それでもオマエは結界に入るのかい!?」
短く逆立った茶褐色の髪に、細い目と深いほうれい線が特徴的な男が、面倒そうにコガネを眺める。
青みがかった水色の髪をまっすぐ伸ばした少女が、緊張を隠せない面持ちで、コガネを見つめる。
少女が口を開きかけた。男が止める。
少女が男を見ると、男は険しい顔で口を開いた。
「嫌な予感がする。黙って入るぞ」
結界の境目を越えた瞬間、耳の奥で気圧が変わった。
重い。呪力が澱んで、肌に貼り付いてくる。
三輪霞は小さく息を呑み、日下部篤也の背中に続いた。
仙台駅前のロータリーには、バスが停まったままだった。
ドアは開いていて、乗客も運転手もいない。
風に煽られた路線図のチラシが、アスファルトの上を滑っていく。
ぽんっ、と軽い音がして、2人の頭上に2匹のコガネが浮かんだ。
「日下部篤也が死滅回游へ参加しました」
「三輪霞が死滅回游へ参加しました」
抑揚のない声に、びくっと三輪の肩が跳ねる。
日下部はため息を吐いて、コガネから目を切った。
「ルールを参照しますか?」
2匹のコガネの声が重なる。
「い……いえ、お構いなく……」
律儀に応える三輪に、日下部は呆れ気味に言った。
「聞いてた通り、うす気味悪い鳥だ。……出るなよ。俺の後ろから一歩も」
低い声だった。命令に近い。
三輪は「はい」と短く答え、半歩下がって、日下部の影の中に収まった。
直後、倒れた自転車の山が崩れた。
這い出してきたのは、四つ足の呪霊だった。
犬に似ているが、顔のあるべき場所には裂けた口しかない。
1匹、2匹、3匹。
涎を引きながら、低い姿勢で駆けてくる。
日下部の右手がわずかに動いた。
「シン・陰流『抜刀』」
刀身を呪力で覆い、鞘の中で加速させる。
抜刀の音は、ほとんど聞こえなかった。
先頭の1匹が胴から断たれ、煙となって散る。
続く1匹も、牙を剥いた姿勢のまま動きを止めた。
一拍遅れて、その体が斜めにずれ、崩れ落ちる。
2匹とも、日下部に触れることさえできなかった。
三輪は拳を握りしめたまま、動けなかった。
視界のほとんどを、日下部の背中が占めている。
「右から来る」
短い指示に、体が先に反応した。左へ寄る。
さっきまで頭のあった場所を、3匹目の爪が通り過ぎた。
日下部は振り返らず、肘を引いて、その喉元に白刃を突き込む。
斬り伏せながら、日下部は肩越しに一度だけ視線を寄越した。
三輪の位置を確かめて、また前を向く。
三輪がそれに気づいたのは、3度目だった。
ロータリーが静かになる。
日下部は刃を振ってから納刀し、袖で額を拭った。
違和感。日下部の視線がふと上へ向いた。
空を何かが横切った。
遠すぎて形は判然としないが、翼のある影が一羽、緩やかな弧を描いている。
それとは別に、地上のビルの陰を、巨大なものがゆっくりと動いている気配があった。
二つの軌跡が交差した点で、一瞬、空気が歪んだように見える。
日下部は瞬きひとつせずにそれを追った。
やがて、苦々しく呟く。
「……絶対に行くなよ、あの方向」
「え?」三輪はきょとんとしている。
「北だ。今はまだ南寄りを進む。俺の後ろを一歩も外れるな」
三輪は空を見上げたが、もう何も見えなかった。
日下部だけが、残像のようなものを頭の中に留めていた。
2018年11月11日、13時48分。
駅から離れるほど、街は壊れ方を変えていった。
割れたガラス、横倒しの原付、ひしゃげた郵便ポスト。
人だけが、どこにもいない。
三輪は上着のポケットから、4つ折りの紙を出した。
庵歌姫の字で、住所が書いてある。
「日下部さん、この道で――」
「合ってる。見せなくていい。3回は聞いた」
「……すみません」
「住所よりも周りを見ろ。何か見つけたら言え」
三輪は紙を畳み直した。折り目の角が、指先に当たる。
メカ丸……与幸吉君の両親の居場所を教えてくれたのは、歌姫先生だった。
歌姫先生は五条悟に頼まれて内通者を調べていた。
その過程で、メカ丸の家族に行き当たったのだという。
「場所は仙台。ご両親は、非術師よ」
高専の面談室で、歌姫は湯呑みを置いたまま言った。
「メカ丸は、自分はもう死んだと両親に伝えるよう、高専に頼んでいたの」
「ご両親は、息子が生きていたことも知らない」
「……今さら自分の訃報が届くことを、本人は望んでいないと思う」
声は穏やかだった。
止めようとしているのではなく、諭そうとしている声だった。
三輪は膝の上で、制服の裾を握った。
「それでも、メカ丸が生きてたことを、どうやって生きて、どんなに頑張ったか……」
両の拳を握り締める。
「……私の口から、伝えたいんです」
歌姫はしばらく三輪を見ていた。
それから紙に住所を書いて渡した。
「行きなさい、とは言わない。それは、あなたが決めるのよ」
行くと決めたのは、三輪だった。
住宅街の角で、日下部が片手を上げた。
三輪は足を止める。
壁際に身を寄せて、角の先を覗き込んでから、日下部は手で招いた。
三輪が追いつくまで、そこを動かない。
(日下部さんは、昨日からずっとそうだ)
仙台へ行くと打ち明けた日のことを、三輪は思い出す。
「馬鹿を言え」
返事は、聞き終わる前に返ってきた。
「死滅回游の結界だぞ。呪霊も泳者もうじゃうじゃいる」
「刀を振れないオマエ1人で何ができる」
「でも」
「ただ知らせを届けるだけなら、他の奴に頼めばいい。わざわざオマエが行く必要はない」
日下部の言うことは正論だった。
強い泳者に当たれば、自分は足手まといになる。
分かっていて、唇を噛んだ。
それでも頷けなかった。
「何もできなかったんです。与くんが生きてた間も、死んだあとも。だから、せめて、これだけは」
袖で拭っても、涙は止まらなかった。
日下部は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
説得の言葉を探している顔だった。
やがて、その視線が三輪から少しだけ外れる。
……三輪の泣き顔は、妹と似ていた。
「……ったく」
大きなため息のあと、日下部は肩を落とした。
涙で濡れた三輪の瞳に希望が灯る。
「近いうちに乙骨が仙台に入る。それまでは守ってやる」
「はい! 頼りにしてます、日下部さん!!」
「俺を頼るな。乙骨を頼れ、乙骨を」
乙骨は仙台結界全体を相手にする男だ。
結界に入る前に休ませている。
三輪の用事に付き合わせる余裕はない、と日下部は言った。
乙骨が本腰を入れる前に、先に入って情報を得ておく。
あくまでついでだ、とも言った。
出発の前に、日下部は歌姫のところへ寄った。
「乙骨に伝えとけ。結界の北端寄りで落ち合う」
「結界の……北端寄り?」
「ああ。おそらくそこら辺は比較的安全だ」
「行ってもいないのにどうして分かるのよ?」
歌姫の問いに日下部は気怠げに答える。
「分かるさ。俺は絶対に死にたくねーからな」
日下部はポケットに手を突っ込んだまま続ける。
「強い術師ってのはな、まず“目立つ場所”と“拠点になりやすい場所”を取る傾向がある」
「旧仙台藩刑場跡や泉中央駅なんかは血気盛んな奴が集まりそうだ。特に、周辺のスタジアムなんかには絶対に近づかない方がいい」
「わざわざそこに寄る奴は、勝負を仕掛けたくてウズウズしてるおっかねー連中だ。俺みたいな凡人は、最初から端っこにいりゃいいって寸法よ」
歌姫は黙って彼の背中を見送った。
角を曲がると、商店街に出た。
ショーウィンドウの中で、マネキンが並んでいる。
ガラスにひびが入り、ひとつは首が傾いたままだ。
顔のない白い顔が道のほうを向いていた。
三輪の足がその前で止まった。
初めてメカ丸を見た日のことだ。機械の体。
表情のない顔。抑揚の薄い声。
この人は何を考えているのか分からない、と思った。
目の前に立たれると、息が詰まった。
日下部が三輪の視線の先を1度だけ見た。
何も言わずに、歩き出す。三輪は慌てて追った。
ひと区画先のコンビニは、自動ドアが開いたままだった。
棚はほとんど空だった。
「一般人が隠れてないか見る。そこで待ってろ」
日下部が中へ入る。入口で見張りに立った三輪は、レジ脇の棚に目を留めた。
乾電池の棚だった。
ほとんど持っていかれた中に、エボルタの青いパッケージがひとつだけ残っている。
2月にメカ丸に渡した。
義理チョコということにして。
「メカ丸これ、義理ですけど」
メカ丸は、電池を手に持ったまま、しばらく動かなかった。
じっと見ていた。
困っているのだと、あとで分かった。
後ろで、真依と桃がゲラゲラ笑っていた。
三輪は耳まで赤くなって、それでも一緒に笑ってしまった。
(あの時のメカ丸は、ちょっとだけ、嬉しそうだった気がする)
日下部が戻ってきて、首を振った。
三輪が何かを言う前に、日下部は空を見た。
今度ははっきりと見えた。
黒い影が一つ。高度を変えながら、ゆっくりと円を描いている。
翼を持つ小型の式神だ。
弧を描くたびに、空間がわずかに歪む。
もう一つは、空ではない。
商店街の向こう、倒れた電柱の陰を、巨大なものが這っていた。
四足で、ビルの二階ほどの高さがある。
形は犬にも鼠にも似ていない。
ただ、質量だけが異常に濃く、アスファルトを軋ませながら動いている。
その通った跡に、空気が歪んで残る。
翼のある影が巨大な影の頭上を通過し、軌跡が交差した瞬間、歪みがさらに濃くなった。
日下部の表情が、わずかに強張った。
「……式神だ」
「式神……?」
「2体いる。空を飛んでるのが一つ。地面を這ってる巨大なのがもう一つ。両方とも自律して動いてやがる」
「しかもご丁寧に軌跡が重なってやがる。アレはただの偵察じゃねーなぁ……」
日下部はコンビニの影に三輪を押し込み、自分も身を低くした。軌道と軌跡から意図を手繰る。
「領域を広げてる奴がいる。それも式神の軌跡そのものが領域になるタイプだ。交差点が増えるほど、奴の支配範囲が広がっていく」
三輪は息を殺して空と地面を見た。
翼のある影は遠ざかり、巨大な影も建物の陰に消えたが、日下部の目は離さない。
「おそらく北のほうに奴の巣がある。……スタジアム周辺か。見通しが良くて囲いやすい場所を拠点にしてるな。あーおっかねぇ」
「……どうして分かるんですか?」
「式神の戻り方が違う。偵察して戻るんじゃない。一定の範囲を巡回して、線を引いてる」
「アレは“ここは俺の領域だ”と刻んでる動きだ」
日下部は低く、吐き捨てるように言った。
「近づくな。絶対に。俺たち凡人の出る幕じゃない」
2018年11月11日、15時21分。
公園の脇の道で、破裂音がした。
ぱん、と乾いた音。
電柱に何かが刺さって、コンクリートの粉が散る。
日下部は三輪の襟を掴んで引き寄せ、駐車中の軽自動車の陰に押し込んだ。
「動くな」
言い捨てて、前へ出る。
電柱に刺さっていたのは、掌ほどの長さの太い杭だった。
公園の植え込みから、作業着の男が出てくる。
30代か。右手の指の間に、杭を何本も挟んでいる。
男は笑いながら右手を振った。
次の瞬間、呪力を帯びた杭が三本、勢いよく飛んだ。
日下部は二本の杭を刀で躱し、残る一本を身を捻り避ける。
そのまま地を蹴り、踏み込んだ。
男は驚愕した。
速い。
これまで出会った、どの泳者よりも。
男は必死に後退しながら、杭を撃ち続けた。
だが、日下部の俊足は止まらない。
飛来する杭を見切り、次々と躱しながら、一気に間合いを詰める。
懐に入った。
刃が、男の右手首に食い込んだ。
続けざま、柄頭が拳を打ち据えた。
男の身体が傾ぐ。逃げ場はない。
背中が公園のフェンスに勢いよく叩きつけられた。
「くそ、離――」
男の左手が、背中側で動いた。
フェンスの金網に、杭が当たる。高い音。
跳ね返った杭は角度を変え、軽自動車のほうへ飛んだ。
「三輪!」
フロントガラスが、白く割れた。杭は止まらない。
屋根を滑って、こちらへ――。
その軌道の途中に、日下部の体が飛び込んでいた。
布の裂ける音。杭が日下部の右肩を掠め、背後のブロック塀に突き刺さった。
押さえを失った男が、フェンスを背に身を捻る。
日下部の刃が追う。男は身を引いたが、間に合わない。
刃が首筋を捉えた。血飛沫が空に舞う。
男の身体から力が抜け、地面に崩れ落ちる。
「い……いやだ……こんなところで死にたく……」
日下部は刀を払って血を落とすと、男を一瞥した。
「奇遇だな。俺もだよ」
ぽんっと、コガネが飛び出した。
「5点が追加されました!」
日下部は返事もせず、刀を下げた。
乱れもしない呼吸のまま、軽自動車の陰へ振り返る。
「は、はい。でも、日下部さん、肩が――」
「あー気にすんな。かすり傷だ」
袖が裂けて、赤い線が二の腕のほうへ伸びている。
日下部は左手で1度だけ傷を押さえ、掌の血を見て、鼻を鳴らした。
「俺のことはいい。俺の背中と周囲だけ見てろ」
先に歩き出した日下部は、三輪が歩く側に塀を置いて、自分は道の開けた側を歩いた。三輪がそれに気づいたのは、角をふたつ曲がったあとだった。
その途中でも、日下部は何度か空を見上げていた。
式神の軌跡は、まだ北の空に薄く残っている。
交差点が増えていないことを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。
「……まだ遠い。今のところ、こっちまでは伸びてきてない」
空の翼のある影も、地上の巨大な影も、まだ北のほうで線を引き続けている。
「あ〜帰りてぇ〜〜」
大きな独り言を呟いて、また歩き出す。
三輪の視線は、日下部の肩の赤から離れなかった。
誰かの背中の向こうで、誰かが傷つく。
この感じ、前にも知っている。
メカ丸と共闘した時だ。
言葉は少ないのに、指示だけは的確で、三輪がどこに立てばいいかを先に決めてくれた。
彼が優しい、と気づいたのは、何度か一緒に戦ったあとだった。
加茂先輩は堅苦しい。東堂先輩は意味不明。
話しかける前に身構えてしまう。
メカ丸には、聞きたいことをそのまま聞けた。
与幸吉――メカ丸。もういない。
三輪は震える拳を硬く握った。
2018年11月11日、15時41分。
住宅街の外れにその家はあった。
二階建てのごく普通の家だった。
門柱に表札が掛かっている。「与」。
一文字だけの、短い名字。
三輪は門の前で立ち止まり、深く息を吸った。
何度も練習した言葉が、頭の中で崩れかける。
インターホンに指を伸ばした。
呼び出し音が家の中で鳴る。
反応はない。もう一度押す。
同じ音。同じ静けさ。
「……留守、なのかな」
声に出してみる。
結界の中だからといって、人がいない理由が死滅回游とは限らない。
避難しているのかもしれない。
たまたま、出かけているだけかもしれない。
郵便受けからチラシがはみ出している。
何日分なのか数えようとして、やめた。
三輪は門を押し開け、庭へ回った。
雨戸は閉まっている。窓の向こうは見えない。
裏口のドアノブを回すと、鍵がかかっていた。
「すみません」と小さく声をかけて、待つ。
耳を澄ましても家の中の物音はない。
冷蔵庫の唸りすら聞こえない。
玄関に戻った時、足元のコンクリートが目に入った。
扉の脇。ポーチの端。
黒ずんだ染みが、掌を広げたくらいの大きさで、乾いて貼り付いている。
風に晒されて、縁が白く粉を吹いていた。
三輪の足が止まった。
(違う。何かの、汚れ)
泥かペンキか。そう思いたかった。
でも、染みの周りの飛沫の形を、三輪は見てしまっていた。
これまでの任務で、何度も見た形だった。
扉のノブに手が伸びる。
中を確かめなければ。
その肩を掴まれた。
日下部の左手だった。
右肩をかばった力の入らない左手が、それでも三輪を引き止めた。
「見るな」
低い声だった。日下部は、扉の向こうではなく、三輪の顔を見ていた。
「だめです。まだ、分からないじゃないですか」
「ああ」
否定はされなかった。肯定もされなかった。
日下部は手を離さず、何も言わなかった。
血の染みはポーチの端に残っていた。
三輪の指先は、ノブに触れたまま動かなかった。