2018年11月11日、15時50分。仙台結界。
三輪は、ノブから手を離せなかった。
日下部の左手が肩から離れたのは、三輪の指がゆっくりと扉から剥がれたあとだった。
届かなかった。
与幸吉が確かに生きていたこと。
どう生きて、どう終わったのか。
私たちのために、どれだけ頑張ってくれたのか。
そのすべてを自分の口で伝えるはずだった相手が、この扉の向こうにいない。
もしかしたら、もう、どこにも。
「……なんで」
声が掠れた。膝が、勝手に折れた。
両手で顔を覆うと、指の隙間から涙が落ちた。
生きている間は、何もできなかった。
死んでしまったあとでさえ、何も届けられなかった。
何かしたくて、ここまで来たのに。
日下部は何も言わなかった。
三輪の横を離れ、門のほうへ数歩歩いた。
通りに背を向けて、立った。右手は、柄に添えたまま。
慰められているわけではない。
三輪は涙の中でそれに気づいた。
泣いている自分の背中側を、この人が見張っている。
声をかけない代わりに、そこに立っている。
涙の向こうに、夕焼けが滲んだ。
橙色の空だった。渋谷事変の少し前。
メカ丸が死んだ、その日。
その日の京都校の渡り廊下は、夕焼けに染まっていた。
三輪はメカ丸の隣に座っていた。
座っていた、というより、置かれた機械の隣に、三輪が勝手に座っただけだ。
メカ丸は動かなかった。
どんなに話しかけても、返事はなかった。
「いつか会いに行くからね」
返ってきたのは、風の音だけだった。
「メカ丸……今日、元気ないね」
答えはなかった。三輪は少しずつ、距離を詰めた。
やがて、その肩にそっと頭を預けた。
肩の金属が、夕日で温かかった。
どうしてそんなことをしたのか、恥ずかしくて誰にも言えない。
でも、きっとメカ丸なら許してくれる。
そう思って、ゆっくり目を閉じた。
そのまま眠ってしまった。
目を覚ました時、空は暗くなっていた。
メカ丸は、同じ場所にいた。返事は、最後までなかった。
あとから、その日がメカ丸の最後の日だったと知った。
「……与くんに」
三輪の口から、声が零れた。
「私は何も、できなかった。これから、どうすればいいか、分かりません」
背を向けたまま、日下部は短く息を吐いた。
「知るかそんなもん。俺に聞くな」
突き放す声だった。三輪は顔を上げた。
日下部は振り向かないまま続けた。
「オマエの中にいるメカ丸に聞け」
その言葉が耳の奥で別の声と重なった。
新幹線の座席。窓の外を流れる夜。
さよならなんて言わないでと言い張る三輪に、小さなメカ丸が告げた言葉。
「幸せになってくれ」
「どんな形であれオマエが幸せなら、俺の願いは叶ったも同然だ」
(与くんが望んだのは、ご両親に訃報を届けることじゃなかった)
では、何をすればよかったのか。何ができたのか。
それは今も分からない。
分からないまま、その言葉だけが、胸の真ん中に残っている。
三輪は声を殺さずに、泣いた。
日が傾いて、道の影が長くなっても、日下部は背を向けたまま、動かなかった。
何も言わなかった。
やがて、しゃくり上げる息の間隔が、少しずつ空いていった。
三輪は袖で顔を拭い、まだ震える膝に手をついて、立ち上がった。
答えは出ていない。
何をすれば良かったのかも、これからどうすればいいのかも、分からない。
それでも、この門の前に座り込んだままの自分は、与くんが知っている自分ではなかった。
三輪はポーチの染みに向かって、一度だけ頭を下げた。
それから、踵を返した。
「……行きましょう」
日下部が振り返った。
三輪の顔を見て、一瞬だけ目を逸らした。
「ああ」
並んで歩き出した。
三輪が先に踏み出した一歩に、日下部が、半歩遅れてついてきた。
2018年11月11日、17時28分。
日が落ちた。
二人は、家から二つ離れた通りの、閉まった学習塾に入った。
二階の教室。窓は路地に面していない。
机と椅子が、授業の終わりのままに残っている。
日下部が窓の外を確かめている間に、三輪は鞄から救急用の包帯を出した。
「日下部さん。肩、見せてください」
「気にすんなって言ったろ。かすり傷だ」
「見せてください」
日下部は無言で三輪を見た。
三輪も目を逸らさなかった。
数秒の沈黙のあと、日下部が上着を脱いだ。
傷は浅くはなかった。
釘が肉を削いだ跡が、肩口から二の腕へ走っている。
三輪は消毒液を布に含ませ、手を止めずに拭った。
「手際がいいな」
褒められた三輪は嬉しそうに返した。
「京都校の寮で先輩たちの怪我をよく診てたので」
包帯を巻き終える頃には、日下部の眉間の皺が少しだけ薄くなっていた。
礼はなかった。
日下部は突然立ち上がり、窓の外の夜空を一度だけ見上げた。
三輪には何が起きてるか分からなかった。
「ま〜だ動いてるな。働き者だ。俺より勤勉じゃねぇか」
「何がですか」
「式神だ。北の空を飛んでるのと、地面を這ってる巨大なのが巡回してる」
「昨日より交差点が増えてる。領域をじわじわ広げてやがるな」
三輪も窓の外を見た。何も見えなかった。
「やはり奴はスタジアム周辺に居座ってる。あれだけ軌跡を引いてるってことは、かなり強い。しかも、アイツだけじゃねぇ」
日下部は窓枠に手をつき、声を落とした。
「均衡が崩れるのを待ってる連中がいる」
「奴の領域に踏み込めない泳者が、周囲で様子を伺ってる」
「少なくとも2人はいるな。呪力の質が明らかに違う」
「どうして分かるんですか?」
「凡人の勘だ。死にたくねぇからな。強者同士が牽制し合ってる空気は、戦場に長くいりゃあ分かる」
日下部は天井を仰いだ。
「乙骨にはそれを伝える……場合によっては」
そう言いかけて、日下部は天井の隅へ声をかけた。
「おい。見てるんだろ。出せ」
ぽんっ、と音がして、コガネが現れた。
何も言わなかった。腹の画面が、淡く光った。
縦長の一覧だった。
「昼前に、ルールが追加されたんだとよ。泳者は全員の名簿が見られる」
「名簿……全員にですか?」
「全員だ。高専の名前が載ってるはずだ。探すぞ」
二人で、画面を最初から送った。
知っている名を頭の中で繰り返しながら、一人ずつ確かめていった。
日下部の指が止まった。
「虎杖悠仁」
「虎杖くん。生きてるんですね」
笑った顔の絵。得点000。
滞留結界の欄だけが、空白だった。
「結界に入ってないのに、名前が出てやがる」
「……中身のほうが、数えられてるのか」
日下部の声は低かった。
三輪には意味が掴めなかったが、問い返さなかった。
次の名前で、また指が止まった。
「加茂。京都で生きてる。ゼロのままだ」
一つずつ、息を吐くような確認だった。
画面は、まだ続いていた。
日下部の指は、その先でぴたりと動きを止めた。
野原ひろし。
笑った顔の絵。得点000。
ルール追加回数、00回。
滞留結界、東京第1。
「…………野原」
気怠げな声音が、わずかに高くなった。
「野原さんですか?」
「ああ」
「よかった……生きてるんですね」
「絵がドクロじゃねぇ。生きてる」
画面から目を離さずに言った。
「点がゼロ。誰も殺してねぇ。……アイツらしいな」
日下部は東京第1の行だけを絞り込んだ。
点を持っている名前は、そう多くない。
三桁が1人、40点台が1人。ほかは似たようなものだった。
「点持ちの巣に、ゼロで放り込まれてるってわけか」
日下部はため息を吐いて、画面から目を上げた。
「どうせ、ボロボロだ。ボロボロのまま、死にもしねぇで、へらへら帰ってくる。……アイツはそういう男だ」
声は乾いていたが、口元は少しだけ緩んでいた。
三輪もそれを見て、つられて笑みをこぼした。
「日下部さん、東京へ行くんですか?」
「乙骨に渡すもんを渡してからだ。結界の移動はもう自由になってるからな」
2018年11月12日、1時27分。
教室の隅で毛布にくるまった三輪は、眠れなかった。
窓際では、日下部が壁に背を預けて、目を閉じていた。
眠っているのではない。
閉じているだけだと、すぐに分かった。
「交代します」
「寝ろ」
「眠れません」
「なら目を閉じてろ。それだけでだいぶ違う」
「日下部さんは?」
「俺は慣れてる。いいから寝ろ」
それきり会話は途切れた。
三輪は言われた通りに目を閉じた。
まぶたの裏で、夕焼けはもう滲んでいなかった。
2018年11月12日、6時12分。仙台結界。北端寄り。
朝霧の中、結界の縁に近い住宅街の外れで、2人は待っていた。
スタジアムの方向は、霧の向こうに遠く霞んでいた。
日下部は時折、北の空と地上を交互に見ては、式神の軌跡がこちらまで伸びていないことを確認していた。
しばらくして、霧の中から人影が歩いてきた。
背に刀袋を負った細身の青年。
足音は静かで、呼吸は乱れていなかった。
底の見えない呪力が、霧の中で静かに揺れていた。
乙骨憂太は、2人の前で足を止め、小さく頭を下げた。
「歌姫先生から聞いて来ました。三輪さんも、ご無事で何よりです」
「ああ。待たせたな」
日下部は空を一度だけ見上げてから、乙骨に向き直った。
「スタジアム周辺に大物がいる。式神を2体使って、軌跡で領域を広げてるタイプだ」
「空を飛んでる小型のと、地面を這ってる巨大な四足のやつ。両方とも自律して動いてる」
「こいつらはずっと巡回してる。同時に交差点も増えて、じわじわ支配範囲を広げてる最中だ」
乙骨は無言で頷いた。
「それと、奴の領域に踏み込めない術師が周囲で待ってる。……均衡が崩れるのを狙ってる連中だ」
「少なくとも2人。他の泳者とは、明らかに違う」
「三すくみの状態、ですか」
「現時点ではな。もしかしたらさらに強ぇ奴がいるかもしれん。先に叩くとするなら、式神使いだ」
乙骨は上空と、霧の向こうの地上を注意深く観察していた。
「気づいたか。式神の動かし方が古い」
「本体は式神に依存してる可能性が高い。やるなら式神を無視して本体を叩け」
「かなりの得点を持ってそうですね」
乙骨には、自分1人で400点を獲るという目標があった。
仙台結界の泳者達が貯めている点を得る機会を逃すのは惜しいと考えていた。
乙骨の言葉に日下部は目を細めた。
「確か、虎杖と伏黒が点の譲渡を追加する話か」
乙骨の表情が和らいだ。仲間に対する信頼に満ちていた。
「現代の異能」は既に、仙台の泳者の勘定を始めていた。
しかし日下部は忠告を添えた。
「無理して点を譲渡してもらおうとするなよ。交渉する相手は慎重に選べ。そこら辺の裁量は任せる」
「分かりました。助かります」
「それと、ついでだ。東京第1に、野原がいる。点はゼロだ」
乙骨は日下部に顔を向け、にこりと笑った。
「野原さんが。……生きてたんですね」
「ああ。生きてやがった」
「よかった」
乙骨は、本当にそう思っている声でそう言った。
日下部はそれには答えなかった。
三輪は黙って2人を見ていた。
少しの間をおいて、日下部が口を開いた。
「乙骨が来るまでは守ると言ったが、作戦変更だ」
「ここから先、乙骨は仙台で手一杯だ」
「オマエを守ってやる余裕はねぇ。……俺と一緒に東京に来い」
三輪は一歩、日下部の隣へ出た。
「はい!私は役立たずですから、異論なしです!」
「自信満々に言うことじゃねーぞ」
「はい!」
「はいじゃねぇ……」
日下部は、いつものように「俺の後ろから出るな」と言いかけた。
しかし、すぐに口を閉じた。
三輪の目が、昨日の朝と違っていた。
「……半歩だ。半歩までなら、前に出ていい。それ以上は出るな」
「……はい!!」
乙骨は、2人に向かって深く頭を下げた。
「お2人とも、お気をつけて」
「ああ。そっちもな。頼んだぞ」
「乙骨さん、ご武運を!!」
霧の中を2人は歩き出した。
しばらくして日下部がぽつりと言った。
「肩の包帯、及第点といったところだな」
三輪は返事の代わりに、半歩だけ歩幅を広げた。
背後で乙骨の足音が反対の方角へ遠ざかっていく。
胸の奥には与くんの言葉があった。
何をすればよかったのかは、今も分からない。
それでも、その言葉はそこにあった。
三輪は東京へ向かう道を、自分の足で歩いていった。