クレヨン廻戦   作:ひろしとさとる

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落花情怨

2018年11月12日、7時10分。

 

禪院真依は、画面を暗くしたスマホをポケットに戻した。

 

連絡したい相手は、もう遠くへ行ってしまった。

 

真希が寮を出たのは夜明け前だった。

 

窓から見えたのは、背中だけ。

 

長物を肩に載せて、振り返らずに歩いていった。

 

声をかけなかった。

 

かけても、足は止まらなかっただろう。

 

置いていかれた。

 

そう思った時から、胸の真ん中に冷たい石が居座っている。

 

京都校の寮の裏で、箒の風圧が髪を乱した。

 

「真依ちゃん!」

 

西宮桃が地面に降り立つなり、真依の鞄を睨んだ。

 

着替えは入っていなかった。入れる意味がなかった。

 

「どこ行くの」

 

「見て分かるでしょ」

 

「分かりたくないから聞いてるの!」

 

西宮の声は、いつもより低かった。

 

「禪院家だよね。真希ちゃんが行くって聞いて、先に行くの?」

 

「あの人は1人でも行く。止めても無駄よ」

 

「真依ちゃんが行ったって同じでしょ」

 

西宮の指が、真依の袖を掴んだ。

 

強い力ではなかった。震えていた。

 

「今行ったら、死ぬかもしれない」

 

「そうね」

 

「そうね、じゃないよ!」

 

西宮の目が潤んでいた。真依は目を逸らした。

 

この顔を見ていると、決心が鈍る。

 

「真希ちゃんは、真依ちゃんを置いていったんだよ。それなのに、なんで……?」

 

「置いていかれたからよ」

 

自分でも驚くほど、平坦な声だった。

 

「私は、あの人に追いつかなきゃいけないの」

 

「追いつく必要なんてない!」

 

「あるわ。……私にしかできないことが、あるの」

 

西宮は唇を噛み、何も言わずに自分のポケットを探った。

 

握らされたのは、使い捨てのカイロだった。

 

まだ温かかった。

 

「……寒いから」

 

「桃」

 

「持っていって。お願い。それと……行かないで」

 

最後の一言だけ、声が割れていた。

 

真依はカイロを握り締めた。

 

掌の温もりが、決意の隙間に染み込んできた。

 

(この子は、私が行けば泣くんだ)

 

分かっていた。分かっていて、行く。

 

「あなたは、大事な友達よ」

 

西宮の肩がびくりと跳ねた。

 

「だから、ここで見送って。追いかけないで」

 

「……ずるいよ、真依ちゃん」

 

「知ってる」

 

背を向けた。振り返らなかった。

 

角を曲がるまで、背中に視線が刺さり続けた。

 

2018年11月12日、10時34分。

 

真依は禪院家へ向かう道を進んでいた。

 

京都校を出てから、3時間以上が過ぎていた。

 

呪霊の澱みを避け、京都結界の縁を避け、何度も道を変えた。

 

腰のホルスターに、今朝作った1発が収まっていた。

 

構築術式で作れるのは、1日に1発。

 

それが私の限界だ。

 

(着いたら、何をするのかしら)

 

考えても答えは出なかった。

 

真希を守る、とは言えない。守れるほど強くない。

 

それを一番よく知っている。 

 

歩きながらふいに思い出した。

 

幼い頃の禪院家の廊下だった。

 

夕暮れの突き当たりにいた。

 

天井から垂れ下がる黒い何かが、ぶつぶつと呟いている。

 

それが怖くて、足が床に縫い付けられた。

 

「真依〜、はやくしろよ〜」

 

先を行く真希が、振り返って眉を寄せた。

 

「やだ いるもん」

 

「またぁ?……仕方ねぇなぁ」

 

真希は戻ってきて、真依の手を取った。

 

「私の背中だけ見てろ。他は見なくていい」

 

言われた通りに、前を行く背中だけを見つめて、廊下を抜けた。

 

真希には見えていなかった。

 

呪いも、真依が怯えた先にあるものも。

 

見えないくせに手を引いてくれた。

 

その手はいつも温かかった。

 

不安など知らないように、未来へずかずかと突き進む背中。

 

その背中が昔から大嫌いだった。

 

大嫌いで、同じだけ、憧れていた。

 

障子の向こうでは大人たちが噂をしていた。

 

あの双子は凶兆だ。片方は呪いすら見えないらしい。

 

呪霊も見えぬ娘に家に置く価値はない、と。

 

笑われているのは真希なのに、責められているのは、見える自分の方だった。

 

真希が家を出ると決めた日。

 

廊下の角の向こうから、当主様の笑い声が漏れていた。

 

「ならばこちらも相応の試練を与えようぞ」

 

「勝手にしろよ」

 

「真依にもな」

 

「アイツは関係ねぇだろ」

 

私を守るつもりなのだと分かった。

 

分かって余計に腹が立った。

 

守られる側に置かれることが、何より屈辱だった。

 

柱の影で足は動かなかった。

 

動かないまま胸の中で叫んでいた。

 

置いていかないって言ったくせに。

 

私はこの家で不満なんて言えない。

 

誰にも聞こえないように、ぽつりと漏らした。

 

嘘つき…

 

 

 

 

――そして、交流会の日が来た。

 

向かい合った真希は、いつもの顔で笑っていた。

 

「撃ちたきゃ撃て」

 

撃った。6発。

 

ありったけの弾を、ありったけの集中で。

 

当たらない。避けられる。

 

1発ごとに、あの背中が遠ざかっていく。

 

綺麗だ、と思ってしまった。

 

避ける身のこなしも、迷いのない足運びも。

 

憎いのに、見惚れた。

 

6発目が外れた瞬間、真希の目がほんの少し緩んだ。

 

装填の隙は与えない、と顔に書いてあった。

 

(でしょうね)

 

真依は、静かに引き金を引いた。

 

7発目。この戦いの最中、少しずつ呪力を削って、誰にも見せずに構築していた弾丸だった。

 

アンタに教えたことはない、私だけの術式。

 

この術式も、胸の奥に仕舞ってきた気持ちも、一度だって、見せたことはない。

 

(私の勝ちよ)

 

確信は、次の瞬間に砕けた。

 

真希は弾を掴んでいた。素手で。

 

「痛ッ……!素手で触るもんじゃねぇな」

 

掌から煙を上げながら、真希は呆れたように言う。

 

負けた。勝てるはずがなかった。

 

あの家が最後まで認めなかった力に。

 

「決着……ってことでいいよな?」

 

(嘘つき)

 

「……なんで、家を出たの」

 

「あぁ? 言わなくても分かんだろ。オマエだって高専来たじゃねぇか」

 

(……嘘つき)

 

「私は、呪術師なんてなりたくなかった!」

 

自分でも制御できない声が、喉から溢れた。

 

「アンタのせいよ!!」

 

「アンタが頑張るから、私も頑張らざるを得なかった!!」

 

「努力も、痛いのも、怖いのも、もううんざり!!」

 

「家でこき使われることの、何がいけないのよ!?」

 

「適当に雑用こなして、適当に生きれば良かったじゃない!」

 

涙が頬を伝っていた。止められなかった。

 

「なんで一緒に 落ちぶれてくれなかったの?」

 

真希はしばらく黙っていた。

 

それから、ぽつりと言った。

 

「……あのままじゃ」

 

「私は私を嫌いになってた。それだけだよ」

 

一拍、間があった。

 

「ごめんな」

 

謝らないでと思った。

 

謝られたらもう嫌いになれない。

 

――視界の端で、昔の景色が重なった。

 

小さな手と手。

 

夕暮れの廊下で、5歳の真依が言った。

 

「お姉ちゃん 手離さないでよ」

 

「離さねーよ」

 

真希の手が、ぎゅっと握り返してきた。

 

「絶対だよ?」「しつけーなぁ」

 

「絶対置いてかないでよ」「当たり前だ 姉妹だぞ」

 

喉の奥に支えていた呪いが、零れ落ちた。

 

「嘘つき……大っ嫌い」

 

負けた私に背を向けて去っていった、あの背中。  

 

嫌いになろうとした。結局、なれなかった。

 

(……あの背中に、追いつきたかった)

 

ずっとそうだった。家を出た真希に。

 

落ちこぼれと蔑まれながら、それでも折れずに前を向いて歩いていく姉に。

 

肩を並べたかった。だから行く。

 

真希が踏み込む前に、家の様子を見ておきたかった。

 

そしてもう1つ。口に出せない理由があった。

 

(……母さん)

 

浮かべた途端、足が止まりそうになった。

 

母は私たちを見ようとしなかった。

 

落ちこぼれ。出来損ない。それが口癖だった。

 

それでも一度くらいは、と思ってしまう。

 

父はもっと遠い。誇り高い人だった。

 

一族の前でも、娘たちのことは口にしない。

 

恥を自分から晒す人ではない。

 

ただ、目だけが雄弁だった。

 

オマエたちさえいなければ、と。

 

(……それでも、父さんは、私の父さんだ)

 

愚かだと分かっていた。

 

分かっていて、期待していた。

 

期待すれば傷つく。

 

そう教わって育ったはずなのに。

 

カイロの温もりだけが、掌で正直だった。

 

2018年11月12日、12時42分。

 

禪院家の門が、昼の光の下に見えた。

 

門をくぐった途端、空気が一段冷えた。

 

古い木と墨の匂い。屋敷の奥は薄暗く、いつもの家のままだった。

 

玄関の脇に、躯倶留隊の隊員たち。

 

真依に気づいても会釈一つなく、視線だけが品定めするように這った。

 

(見張り? 何のために)

 

真希の姿はなかった。

 

まだ着いていないのか、それとも。胸の奥がざわついた。

 

屋敷は人の気配に満ちているのに、誰も口を開かなかった。

 

何かを待っているような、不自然な沈黙。

 

廊下を進みながら、真依は足音を殺した。

 

(直哉に会わなければいいけど)

 

考えたくないのに、考えてしまう。

 

あの男は、視界の端に入るだけで、不快な記憶を引きずり出してくる。

 

白い砂利の庭。

 

地面に押さえつけられた真希の頭と、その上に載った磨かれた革靴。

 

腕を組んだ直哉が、笑いながら爪先に体重を乗せていた。

 

その視線が、柱の影の真依を捉えた時。

 

「こっち見んな。真依は関係ない」

 

土を噛んだ声で、真希が言った。

 

あの日、私は逃げた。

 

拳を握って、爪が掌に食い込んで、それでも何もできなかった。

 

(下品な男)

 

あの靴音が、今も耳の奥で鳴る。

 

1日1発の弾では、あの男には届かない。

 

それでも怒りだけは、あの日から一度も冷めたことがなかった。

 

幸い、廊下に直哉の気配はなかった。

 

「来たか」

 

遠くから聞こえる声に真依の肩が跳ねた。

 

廊下の奥に父が立っていた。

 

羽織の裾が屋敷の薄暗がりに揺れていた。

 

「父さん」

 

声が震えた。

 

父は表情を変えず、ゆっくりと近づいてきた。

 

「よく戻った」

 

その一言が胸に落ちた。

 

怒鳴られると思っていた。

 

追い返されると思っていた。

 

なのに、戻った、と。

 

(……私、ここにいても、いいの?)

 

喉の奥が熱くなった。カイロを握る指に力が入った。

 

罠かもしれない。分かっている。

 

分かっているのに、その一言を、もう一度聞きたいと思ってしまった。

 

足が半歩だけ、父のほうへ出ていた。

 

「父さん……」

 

真依は口を開いた。伝えたいことがあった。

 

聞きたいこともあった。

 

「父さんは――」

 

「オマエたちさえいなければ」

 

扇の声が真依の言葉を断ち切った。

 

手が柄に触れた。刹那、閃光が廊下を走る。

 

真依は何が起きたのか分からなかった。

 

肩から腰へ冷たいものが抜けた。

 

視界が傾く。磨かれた床の匂いが近づく。

 

カイロが手から零れ落ち、廊下を転がった。

 

背中を打つ。息が詰まる。

 

熱いものが胸から腹へと広がっていく。

 

それが血だと気づくまでに、時間がかかった。

 

「謀反者の血は残さん」

 

遠くで、父の声が言った。

 

足音が頭の上を越えていく。

 

血溜まりの縁を、足袋が避けて歩く。

 

振り返りもしない。

 

「忌庫へ運べ」

 

隊員たちの足音が近づく。

 

視界が少しずつ狭まっていく。

 

障子の向こうで、衣擦れの音がした。

 

(……母さん?)

 

誰かが立ち止まった気配があった。

 

息を殺している。こちらを見ている。

 

助けて、と言いたかった。声は出なかった。

 

数秒そこにいて、足音は遠ざかっていった。

 

(……ああ)

 

(やっぱり、期待なんて、するんじゃなかった)

 

指先が転がったカイロに触れた。

 

さっきまで掌を焼くほど温かかったそれは、血を吸って、もう冷たくなっていた。

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