2018年11月12日、11時52分。
窓を塞ぐ布の隙間から、昼前の光が細く床へ落ちている。
その光の中で、白倉飛鷹が左腕に呪力を這わせていた。
手首から肘へ、肘から肩へ。
机の上に釣具店で調達した釣り糸が置かれている。
流れは細く淀みがなく、額には汗ひとつ浮かんでいない。
一昨日の路地で青い顔をして崩れ落ちた青年と同じ人間だとは、すぐには信じ難かった。
ひろしは壁に背を預けたまま、しばらくその様子を眺めていた。
この数日、窓際で腕を睨み続けていた背中を思い出す。
教えたつもりのものは、基礎的な呪力操作に体術と逃げ方。
あとメシくらいだった。
それ以外は全部、この青年が自分で掴み取ったものだ。
(年下に「オレより強い」って言うのは、営業で頭を下げるより、よっぽど喉に引っ掛かるな〜)
見栄を張りたがる男が、見栄を張らずに言う一言だ。
やがて息をひとつ吐き、口を開く。
「白倉君、ハッキリ言う。……君はオレより強い」
白倉の手が止まった。
「……え?いやそんな、買い被り過ぎですよ」
「買い被りじゃない。何度も頭の中でやり合ってみたが、オレが白倉君に勝てるのは1割ってところだ」
「今の君なら、レジィだって倒せる。……たぶん」
白倉は目を丸くして言葉を失った。
窓の布の隙間から落ちる光の筋の中で、埃がゆっくり回っていた。
返事を待つ間がやけに長い。
(頼むから、そこで笑うなよ。言った本人のほうが恥ずかしいんだ)
ひろしは構わず続ける。
「呪術師の強さってのは、呪力の総量と放出量、術式の有無と性能、それから発想力と経験で決まる」
白倉は小さく頷き、腕に這わせていた呪力を静かに解いた。
「このうち、努力で変えられるのは放出量くらいだ」
「あとは生まれ持ったものを、どれだけ上手く使えるかの勝負になる……と、されている」
(……だったよな?そうだったよな?日下部?)
「才能が8割と言われてるのは、そのせいだ」
ひろしは、少しだけ言葉を選び直す。
「前にオレが鍋を頼んだだろ。白倉君はあれを、自分を成長させるための課題だと受け取った」
「アレは、僕を成長させるためじゃなかったんですか?」
「違う。……オレは本当に、鍋が欲しかっただけだ」
白倉が瞬きをするのを見て、ひろしは苦笑する。
「だが君は、そこに自分の伸びしろを見つけて、研究して、……ここまで練り上げた」
「知識と発想と経験を呪術に落とし込むセンスなら、君の方が遥かにオレの上をいってる」
「悔しいが、認めるしかないよ」
白倉は戸惑いを浮かべたまま、握った拳にそっと力を込めた。
口元はわずかに緩んでいる。
ひろしの言葉が胸の底で火種になったらしい。
「死滅回游が終わったら、正式に呪術師になってくれ」
「オレたちと一緒に、呪霊や呪詛師と戦おう」
「……はい!僕も、野原さんのように人を助ける術師になりたいです!!」
その返事に重なるように、布の向こうで、窓枠を爪で叩く小さな音がした。
続けて、カア、とか細い声。
ひろしの指先に、細い糸が1本、ぴんと張る感覚が走った。
巡回させていたカラスが、強い呪力の接近を知らせている。
伝わってくるのは距離の近さよりも、重さだった。
布をわずかにめくると、手すりの上で黒い鳥が首をかしげていた。
ほとんど同時に、名簿の画面が淡く光る。
2人は顔を寄せて覗き込んだ。
正午を回った頃だった。
名簿の滞留結界の欄に、見覚えのある名前が並んでいる。
ひろしの目は、その2つに吸い寄せられて動かなくなった。
虎杖悠仁。伏黒恵。共に東京第1結界。
(おお〜!虎杖と伏黒は一緒か!こりゃあ頼もしい!!)
ひろしは、2人が不本意に分断されたことも知らず、のんきに喜んでいた。
「高専の人、ついに来たんですか」
「ああ。滞留結界を見る限り、会える見込みが高い。まずは2人と合流だ。ほかの欄は、そのあとでいい」
画面の隅で別の欄がいくつか書き換わっていることに、この時のひろしは気づかなかった。
ひろしは脳内で広の言葉を反芻する。
『13日まで生き延びて。そうすれば、きっと』
点はゼロ。総則8の期限まで、残り7日。
ひろしは13日までには加勢が来るという意味だと受け取っていた。
それが、今日の時点で2人も入ってきた。
考えるのは歩きながらでいい。今は合流だ。
2018年11月12日、12時31分。
拠点を出てから30分が過ぎていた。
ひろしはカラスを上空へ飛ばし、糸の張りで下の様子を読んでいた。
降りてくる方向、止まる屋根、羽ばたきの乱れ。
それだけで路地の先に人の気配があるかどうかは見当がつく。
他の泳者を避け、物陰から物陰へと進む。
虎杖と伏黒がいそうな方角を詰めていった。
逃げ道は2つ。来た路地と、右手の非常階段。
その非常階段の下から、見覚えのある巨体が出てきた。
「よう、オッサン。また会ったな」
鈍い鉄色の皮膚。短く刈った頭。黒金鉄矢だった。
その背後に、5人の術師が並んでいる。
いずれもそれなりの呪力を纏っていた。
(結界を越えて集まってきたか……?)
「前は世話になったな。今日は人数が違う」
黒金は首を鳴らして笑った。
「オレの下につけ。点は分けてやる。なんならそっちのにいちゃんも一緒でいいぜ」
ひろしの背中を、冷たいものが走った。
穏やかな顔で査定を始める男が、前にもいた。
仲間になるなら使う。ならないなら殺す。
レジィの勧誘と、同じ型だった。
「……悪いが、断る」
黒金の笑みが、すっと消えた。
「……そうか。なら、殺せ」
5人が一斉に動いた。ひろしは白倉と背中を合わせ、前後の路地へ目を走らせる。
「白倉君、5人は任せていいか?」
「はい!」
「黒金はオレがやる!」
返事を待たずに、ひろしは駆け出した。
背後で、ずん、と重く沈む音がした。
衝撃を吸う布の音だと、聞いただけで分かる。
続けて乾いた打撃音が2つ、間を置かずに重なり、白倉が最初の波を受けたのだと知れた。
迎え撃とうと黒金が全身を硬質化させる。
皮膚が鉄色に染まり、地面が足の形に沈んだ。
その頭上から黒い影が一直線に降りてくる。
カラスの嘴が黒金の眼前に迫った。
黒金は寸前で身をかわした。
腕で払うのではなく、首ごと大きく。
ひろしはその動きを、前にも見ていた。
黒金は目の前を横切るカラスだけを、毎回払いのけていた。
顔まで鉄なら、払う必要はない。
あの違和感がようやく形になる。
(顔まで鉄なら、折れるのはカラスの方だ。あの時、オレはそう決めつけて、目を狙うのをやめた)
(だが、今回の動きで、ようやく分かった!)
黒金は「皮膚の性質を鉄に作り変える」と言った。
「全身だ」とも言った。どちらにも嘘はない。
ただ、どちらも、「皮膚」の話だった。
「眼球」は「皮膚」ではない。
そこは最初から、術式の対象外にあるのかもしれない。
聞かせた言葉が強さになる“縛り”の陰で、黒金が見せまいとしていた1点は、案外そこなのだろう。
首を傾けてかわした黒金の足が踏み込みの一歩で、片足に体重を預けている。
ひろしは姿勢を低くして背後に滑り込んだ。
狙うのは、体重の乗った足首。
ありったけの呪力を込めた足で、思い切り払う。
踵が足首の裏を捉えた瞬間、脛骨まで痺れが駆け上がった。
鐘を蹴ったような手応え。
ただし今度は、押し返されない。
軸足に乗っていた重みが芯からずれる感触だけが、靴底越しに確かに伝わった。
黒金の背中が一拍遅れて強張る。
何が起きたのかまだ分かっていない。
支えを失った黒金の巨体が、ゆっくり傾いた。
立て直す間はなかった。自らの重さに引かれて、そのまま地面へ叩きつけられる。
黒金の身長は約190cm、通常の体重は約110kg。
鉄に変じた肉体は、800キロ近い。
アスファルトが砕け、衝撃が全身を貫いた。
前回、ひろしの素手は鉄の皮膚を一度も貫けなかった。
その記憶が黒金の呪力による防御を薄くさせていた。
「…………がはっ!!」
黒金は血を吐いた。
立ち上がろうとして、指先が地面を掻く。
たった一度の転倒で、それきり動けなくなった。
ひろしは倒れた黒金を見下ろした。息はある。
ここで止めを刺せば、5点が加算される。
だが、拳は開いたまま動かさなかった。
足元で、鉄の胸が上下していた。
呪霊なら祓えば霧になるが、人は霧にならない。
血の混じった息の音だけが、割れたアスファルトの上に残っている。
ひろしは自分の掌を見た。
さっきの蹴りの痺れが、まだ脛の骨に居座っている。
握り直す理由は、探しても見つからなかった。
見つけたくなかっただけかもしれない。
カラスが肩に降りてくる。
この日、ひろしは領収書を1枚も燃やさなかった。
黒鳥操術の真骨鳥にも頼らなかった。
一昨日は2人がかりで退けた相手を、一瞬で倒していた。
胸の奥に小さな手応えが灯る。
背後の音がいつの間にか途切れていた。
いくらなんでも静かすぎると思って振り返る。
視界の端で、白倉の外套が翻っていた。
左腕に巻いた糸がほどけ、何本もの細い線となって宙を走る。
5人が同時に襲いかかった。
正面から伸びた拳を、白倉は半歩引いて躱す。
すれ違いざま、手首に細い線が巻きついた。
男が拳を引いた瞬間、線が張った。
腕を引かれた男の身体が泳ぐ。
その脇を、白倉はするりと抜けた。
横から蹴りが飛ぶ。
白倉は身を沈め、足首に線を絡めた。
蹴りの勢いを殺さず、わずかに軌道をずらす。
踏ん張ろうとした男の足が、地面を滑った。
鈍い音を立て、男が転がる。
残る3人が間合いを詰めた。
白倉の指先が動く。
細い線が左右に走り、1人の手首と、もう1人の足首に絡みついた。
細い繊維の束は、引かれてもほとんど伸びず、張り詰めたまま形を保っていた。
素材は、釣り糸として使われる軽量で引張強度に優れたダイニーマ系の繊維。
だが、その強さを引き出しているのは素材の性能だけではない。
白倉は1本1本の向きと束ね方を工夫し、引く力を効率よく伝えられる構造へと変形させていた。
素材の特性を見極め、術式でその長所を引き出す。
白倉の創意工夫と才能が、ただの釣り糸を強靭なワイヤーへと昇華させていた。
2人が力任せに引き戻そうとする。
白倉は逆らわなかった。
片方の線を緩め、もう片方を引く。
均衡を崩された2人の身体が、互いの進路を塞いだ。
そこへ白倉が一気に踏み込む。
肘が1人の鳩尾にめり込み、返す手がもう1人の顎をしたたかに打ち抜いた。
2人が崩れ落ちるより早く、白倉は指を返した。
背後に回り込んでいた最後の1人が、拳を振り上げる。
その手が振り下ろされる寸前、細い線が手首を捉えた。
男が腕を引く。線は切れない。
白倉は身体を半身に開き、引かれる力に合わせて相手の懐へ滑り込んだ。
空いた手のひらが胸元に添えられる。
一瞬の間。男の身体から力が抜け、膝が折れた。
白倉は倒れる相手を見届けると、指先を軽く振った。
張り詰めていた線がほどけ、音もなく手元へ戻っていく。
細い繊維は再び束となり、白倉の腕に巻きついた。
5人が地面に沈んでいた。
息は全く乱れていない。呪力は殆ど減っていない。
「お見事です!野原さん!!」
白倉が目を輝かせて拍手した。
その背後には泡を吹いて気絶した泳者が山になっている。
……5人とも、死滅回游に参加する前のひろしなら、苦戦していた術師だった。
それを、ひろしと出会ってまだ1週間ほどの青年が、こともなげに片付けていた。
言った時は、喉に引っ掛かった。
いざ目の前で証明されてみると、引っ掛かっていたものは、いつの間にか胸の底へ落ちている。
白倉の背中の向こうで割れたアスファルトの欠片が1つ、遅れて転がった。
息ひとつ乱れていない肩が、呼吸に合わせて静かに上下している。
(……そりゃ、勝てて1割だ。才能って残酷だな)
……宿ったばかりの自信は、すぐに消えた。
ひろしが賞賛しようと口を開きかけた、その時。
――胴体が割れた。斬られた。終わった。死――
無意識に頬を叩いた。
違う、オレは、まだ死んでない。
凄まじい殺気が背中を通り抜けた。
ひろしは滝のように汗を流し、丸めた領収書を何枚か掴み出して、白倉を怒鳴る。
「逃げろ!白倉!!」
白倉は状況に追いつけていなかった。
さっきまで、自分たちは勝利の余韻に浸っていたはずだ。
いくつもの疑問を飲み込んで、言い返す。
「いいえ、野原さんが戦うなら僕も戦います!!」
「ゴチャゴチャ言うな!オレを困らせたいか!!」
こうしている間にも、殺気の主はどんどん近づいてくる。
ひろしはやむなく、白倉の盾になるよう前に出た。
音はほとんど聞こえなかった。
空気が1本の線で切られたような錯覚だけが先に来た。
――殺気の主が全貌を見せる。
ひろしは愕然とし、白倉はぽかんとした。
「……なにしてんだ、野原」
日下部篤也。野原ひろしの同期。
その隣で水色の髪の少女が、ぱっと顔を明るくした。
「野原さん、久しぶりです!……後ろの方は?」
京都校2年、三輪霞だった。
「お、お前、どうしてここに……!?」
ひろしの声が裏返る。
日下部は、気怠そうに眉を寄せた。
「……オマエ、名簿見てねーのか」
沈黙が流れる。
ひろしは領収書をしまった。
日下部は柄から手を離した。