2018年11月1日、0時33分。
最初の悲鳴を聞いた時、野原ひろしはまだ事態を楽観していた。現場に急行した術師たちと共に事態を解決し、上からの評価を貰う。そして、それが準一級から一級への昇級査定に繋がるかもしれない。
そんな希望的観測は、これから無惨に打ち砕かれることになる。
街の空気は確かに異様だった。「コガネ」と名乗る式神のような存在が上空を飛び回り続け、「死滅回游」なるゲームのルールを延々と読み上げている。
事情を知らない一般人たちは当然混乱していた。
事情を知る側のひろしにしても、状況を完全に理解できているわけではない。しかし、それでも。
それでも対応不能だとは思っていなかった。
呪詛師による大規模な呪術テロかもしれない。だが渋谷では多くの術師たちが活動しているはずだ。
多少厄介な状況になろうとも、最終的には誰かが事態を収束させる。何より、五条悟だっているんだ。
ひろしには、まだそんな甘い認識が残っていた。
だからこそ、その悲鳴に含まれていた恐怖が引っ掛かった。それは混乱から生まれる叫びではなかった。何かから逃げなければ死ぬ。
そんな本能的な恐怖に突き動かされた叫びだった。
ひろしは反射的に顔を上げる。東口方面で人の流れが崩れていた。いや、正確には逆だった。
人の流れが生まれていた。誰かが走る。
それを見た誰かが走り出す。理由を知らない人間までもが釣られるように逃げ始める。そんな連鎖が数秒で広がり、駅前の群衆は一斉に同じ方向から押し戻されるように動き始めていた。
ひろしは人波の隙間から、その元凶を捉える。
呪霊だった。その事実自体には驚かない。準一級呪術師であるひろしにとって、呪霊は日常の延長線上にいる存在だった。しかし次の瞬間、ひろしは愕然とする。
異常なのは呪霊がいることではない。
出現した呪霊の数が、あまりにも多すぎた。
視線を動かせば、どこもかしこも黒い影が蠢いている。自然発生で説明できる数ではない。
帳の中で遭遇する発生密度ですらなかった。街全体へ意図的にばら撒かれたと捉える方が、よほど自然だった。視界に入るだけでも十数体はいる。
そこで初めて、ひろしの脳裏に過去の事件が蘇る。
――百鬼夜行。約1年前、現代最悪の呪詛師・夏油傑が新宿と京都に夥しい数の呪霊を投入し、同時多発的な被害を発生させた未曾有の大規模呪術テロ。
目の前の惨状は、当時の状況とあまりにも似ていた。
「クソっ! なんでこんな数の呪霊がいるんだ!?」
思考が勝手に答えを探し始める。
もし百鬼夜行を行うほどの術師が動いているのなら、今の異常事態も説明がつく。
しかし、百鬼夜行のような大規模呪術テロを実行できる術師を、ひろしは1人しか知らない。
体内に呪霊を取り込み意のままに操る術式、「呪霊操術」の使い手。夏油傑だ。
――だが、夏油傑は、既に死んでいる。
高専に関わる者なら誰もが知る事実だった。
だから本来なら、この推論はそこで否定されるはずだった。だが、目の前の惨状がそれ以外の説明を許さない。ならばなぜ、夏油が生きているのか。
――あるいは、夏油に並ぶ術師が現れたのか。
無茶な仮説だと分かっていながらも、現状ではそれが最も筋が通っているように感じられた。もし夏油傑が生きていたのだとしたら、勝ち目など皆目ない。
直後、人混みの中で1人のサラリーマンが転倒した。
逃げ惑う人波に弾かれ、立ち上がる余裕もない。
2体の低級呪霊がその方向へ向かう。ひろしは思考するより先に動いていた。人混みを掻き分けるように距離を詰め、自らの拳に呪力を流し込む。
1体目の呪霊は真正面から放った拳で祓った。
潰れるような音と共に呪霊の身体が霧散する。間髪入れず、2体目へ踏み込む。振り向きざまの裏拳が呪霊の頭部を叩き砕いた。2体とも低級だった。ひろしにとって脅威ではない。問題は、その直後だった。
別方向から悲鳴が上がる。助けた。確かに助けたはずだった。なのに被害が減った感覚がない。
むしろ悪化している。新たな悲鳴が重なる。断末魔のような叫びも混じり始めていた。
ひろしは走った。だが走れば走るほど、問題の本質が浮かび上がってくる。呪霊が強いのではない。
数が多すぎるのだ。1体祓う。別の場所で2体現れる。2体祓う。今度は別方向から悲鳴が上がる。
歌舞伎町方面へ向かえば東口が手薄になる。
東口へ戻れば別の通りが危険になる。
終わりが見えなかった。いずれ大型呪霊も現れるだろう。そうなれば被害はさらに加速する。
目の前の1体を祓っても意味がない。消火活動をしているはずなのに、火の手が増えていく。終わりが見える気配はない。個人の戦闘能力で覆せる段階は、とっくに過ぎている。
その事実を理解したからこそ、ひろしは戦闘より避難誘導を優先し始める。少しでも多くの一般人を生かすためだ。
「渋谷へ行け!!とにかく走れ!!」
迫り来る呪霊を祓いながら、背後にいる民衆に叫ぶ。
「なんでだよ!?」 「おっさん、あんた警察か!?」
「いいから行け! 早くしろ!!」
呪術の存在は説明できない。
呪霊の姿を視認できない人間もいる。
だから言葉を選ばなければならなかった。渋谷には自分より遥かに強い術師たちがいる。全てを任せられる最強の術師、五条悟がいる。
面倒臭がりながらも、最後には必ず逃げずに戦う日下部がいる。……信頼できる、仲間たちがいる。
だから一般人をそちらへ流す。少しでも生き残る可能性が高い方向へ。そのためにまずは時間を稼ぐ。
ひろしに襲いかかる呪霊に正拳突きを浴びせ、霧散させた。すぐさま死角から新たな呪霊が現れ、腹部に噛み付いた。呪力によるガードは間に合った。
だが、痛いものは痛い。舌打ちして肘と膝で叩き潰す。正面を向くと3体の呪霊が自分に近づいてくる。キリがない。
「オレよりもっと強い奴らがいる!」
その言葉は避難民へ向けたものだった。同時に、自分自身へ向けた言葉でもあった。大丈夫だ。
この規模なら既に誰かが動いている筈だ。高専だって対応を始めている筈だ。補助監督もいる。
一級術師たちもいる。何より、五条悟がいる。そう信じていた。信じて疑わなかった。
だからこそ、時間が経つにつれて認識が揺らいでいく感覚は不気味だった。誰も現れない。
広い現場なら到着が遅れることもある。
だが百鬼夜行級なら話は別だ。総力戦になっているはずだった。補助監督が動く。術師が配置される。
連絡網も機能する。少なくとも自分が単独で走り回る状況にはならない。はずだった。
ところが、どれだけ待っても状況は変わらない。
被害だけが増えていく。救助へ向かった先には既に誰もいない。判断に迷った数秒の間に、別方向から新たな悲鳴が響く。助けたい。しかし届かない。
――助けられない。
羽根の生えた呪霊が、上空から襲いかかってくる。
ひろしは最小限の動きで襲撃を躱し、呪霊の推進力を利用してカウンターパンチを喰らわせた。
ずぐしゃ、と嫌な音を立てて呪霊の頭はひろしの拳の型にめり込み、力なく転がり倒れ、霧散した。
(オレは準一級術師として、そこそこ戦える方だ)
それは事実だった。だが、新宿全体に発生した呪霊を1人で止めきれるほど強くはない。呪霊へ回し蹴りを叩き込み、背後から飛びかかってきた呪霊を手刀で両断した。祓う、走る。助ける、また祓う。
それでも、状況は何一つ好転しなかった。
術師としての限界を突き付けられるたび、別の疑問が大きく膨らんでいく。なぜ、なぜ誰も来ない。
この状況が百鬼夜行だと思えば、多くのことが説明できる。だが、その仮説で説明できないことが1つだけあった。高専の沈黙だ。百鬼夜行ならば高専側が真っ先に動いているはずだ。
なのに、救援も増援も、自分の知る術師たちの姿も一切見えない。なぜだ。疑問が膨れ上がっていく。
自分の仮説は正しいはずだった。目の前の光景は、どう考えても大規模呪術テロだ。それなのに、その仮説が前提としている反応だけが存在しない。
この規模の事件なら、既に高専の誰かと接触、合流していてもおかしくないはずだ。むしろ合流していない方がおかしい。その矛盾が、ひろしの胸にじわじわと不安を広げていった。
「本当に百鬼夜行なら、高専が動いてるはずだろ……なのになんで……誰も来ないんだ……?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。これは百鬼夜行だと思ったから安心できた。
理解可能な災害だと思わせられたからだ。夏油傑による呪術テロなら、高専は必ず動く。術師たちも戦う。自分もその一員として戦えばいい。
そう自分を納得させられた。しかし今は違う。
百鬼夜行だと考えるほど、この状況はむしろ説明できなくなっていく。その事実だけが、夜が更けるにつれて、鋭く、重く、突きつけられていった。
2018年11月1日、3時53分。
ひろしは新宿から渋谷への避難誘導を続ける中で、幾度となく呪霊との交戦を重ねていた。
激痛と疲労で意識が朦朧としている。
呪霊に裂かれた傷口からは血が滲み続け、胸へ受けた打撲の痛みで呼吸も思うように整わない。
走るたびに肺が軋み、全身が悲鳴を上げる。それでも止まれなかった。止まるわけにはいかなかった。
目の前で人が死ぬ。悲鳴が聞こえる。だから動く。
ただそれだけで力を振り絞り走り続けてきた。
しかし、その意地も、もはや限界だった。
――死ぬ。
不意に、その言葉が頭をよぎる。これ以上無理を続ければ、本当に死んでしまう。ようやくひろしはそれを認めた。
……苦渋の決断だった。
逃げるわけではない。見捨てるわけでもない。
だが生きていなければ何もできない。ひろしはやむを得ず、戦線から一時離脱することを決めた。
地下通路を抜け、商業施設のバックヤードへ身を隠す。そこだけは異様なほど静かだった。
地上では今も被害が広がっているはずなのに、ここには怒号も悲鳴も届かない。その静けさが、かえって現実味を失わせる。壁へ背中を預けた途端、それまで張り詰めていた意識がわずかに緩んだ。
身体中が痛みを訴えていた。腕も重い。肩も重い。
脚も鉛のようだった。緊張の糸が切れると同時に脳内麻薬が切れ、重く鋭い痛みがひろしを襲う。
激痛で気を失いそうになりながらも、根性でとどまり、ネクタイを噛みちぎって傷口を縛り、応急処置を済ませる。本来なら病院へ運ばれるべき状態だった。だが今はそんな状況ではない。救援を待つ。
その間も地上では呪霊によって一般人が殺され続けている。そう考えただけで胸の奥が軋んだ。押し寄せる無力感と悔しさに、ひろしはたまらず拳を握り締める。
新宿にいたのがオレなんかじゃなく、五条なら。
七海なら、冥冥なら、日下部なら。もっと多くの人を救えたはずだ。なのに、それなのに――。
爪が掌へ食い込む。じくりと痛みが走る。それでも拳を緩める気にはなれなかった。
その時だった。ふと、ひろしの脳裏に息子の顔が浮かぶ。野原しんのすけ。転んで怪我をした時、消毒しただけで泣きそうになってた。
アクション仮面の絆創膏を貼ってやると嬉しそうに笑って走り出し、その直後にまた転んでいた。思い出して、ひろしは小さく笑った。可愛い奴め。
続いてみさえの顔が浮かぶ。怒るとうるさい。
態度もケツもでかい。口も悪い。だが最後には必ず家族を優しく包み込む。ひまわりの顔も浮かぶ。
シロの顔も浮かぶ。ひろしの目尻に涙が溜まる。
当たり前のように存在していた日常だった。いつでも帰れると思っていた。いつでも会えると思っていた。だが今は違う。帰りたい。ただ帰りたかった。
家に帰って、一人ひとりの顔を見たい。抱きしめたい。声を聞きたい。そんな当たり前の願いが、今はどうしようもなく遠く感じる。
「しんのすけ……」
掠れた声が漏れる。
「みさえ……ひまわり……シロ……」
返事はない。当然だ。ここには誰もいない。
壁と床と薄暗い照明だけがある。それでもひろしは目を閉じた。呪術師として働くことを反対された日のことを思い出す。心配されるのが嫌だった。
正確な仕事内容は教えていない。呪術規定があるからだ。熊や猪などの害獣を駆除する仕事と話した。
どうせ理解してもらえないと決め付けてもいた。
だが今は違う。無性に帰りたかった。
今すぐ家へ帰って、平凡な日常の中へ戻りたかった。しかし無情にも、容赦なく現実は続いている。
地上では今も誰かが逃げている。誰かが泣いている。誰かが死んでいる。その事実を分かっているからこそ、こんな所で眠るわけにはいかなかった。
それでも、ひろしの身体は既に限界を超えていた。深く沈んでいく意識を引き留めることができない。
ひろしは薄く目を閉じた。抗おうとしても瞼は勝手に落ちていく。静寂だけが周囲を満たしていた。
その静寂の中で、ひろしは微睡みに身を委ねる。日常が音を立てて崩れていくのを感じながら、今はただただ、受け入れることしかできなかった。