2018年11月12日、12時45分。
「……名簿?」
声が裏返った。
背中を撫でていった殺気の余韻が、冷や汗になって襟の内側に張りついている。
膝が、遅れて笑い出していた。
斬られた、と身体のほうが先に認めてしまったのだ。
音も光もなかった。
空気が1本の線で割れた感覚だけが、背骨の内側にまだ残っている。
日下部の殺気は、言い訳を挟む暇をくれない。
「昼頃に書き換わったんだよ。オマエ、見てねーのか」
日下部は柄から離した手をポケットへ突っ込み、面倒そうに顎をしゃくった。
ひろしは慌ててコガネを呼び、画面を送る。
虎杖と伏黒の枠に目を奪われて、その周りの変化を読み飛ばしていたらしい。
日下部篤也。三輪霞。
滞留結界の欄には、どちらも東京第1の文字が並んでいた。
「えぇ〜っ!?い、いつの間に……」
「仙台から来た。細かい話は後だ」
日下部の視線が、ひろしの顔から路地の奥へ動く。
倒れた泳者たちが、割れたアスファルトの上で呻いていた。
「見知ったマヌケ面が出てきてよかったぜ。あやうく斬るところだった」
弁解の色がまるでない、乾いた声だった。
ひろしは言い返そうとして、やめた。
久しぶりに見る同期の背中が、自分の知っているものより張り詰めて見える。
その理由をたった今、理解したからだ。
今の日下部は三輪を守るために、周囲の敵全てを切り捨てるつもりでいたのだ。
それも、日下部の呪力を知っているひろしですら殺気で気圧されてしまうほどの強い覚悟で。
(相変わらずだな、日下部)
ひろしはふっと笑った。
「日下部さんは、昨日からずっとこうなんです」
水色の髪の少女が半歩前に出て、ぺこりと頭を下げた。
「野原さん、お久しぶりです。ご無事で、本当によかった」
「三輪も死滅回游に参加したのか。……刀は?」
ひろしは三輪を、刀を扱う術師と認識していた。
確か日下部と同じシン・陰流の門下生だったはず。
「あはは……色々あって、刀、振るえなくなっちゃいました」
「色々あって、刀を振るえなく……?」
そこまで話して、三輪はひろしの後方の視線に気付く。
白倉飛鷹が、直立不動で2人を見ていた。
サングラスを外した顔に、期待と緊張が半々で浮かんでいる。
「ああ、紹介が遅れた。こちらは白倉飛鷹君。オレの……」
言いかけて、ひろしは日下部の視線を意識した。
この男の前で、情けない顔は見せたくない。
「……弟子みたいなもんだ。オレが一から鍛えた」
胸を張る。見栄を張る。調子に乗る。
口にした瞬間、自分の頬が緩んでいるのが分かった。
営業先で、自社の看板商品を紹介する時の顔だ。
この顔で出した提案は通る、とオレは信じている。
根拠は特にない。
(さっき自分で「君はオレより強い」って言ったばかりだろ」
「……いや、それとこれとは別だ。同期の前で「オレより強い弟子です」なんて言えるか!)
日下部の眉が、片方だけ持ち上がった。
「……オマエが、弟子?冗談は顔だけにしろ」
「必死に生き抜いた同期に対して辛辣過ぎないか?」
日下部の疑念とは裏腹に、白倉は元気な声で返す。
「はい!野原さんには大変お世話になっています!」
「初めまして!僕は白倉飛鷹です!日下部さん、三輪さん、これからよろしくお願いします!」
白倉は深々と頭を下げた。日下部の顔が曇る。
「あぁいや……どうも。日下部篤也だ。よろしく頼む」
「白倉さん初めまして。私は三輪霞です」
三輪も白倉と同じくらい深々と頭を下げる。
2人は同時に頭を上げるとにっこりと笑いあった。
「日下部さんは顔が怖くて捻くれ者ですけど、人並みの優しさは備えてる人なんで心配いりませんよ!」
三輪の言葉にひろしは思わず吹き出した。
「オマエら基本俺を舐めてるよな」
日下部が三輪とひろしを睨みつけた。
白倉もたまらず吹き出した。
出会って数分で和やかな雰囲気に包まれたが、ここが戦場だということを忘れてはいけない。
「移動だ。ここは見通しが良すぎる」
日下部は倒れた連中に一瞥もくれず、先に歩き出した。
三輪が歩く側に塀を置き、自分は道の開けた側を進んでいく。
その様子を目で追っていたひろしの肩で、カラスが羽を畳み直した。
日下部の視線が、その黒い羽に止まる。
「……おい、こりゃなんだ。まるで冥冥の」
「あとで話す。オレにもよく分かってないんだ」
「……ああ、そうしろ」
見つけた雑居ビルの階段を、4人で上る。
ひろしは癖で出口を数えた。
非常階段と、屋上へ抜ける梯子。
逃げ道は2つ。
先頭の日下部が踊り場で一度だけ振り返り、ひろしと目が合った。
「意外と小綺麗だな。てっきり俺は、オマエがもっとボロボロになってると思ってたぜ」
「馬鹿野郎。オレが家族を置いて死ぬかよ。お前の方こそ、臆病者のくせによくここまで来れたな」
どちらの口の端も、ほんの少しだけ緩んでいた。
2018年11月12日、13時20分。
3階は空きテナントだった。
床に残るガムテープの跡と、壁の日焼けだけが、ここにかつて誰かの仕事があったことを教えている。
ひろしが窓の位置と出口を確かめている間に、三輪が鞄から救急用の包帯を取り出した。
「日下部さん。肩、巻き直します」
「いらねぇ。かすり傷だって言ってんだろ」
三輪は申し訳なさそうに言葉を続ける。
「かすり傷じゃありません。昨日、杭が肩を掠めたじゃないですか……私のせいで」
(日下部が怪我……?)
ひろしは振り返った。
日下部の右肩、破れた袖の隙間から、白い包帯が覗いている。
この男が「かすり傷だ」と言う時は、たいていかすり傷ではない。
「白倉君、ちょっといいか?」
ひろしが白倉を見ると、待ってましたと言わんばかりに白倉が日下部に近づく。
「日下部さん、傷を診せてください。」
「おいおい……オマエに診せて何が変わる」
いきなり距離を詰める白倉に戸惑う日下部。
ひろしは吹き出しそうになりながらも弟子の活躍を披露する機会を逃さなかった。
警戒を崩さない日下部に白倉は自身の術式を話す。
「繊維の性質を変える術式の応用です。皮膚や筋膜みたいに繊維状の構造を持つ組織を読み取って、残っている部分を編み直します」
「失われた肉を新しく作れるわけじゃありませんし、骨や内臓、深いところの損傷には触れません」
「名前はまだ決めかねているんですが、自分では、
(……名前まで付けてたのか)
ひろしの胸に、妙な誇らしさが込み上げた。
(あの路地で黒金の皮膚を戻した、あれの延長か)
(……いや、延長どころじゃない。教えたつもりのないことを、白倉君は1人で形にしている。
(見ろ日下部、これが!オレの弟子だ!!)
そう訴える目を、ひろしは隠しきれなかった。
日下部が、ひろしの顔をちらりと見た。
「……おい、野原」
「ん〜?何だね、日下部君」
「顔がうるさい」
「顔がうるさいってなんだ!?」
日下部は小さく息を吐き、白倉へ視線を戻した。
「反転術式……じゃあねーよな?」
「いえ、術式の拡張です。外傷のうち繊維状の組織に限って、傷口をつなぎ直せます」
「ですが病気も毒も、骨の内側も、今の僕には触れません」
「それと、呪力の消費がとても激しいです」
「戦いで使う呪力操作は、流して固めるだけの単純なものですけど、他人の身体を編み直す操作はまるで別物で、ずっと繊細なんです」
「得体の知れねぇ術式を、俺の身体に通せってのか」
日下部の声が低くなる。
この男は、自分の命に関わる話になると、途端に慎重になる。
「悪いが遠慮する。治るとしても、通ったもんが何を残すか分からねぇからな」
「……日下部さん」
三輪が、包帯を握ったまま顔を上げた。
「今朝、半歩までは前に出ていいって言いましたよね」
「守ってもらってるのは私です。でも、その肩で私の前に立たれるのは、見ていて辛いです」
「その半歩の分くらい、私にも守らせてください」
日下部は押し黙った。ひろしと白倉は見守る。
「……5分だ」
上着を脱ぎ、自分で包帯をほどく。
「妙な真似をしたら斬るからな。野原を」
「なんでオレなんだよ!?」
仏頂面で白倉の治療を待つ日下部は健康診断で注射を打たれるのを心底嫌そうにする患者のようだった。
「ふふ……はい、ありがとうございます」
白倉の右手が、肩の傷口に置かれた。
呪力が染み込んでいく。
傷の縁で、細い糸のようなものがほどけ、また結ばれていくのが、ひろしの目にも見えた。
日下部の肩がぴくりと跳ねかけて止まり、奥歯の噛み合わせが変わったのを、ひろしは見逃さなかった。
同期になって長いが、この男が痛みを顔に出したのは数えるほどしか見ていない。
今のは、その数えるほどの1回に入る。
白倉の指は、傷の縁を1本ずつ拾っていく。
日下部は壁の一点を睨んだまま、微動だにしない。
ただ、握った左手の甲に血管が浮いていた。
強がりの下手な男だ、とひろしは思った。口に出せば斬られる。
裂けた皮膚の縁が少しずつ寄り、開いていた傷口が閉じていく。
その途中で、白倉の手がぴたりと止まった。
「……っ」
「どうした」
「……すみません。奥の繊維が、思ったより絡まっていて」
「日下部さん、少しだけ動かないでください」
白倉の額から汗が顎へ伝い、床に落ちた。
呪力の流れが一瞬、乱れる。
糸のほどける速さに、結び直す速さが追いつかない。
傷口が、わずかに開きかけた。
ひろしは思わず一歩踏み出しかけた。
白倉の唇が小さく震えている。
路地で見た時とは比べものにならないほど濃く静かな呪力が、削り取られるように減っていく。
「……おい、野原。止めなくていいのか」
「……大丈夫だ、白倉君ならやってくれる」
答えた声は、自分でも驚くほど硬かった。
握った拳の中で、爪が掌に食い込んでいる。
(きっとこれも貴重な経験になるはずだ)
(……なるはずだが、頼むぞ、白倉君)
白倉の目は、手元の1点だけを見ている。迷いがなかった。
やがて、乱れていた流れが、ふっと凪いだ。
絡まっていたものが、一息にほどけていく。
傷の縁が静かに寄り、赤黒く固まった血が、かさぶたごと剥がれて床に落ちた。
数分後、白倉が手を離す。
「……できました」
声が掠れていた。顔色が悪い。
立ち上がろうとして、白倉は一度よろめいた。三輪が咄嗟に腕を支える。
左腕に巻いていた釣り糸の束が制御を失い、はらはらとほどけ落ちた。
ひろしは白倉の呪力を肌で測った。
3分の1ほどが確かに減っている。
それでも白倉は三輪の手を借りながら、自分の足で立っていた。
日下部は無言で右肩を回し、肘を曲げ、拳を握る。
傷口は塞がっていた。肩口に、うっすら白い筋が走っているだけだ。
「……妙な感触だ。傷の下を、細い糸が縫っていったみてぇな」
「……すげぇな。眉唾ものだったが、疑って悪かった」
白倉は明らかに疲弊している。
日下部は感心と同時に、白倉の献身に態度を改める必要を認めた。
「恐縮です。……痛みはありますか」
「ない。全快と言っていい」
日下部は後ろ首を掻き、白倉から目を逸らしたまま、ぼそりと付け足した。
「……助かった。ありがとな。……借りができた」
不器用な礼だった。白倉は笑顔で返した。
「包帯は……もう要りませんね」
三輪が少し肩を落とした。
巻き直すつもりで握っていた包帯が、手の中で行き場を失っている。
「とっとけ。そのうち、そこのマヌケ面が必要になる」
「誰がマヌケ面だ!なぁ日下部、回復したんだろ。殴っていいか?」
わなわなと拳を振り上げるひろしと、それを無視して三輪に顔を向ける日下部を見て、三輪はくすりと笑った。
ひろしは白倉に小声で声をかけた。
「白倉君、呪力はどのくらい残ってる?」
「3分の2ほどです。ただ、細かい操作は、しばらく鈍ります」
「糸も、すぐには巻き直せなくて」
「ありがとう。でも無理はしないでくれよ」
「無理はしてませんよ。役立てて嬉しいんです。野原さんも安心して怪我してくださいね」
白倉のあまりに嬉しそうな声に、ひろしは視線を逸らした。
「怪我は安心してするものじゃねーよ……」
2018年11月12日、13時48分。
腰を下ろすなり、ひろしは最初に高専の状況について詳しく聞こうとしたが、のらりくらりとかわされた。
「五条は無事なのか。渋谷は、他の連中は――」
「その話は後だ」
「いやいや、後って、お前な……」
「生きて動いてりゃ、話す機会はいくらでもある。それより先に、オマエのことだ」
そう言った日下部の視線が、ほんの一瞬だけ、壁際で糸を巻き直している白倉を掠めた。
ひろしはそれに気づかなかった。
ペットボトルの水を一口飲んでから、日下部が口を開く。
「領収書と、冥冥の鳥。いつから術式持ちになったんだ?」
ひろしは床に胡座をかいた。
三輪と白倉も、壁際に腰を下ろす。
覚悟は、さっき階段を上りながら決めていた。
「全部話す。……長くなるぞ」
ひろしは周囲に事の顛末を話した。
11月1日。
新宿の地下で気を失うように眠った間に、夢の中で広という少女に会い、術式に目覚めていると告げられたこと。
11月4日。
レジィという泳者に殺されかけた末に、燃やした紙から車が出たこと。
病院で診療明細書を燃やすと、物ではなく治療の「結果」が身体に現れたこと。
「結果ごと、ですか……?」三輪が小さく呟く。
「じゃあ、本当に傷が」
「ああ。死にかけてた身体が、立って歩けるところまで戻った」
日下部は黙って、先を促した。
再び夢で広に会い、レジィの術式の名である「再契象」とは違うと断言されたこと。
白倉は熱心に聞いていた。
再契象が仮の呼び名に過ぎなかったと詫びると、「話してくれて、嬉しいです」と首を振った。
11月5日。
五条の術式を借りられるのではと浮かれて、路地裏で「オレ最強だから」と名乗り、一発で殴り飛ばされたこと。
「……言ったんですか、本当に」
三輪が両手で顔を覆った。
「聞かなかったことにしてやる」
「しっかり聞いた顔だろ、それ」
居合わせた白倉だけが、何も言えず、そっと視線を逸らした。
包み隠さず話した。
呪術に関する知識は日下部の方が圧倒的に豊富だ。
広は話すことが出来ない術式の真相も、日下部なら分かるかもしれない。
三者三様の反応の中、ひろしは広について話した。
「13日まで生き延びて」「19日以内に点を獲って」
居場所を訊けば「探さなくていい」と返され、読唇術で名乗りを読み取ろうとしたところで、世界ごとノイズに呑まれたこと。
ダンスレッスンは終わったか、と口が勝手に動いたことまで、ひろしは隠さず話した。
「……最後のは、オレにも意味が分からん」
「安心しろ。俺には全部分からん」
日下部は短く言っただけで、遮らなかった。
11月10日。
カラスの鳴き声を聞いた瞬間に、頭の引き出しが開く感覚があったこと。
冥冥の黒鳥操術が使えたこと。
そして昨日、名簿で見た違和感。
虎杖の枠だけ、結界の欄が空だったこと。
「虎杖の中には宿儺がいる。数えられてるのは、そっちかもしれねぇと思った」
「……俺も同じ見立てだ」
日下部が低く言った。
「昨日、名簿を見て俺もそう考えた」
「結界の欄が空なのは、数えられてるのが器じゃなく中身だからだろう」
「虎杖さん、という方は……」
白倉が、ぽつりと口を挟んだ。
「中にいる、その宿儺という人と、ずっと一緒なんですね」
「……それは、苦しいでしょうね。助けられるなら、助けたいです」
日下部の視線が、白倉に止まった。
「……そうか」
それだけだった。
その間の長さに、ひろしは気づかなかった。
「……だったら、オレにも」
そこで一度、言葉を切る。
「オレの中にも誰かいて、そいつが広なんじゃないか」
「そう考えた。馬鹿な話だとは思う」
三輪が息を呑み、白倉がひろしの横顔を見る。
日下部は表情ひとつ変えずに聞いていた。
「ひとつずつ片づけるぞ」
壁から背を離して、日下部が言う。
「まず五条の術式だ。使えなかったのは当たり前だ」
「五条みたいに無下限を使いこなすには、六眼が要る」
「呪力操作の精度が違いすぎるんだ」
「六眼……あの青い目には、名前があったのか」
(お気に入りのカラーコンタクトじゃなかったのか)
ひろしの顔で察したのか、日下部は呆れつつ説明を続ける。
「カラコンじゃねーぞ。五条家の人間に発現する特殊な眼だ」
「あの眼は呪力の流れを原子単位まで見切れる」
「無下限呪術ってのは、それくらい緻密な呪力操作が要る術式だ」
「持ってるだけではまともに扱えない代物なんだよ」
「しかも六眼は術式ではなく、生まれ持った体質だ」
「仮に術式を借りられる人間がいても、体質までは借りられん」
「……でも、冥冥さんのカラスは?」
三輪が問いかけた。ひろしはカラスを操っている。
精度は冥冥に遠く及ばないが、確かに黒鳥操術だ。
「無下限に比べたら遥かに難易度は低い」
「野原が扱えたとしても、妥当ではある。ここまでは辻褄が合う」
日下部の目が、ひろしを捉えた。
「だが、辻褄が合うのと、正体が分かったのは別の話だ」
「術式の正体は模倣かもしれんが、そうじゃないかもしれん」
「なにせまだ2つしか見てねぇからな」
「……ああ」
「乙骨ですら他人の術式を模倣するのに条件を満たす必要がある」
「なのにオマエは本家に劣るとはいえ、触れた、見た、それだけでほぼ無条件に他人の術式を使用出来ているよな」
「1人の肉体に刻まれる術式は1つだ。それを複数保持して併用出来るとなると、何らかの代償があってもおかしくない」
「そして、それをいつ払うことになるかも分からん」
ひろしは黙って頷いた。日下部は続ける。
「今使ってる再契象と黒鳥操術以外は使うな。あまりにもリスクがでかすぎる」
頷きながら、頭の片隅に、これまで出会ってきた術師たちの顔がいくつか浮かび、すぐに沈んだ。
「……分かった。その2つ以外は使わない」
口ではそう言った。
喉の奥に小さな引っ掛かりが残ったが、水で流し込んだ。
「次に、その広って奴の話だがな」
日下部の声が少しだけ低くなった。
「俺は、客観的な話だけをする。どう受け取るかはオマエの勝手だ。聞きたくなきゃ耳を塞げ」
「聞く……言ってくれ」
指も折らずに、日下部は淡々と並べていった。
「そいつはオマエに術式がないことも、それが発現したことも知ってた。誰にも話してない話を、だ」
「高専に広なんて名前の人間はいない。少なくとも俺は知らん」
「……情報の出所が分からん」
「13日まで生き延びれば『きっと』何かが起きる」
「そう言ったらしいな。何が起きるのかも、何を根拠にしてるのかも分からない」
「居場所は不明。会えない以上、言ってることを確かめようもない」
「そして名簿にも、広と断定できる名前は載ってない」
「奴は点を獲れと言った。つまり、人を殺せってことだ。どんな顔で言ったにせよ、な」
「そしてオマエは会ったこともない相手を、理由抜きで丸ごと信じてる」
「精神に手を入れられた奴が最初に出す症状としちゃ、妥当な反応だ」
「最後に、夢の中でオマエに何度も謝っていたそうだな」
「だが、肝心なことは言わない。伝えようとする努力をしてるってのも、俺には信用ならん」
……部屋が静かになった。空きテナントの空気が止まった。
誰も水に手を伸ばさない。
ひろしは、床に残ったガムテープの跡を目で追っていた。
貼られていたものだけが剥がされ、跡だけが、貼られていた形のまま残っている。
三輪が口を開きかけて、閉じた。
白倉は拳を膝に置いたまま動かない。
ひろしの喉まで、「それでも信じてくれ」という言葉が出かかった。
営業で使い古したその言い回しの軽さに、自分で顔をしかめる。
契約書もない約束を、どうやって売り込めばいい。
三輪がそっと、ひろしの横顔を窺う。
その沈黙を破ったのは、白倉だった。
「日下部さん」
膝の上の拳が小さく震えていた。
それでも声ははっきりしていた。
「広さんが何者なのか、僕には分かりません」
「でも、野原さんがここまで生き延びてこられたのは、その人の言葉があったからだと思います」
「……僕は、野原さんが信じるものを、信じたいです」
日下部の目が、すっと細くなった。
「アホ共。オマエらは信じる基準が甘いんだよ」
ひろしの背筋が伸びた。
同じ言葉を、数日前に、自分が胸の内で呟いたからだ。
「助けを求められたら、考える前に走る」
「信じろと言われたら、疑う前に頷く。……そういう奴から死んでいく」
「……はい。野原さんにも、似たことを言われました。術式を軽々しく明かすなって」
白倉は目を逸らさなかった。
「それでも、僕は信じたいんです」
日下部は答えなかった。
その目が測っているのは広ではなく、目の前の青年のほうだという気がして、ひろしは口を挟めなかった。
「……日下部さん」
空気を割ったのは、三輪の小さな声だった。
「野原さんは、広さんを信じたいんだと思います。理屈じゃなくて」
「……三輪」
「私も、与くんのことで、理屈じゃなく日下部さんを仙台まで付き合わせました。だから、分かるんです」
ひろしにはその事情が分からなかった。
ただ、三輪の声の硬さだけは伝わってきた。
日下部は短く息を吐いた。
「……アレは、俺が決めて付いて行った。情報収集もかねてな。オマエが気にする話じゃない」
ひろしは反論しなかった。
怒りも湧かなかった。日下部が並べた8つは、どれも一度は自分で考えたことのあるものだった。
夢の中で、泣きながら謝る広の顔を見てから、考えても結論を出すのをやめていただけだ。
「……ああ。全部、その通りだよ」
「そうか。なら……」
「でもな日下部。あの子は、オレに生きてほしがってた。それだけは、オレの中では本当なんだ」
日下部は答えず、大きく息を吐いた。
「オマエにそいつを信じるなとは言ってない。ただ、検証できるまでは手札に数えるな。それだけだ」
「……ああ。分かった」
13日は明日だ。広の言ったことが本当に起きるのか。起きなかった時、自分は何を思うのか。
ひろしは、その先を考えるのをやめた。
2018年11月12日、14時20分。
「リンゴン!リンゴン!リンゴーン!!」
4人の頭上で、4体のコガネが同時に弾けた。
「泳者による死滅回游へのルール追加が行われました!!」
「〈総則〉11、泳者は任意の数の点を他泳者へ譲渡できる」
声が途切れ、画面に新しい項目が灯る。
「ほれ、また100点をポンと払った奴が出たぜ」
ひろしの肩の上で、コガネが軽口を叩いた。
「昨日の今日だってのに、景気のいい連中だなオイ」
ひろしは無言で名簿を送り、変更が01回になっている名前を1つずつ拾っていく。
指が止まった。
日車寛見。滞留結界、東京第1。変更、01回。
三桁あった得点が、一桁にまで落ちている。
「野原さん、その名前……」
覗き込んだ白倉に、ひろしは頷いた。
「昨日、覚えといてくれって頼んだ名前だ」
「102点を持っていた方ですね。それを使ったんですか」
「100点払って点の譲渡を作った。誰かに渡したんだろうな」
日下部が画面を見ずに言った。
「虎杖か伏黒が日車に交渉して追加させたんだろう」
日下部の予想に、ひろしは追加されたルールに込められた真意を理解した。
「そうか……点の譲渡が追加されれば、仲間内で点を移動させて、術式剥奪を免れることができる」
「そうだ。点の譲渡に死滅回游からの離脱。目的は伏黒の姉の救出だ」
「伏黒の、姉……?」
「そっちの話も後でする」
日下部はそう言うと、頭上のコガネへ顔を向ける。
「おい。譲渡だ。三輪に1点、野原に1点、白倉に1点」
「承知しました。日下部篤也様、5点のうち3点を譲渡します。よろしいですか?」
「ああ」
「おいおい待て待て、日下部」
ひろしが慌てて遮った。
「5点って、お前……誰かを」
「襲ってきた泳者を返り討ちにした。そんだけだ」
ひどくあっさりした答えだった。
「……日下部、オレは」
ひろしは必死に言葉を探した。
点を獲るつもりはなかった。
殺さないまま、いずれ術式を失うことも、半分は覚悟していた。
それがいま、手を汚さずに1点が入ろうとしている。
思っていたより、ずっと重かった。
「野原、いい加減腹を括れよ。泳者を殺すのは、呪詛師を殺すのと変わらん」
日下部はひろしの目を見ずに言った。
……正論だ。
しかしひろしは、誰かが仕組んだゲームによって人を殺すことに、強い嫌悪感があった。
拳を握り、開いた。
「……分かった。受け取る」
画面の隅に、「001」の数字が灯った。
「三輪の分は、念のためだ。何がきっかけで要るようになるか分からねぇ」
「ありがとうございます、日下部さん」
白倉は勢いよく頭を下げた。
「日下部さん、ありがとうございます!」
「白倉のはさっきの治療費だ。借りは返したぞ」
日下部の手元には、2点が残った。ひろしはその数字を横目で確かめ、何も言わなかった。
「野原、カラスを使った索敵はどこまで届く?」
「試行錯誤中だ。とりあえず2匹飛ばしてみる」
ひろしは窓際でカラスを2羽、空へ放ち、細い糸を手繰った。1羽は北へ、もう1羽は池袋の方角へ。
北の糸は軽い。池袋へ飛ばした1羽の糸だけが、明らかに重かった。
「……いる。池袋寄りの上空だ。しかも、動いてる」
「上に出るぞ」
日下部が屋上へ抜ける梯子に手をかけた。
屋上は風が強かった。ひろしは糸を張ったまま、カラスの向かった先に目を凝らす。
数百メートル先。ビルの上すれすれを、1つの人影が飛んでいた。
その下に、人がぶら下がっている。遠目にも分かる、逆立った黒髪。
「間違いない、伏黒だ……!」
「連れ去られてるのか?だったら――」
「待て野原。早まるな」
日下部がひろしの肩を掴んだ。
「気取られないよう、ゆっくり追いかけろ」
「何言ってんだ!?すぐにでも助けを……!」
狼狽えるひろしと対照的に、日下部は冷静に続ける。
「奴の動きを観察してみろ。どこか都合のいい拠点を探してる」
「……俺にはそう見える」
ひろしは改めて空の人影を見た。
確かに、伏黒を連れ去ろうとしているにしては、動きが定まらない。
まるで止まり木を決めかねてるように、ふらふらと浮遊している。
「おそらく伏黒は、他泳者との交戦でのびてる」
「それを羽根の生えた泳者が助けようとしてる」
そう言い終えたところで、日下部は目を見開く。
(まさかアイツが、五条救出の鍵を握る天使か?)
ひろしは奥歯を噛み、頷いた。
カラスの1羽を影の追尾に残し、もう1羽を呼び戻す。
梯子を降りると、三輪を塀側に置いて、日下部が先頭に立った。
一行は、空の人影が向かった池袋の方角へ、人気のない通りを歩き出した。
ひろしは歩きながら、癖で逃げ道を数えかけて、止まる。
前に日下部の背中、塀の側に三輪、隣に白倉。
数えるものがいつの間にか、道から人に変わっている。
肩のカラスが小さく羽を畳み直した。
糸の先はまだ池袋の空に繋がっている。
4人分の足音が揃わないまま、通りに響いた。