2018年11月12日、16時08分。池袋。
ひろしは雑居ビルの屋上の縁に腹這いになり、カラスの糸を手繰っていた。
11月の夕方の風が、コンクリートの縁を冷たく撫でていく。
腹の下から冷えが這い上がってきても、ひろしは身じろぎひとつしなかった。
指に絡めた糸の張りだけが、通りの向こうの羽ばたきを正確に伝えてくる。
糸の先で羽根を持つ人影が少年を抱えたまま、通りを挟んだビジネスホテルの非常口へ滑り込んでいく。
「入った。4階、窓を塞いでる部屋だ。見張りはいない」
ひろしが糸の先を読み上げると、背後の壁にもたれていた日下部が、面倒そうに頭を掻いた。
その半歩後ろでは、三輪が通りの様子を見張っている。
「俺が正面から行けば向こうは身構える。野原、オマエが先に行け。マヌケ面が役に立つ貴重な機会だ」
「僕も行かせてください。怪我人なら診られます」
白倉が一歩前へ出た。
(昼の治療で削れた呪力は、まだ戻りきっていないはずだ)
ひろしは青年の顔色を窺ったが、その目に迷いはなかった。
日下部の視線が白倉に止まり、ほんの一拍だけ間が空く。
「……術式は、俺が言うまで使うな」
「はい!!」
返事が大きい。ひろしは慌てて唇に指を当てた。
2018年11月12日、16時31分。
4階の扉は、チェーンを掛けたまま細く開いた。
隙間から覗く少女は、背中の白い羽根を畳み、頭の上に淡く光る輪を浮かべている。
内巻きの淡い金髪のボブに、翠がかった大きな瞳。
その瞳が警戒に細められ、片手には小ぶりな金色のラッパがぶら下がっていた。
(こんな細い子が、1人で伏黒を抱えて飛んできたのか)
警戒より先に、娘を案じるような気持ちが浮かんだ。
ひろしは両手を見せて口を開く。
「高専の術師だ。伏黒恵の同業で、君の味方だよ」
「治療できる奴を連れてきた。点は要らない」
少女は黙っている。ひろしは言葉を重ねた。
「信用できなきゃ、“縛り”を結んでもいい」
「伏黒恵をオレ達に助けさせてほしい。頼む」
少女は長く黙り、最後にひろしの肩のカラスを見た。
ひろしは癖で、背後の出口を数えた。
来た階段と、廊下の突き当たりの非常口。
逃げ道は2つ。
扉の隙間から漏れてくるのは、閉め切った部屋の、埃っぽく淀んだ空気だった。
ラッパを握る指だけが白くなっている。
「……来栖、華です」
チェーンが外れた。
ベッドの伏黒恵は紙のような顔色で、脇腹の刺し傷と、腕や胸に走る裂傷が布越しに見えた。
刺し傷の幅に、嫌な見覚えがあった。
呼吸は浅いが、止まってはいない。
戸口には日下部が立ち、その横で三輪が廊下の非常口側へ目を配っている。
白倉が日下部を振り返ると、日下部は短く顎を引いた。
釣り糸の束がほどけ、傷の縁へ細く伸びていく。
肩を診た時よりもずっと長くかかった。
白倉は何度か手を止め、傷の周囲を確かめながら、少しずつ布の形を変えていく。
呪力を流すたび、黒い繊維が強張る微かな音がした。
その手つきは丁寧だった。
工務店で作業着を袋へ詰めていた時と同じ、戦場というより、誰かの手伝いをしているような指先だ。
違うのは、迷いがないことだった。
ひろしは壁際から、口を挟まずに見ていた。
教えた覚えのないものが、1つずつ、あの青年の指に積み上がっていく。
やがて、白倉が手を離した。
「白倉君、今どんな状態か教えてくれ」
ひろしが確かめる。
来栖にどんな処置を行っているかを白倉に説明させ、安心させるためだ。
「表面と筋膜は塞ぎました。出血も止まっています」
「でも、骨や内臓を元どおりにすることはできません」
と、白倉は小さく頷いた。
「ここからは、ちゃんとした治療が要ります」
(ここに家入がいたらな)
ひろしは歯を食いしばった。
来栖は伏黒の枕元から動かなかった。
代わりに「……ありがとうございます」とかぼそく言った。
握れば折れそうな手首と、乾いた唇が目に入る。
「君、最後にメシ食ったのはいつだ」
ひろしが尋ねると、来栖は少し考えてから答えた。
「昨日、たぶん」
脳裏に、橙色の世界の少女がよぎった。
ひろしは頭を振り、「あとで必ず食わせてやる」とだけ言った。
2018年11月12日、18時02分。
客室の扉が勢いよく開き、底抜けに明るい声が飛び込んできた。
「ただいまぁ!華ちゃん、薬とってきたぞ!」
先に入ってきた男の格好を見て、ひろしの思考が止まった。
左半身だけを覆う青いタイツ。腰にはスマイルマークのベルト。
右半身は地肌がむき出しだ。
11月の夜に、ハミチンの男が、眼前に現れた。
隣で日下部が、無言で柄に手を掛ける。
「斬るな斬るな!斬る前に聞け!!」
男は両手を挙げて叫んだ。
「髙羽史彦、35歳!売れない芸人やってます!今ならサインもつけるよ!」
そう言って、どこからか紙とペンを取り出す。
……いや本当、どこから出した?
「いらない?そっかぁ……」
肩を落とす髙羽の前で、ひろしは驚き、日下部は呆れていた。
「35……?オレたちと同い年かよ」
「マジで!?じゃあ同級生じゃん!いや、学年は違うかもしれないけど!」
(35歳同士がする話題じゃねぇ!)
ひろしは心の中でツッコミを入れた。
日下部が、その横顔をちらりと見る。
「……同い年が、あの格好でやってるぞ。オマエも着るか?」
「着ねぇよ。オレの勝負服はスーツだ」
「このスーツの魅力に気づくとはお目が高い!」
髙羽が目を輝かせて食いついた。
「タカバネットふみひこのスーツ、全品無料!」
「さらに今ならサインも付いてくる!ぜひこの機会に!」
「いや着ねぇし、サインも要らねぇよ!?」
髙羽の後ろから、背の高い少年が顔を出した。
額に斜めの傷跡があり、口の端にも小さな傷がある。
ひろしの知る明るさとは違って、その瞳は静かに沈んでいた。
「……野原さん?日下部先生も!?」
「……頑張ったんだな、虎杖」
ひろしが声をかけると、日下部も少し遅れて続けた。
「……少しはマシな面になったな、虎杖」
真っ直ぐな励ましと婉曲な励ましを受け、虎杖は何とも言えない表情で、それでも口の端を持ち上げた。
その後すぐに乱暴に袖で顔を拭い、救急箱を抱えたまま、ベッドの伏黒へ駆け寄る。足が途中で止まった。
「……生きてる、よな」
「呼吸は安定してる。目はまだ覚めねぇ」
日下部が戸口から答えた。
ひろしは廊下側へ顔を寄せ、声を落として髙羽に尋ねた。
「伏黒をここまでやったのは誰だ」
「俺が知ってるのは、レジィって紙だらけの兄ちゃんと、
髙羽も声を落として答えた。
「レジィを倒したのは伏黒だよ。俺も伏黒の味方として戦ったんだけど、向こうも一筋縄じゃいかなくてさ」
「黄櫨ってのは、途中でやる気なくして帰った」
ひろしは無言でコガネを呼び出した。
レジィ・スターの欄。笑った顔の絵は、ドクロに変わっていた。
安堵が先に来て、少しだけ後ろめたさが続いた。
2018年11月12日、18時40分。
虎杖が伏黒の枕元から離れないのを見て、日下部が動いた。
「野原、虎杖、三輪。話がある。突き当たりの会議室だ」
「僕も――」
白倉が言いかけると、日下部が遮った。
「白倉。オマエは伏黒から離れるな」
「傷の奥の見立てが変わったら、すぐ手を入れろ」
日下部は髙羽に顎をしゃくる。
「アンタは救急箱の薬で補助してやれ。来栖は、伏黒のそばにいてやれ」
白倉は一瞬だけ日下部を見て、「分かりました」と頷いた。
髙羽は指先でペンをくるりと回した。
「がってん承知!売れない芸人は口が堅いのが取り柄だ。何も聞かないよ」
来栖は不安そうに、伏黒の手を握り直した。
会議室は窓がなく、折り畳みの長机だけが並んでいた。
日下部は最後に入り、扉を背にして立つ。
柄に右手を添え、耳だけを廊下へ向けていた。
「ここで話すことは、白倉にも来栖にも髙羽にも他言無用だ」
「……オマエもだ、野原」
「……白倉君を疑ってるのか?」
「渋谷で何が起こったのかを白倉が知って、どう受け止めるか、俺には分からん」
日下部は扉に向けた耳を動かさないまま、続けた。
「弟子なんだろ。白倉に何を隠して何を話すかは、オマエが決めろ」
それから顔を引き締め、ひろしを見つめる。
「才能ある一般人を弟子にするのはけっこう。だが白倉の肩書きは、まだ一般人だ」
「死滅回游を生き抜く上での情報と、高専に属する術師としての情報は、分けて考えろ」
「本当に白倉を仲間として迎えるなら、そこら辺はしっかり教育しておけ。でなければアイツはすぐに死ぬ」
ひろしは言い返せなかった。理屈は通っている。
「……分かった。聞かせてくれ」
最初に口を開いたのは虎杖だった。
「……渋谷で、五条先生が封印された。獄門疆っていう特級呪物に」
「やったのは、夏油傑の身体を使ってた、羂索って奴だ」
「……五条の、封印に、夏油の、身体……」
「……そんな奴が、今まで、高専に気づかれず、潜伏してたのか……」
ひろしは虎杖の言葉をまともに受け止められない。
初日の夜、新宿の路上で、オレは何と呟いたか。
あいつに投げりゃあ、ぜ〜んぶ終わりだろ。
鼻で笑って、携帯まで取り出した。
30分もかからないと踏んでいた。
その時にはもう、五条は封印されていたのだ。
ドヤ顔で駆けつける後輩の姿を、あれほどありありと思い描いたのに。
数字が合わない時は、まず前提を疑う。
営業で叩き込まれた手順のその前提が、初日から丸ごと外れていた。
ひろしの疑問に日下部が答えた。
「史上最悪の呪術師、加茂憲倫の正体も羂索だ」
「そして死滅回游の泳者に術師が多いのも羂索の仕業だ」
「奴は脳を弄って人為的に術師を作り、さらに過去に契約して現代に受肉させた過去の術師が入り乱れてる」
「馬鹿げた結界術、馬鹿げた呪具の所持、そして肉体を乗り換え、積み重ねてきたノウハウをそっくりそのまま次世代に持ち越せる術師」
「黒幕の人選としては、妥当っちゃ妥当だな」
驚きを隠せないひろしを尻目に虎杖が説明を続ける。
「死滅回游開始と同時に、スゲー大量の呪霊を解き放ってた」
「結界内にいる呪霊の殆どは、羂索が放った」
ひろしは黙って頷いた。
新宿に現れた夥しい数の呪霊は、夏油傑の肉体を操る羂索の仕業だったのかと、ようやく腑に落ちる。
「……ナナミンは、俺の目の前で真人に殺された」
虎杖の声は乾いていた。ひろしの喉が小さく鳴る。
七海が、と声にならない息が漏れた。
「……釘崎も、真人にやられて、それっきり。生きてんのか死んでんのか、分かんない」
「それと、俺の身体で宿儺が暴れて、たくさんの人が死んだ。……俺のせいで」
虎杖は怒鳴りも泣きもせず、まるで機械のようだった。
空気が一変し、日下部の表情が険しくなる。三輪は俯いた。
五条の封印、宿儺の暴走、そして羂索による呪霊の解放と、死滅回游の開始。
渋谷がどんな惨状だったのかは、筆舌に尽くしがたい。
人はあまりにも多くの受け入れがたい出来事を受け取ると、かえって冷静になる。ひろしの表情は変わらなかった。それを痛感していた。
空気を割って、三輪が静かに続けた。
「メカ丸は、羂索に利用されて殺されました」
振り絞るような声音だった。
「私は渋谷で、羂索に刀を振りました。あの一撃のために、これから先、刀を振るうことを捨てる“縛り”を課して」
「……それでも、届きませんでした」
三輪は自分の手を見下ろす。
「刀も折れて、何もできませんでした」
言い終えると、三輪はまた俯いた。
「……俺も同じだ」
日下部は扉から目を離さずに言った。
「足止めに回って、全く歯が立たなかった」
「生き残ったのは運だ。誰が死んでもおかしくなかった」
ひろしは拳を握った。新宿で誰も来なかった理由が、一つずつ、重い形で埋まっていく。
「……家入は」
「生きてる。夜蛾学長が護衛についてた」
「そうか。……分かった」
ひろしは息を吐き、本題を切り出した。
「羂索は結局、何が目的なんだ。死滅回游はただの殺し合いじゃないだろう」
虎杖が顔を上げた。
「11月9日に、天元様に会った。薨星宮ってとこで。俺と伏黒、乙骨先輩に真希先輩、九十九さんと脹相の6人です」
ひろしにはもう、驚く余力が残っていなかった。
天元は呪術高専東京校の地下最深部、薨星宮の本殿に隠遁する術師。
日本中の結界を強化し、行使している存在だ。
「日下部、お前はその場にいなかったのか?」
「いるワケねーだろ。天元様に直にお会いできる奴が何人もいてたまるか」
日下部は扉から目を離さずに答えた。
「だが乙骨から話は聞いた。アイツを休ませる前に、全部な。補足は俺がする」
虎杖は頷き、日下部が引き取った。
「天元様は不死だが不老じゃない。500年に1度、星漿体と同化して進化を抑え、肉体を安定させる」
「それが12年前に失敗し、同化できなかった天元様は、進化することになった」
「今の天元様は、人間より呪霊に近い組成になってる」
「個としての自我も薄れて、天地そのものが自我みたいな状態、だそうだ。だが結界術のおかげで、かろうじて理性は保ってる」
ひろしに悪寒が走った。夏油傑の術式と繋がる。
「組成が呪霊に近いってことは……」
「そうだ。夏油の身体を使ってる羂索の、呪霊操術の対象になる」
「羂索に接触されたら最悪の場合、取り込まれる」
「天元様は薨星宮を固めて外を拒むつもりだが、破られる可能性もあると本人が認めてたそうだ」
日下部は一拍の間を置いて続けた。
「羂索の目的は、天元様と人類の同化だ。進化した天元様は、星漿体じゃなくても同化できる」
「その特性を利用して、全人類を強制的に天元様と同化させようとしてるっちゅーワケだ」
「……同化したら、どうなるんだ?」
ひろしが尋ねる。
「人間が個としての境界をなくして、別の何かに進化するそうだ。日本の終わりと言い換えてもいい」
日下部は声を落とした。
「死滅回游の目的は、その同化の儀式を成立させるための準備期間、呪いへの慣らしだ」
「泳者と結界を利用して、同化に必要な条件を整える。殺し合いそのものが目的じゃねぇ。手段だ」
ひろしは息を呑んだ。
「そんなことをして、羂索に何の得がある」
「……分からない」
虎杖が首を振った。
「天元様も、そこまでは言ってなかった」
「……五条は」
ひろしは身を乗り出した。
「五条は、戻ってこられるのか!?」
「獄門疆には、裏門にあたる『裏』がある。天元様が俺たちに託してくれた」
虎杖は一度、唇を噛んだ。
「封印を解くには、術式を消す力が必要だ。来栖がその術式を持ってる。ただ、実際に開けられるかは、試してみないと分からない」
ひろしは、来栖華の白い羽根と頭上の輪を思い浮かべた。
彼女が、五条を救う鍵になるかもしれない。
だが、伏黒をここまで運んできたばかりの少女に、すぐさま次の役目を背負わせられるのか。
「総監部は、五条の封印解除を永久に禁じてる。天元様はそれを承知で、条件を呑む代わりに獄門疆『裏』を託した」
日下部が補った。
「条件は、護衛を最低2人残すこと。九十九さんと脹相が残った。……あの2人は今も、天元様を護衛してる」
虎杖が言い添えた。
ひろしは両手で顔を覆った。
受け取った情報が多すぎて、「脹相」が誰なのかを聞く余裕すらない。
希望と不安が、同じ重さで胸にのしかかる。
「それで、残った高専の皆は、どう動いたんだ?」
「真希先輩は呪具を回収しに禪院家に。俺と伏黒は、栃木の秤先輩を勧誘しに行った」
「10日に栃木で秤を口説き落としたんだったな」
日下部が確かめると、虎杖が頷いた。
「……秤先輩は色々あって仲間になってくれた。あと、パンダ先輩も」
「皆で話してる時にいきなりコガネが出てきて、まだ結界に入ってないのに、俺が参加登録されてた」
日下部とひろしは顔を見合わせた。
(虎杖の中にいる宿儺が泳者登録されてる)
「11日に鹿紫雲が泳者の情報を開示するルール追加して、そのあとすぐ花園が結界内の移動を自由にするルールを作った」
〈総則〉9、泳者は他泳者の情報、“名前”“得点”“ルール追加回数”“滞留結界”を参照できる
〈総則〉10、泳者は、各結界間を自由に移動できる
「どっちも伏黒の姉貴を助ける足掛かりとして都合がいい。皆で手分けして結界に入った」
「1人ずつ別々の結界に入ったのか?」
ひろしが聞くと、虎杖は少し考えてから答えた。
「俺と伏黒は入る前は一緒だった。だけど、入った瞬間に、同じ結界の別々の場所に飛ばされた」
日下部は眉をひそめた。
仙台結界に入る前の違和感が形になる。
「……結界内に入る前に、参加確認するコガネに答えたか?」
「え……うん。ルールでは、そうなってるし」
(やっぱりそうか。律儀に反応するなガキ共)
日下部は顔を上げ、両手で覆った。
「秤先輩とパンダ先輩は東京第2のほうに回って、俺と伏黒は12日の昼前に東京第1へ入った」
「それで俺は100点を持ってる日車に会って、ルールを追加してもらった」
〈総則〉11、泳者は任意の数の点を他泳者へ譲渡できる
「死滅回游そのものはどう止めるんだ?」
ひろしが問うと、日下部が指を一本立てた。
「天元様は、ルールの概要と参加者の一部の情報も明かした。そこから見えた穴が、総則7だ」
〈総則〉6、泳者は、自身に懸けられた点を除いた100点を消費することで、管理者と交渉し、死滅回游に総則を一つ追加できる。
〈総則〉7、管理者は、死滅回游の永続に著しく障る場合を除き、前項によるルール追加を認めなければならない。
「管理者は、100点を払った泳者のルール追加を原則断れない。死滅回游の永続に著しく障る場合を除きって但し書きは付くがな」
日下部は淡々と続けた。
「羂索はゲーム成立のために“縛り”を固めた分、自分が作ったルールに自分も縛られてる。弱点らしい弱点といっちゃあ、現状そこだけだ」
「……13日は何だ?」
ひろしは日下部を見た。
「広が13日まで生き延びろと言った」
日下部は少しだけ間を置いた。
「天元様の話には、出てこなかった」
「……オマエの夢の話と一緒で、検証できるまで保留だ」
「……ああ、わかった」
暫しの沈黙が訪れた。
各々が受け取った情報を整理している。
ようやく情報を受け止める余裕ができたひろしは、一番伝えたかったことを口にした。
「みんな、頑張ったんだな。ありがとう」
三輪と日下部と虎杖を、順に見る。
「オレは三輪が、日下部が、虎杖が、生きててくれて嬉しいよ」
「もちろん伏黒も、ここにはいない仲間たちもだ」
三輪は少しだけ悲しい顔をして、すぐ微笑んだ。
日下部は黙って目を瞑った。
機械のように淡々としていた虎杖の表情が曇る。
「……野原さん、俺は渋谷で、人をたくさん殺して」
「お前じゃない。宿儺だろ。それだけは違う」
ひろしは強く首を振った。
明るくて前向きで、人を思い遣ることのできる優しい少年が、罪の意識に苛まれない理由がない。
どれだけの人が否定しても、虎杖悠仁は、自分の罪として背負っていくだろう。
まだ、15歳の少年が。
宿儺に殺された人たちがどう受け止めるかは分からない。
悲しみ、怒り、虎杖を責めるかもしれない。
……みさえが、しんのすけが、ひまわりが、シロが殺されていたら。
こんなことは言えなかったかもしれない。
それでもひろしは、虎杖を責める気にはなれなかった。
「オレはお前が生きててくれて嬉しいよ、虎杖」
日下部は扉の向こうを睨んだまま、手で全員を制した。
軽いノックが2度。
「お茶入れたよー。みんな疲れてるだろ?」
髙羽の声だった。
日下部は少しだけ扉を開け、盆を受け取り、礼も言わずに閉めた。
「……何も聞いてねぇだろうな」
「聞いてないってー!俺は空気読める男だからな!」
足音が遠ざかる。日下部は小さくため息を吐いた。
「以上だ。誰にも言うな。野原、顔に出すなよ」
「お前、オレを何だと思ってる」
「顔のうるせぇマヌケだ」
2018年11月12日、18時40分。
ひろし達が情報共有をしている間、白倉と来栖と髙羽は、伏黒の回復に心血を注いでいた。
病室の空気は静かだった。
白倉は伏黒の傷に手を当て、布の形を少しずつ変えながら治療を続けている。
髙羽が救急箱から消毒液とガーゼを取り出して差し出した。
「これでいい?」
来栖はガーゼを受け取り、頷いた。
「うん。白倉さん、次は何をすればいい?」
来栖は白倉の手元を見つめていた。
伏黒の手を握っていたい気持ちはあったが、今は治療を優先したかった。
「そのまま、必要なものを渡してもらえると助かります」
「あと、伏黒君の呼吸や顔色に変化があったら、すぐ教えてください」
「分かった」
来栖は伏黒の顔色を確かめた。
白倉の額から汗が落ちる。
一度に広い範囲を塞ごうとはせず、傷の縁を確かめながら、少しずつ布を沿わせていく。
手を止めて状態を確かめ、また呪力を流す。その繰り返しだった。
「……傷口は塞がってきています。でも、深い傷はまだ油断できません」
「骨や内臓の回復は、恵次第ってことよね」
来栖が尋ねた。
「はい。そこまでは治せません。出血を抑えて、これ以上傷が広がらないようにするのが精いっぱいです」
白倉は伏黒の顔色を確かめ、再び傷へ目を落とす。
「たぶん、14日には目が覚めると思います。それまで油断はできません。できる限り傷を塞ぎます」
来栖は唇を結んだ。
「……恵を助けてくれて、ありがとう」
「まだ終わってません。助けましょう、皆で」
白倉は顔を上げずに答えた。
髙羽は二人のやり取りを聞きながら、使い終わった包装や空の容器を片づけていた。
普段なら何か気の利いたことでも言うところだが、今は白倉の手元から目を離さない。
白倉は慎重に手を動かし続けた。呪力を使いすぎれば、今度は自分が動けなくなる。それでも、傷の状態を確かめる手つきに迷いはなかった。
「白倉さん、無理はしないでね」
来栖が声をかけた。
「……はい。でも、もう少しだけ」
髙羽は口を挟まず、白倉が手を伸ばしたときにすぐ届く位置へ、ガーゼを置いた。
やがて、白倉が小さく息を吐いた。
「……ひとまず、これで大丈夫です。引き続き、様子を見ます」
伏黒の呼吸は、先ほどよりも深くなっていた。
「……よかった」
来栖は伏黒の手をそっと握り直した。
張り詰めていた肩から、ようやく力が抜ける。
髙羽も安堵したように息をついた。
「ひとまず、峠は越えたってことか」
「まだ安心はできません。深い傷ですし、ちゃんとした治療も必要です」
白倉の言葉に、髙羽は声を落として伏黒の寝顔を見る。
「そっか。……じゃあ、目が覚めるまでは気を抜けないな」
来栖は白倉に向き直った。
「本当にありがとう。私にできることがあったら、何でも言って」
「じゃあ、少しだけ休ませてもらってもいいですか」
白倉は疲れた顔で苦笑した。
「もちろん。今度は私たちが見てるから」
来栖が答えると、髙羽も頷いた。
「必要なものがあったら言ってくれ。俺も手伝うから」
白倉は二人を見て、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そう言って、ようやく伏黒の傷から手を離す。白倉は深く息をついた。
2018年11月12日、22時41分。
コガネの名簿で、加茂憲紀の滞留結界が京都から東京第1へ書き換わった。
ひろしのカラスが探り当てた立体駐車場の屋上で、加茂は日下部と、その後ろに立つひろしと三輪を順に見て、表情を変えなかった。
「日下部さん。お久しぶりです」
「加茂先輩、ご無事で」
三輪が小さく頭を下げる。加茂は短く頷き、ひろしに目を向けた。
「野原ひろしさんですね。名簿で拝見しました」
「ああ。冴えないオッサンで悪い。よろしくな」
ひろしはぽりぽりと頭を掻いた。
加茂は否定も肯定もしなかった。
「本当は昨夜のうちに動くつもりでしたが、街の気配を窺って、一日見送りました」
そう断ってから、京都で見たものを短く語った。
橙色の上着の男。影から式神を呼び、術師の前でだけ立ち止まり、顔を覗き込んで「違う」と呟く。
名簿には、花園靜。現在の得点は196点。
日下部の表情がわずかに動いた。
「……誰かを探してるのか」
ひろしの中で、影から式神を呼ぶ術式といったら一つしかない。
「花園は十種影法術使いじゃないのか?」
「いいや、俺の知る十種影法術、伏黒とは何もかもが違っていた」
「残穢も痕跡すら残さない。十種影法術とは違った、別の術式であることも考えられる」
初対面の挨拶からナチュラルにタメ口に移行されたことに驚くひろしに、加茂は構わず続ける。
「影を媒介に式神を呼び出す術式について、加茂家の書庫に記録がありました」
「年号の最初の一字が『慶』と読めるだけで、あとは虫食いです」
日下部には敬語を崩さず話す加茂に対し、わずかに苛立ちを覚えてきたひろしを尻目に、日下部は問いかける。
「十種影法術ではない、影を媒介とした術式か」
「誰かを探している慶長の術師、受肉した理由は人探しってか」
「あーおっかねぇ。絶対に近寄りたくねーな」
「俺の推測です。ですが、結界間の移動が自由になった以上、東京へ来る可能性は否定できません」
「分かった。花園靜について気になることがある。もう少し詳しく聞きたい」
日下部はそう言って、加茂を見据えた。
「夜が明けたら場所を変える。加茂、同行しろ」
加茂はゆっくりと頷いた。
2018年11月12日、23時58分。
「そんじゃ野原さん、おやすみ」
虎杖が手を振り自分に割り当てられた部屋に戻る。
「ああ、疲れてるのに色々聞いて悪かった」
ひろしは情報共有を終えた後も、虎杖から話を聞いていた。
特に、日車寛見について深掘りした。
自力で100点を稼ぐ術師に接触するのは危険だと、日下部に注意されるかもしれない。
それでもひろしは、なぜかどうしても日車について詳しく知っておかなければならないという強迫観念に囚われていた。
自分ではない何かが強く求めてる。
そんな不思議な感覚だった。
ひろしはホテルの一室の床に座り込み、腕時計を見つめていた。
窓を塞いだ布の向こうで、風が空き缶を転がしている。
新宿でも、白倉の拠点でも、夜ごと聞いてきた音だった。
手のひらには、カラスの糸の張りがまだ残っている。
秒針がゆっくり進み、0時になった。
何も起きなかった。ただ13日になっただけだった。
(広。生き延びたぞ。……次は何が起きる)
カラスが窓枠で小さく鳴いた。