2018年11月12日、20時47分。京都結界。
男は廃墟の一角に座っていた。
壁は半分崩れ、窓枠から硝子の歯が覗いている。
天井はない。夜の空が剥き出しで、星は出ていなかった。
冷えが瓦礫の粉の匂いを地面に押さえつけていた。
遠くで何かが転がる音がした。
空き缶だろう。一度鳴って、それきりだった。
足元の影に指を置いている。
冷たい。水の冷たさではなかった。
底がないという冷たさだった。
指先から先がどこにも着かないまま落ちていく。
男は指を引かなかった。
腰の瓢箪の栓を抜き、一度だけ口を付けた。
酸が舌の奥を刺した。
その下から腐ったものの甘さが遅れて上がってくる。
喉が軽く痙攣する。男は顔をしかめた。
それでも飲み下して、栓を戻す。
周囲には人がいた。十人以上はいる。
壁際に、瓦礫の隙間に、階段の踊り場に。
誰も動かない。みな倒れていた。
男はそのどれも見ていなかった。
橙の上着の袖口が乾いた血で固くなっている。
指を曲げると布がぱきりと鳴った。
影の縁に指を置いたまま、男は動かなかった。
――あと少しだ。
瞼の裏に色が一つ、よぎった。
青だった。
形はなく、光ってもいない。
ひどく深い青が、一瞬だけそこにあった。
吐き気がした。瓢箪のせいではなかった。
男は目を開けた。夜の空は黒かった。
――慶長。
慶長十四年、秋。京。
禪院家の庭に影が長く伸びていた。
男は縁側に座り、膝の上に置いた小さな鉢を見ていた。
露草だった。
朝に開いた花は日が傾く頃にはもう萎れかけている。
それでも、いい色だった。
男は露草の花弁を一枚だけ指の腹で押さえた。
冷たく湿っていた。
禪院家当主になって二年になる。
十種影法術の使い手として生まれ、幼いうちから、いずれ家を継ぐ者と言われてきた。
才があった。誰もがそう言った。
男自身が一番それを疎ましく思っていた。
影から這い出るものが嫌いだった。
獣の爪も牙も、逆立つ毛並みも、人でも獣でもない形をした何かも。
野蛮で、醜く、粗野だった。
できることなら扱いたくなかった。
だから男は極めた。
使わないために、使い方を磨いた。
必要な部位だけを、必要な一瞬だけ影から出す。
ことが済めばすぐ影に返す。
その運用が評され、男はあっという間に当主の座に押し上げられた。
少しも嬉しくなかった。
座敷で頭を下げられるたびに、男は庭の方を見た。
花や詩や美しいものを見て過ごしたかった。
それだけだった。
好きな色は青だった。
露草、桔梗、燕子花、紫陽花。
庭の隅に、男はそれらを自分の手で育てていた。
青い花の前でだけ、男は時間の流れを忘れた。
その年の初夏のことだった。
京の寺で会合があった。
気が進まなかったが、当主が欠ければ家の名に障る。
男は末席に近い場所で黙って座っていた。
向かいの列の中ほどにその人がいた。
五条家当主だった。
白に近い髪が障子越しの光を拾っていた。
背は高く背筋が伸びていて、誰とも話さず、誰も寄せ付けなかった。
その人が顔を上げ、男と目が合った。
青だった。
蒼では足りない。
瑠璃でも、群青でも、縹でもない。
どの名で呼んでも、その眼の色の端にしか触れなかった。
光の入った眼の奥で、青が動いていた。
生きている水のように。
男は息をするのを忘れた。
視線を外されるまでの数瞬がひどく長かった。
気づけば、手が膝の上で固く握られていた。
その日のことを男はほとんど覚えていない。
覚えているのは眼だけだった。
もう一度見たい。
その思いは日ごとに強くなった。
禪院家と五条家は長く反目していた。
両家の長が言葉を交わすことなど、まず考えられない。
男は考えた。そして決めた。
秋の初め、男は誰にも告げず、供も連れず、単身で五条家の屋敷を訪ねた。
門の前に立った時、足が震えていた。
殺されてもおかしくない。それでも門を叩いた。
通されたのは奥の小さな座敷だった。
五条家当主は一人で待っていた。
「禪院の当主が、一人で来たか」
声は低くよく通った。
男は膝を揃えて座った。
「はい」
「何用だ」
「貴方の眼を見たかった」
座敷が静まった。
「寺でお見かけしました。それから、忘れられず」
「願わくば、もう一度だけ、見たいと」
言い終えると顔が熱くなった。
五条家当主はしばらく男を見ていた。
白い眉がわずかに動いた。
それから、口の端がほんの少しだけ緩んだ。
「……オマエは変わった男だな」
「……はい」
短い沈黙のあと、その人は息を吐くように笑った。
男は初めて、その眼が笑うところを見た。
青がやわらかくほどけた。
それが始まりだった。
慶長十四年、秋の終わり。
男は勝色に染めた上質な和紙を一枚、整えた。
深い藍がほとんど黒に近いほど濃い。
その上に小さく絞った青い桔梗の押し花を載せた。
庭で一番よく咲いた花を一晩かけて選んだ。
筆を取る。手が止まった。
何度も墨を磨り直し、三度、書き損じた。
四度目にようやく歌が収まった。
桔梗の 秋を押し葉に とどめおき 言はぬ心を 君に知らせむ
乾くのを待って、折り畳んだ。
五条家当主は座敷で受け取った。
しばらく広げたまま動かなかった。
押し花は枝折にされた。
その枝折を常に手元の書物に挟んでいるとのちに知った。
親交はそうして続いた。笑顔が好きだった。
もっと好きなものもあった。
一度だけ見たことがある。
その人が書を読んでいて、ふと手を止めたことがあった。
読んでいたのは古い軍記の一節だった。
討たれた者の名が並ぶところで、その人の肩が小さく揺れた。
青い眼から涙が一つ、頬を伝って落ちた。
宝石のようだった。男は見なかったふりをした。
この人のそばにいられるなら、当主の座も、家の威信も、なにもいらない。
二度の秋を越えた。
それが男にとって、何ものにも代え難い青い春だった。
しかし、両家はそれを許さなかった。
2018年11月12日、20時58分。京都結界。
男は影に指を置いたまま、動かなかった。
倒れた者たちの髪がまた風に揺れた。
影の底は冷たかった。何も呼ばなかった。
慶長十六年、三月。二条城。
春の気配はまだ浅かった。
堀の水が重く光り、石垣の影には残り雪の跡が白く貼りついている。
徳川家康と豊臣秀頼の会見が二条城で行われようとしていた。
表向きは平和な顔合わせ。
裏では御三家の序列を決める場が用意されていた。
禪院家と五条家は、もはや引けなかった。
男は禪院家当主として、御前試合に出ることを命じられた。
相手は五条家当主だった。
宵五つ、男は城の外れの控えの間にいた。
しばらくして立ち上がった。
廊下に出た。
門番の目を避け、庭を抜け、人気のない回廊へ向かった。
そこにその人はいた。
回廊の欄干に背を預けて、立っていた。
月はなく、手燭の灯だけが白い髪の端を照らしている。
「……来ると思った」
「……はい」
「何用だ」
男はその前に立った。喉が乾いていた。
「逃げましょう」
声はかすれていた。
「二人でこの場から。誰も追えないところへ」
「家も名も置いて」
五条家当主は答えなかった。
灯の火が揺れた。
遠くで、見張りの足音が回廊を渡っていった。
その人は静かに首を横に振った。
「それはできん」
「なぜです」
「家の威信がある。御三家の座をこの試合で決める」
「お願いです」
「ならん。相手が家族でも、友でも、討つ覚悟でここに来た」
その人は一度だけ目を伏せた。
二年のことを数えているように見えた。
白い睫毛が小さく震えた。
それから顔を上げた時、眼は冷たく硬くなっていた。
青が凍っていた。男は言葉を失った。
五条家当主は男の顔を見下ろした。
肩が落ち、指が震え、足は退いている。
「……ふ」
短く嗤った。
「こんな腑抜けを斃したところで箔にもならん」
「家を捨てて逃げることしか考えぬ者が、よく当主など務まるものだ」
「禪院も堕ちたな。このような男を当主に据えるとは」
そして懐から一枚の紙を取り出した。
枝折だった。
二年前の秋、男が贈った桔梗の押し花。
色は褪せて青は灰に近づいていた。
指がその端を摘んだ。ゆっくりと引き破った。
音はほとんどしなかった。
紙の繊維が裂ける、乾いた小さな音だけだった。
二つになった枝折がその人の指から離れ、回廊の床に落ちた。
「オマエは俺のことを、友人だと思ってたのか?」
男は答えなかった。息ができなかった。
胸の奥で何かが壊れてゆく音を聴いた。
沈黙が続いた。
五条家当主は背を向けた。
白い髪が灯の外へ遠ざかっていく。
足音が板を踏んで、一歩、二歩、離れていった。
男はその背を見送るしかなかった。
白い髪の端が手燭の光を一つ受けて、消えた。
足音はもう聞こえない。
男は立ったままだった。膝の下で板が冷たかった。
固く握りしめた拳から、ぽたぽたと血滴り落ち、破れた枝折を朱く染めていた。
枝折に手を伸ばそうとして、伸ばさなかった。
床の上に破れた桔梗が二つ、転がっている。
背が回廊の角にかかった。
男は静かに口を開いた。
「……違う」
掬い損ねた青が、指の隙間から零れていった。