2018年11月12日、21時03分。京都結界。
男は影に指を置いたまま動かなかった。
瓢箪の味がまだ口の奥にある。吐き気は引いていた。
影の冷たさだけが指の骨に居座っている。
左腕を見た。橙の袖。その内側に右の拳を押し当てる。
それだけの動作を何度もやってきた。
迷う理由はなかった。
右手が膝の上で持ち上がりかけた。
その形に覚えがあった。
拳を握り、左腕に当てる。
男はこれと同じ構えを一度だけ別の場所でとった。
慶長十六年、三月。京。神泉苑。
二条城の南に隣り合う、古い苑池だった。
ここなら城を壊さずに済む。そう言ったのは徳川の側だった。
池を挟んで北に大御所の席が設けられている。
幔幕が張られ、床几が据えられ、周りを所司代の役人と、徳川に従う諸家の侍衆が固めていた。
見物は百を超えていた。
朝の空は薄く曇っている。池の面は鈍い銀色で岸の松が水に長い影を落としていた。
男は池の西の砂地に立っていた。ひどく痩せていた。
ひと月ほどで、頬が落ちた。
眠れず、食えず、袖の下で腕が細くなっているのが、自分でも分かる。
覇気の欠片もない男の姿を、見物の侍衆が小声で嗤っていた。
構わなかった。池の向こう側にその人が立っていた。
五条家当主は凛としていた。
背筋が一本の槍のように通っている。
白い髪が風の中で動かない。
眼は遠くからでも青かった。
朝の曇りの下でも、その青だけは色を失っていなかった。
男はそれを見て、見るな、と思った。それでも見た。
合図の太鼓が鳴った。最初の一歩目で池が割れた。
五条家当主は足を動かしていなかった。
ただ右の掌が男の方へ向いた。それだけだった。
男の立つ砂地が見えない手で潰されたように陥没した。
男は横へ跳んだ。
背後の松が幹の中ほどから折れた。音が遅れて来た。
木の肌が内側から捩じ切られるように裂けた。
二歩目。
水面が持ち上がった。池の半分が壁のように立ち上がり、男を押し潰しに来た。
男は影へ手を落とした。足元から虎の爪だけが生えた。
爪が水の壁を一度だけ裂いた。
裂け目を潜り、爪を影に返した。
二度と使わない。
必要な一瞬が済んだだけだった。
五条家当主はそこにいた。
最初から殺す気だった。男にはそれがはっきり分かった。
構えにも視線にも、手加減がない。
二年間、一度も見せたことのない顔だった。
近づけない。
踏み込もうとした男の肩が空気の層に弾かれた。
触れる手前で何かが止める。
そこから先に男は進めなかった。
見えない境がある。
男は犬の牙を出した。
牙だけを五条家当主の足元の影から一瞬だけ生やした。届かない。
境の手前で牙は空を噛んだ。
牛の角を出した。
直線にしか進めない獣の力を半歩だけ借りた。角は境で止まった。
象の鼻を水際に出した。
圧された水の塊が撃ち出され、五条家当主の顔の前で散った。
散って、飛沫になり、その人の頬の手前で止まって、地に落ちた。
触れることができない。
男の指が影の中で一度だけ空を掴んだ。
届く距離にいるのに、指一本分が遠かった。
見物の侍衆の間からどよめきが起きた。
次の瞬間、池の北岸が崩れた。
五条家当主が手を払っただけだった。
築地塀が礎ごと吹き飛んだ。瓦が雨のように降った。
幔幕の端が裂け、床几が転がり、悲鳴が上がった。
役人が一人、崩れた塀の下に消えた。
侍衆が四方へ逃げた。誰かが叫んでいる。
大御所の傘持ちが走った。池の面に落ちた松の枝が波に揺れた。
五条家当主は振り返らなかった。
その眼は男だけを見ていた。
男は息を整えようとした。
肺が足りなかった。左の脇腹に熱があった。
見ると、橙の着物が裂けて、血が染みている。いつ受けたのか、分からなかった。
鵺を出した。羽の端と、雷だけ。
雷が池を走り、水面が白く灼けた。その光は五条家当主の身体を避けるようにして逸れた。
玉犬の牙を背後に回した。死角の影から爪だけを。
無駄だった。
爪は五条家当主の背に触れる前に空気の中で止まった。止まったまま、動かなかった。
男はようやく理解した。出し渋りでは通じない。
必要な部位だけを、必要な一瞬だけ。
それは合理にして、男が研ぎ澄ませた、唯一の戦い方だった。
しかし、無下限の前では、その一瞬を差し込む隙間がなかった。
あと一手、足りない。
足りないのは手札ではなかった。
男の覚悟だった。
池の水が血を含んで赤みを帯びていた。
砂地に男は片膝をついた。
右の脇に鈍い衝撃が入った。肋が折れる音が内側から聞こえた。男の身体は砂の上を転がった。
視界の端に松の根元が見えた。折れた幹の断面が白かった。
その向こうに、五条家当主がいた。
ゆっくりと近づいてくる。
足音はなかった。青い眼が真正面から男を見下ろしていた。
男はその眼を見上げた。美しかった。
最初に見た日と、何も変わらなかった。青が動いていた。生きている水のように。空の底のように。
けれど、その眼はもう男に笑いかけない。
回廊の欄干の前で枝折が破られた時からずっと。
二度と、あの眼で自分に笑いかけることはない。
前の関係には戻れず、どこへも行けない。
男は悟った。悟って、ふと静かになった。
胸の中で何かが、水の底へ落ちていった。
冷たく、音もなく。
(……ならば)
腕を持ち上げた。
(ならば――)
内心の声が自分のものと思えないほど、低かった。
(俺の手で、貴様を)
男は左腕の内側に右の拳を押し当てた。
両手の拳を少しずらして円を描くように回す。
完全な循環と調和を意味する祓詞。
最強の式神にして破壊の化身を召喚する言葉。
それを静かに唱える。
「布瑠部由良由良」
底のない冷たさが、地面の下で一つの大きな円を描いて広がった。
砂地の下から重い音が響いた。池の水が一瞬だけ静止した。
影の中からそれは立ち上がった。
巨躯だった。人の形をしていた。
しかし、人のものではなかった。
頭上には巨大な法陣の輪が浮かんでいる。
右腕には長大な剣を備えていた。
八握剣異戒神将魔虚羅。
式神は術師が直接倒して調伏する必要がある。
調伏の儀は術師が式神を倒すか、術師が死亡するまで終わらない。
歴代十種使いの中で、これを調伏できた者は一人もいない。
場の空気が変わった。
池も、松も、崩れた築地も、同じ重さの圧に一斉に沈んだ。
男が喚んだ。それだけでこの場所が儀に変わった。
ただし儀の参加者は二人だった。
術者である男と、男が参加者に指定した五条家当主。
池の周囲にいた見物の侍衆や役人たちは、儀の外に残されていた。
五条家当主の足が止まった。
その人は初めて、驚いたように目を開いた。
「……オマエ」
小さな声だった。男は答えなかった。
魔虚羅の頭上の法陣は、まだ動かなかった。
次の瞬間、剣が振られた。
五条家当主は避けなかった。避ける必要がなかった。剣は境の手前で止まる。
いつもならそうなるはずだった。
刃が見えない壁に弾かれた。その直後、法陣が一度回った。
五条家当主の眼が魔虚羅を捉える。
魔虚羅が再び剣を振るう。今度も刃は境に阻まれた。
だが無下限に触れた魔虚羅の呪力は、その作用を中和する性質へと変わり始めていた。
法陣が二度目の回転を見せる。
三度目の斬撃。刃が境に触れた瞬間、先ほどとは違う音がした。
剣先が、ほんのわずかにその内側へ入り込んでいた。
五条家当主の眉が動いた。
魔虚羅はなおも剣を振るった。
法陣が回るたび、無下限を中和する呪力の性質が深まっていく。
刃は境に押し戻されながらも、先ほどより深く食い込んでいた。
池の水がその圧で割れ、飛沫になって空へ舞った。
大御所の席の幔幕が今度こそ、完全に裂けた。
見物の侍衆は悲鳴も上げずに退いた。
所司代の役人たちの何人かが、池の縁で引き波に足を取られ、呑まれた。
苑の北の松並木が一列、倒れた。
神泉苑の水が半分空へ上がっていた。
男は膝をついたまま見ていた。
魔虚羅は男の命令を聞かなかった。
調伏されていない式神は敵も味方もない。
儀の参加者を区別なく襲う。
術者も例外ではなかった。五条家当主が手を払った。
空気が悲鳴のような音を立てた。
魔虚羅の右腕に備わった剣が、中ほどから折れた。
折れた刃が空を回って、池に落ちた。
法陣がまた回る。
魔虚羅の右腕に、剣の輪郭が再び形作られていく。
失われた部分が呪力とともに再構成されていた。
その刃を包む呪力は、すでに五条家当主の術式である、無下限の作用を中和する性質を帯びていた。
適応は終わっていた。
五条家当主の無下限は、もはや刃を阻むものにはできない。
剣が振り下ろされた。今度は、境に阻まれなかった。
魔虚羅の剣が五条家当主の肩を斬った。
それでも凛としていた。
最後の一撃が来た時、その人は男の方を見た。
魔虚羅の剣が五条家当主の胸を斜めに断った。
同時に男の背後で足元の影が膨らんだ。
魔虚羅の巨大な左腕が男の背を真上から貫いた。
痛みは遅れて来た。男の身体が前へ傾いた。
口から熱いものが溢れた。視界が赤く狭まった。
倒れる先に五条家当主がいた。
二人はほとんど同時に砂地へ崩れた。
男の頬がその人の肩の近くの砂に触れた。
血の匂いがした。池の水の、泥の匂いも混じっていた。
背の上で魔虚羅の影が静かになった。
法陣の輪がゆっくりと回転を止めた。
二人とも、もう立てなかった。儀が閉じていく。
魔虚羅は儀の相手が倒れて、元いた影へと、沈んでいった。
巨躯が砂の下へ、音もなく吸われていく。
池の水が遅れて、戻って来た。雨のように降った。
男の背に、顔に、冷たい水が叩きつけた。
静かだった。遠くで誰かが叫んでいる。
男の目はまだ開いていた。
視界の端に五条家当主の顔があった。
砂の上に頬をつけている。白い髪が血と泥にまみれていた。
胸の傷が深い。眼は半ば閉じかけていた。
青がまだそこにあった。男にだけ届く距離だった。
五条家当主の唇がわずかに動いた。
声は風にも拾われないほど小さかった。
「──────、──────」
男は笑った。声にはならなかった。
息だけが血の混じった唇から漏れた。
二度の秋を越えて、一度も口にしなかった言葉だった。
青い眼がゆっくりと閉じた。
男の視界の端で桔梗の色が一瞬だけ揺れた気がした。
何もなかった。ただの池の水だった。
2018年11月12日、21時19分。京都結界。
男の右の拳が膝の上で握られた。
指の関節が白くなっている。袖口の乾いた血がまたぱきりと鳴った。
橙の袖の下で左腕の内側が熱を持っていた。
男は拳を持ち上げた。左腕へ。
あと、指一本分の距離だった。