慶長十六年、三月の末。京。
神泉苑の池の水は三日経っても濁っていた。
折れた松が岸に横たわっている。崩れた築地の瓦はまだ拾い集められていない。
所司代の役人が数人、杭を打って縄を張り、見物の者を遠ざけていた。
見物の侍衆は死んだ者の数を数えるのをやめていた。
大御所の席は跡形もなかった。
試合は勝負にならなかった。御前の記録にはそう残された。
徳川は禪院と五条のどちらを選ぶとも、結局言わなかった。
二人は苑の砂地で見つかった。 並んで斃れていたという。
誰も、二人の顔を近くで見たがらなかった。
禪院家の庭には誰もいなかった。
世話をする者を男は置かなかった。
家人は庭の花のことなど知らなかった。
水をやる手がなくなった。三日が過ぎた。
縁側の鉢の露草は芽を出さなかった。
土が乾いて、白く割れている。
隅の桔梗の蕾は膨らむ前に萎れた。
昨年の秋に咲き残した青い紫陽花が枝にまだ頭を垂れていた。
花弁は薄い紙のように乾いている。
青が日ごとに抜けていく。 縹から灰へ。灰から茶へ。
指で触れれば、崩れそうなほど脆い、茶褐色だった。
誰もそれを摘まなかった。誰も愛でなかった。
風が吹くと、乾いた花がからりと鳴った。
その夜、加茂家の記録者が灯の下に座っていた。
京の出来事を一行ずつ、書き留める者だった。
会見の経緯も試合の次第も、家康の意向も書かない。書けば誰かの首が飛ぶ。
筆を取り墨を含ませた。 しばらく紙の上で止まっていた。
それから短く一行だけ書いた。
慶長十六年、三月末。影より獣を喚ぶ。使い手は、禪。
記録者は筆を置いた。
その頁は書庫の奥の、誰も開かない棚にしまわれた。
何百年かのうちに虫が食い、頁にはこう読める箇所だけが残った。
――慶■■■ ■■■■ 影より■を■ぶ。使■手は■
年号の最初の一字だけが虫食いの中に読めた。
2018年11月12日、21時31分。京都結界。 男は立ち上がった。
膝がぱきりと鳴った。袖口の乾いた血がまた固く割れた。 瓢箪の栓を抜いた。
二度、続けて飲んだ。喉が反射で拒み、胃が引っくり返りかけた。
男は顔をしかめ、舌の奥の腐った甘さをそのまま飲み下した。
呪力が腹の底で冷たく満ちる。
特級呪具「
ある術師が天下人が旗印として掲げた瓢箪を家宝として奉り、
長きに渡り情念を向けられて呪具と化した。
人の怨みや恐怖、絶望といった負の感情を集積し、呪力に変換して蓄える。
この数日、京の街で啜ったものは、すべてこの底に溜まっていた。
吐瀉物を発酵させたような味。表情を表に出さない男でさえ顔をしかめるほどだった。
それでもこれがなければ今夜は成り立たない。
聚怨瓢箪から得た呪力は臓腑に染み込み、術師の本来持っている呪力とは別に蓄えられる。
これから喚ぶ式神は受けたものに適応する。
法陣が一度回るたびに、それまで受けた攻撃は通らなくなる。
二度回れば二度分。三度回れば三度分。
歴代の十種使いは、その積み重なりに追いつけず、みな敗れてきた。
男自身も神泉苑で見た。無下限が中和されていくのを見た。
ならば、適応を積ませなければいい。
喚んだ瞬間から領域を展開し、回転する暇を与えない。
必中の園の中で式神を間断なく浴びせ続ける。
瓢箪の呪力はそのために溜め、飲み下していた。
領域と式神を同時に回し続ければ、尋常な呪力では一息も保たない。
この一戦で使い切る前提だった。
夜の空は藍を深くしていた。廃墟の黒い影の中に、橙の上着だけが浮いていた。
男は影に立った。 足元の底のない冷たさが、膝まで上がってくる。
左腕の内側に右の拳を押し当て、静かに口を開く。
完全な循環と調和を意味する祓詞。
最強の式神にして破壊の化身を召喚する言葉。
それを静かに唱える。
「布瑠部由良由良」
足元から重い音が上がり、廃墟の瓦礫が一斉に震えた。
倒れた者たちの髪が風もないのに、揺れた。
影の中心からそれは立ち上がった。巨躯だった。
背に法陣の輪が浮かんでいる。右手に長大な剣。
顔のない顔が男を見下ろした。
池の水が空へ上がっている。折れた松。崩れた築地。
青い眼の人が一人立っている。
男はそれを一瞬だけ見て、瞬きをして、消した。
掌の空間を蓮のつぼみのかたちのように円形に大きく整え、結び終えた後、静かに口を開く。
領域展開「
足元の廃墟が消え、夜の空が消えた。
代わりに黒い花園が果てもなく広がった。
巨大な食虫植物のような花々が闇に浮かんでいる。
大王花にも似た肉厚の花弁が、ゆっくりと開閉していた。
蔦が空を這い、花粉の代わりに、影の粒が降る。
影を媒介として式神を喚び出す術式、十種影法術。
その潜在能力を極限まで引き出した、完全包囲にして必中必殺の影の園。
橙の上着だけが、その中で色を持っていた。
影が地から生えた。幾十本もの獣の手が魔虚羅の足首を掴み、引きずり込む。
巨躯の下半身が影の底へ沈んだ。魔虚羅は剣を振った。
影が斬れた。斬れた先から、また生える。
園の中でのみ、式神は際限なく喚ぶことができる。
男は出し惜しまなかった。
今夜に限って、式神は持てる全てを注ぎ込む攻撃手段だった。
影の底から、あらかじめ撚り合わせておいたものを引きずり上げた。
融合体。二つの式神を影の中で一つに撚り、別の獣に仕立てたものだった。
扱いは難しく、呪力も食う。
その代わり、他の式神の能力を混ぜ合わせたものとなる。
融合体と、その素材になった式神を同時に顕現することができるのも、この園の中だけだった。
玉犬の白と黒を混ぜた
従来の玉犬と違い一回り体躯が大きくなっている。
毛並みは灰色で、頭部は幅広くて大きく、額には深い皺が刻まれている。
耐久力と俊敏性と攻撃力を向上させた融合体。
大蛇と蝦蟇を混ぜた
蝦蟇の舌が大蛇に変異した融合体。
その姿は巨躯へと変異し、鱗と脂の二重の装甲に膂力だけで押し潰す。
動きは鈍いが、掴めば離さない。
貫牛と虎葬を混ぜた
虎葬を基にした黒く大柄な体躯。
貫牛の走力と膂力、そして虎葬の巨大な爪と牙で術式効果を乱す。攻撃に特化した融合体。
円鹿と虎葬を混ぜた
円鹿を基にした白く大柄な体躯。
反転術式で術師を治癒し、攻撃する際は術式を中和する。攻防一体の融合体。
禍々しく融合した犬と白と黒の玉犬が地を駆ける。
牙が舞い落ちる花弁のように頭上の闇から降った。
蛇呑熟視の舌が魔虚羅の胴を貫き、牛刻虎穴の爪が背を裂き、貫牛の角が胸を突いた。
夥しい数の鵺の群れが花園の空を埋めた。赤い目が標的を捉える。
鵺と脱兎を混ぜた
電撃能力を失い殺傷力も著しく減る代わりに、脱兎のように群れで飛翔し、命を喰らう融合体。
男はこれを不完全顕現させた鵺と併用することで、花弁の如く操っていた。
羽音のない黒い影が魔虚羅の頭部に貼りつき喰らいつく。
満象の水が脇腹に叩き込まれ、即座に鵺の雷が浴びせられる。
一つの攻撃が終わる前に、次の攻撃が届いていた。
どれもが違う角度だった。違う性質、違う方向、違う速さ、違う重さ。
必中の園の中で、一度も外れなかった。
それでも法陣が回りきった。 一回。
魔虚羅の巨躯が、受けたものの最初の分だけ硬くなる。
通らなくなった攻撃が、一つ、二つ。
だがそれだけだった。
二度目を回させる暇を男は与えなかった。
円月葬鹿の虎の爪が法陣の縁を削り、蝦蟇の舌が輪を掴んで強引に引き戻そうとする。
輪は鈍り、軋み、回りかけて止まった。
魔虚羅の剣が初めて男の目の前まで届いた。
斬撃が頬をかすめた。熱いものが顎を伝った。
男は動かなかった。
足元の影から数本、獣の手が生え、剣を持つ腕を掴んだ。
反転の光が男の傷を塞ぐ。影が爆ぜた。
禍犬と玉犬の牙、鵺の雷、鵺脱兎と貫牛の突進、満象の水、蛇呑熟視の舌、円月葬鹿と牛刻虎穴の爪。
全てが止まらなかった。
影の園が悲鳴を上げるように震えた。
魔虚羅の肉体は夥しい連撃によって、確実に削られていった。
胸が割れ、左腕が欠け、巨躯が傾いだ。
それでも倒れなかった。 足りない。
式神だけでは、あと一歩、足りない。
舌の奥に、あの味が戻ってきていた。
酸と腐った甘さ。
腹に満ちたはずの呪力が、底を突きかけている。
削れているのは魔虚羅だけではなかった。
男は駆け出していた。考えるより先に足が地を蹴っていた。
男が生涯で一度も見せたことのない走り方だった。
咆哮が喉を突いた。醜く、猛々しい声だった。
かつて野蛮と疎んだ獣の声を、自分の喉が出していた。
魔虚羅の剣が振り下ろされる。肩が裂けた。
構わなかった。式神と共に懐へ飛び込む。
殴る。蹴る。裂く。噛む。
式神の爪と同じ場所に男の拳を叩き込む。
牙の隣に男の歯を立てる。
折れた骨も裂けた皮膚も数えなかった。
花園靜という存在から発せられる暴の全てを叩き込んだ。
黒い花園が薄れていく。
廃墟の壁が、夜の空が、割れた硝子が、戻ってきた。
結界が消失し、静寂に満ちる。
橙の男は朱に染まっていた。
それでも、生きて立っていた。
男が見据える先には法陣だけが残されていた。
輪はもう回らない。
膝が震えた。意識が遠のいていく。
残っていた僅かな力を振り絞り、足元の影へ身を沈めた。
男はこの日、歴代の十種影法術使いが成し遂げられなかった魔虚羅の調伏を遂げた。
その場はどこまでも静かだった。