ひろしは夢を見ていた。食卓には見慣れた料理が並び、温かな湯気が立ち上っている。
「父ちゃ〜ん!早く早く〜!」
しんのすけが待ちきれない様子で身を乗り出す。
「あ〜う〜!」
ひまわりも負けじと声を上げ、両手をばたつかせていた。
「はいはい。慌てなくてもご飯は逃げないわよ」
みさえは呆れたように笑いながら、ひろしのグラスへビールを注ぐ。
「あなた、今日もお疲れ様」
金色の泡が静かに揺れる。ひろしは自然と頬を緩めた。いつもの光景だった。ずっと見てきた景色だった。一日働き、家に帰り、家族と食卓を囲む。
そんな何気ない時間こそが、自分の人生だった。
「ひろし、ご馳走になる、ね」
広の柔らかな声が聞こえた。シロを撫でながら微笑んでいる。
いつもの食卓。いつもの5人と1匹。
野原一家の団欒が始まろうとしていた。
――いや、違う。
「広おねいさ〜ん♡ オラに食べさせて〜♡」
しんのすけが身を乗り出して広に甘える。
「た〜よ〜!」
ひまわりまで広へ手を伸ばしていた。
「こらしんのすけ! 広ちゃんを困らせないの!」
みさえが声を上げる。広は困ったように笑いながらも嬉しそうだった。
「ふふ。ひろしの家族、みんなあったかい。好き」
その言葉と共に、広はシロの頭を優しく撫でる。
シロは気持ち良さそうに目を細め、広の膝に頭を預けていた。広もまた、野原一家との時間を心から楽しんでいるように見えた。完全に馴染んでいた。
まるで昔から、家族の一員だったかのように。
………………
…………………………
……………………………………いや、広って誰だ。
その瞬間、食卓の空気がわずかに揺らいだ。
ひろしは困惑しながら広を見つめる。
初めて見るはずの少女だった。
記憶を探っても、思い当たる人物はいない。
それなのに目を離せなかった。今まで見たことのない、この世界には似つかわしくないほど可憐で、美しさと儚さを同時に抱いた少女。広はそんな存在だった。
無論、ひろしに面識はない。
それなのに彼女は当然のように食卓へ座っている。
みさえも、しんのすけも、ひまわりも。誰一人として違和感を抱いていない。そして何より、自分自身が違和感を抱いていなかったことがおかしい。
おかしいはずなのに。広を見ていると胸の奥が妙に温かくなった。懐かしい。そんな感覚があった。
広がふと視線を上げる。ひろしと目が合った。
するとどこか嬉しそうに微笑んだ。その仕草には不思議な柔らかさがあった。ひろしは思わず見惚れてしまう。だが次の瞬間、慌てて視線を逸らした。
(何考えてんだオレは!!広はまだ15歳!!子供じゃないか!!隣にはみさえだっているんだぞ!!)
ひろしは懲りない男だった。
若い頃から幾度となく他の女性に見惚れ、そのたびにみさえの鉄拳制裁を受けている。
記憶の中で拳骨の痛みが鮮明に蘇り、思わず肩を竦めた。しかし、その直後だった。別の違和感が胸に引っ掛かる。
(広は15歳……)
そこで思考が止まった。
(なんでオレは初対面の子の年齢を知ってるんだ?)
ひろしの表情が強張る。見た目で判断したわけではない。推測でもない。まるで昔から知っていた事実を思い出しただけのような自然さだった。
「ひろし」広が静かに呼びかける。
ひろしは考え事をする時、顎に手を当て目を閉じる癖があった。広の声に促されるように目を開く。
ひろしは息を呑んだ。さっきまで居たはずの家族が泡沫のように消え、広だけが残っていた。
気付けば食卓も消えている。みさえも、しんのすけも、ひまわりも、シロもいない。ひろしは思わず辺りを見回した。空間そのものが変わっていた。
橙色を基調とした幻想的な都市景観が視界いっぱいに広がっている。巨大なスプーンが空中に突き刺さるように浮かび、その周囲をおにぎりやピザ、弁当、餃子、パンがゆっくりと漂っていた。
さらに視線の先にはテント状の巨大なドームが見える。その向こうには電車。ビル群。都市の輪郭。
現実と夢が混ざり合ったような、言葉では説明のつかない、異様な光景だった。…………意味不明だ。
何なんだ、この世界は。
視線を落とす。自分と広は巨大な皿の上に立っていた。あまりにも馬鹿げた光景なのに、不思議と恐怖はなかった。代わりに胸の奥をざわつかせる奇妙な既視感だけがあった。
「ひろし。これから言うことをよく聞いて、ね」
広が真剣な眼差しでこちらを見ている。
ひろしの喉元までせり上がっていた疑問の山は、その一言で即座に引っ込んでしまった。
なぜだか分からない。だが、広が最優先で伝えようとしていることを聞かなければならない気がした。
「ひろしは術式に目覚めている、よ」
その言葉に、ひろしの目が大きく見開かれる。
術式。その一言は、ひろしにとって特別だった。
コガネのルール説明、泳者、そして死滅回游。 それら全てよりも強く心を揺らした単語、術式。
オレは昇級査定中の準一級呪術師、それなりに戦える。だが、術式はない。だから一級になれなかった。
とは口が裂けても言えなかった。自分の前を歩く気怠げな男の背が、あまりにも眩しかったからだ。
だから術式という言葉には、人一倍敏感だった。
「オレに……術式が?」
掠れた声が漏れる。広は静かに頷いた。
「だから、得点を獲って。19日以内、に」
ひろしは顔をしかめた。
19日以内に得点を獲る。死滅回游のルールを知っている人間なら、その意味は簡単に分かる。
しかし、不思議と怒りは湧かなかった。
コガネが同じことを言えば腹が立ったはずだ。命令のように聞こえたはずだ。だが広の言葉は違った。
目の前の少女は、ひろしへ得点獲得を命じているのではない。心配している。本気で案じている。
そんな確信だけが胸の内にあった。悪意など欠片もない。それどころか、自分以上に自分のことを気に掛けているようにすら見えた。
オレは初めて会った少女に、全幅の信頼を置いている。それはあまりにも異常なことだった。
異常だと分かっている。なのに嫌悪感がない。むしろ自然だった。数秒の逡巡の後、口を開いた。
「19日以内に、オレに人を殺せと言ってるんだな?」
ひろしは真っ直ぐ広を見る。残酷な問いだった。
言葉を飾らなければ、それが死滅回游の本質だからだ。広は答えなかった。代わりに視線を伏せる。
酷く悲しそうな顔だった。その表情を見た瞬間、ひろしの胸に鋭い痛みが走った。ずきり、と。
まるで、自分自身が傷付いたかのようだった。
その感覚にひろし自身が戸惑う。なぜだ。
なぜ、こんなにも胸が痛む。なぜ、自分はこの少女の悲しそうな顔を見たくないと思う。なぜ……?
(この子に悲しい想いをさせちゃならない)
そんな言葉が不意に浮かぶ。理屈ではない。
説明もできない。ただ魂の奥底から自然に湧き上がってきた、本物と呼べる感情だった。
「…………13日まで生き延びて。そうすれば、きっと」
しばらく沈黙した後、広は小さくそう言った。
曖昧な返答だった。あまりにも抽象的だった。
だが、誤魔化しているわけではない。
隠そうとしているのでもない。広は言える範囲の言葉を必死に探している。ひろしにはそう聞こえた。
だから余計に分からない。謎が謎を呼ぶ。
頭の中へ新たな疑問が次々と浮かび上がる。
どうして広は、死滅回游のルールを知っている。
泳者なのか。だとして、なぜ見ず知らずのオレを助ける。そもそもなぜオレの個人情報を知っている。
呪術師であることは誰にも言っていない。家族にすら話していない。外で酒を飲むのすら控えた。
呪術規定を守るためでもあるが、情報漏洩を避ける意味もあった。それほど気を使っていたはずだ。
それなのに。なぜ広は知っている。なぜオレに術式がないことを知っている。なぜオレに術式が発現したことまで知っている。なぜ……
そして、ある考えがひろしの脳裏をよぎる。
まさか……広がゲームマスターなのか――。
――違う!!!!!
ひろしは愕然とした。
広が死滅回游のゲームマスターかもしれない。
それ自体は妥当な推測だった。
「オマエは術式が発現したから得点を獲れ」
言っていることは、コガネと大差ない。
情報量だけで判断するなら、むしろ広の方が怪しいくらいだった。しかし、違う。
ひろしの中で何かが強く叫んでいた。理屈ではない、確信だった。広は違う。絶対に違う。
まるでひろしの魂そのものが、広を、目の前の少女を疑うことを拒んでいるようだった。
論理的思考と感情ならまだ分かる。だがこれは感情ですらない。もっと深い場所からの否定だった。
自分でも説明できない。説明できないことに、ひろし自身が戸惑っていた。自分のことが分からない。
広は何も言わず、ただひろしを見つめている。
静かな瞳だった。何かを訴えるようでいて、何も強制しない。その沈黙がかえって重かった。
広は何者なんだ。オレは何を知っている。
なぜこんなにも信じてしまう。答えは出ない。
重い沈黙だけが2人の間に流れていた。
先に口を開いたのは広だった。
「ひろし」
先程までとは少し違う声音だった。
穏やかで、優しい。春の日差しのような柔らかさがあった。もし今この場で彼女が歌い始めたなら、ひろしはきっと、最後まで聴き入ってしまうだろう。
そんな不思議な説得力が、その声には宿っていた。
広は真っ直ぐひろしを見る。そして、ゆっくりと言った。
「頑張って、生き抜いて、ね。家族が待ってる、よ」
たったそれだけだった。
だが、その言葉は真っ直ぐ胸へ届いた。
疑念が消える。不安が消える。広は殺し合いを勧めるためにここへ来たわけではない。
騙そうとしているわけでもない。利用しようとしているわけでもない。ただ純粋に、ひろしへ生きてほしいと願っている。言葉でなく心から理解した。
この想いは理屈ではない。それだけは分かった。
心の奥底から熱が込み上げてくる。冷え切っていた身体の中心へ火が灯る。新宿で感じていた無力感。
誰も来ない恐怖。助けられなかった後悔。その全てが消えるわけではない。それでも、まだ、まだだ。
まだ終わっていない。そう思えた。
ひろしは拳を握り締める。
「言われなくたってそうするさ!!」
力強く言葉を返した。
「絶対に生き抜いてやる!!」
広に向けて誓う。
広は嬉しそうに目を細めた。
そして満面の笑みを浮かべる。
その笑顔は、女神を彷彿とさせる美しさだった。
見ているだけで胸が温かくなる。まるで長い旅路の末に、ようやく帰るべき場所を見つけたような安心感があった。ひろしは思わず笑みを溢す。
「ありがとう」自然にそう言えた。
広へ向けて、もっと何か言おうとする。
聞きたいことは山ほどあった。
広の正体、13日という期日、自分に刻まれた術式。
死滅回游という名の悪趣味極まりない死のゲーム。
なぜ自分を知っているのか。なぜ自分は広を知っているのか。聞かなければならないことが無数にあった。もっと話したかった。……だが、その前に。
世界が揺らいだ。広の姿が霞む。風景が崩れる。
巨大な皿も、空を漂う食べ物たちも、橙色の都市景観も。全てがひろしから遠ざかっていく。
「広!」思わず手を伸ばした。しかし届かない。
広は最後まで微笑んでいた。その姿が光の中へ溶けていく。ひろしの視界が光に包まれた。そして……
ひろしは目を覚ました。
刹那、猛烈な吐き気が胃を掴んだ。
「うっ……!」
全身を襲う痛みが意識を現実へ引き戻す。
次の瞬間、堪えきれずその場で吐いた。肺が痛い。肋骨が痛い。傷口が痛む。身体が鉛のように重い。
夢ではない。現実という名の悪夢だった。
地下通路の奥、身を隠している薄暗いバックヤード。冷たいコンクリートの床に、生臭い血の臭い。
暗く澱んだ空気。見慣れた地獄がそこにあった。
2018年11月1日、9時20分。
腕時計の表示が正しいなら、5時間半近く眠っていたことになる。身体の状態は決して良くない。
むしろ酷い。それでも。不思議と立ち上がれそうだった。夢の内容は驚くほど鮮明に残っている。
広の顔も、声も、言葉も。何一つ忘れていない。
今、オレの身体には、生得術式が刻まれている。
13日まで生き延びろ。19日以内に得点を獲れ。
理由は分からない。根拠もない。だが信じられた。
少なくとも今は、それだけで十分だった。
ひろしはゆっくりと拳を握る。そのためにはまず、生きる、生き延びる。何があっても生きてやる。
絶対に死なない。そして家へ帰る。みさえに会う。しんのすけに会う。ひまわりに会う。シロに会う。
家族を抱きしめる。そのためなら何度でも立ち上がる。ひろしの瞳に、力強い光が宿る。
数時間前まで胸を覆っていた絶望は消えていた。
代わりにそこにあったのは、強く、揺るぎない生への執念だった。