クレヨン廻戦   作:ひろしとさとる

4 / 8
野原ひろし ビルメシの流儀

2018年11月3日、11時04分。

 

突然だが、いきなり日常が崩壊し、呪霊の跋扈する魔境へ放り出されたら、君はどう生きるだろう?

 

危険なのは呪霊だけではない。人を殺すことで得点を得ようとする泳者もいる。そんな悪夢のような環境だ。

 

物資の調達先としてまず思い浮かぶのは、コンビニエンスストアやドラッグストアだろう。

 

だが、そのようなありふれた場所には同じ発想の人間が集まる。呪霊に遭遇する危険がある。

 

泳者と鉢合わせする危険もある。さらに厄介なのは、そうした場所を狩場にしている泳者の存在だ。

 

危険を冒してまで物資を取りに行くには、あまりにも割に合わない。飲食店の倉庫やバックヤード、スーパーマーケットの保存食売り場も同様だ。

 

物資があることは誰でも思いつく。だからこそ危険だ。仮に無事だったとしても、既に誰かが持ち去っている可能性が高い。

 

ならば、どこが一番生き残る可能性が高いのか。

 

オレは自信を持って答えられる。

 

東京都内が何らかの理由で崩壊した時、人が生存するのに最も適しているのは、オフィスビルだ。

 

……と、オレは思う。

 

ひろしは双葉商事の取引先の1つ、集英ビルに身を隠していた。周囲へ細心の注意を払いながら、静かにビルの地下へ降りる。目的は設備管理室だ。

 

オフィスビルの設備管理室は地下に配置されるケースが非常に多い。集英ビルも例外ではなかった。

 

ビル全体を管理する設備管理室には、各所の鍵が保管されている。ひろしはそこで鍵を確保すると、まずビル全体の把握に時間を費やした。

 

人の気配はないか。呪霊はいないか。

 

痕跡と残穢に気を配りながら慎重に調査を進める。

非常階段はどこにあるか。機械室は、電気室は、緊急時に使える動線は。オフィスビルは広い。

 

慣れない人間には迷路のような構造だ。裏を返せば、地理を理解している人間にとっては逃走経路の宝庫でもある。

 

どこに何があるのか。どこから逃げられるのか。

 

それを把握することは、呪術師としても営業マンとしても役に立つ。ひろしはそう考えていた。

 

防災備蓄庫には非常用備蓄食が置かれていた。

 

量は十分。いや、1人で消費するには多過ぎるほどだった。これから世話になるメシだ。

 

無駄には出来ない。ひろしは各テナントから拝借した4つのリュックを並べ、備蓄食を手際よく詰め込んでいく。リュックの置き場所は後で決める。まずは物資の確保が先だ。

 

次は水。貯水タンクの確認だった。

 

集英ビルの非常用貯水設備は想像以上に管理が行き届いていた。これならしばらく使う分には問題ない。

 

それを確認した瞬間、ひろしはようやく肩の力を抜いた。身体を洗う余裕もある。そう判断したからだ。

 

3日前から着ていたスーツは血と汗にまみれていた。

呪霊の爪痕や噛み跡によって原形も留めていない。

 

もう営業に着ていけるような状態ではなかった。

 

無言でスーツを見つめた。

 

……このスーツは、係長昇進の祝いにみさえが買ってくれたものだ。このスーツを着て色んな場所へ営業に行った。取引先から言われたおべっかの類は数え切れない。だが、「いいスーツですね」と言われた時だけは、素直に嬉しかった。

 

あれはオレが褒められたんじゃない。みさえのセンスが褒められたような気がして、誇らしかった。

 

ひろしは小さく笑う。傷だらけのスーツへ手を合わせた。……今までありがとう。

 

「……ごめんな」

 

誰が見ているわけでもない。

 

共に営業戦線を戦い抜いた戦友への手向けだった。

 

数秒の祈りを終えると、ひろしはすっと立ち上がった。感傷に浸るのはここまで。仕切り直しだ。

 

まずは体調を万全にする。

 

傷口へ水がかかる。ズキッとした痛みが全身を走ったが、ひろしは顔をしかめながらも身体を洗い続けた。血と汗。乾いてこびり付いた汚れ。

 

それらを丁寧に洗い流していく。

 

傷だらけの身体は見るも無惨な状態だったが、不思議と気分は悪くなかった。汚れが落ちるたびに、少しずつ生き返っていくような感覚がある。

 

ひろしの側には、きちんと畳まれた衣服が置かれていた。男子更衣室から拝借してきたものだ。

 

自分の体格に近いものを選び、3着ほど確保してある。営業先で人を見る目は、それなりに鍛えられていた。服の持ち主がどんな体格だったのかも、ある程度は見当がつく。用意しておいて正解だった。

 

血と汗に濡れたスーツのままでは風邪を引きかねない。身体を洗い終えたひろしは、集英ビル内で調達した応急キットを広げた。消毒液の蓋を開ける。

 

アルコールが傷口へ染み込む。

 

「ぐっ……!いってぇ〜!」

 

ぎりりっと、歯を食いしばる。痛い。かなり痛い。

 

化膿するよりはずっとマシだ。ひろしは自分にそう言い聞かせながら消毒を続けた。一通りの処置を終えると、ガーゼを貼り、テープで固定する。

 

病院で受けるような立派な治療とは程遠い。

 

だが、何もしないより遥かに良い。最低限の処置を済ませ、ようやく服へ袖を通した。その瞬間。

 

くしゅん! 盛大なくしゃみが飛び出した。

 

「うぅ……寒ぃ……」

 

11月初頭とはいえ、水で身体を洗うには十分過ぎるほど寒い。お湯の出るシャワー室でもあれば理想だった。しかし残念ながら、集英ビルにはそこまでの設備はない。

 

くしゅん! 2度目のくしゃみが飛び出す。

 

どうやら身体は正直らしい。ひろしは慌てて上着を羽織った。風邪を引いてから後悔しても遅い。

 

体調管理は社会人の基本である。こんな状況になっても、それだけは変わらなかった。

 

身体を温めながら歩き始める。次に向かう先は決まっていた。……そう、昼メシだ。

 

待ちに待った昼メシの時間だった。

 

着替えを終えたひろしは、自然と足取りが軽くなるのを感じていた。どれだけ深刻な状況であろうと、人はメシを食わなければ生きていけない。

 

逆に言えば、ちゃんと食えるならまだ戦える。

 

だからこそ、ひろしは心の底から、この時間を楽しみにしていた。本来なら大量の社員を支えるために用意された社員食堂。今は誰もいない。

 

静まり返った空間だけが残されていた。ひろしは食堂へ入ると、まず照明のスイッチへ視線を向けた。

 

手は伸ばさなかった。電気は生きている。

 

だが点けない。明かりは安心を与えてくれる一方で、自分の存在を周囲へ知らせる目印にもなる。

 

泳者や呪霊の目に留まれば、元も子もない。

 

ひろしはビル内で入手した懐中電灯を取り出した。

 

必要最低限の光だけで周囲を照らす。その白い光が、誰もいない食堂の中をゆっくりと走った。

 

冷蔵庫、調理台、食器棚、そして大型の冷凍庫。

 

冷凍庫の中には大量の食材が眠っていた。本来なら11月1日の昼メシとして社員へ提供される予定だったものだ。あと少し、あとほんの少し何も起きなければ、ここにはいつもの昼休みがあった。

 

社員たちの笑い声があった、何気ない雑談があった、当たり前の日常があった。今はその痕跡だけが残されている。

 

ひろしは冷蔵庫を開き、食材を1つずつ確認した。

自然と口元が緩む。

 

「……よし」

 

昼メシにしよう。ひろしは冷蔵庫の中身を確認しながら、その日の昼メシを考えた。傷付いた身体を回復させるには、きちんと食わなければならない。

 

腹を満たすだけでは足りない。必要なのは、栄養満点の、身体を立て直すためのメシだ。

 

社員食堂の厨房には必要な物が揃っていた。

冷蔵庫には鶏もも肉。野菜室には玉ねぎや人参。

さらに棚にはトマトの缶詰が置かれていた。

 

ひろしは鶏もも肉のパックを手に取り、貼られたラベルを懐中電灯で照らした。消費期限は11月6日。

 

電気が生きていたおかげで庫内は冷えたままで、肉の色にもハリがある。念のためパックを開けて嗅いでみたが、嫌な臭いはない。

 

期限まで、まだ3日も余裕がある。玉ねぎと人参は常温でも保つ野菜で、トマトの缶詰に至っては賞味期限が来年だ。

 

調味料も十分にある。米も残っている。味噌もある。……これならまともな昼メシが作れる。

 

一通り回って確かめた。ビル内に呪霊も人もいない。音と匂いくらいは出しても問題ないだろう。

 

ひろしは手を洗い、炊飯器へ米をセットした。

 

洗った米に水を張り、蓋を閉める。スイッチを押した瞬間、妙な安心感が胸に広がった。

 

炊飯器の運転音。それは今まで何度も聞いてきた、ひろしにとって当たり前の日常の音だった。

 

しばらくして厨房にご飯の炊ける香りが漂い始める。甘い。それでいて、どこか落ち着く香りだった。ひろしはたまらず深く息を吸い込む。身体が勝手に反応していた。腹が鳴る。胃袋がメシを要求している。

 

味噌汁も作る。玉ねぎは半分だけ使い、人参と一緒に好みの大きさに切り分けて入れる。鍋の中で味噌が溶けていく。立ち上る湯気と香りが冷えた身体へ染み込むようだった。

 

メインは鶏もも肉のトマト煮込みだ。

 

鶏もも肉を一口大に切り、塩こしょうを振る。

 

熱した鍋に皮目を下にして並べると、じゅうっと景気のいい音が立った。脂がじわじわと溶け出し、香ばしい匂いが厨房に広がっていく。

 

皮目がこんがりときつね色になったところで裏返し、残りの玉ねぎを薄切りにして加える。鶏の脂を吸った玉ねぎが透き通ってきたら、トマトの缶詰を開けて流し込み、ざっと潰しながら混ぜた。

 

あとは蓋をして煮込むだけだ。トマトソースがぐつぐつと音を立てる。柔らかくなった玉ねぎと鶏肉に赤いソースが絡みつき、食欲を容赦なく刺激してきた。

 

やがて全ての準備が整う。ご飯、味噌汁、そして、主役のチキンのトマト煮込み。社員食堂の机に並べられたそれは、豪華ではない。だが、今のひろしにとっては、どんな高級料理よりも価値があった。

 

「いただきます」自然と手を合わせていた。

 

まずチキンを口へ運ぶ。ほろりと箸が触れただけで肉がほどけた。柔らかい、驚くほど柔らかい。

 

そこへトマトの酸味と旨味が重なる。

 

鶏肉から滲み出た脂とトマトソースが混ざり合い、口いっぱいに広がった。焼き付けた皮目の香ばしさが、酸味の奥でしっかりと効いている。美味い。

 

押し寄せる感動で思わず目を閉じる。

 

(うま〜〜〜い!!じっくり煮込まれたもも肉がトマトの酸味と合う〜〜〜!!)

 

3日ぶりのまともなメシだった。身体中の細胞が歓声を上げているような気がした。鶏とトマトが仲良く手を取り合い、自分の周りを踊っている気がする。

 

間髪入れずにご飯をかき込む。ご飯が美味い。

炊きたてのご飯は、それだけでご馳走だった。

 

粒立ったご飯がトマトソースを受け止める。鶏肉の旨味とトマトの酸味。そこへご飯の甘味が加わる。

 

(これは当然!ご飯が進むでしょう!!)

 

気付けば箸が止まらない。もう一口。

 

さらにもう一口。身体が勝手に次を求めていた。

 

「あぁ……美味ぇ……染みるぅ〜……」

 

声を出してはいけない。人間がいる証拠になる。

 

それでも感嘆の声を漏らす。誰もいない社員食堂に、ひろしの呟きだけが響いた。

 

続いて味噌汁へ手を伸ばす。湯気が立ち昇る。

椀を持つ手にほんのりと熱が伝わった。一口啜る。

 

熱い。だが、その熱さが心地良い。

 

味噌の旨味が舌の上を滑り、冷え切った身体の奥まで染み渡っていく。本能的に息が漏れた。

 

「……美味い」

 

古くから日本の食卓に並び続けてきた理由が分かる。派手さはない。だが、確かに人を支える力がある。主役の隣に寄り添い続けてきた、名脇役。

 

いいや、それだけではない。煮えてとろりと甘くなった玉ねぎと柔らかい人参が、味噌汁をただの脇役では終わらない存在感を示している。

 

ひろしの頭上で玉ねぎと人参が自信満々に腕組みしているような気がした。名脇役、いや、それ以上。

 

そんな味だった。

 

(味噌汁、たまねぎ、人参、また味噌汁……身体に必要不可欠なミネラルが補給されていく〜〜〜!!!)

 

味噌汁は失われた塩分を補給すると同時に、傷付いた身体と擦り切れた心をゆっくりと温めていく。

 

ひろしは黙々と箸を動かした。集英ビルを調査しながら、最初に目を付けたのはこの食堂だった。

 

だが飛び付かなかった。まず安全を確保した。

 

水を確認した、備蓄を集めた、避難経路を把握した。腹は減っていた。正直、冷蔵庫を開けた瞬間に食材へ食らい付きたかった。それでも我慢した。

 

だからこそ今、この昼メシがある。

 

文明の利器を使いこなす人類の勝利だ。

 

よく耐えた、本当によく耐えた。美味い、美味いぞ。箸が止まらない。メシが進む、味噌汁も進む。

 

チキンも進む。いくらでも食える気がした。

 

(うおォン! オレはまるで人間火力発電所だ!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅう……苦しぃい……」

 

数分前まで人類の勝利を確信していた男が、机に突っ伏して唸っていた。

 

食べ過ぎた。完全に食べ過ぎた。……苦しい。

 

チキンのトマト煮込みは美味かった。ご飯も美味かった。味噌汁も美味かった。3日ぶりのまともなメシだったのだ。

 

理性が胃袋に敗北するのも無理はない。だが、それにしたって食べ過ぎである。

 

本来なら腹八分目で区切り、次の行動へ移るべきだった。ビル内の再確認、備蓄食の分散、逃走経路の整備。やるべきことはいくらでもある。

 

だが、ひろしの胃袋はそんな予定表など知ったことではなかった。結果として、身体と心の欲するまま昼メシを流し込み、今こうして満腹で動けなくなっている。

 

情けない。傷だらけで動けなくなったかと思えば、今度は食べ過ぎで動けなくなる。我ながら締まらない。

 

「……何やってんだオレは」

 

小さく呟いてから、自分で少し笑った。

 

死滅回游なんて狂ったゲームの真っ只中だというのに、自分は腹を抱えて苦しんでいる。滑稽だった。

 

だが、それも悪くない気がした。少なくとも、生きている。生きてメシを食い、食べ過ぎて後悔する程度には生きている。それが少しだけ嬉しかった。

 

重い腹を抱えながら、非常階段の近くまで移動した。社員食堂よりこちらの方が都合が良い。

 

何かあった時、すぐ逃げられる。その場へ腰を下ろし、背中を壁へ預ける。

 

隣には備蓄食を詰めたリュックが置かれていた。

 

敵襲があった場合、最低限の物資だけは持ち出せるようにしている。営業マンの経験から染み付いた癖だった。準備できることは先にやる。

 

やれる時にやる。後回しにすると、だいたい碌なことにならない。リュックはあと3つある。

 

いずれ避難経路ごとに分散配置したい。

 

どこから追われても最低限の物資を回収できるようにしておきたい。だが、今は無理だ。

 

今のひろしに出来ることは、胃袋が落ち着くのを待つことくらいだった。

 

「……少し休むか」

 

まぶたが重い。メシを食い終えた身体は、消化のために全力で働いているらしい。頭がぼんやりする。

 

意識も霞む。だが、それでも思考は続いていた。

 

集英ビルを拠点にする。

 

しばらくはここで身体を回復させる。

 

幸い食料も水もある、少なくとも数日は困らない。13日までなら保つだろう。そう考えていた。

 

集英ビルのようなオフィスビルには、防災設備が数多く備えられている。非常用発電機もその1つだ。

 

設備管理室で確認した時、多少埃は被っていたが状態は悪くなかった。燃料が尽きるまでは最低限の電力が確保できる。照明、冷蔵設備、簡易的な調理器具。素人でも不自由しないほど揃っている。

 

そう考えるとかなり心強い。美味い昼メシ。

いや、美味いビルメシが食える。

 

それだけでも、このビルを選んだ価値はあった。

だが、ひろしはこの状況を楽観し過ぎない。

 

これはあくまで想定だ。管理者が消えたビルなど、本来正常に運用されるものではないからだ。

 

電気が明日止まるかもしれない、貯水設備が使えなくなるかもしれない。何が起きても不思議ではない、だから頼り過ぎない。依存しない。

 

利用できる間だけ利用する。それが正しい。

もし一般人が逃げ込んできたらどうするか。

 

備蓄は分けるべきか。避難場所はどこが最適か。

そんなことまで考え始める。父親の性分だった。

 

自分1人だけ助かればいいとはなかなか思えない。

 

それから……術……式……を……

 

そこまで考えたところで、思考が途切れた。

 

夢の中で広が言っていた術式、13日、19日。

 

考えるべきことはまだ山ほどある。だが。

 

……ぐぅ。 限界だった。

 

重傷から立ち直ったとはいえ、ひろしの身体はまだ完全ではない。身体を洗った。服を着替えた。

 

傷の手当てもした。昼メシも食べた。

 

安全な場所も確保した。今の自分に出来ることは、十分やったはずだ。ひろしの意識は沈んでいく。

 

極限環境のサバイバル生活において、その判断は決して間違いではなかった。むしろ及第点と呼べるだろう。

 

だが、これから降りかかる災厄を。

 

得点を得るため、他の泳者を狩る泳者の牙が、ひろしの喉笛を噛み裂こうとしていることを。

この時のひろしは、まだ知らなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。