2018年11月4日、17時37分。
「ハァ……ハァ……ち……ちくしょう!」
ひろしは全身が朱に染まっていた。
額から流れた血が頬を伝い、視界の端を赤く染めている。服は裂け、身体のあちこちに鈍い痛みが走る。
向かい合う男が口を開いた。
「オッサン、全然ダメだね」
何人かの泳者を得点に変えた言葉を口にする。
「大人しくしてたら楽に殺してあげるけど?」
男は肩の力を抜いたまま立っている。
まるで散歩の途中にでも立ち寄ったかのような気楽さだった。その隣では、1人の女が熱に浮かされたような目でうっとりと男を見つめている。
ひろしは広の示した13日という期日を迎える前に、泳者との交戦で命を落としかけていた。
――時は2時間前に遡る。
2018年11月4日、15時37分。
ひろしは集英ビルをほぼ掌握していた。 食料、水、避難経路に緊急時の逃走手段。
生き残るために必要なものは、一通り揃えている。身体の方も、順調に回復しつつあった。
……はずだった。
「頭がクラクラする……風邪ひいちまったか?」
こめかみを押さえながら小さく呟く。
思い当たる節はある。身体を清潔に保つためとはいえ、地下の非常用貯水設備から引いた水は容赦なく肌を刺すように冷たかった。
空調設備も探してみたが、専門知識のない人間でも扱えるような都合の良いものは見つからなかった。
ひろしはテナント内で見つけた体温計を取り出し、脇に挟んだ。数分後、表示された数字を確認する。
36.8度。平熱よりもやや高い。だが寝込むほどではない。これなら動いても問題はないだろう。
「大丈夫だな」
そう判断すると、次に何をするべきか思案し始めた。そこで脳裏に浮かんだのは、夢の中で出会った少女だった。
ひろしには術式が刻まれている。
13日まで生き抜いて。
19日以内に点を獲って。
広が残した言葉は少ない。だからこそ重い。
ひろしはその断片を繋ぎ合わせながら、1つの仮説を組み立てていった。
――おそらく広は、死滅回游の参加者だ。
そしてオレの脳内に、ファミチキくださいと言わんばかりに直接語りかけてきた以上、特殊な術式を持っている可能性が高い。それだけではない。
高専関係者である可能性も濃厚だ。
広はオレを知っている。だがオレは広の事情なんて見当がつかない。それなのに、不思議な懐かしさがあった。話の内容にも、妙な説得力があった。
あれもきっと術式による何らかの作用なのだろう。
ひろしは腕を組んだ。広が言葉を慎重に選んでいた理由にも説明がつく。術式を発動する条件。
あるいは術式の効果範囲を広げるための“縛り”。
そういうものがあるなら納得できる。
オレが周囲をちゃんと見ていなかっただけで、高専関係者は既に新宿へ入っていたのかもしれない。
だがその前に、オレの方が限界を迎えて離脱してしまった。あの時の判断を、間違いだったとは思いたくない。ひろしは頭を左右に振った。
今は感傷に浸っている場合ではない。仮説の続きを整理しよう。再び思考の海に潜る。
広は13日まで生き抜いてと言った。
ならば13日には何かが起きる。死滅回游が終わる。
一瞬そう考えた。やったぜ!!
……そうなれば、どれほど良かっただろう。
だが広は同時に、19日以内に点を獲れとも言っていた。それはつまり、少なくとも19日までは死滅回游が継続しているという前提で考えなければ辻褄が合わない。広はそう見積もっている。
ならば、導き出される答えは1つだ。
高専側は、新宿全体を覆う結界をすぐには突破できない。しかし13日までには何らかの援軍が到着する。あるいは、結界へ侵入可能な穴を開ける。
そして介入が可能になる。その目安が11月13日なのだろう。あの五条悟ですら破れていない結界だ。
そんなものを扱う術師が敵側にいると考えるだけで背筋が粟立つ。広の言う通り、13日まで生き延びるには、身を隠し続けるのが最善手かもしれない。
……だが。……本当に、それでいいのか?
胸の奥に引っ掛かるものがあった。
ひろしは椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。
脳裏に浮かぶのは、夢で見た少女だった。
どう考えても戦闘向きの身体ではない。細い腕、華奢な肩、脚も痩せていた。何もかもが細い。
ちゃんとメシを食っているのか。1人で心細くないのか。そうした懸念が勝手に湧いてくる。
もちろん、見た目だけで強さは決まらない。
現に日本に4人しかいない特級術師の1人、乙骨憂太も体格に恵まれているタイプではなかった。
乙骨と初めて会った時のことを、ひろしは今でも覚えている。底なし沼へ足を踏み入れてしまったような感覚だった。ぬるりとまとわり付くような呪力。
どこまでも続く深さ。目に見えないのに、確かにそこにある巨大な何か。あれほどの呪力量を持つ術師を、ひろしは他に知らない。入学当初から特級認定されていたという話にも、納得しかなかった。
今は海外で何かを追っているらしいが、日本に残っていたなら高専側の戦力はさらに厚かっただろう。
そこまで考えてから、ひろしは額を押さえた。
また話が逸れている。乙骨は規格外だ。
比較対象にはならない。問題は広だ。
死滅回游という地獄の中で、あの少女もまた、どこかで息を潜めながら生き延びているのだとしたら。
「広と合流しよう」
自然とその言葉が口を突いて出た。理由は明白だ。
広と会えれば、多くのことが把握できる。
高専の状況。13日という期日の意味。19日以内に得点を獲らなければならない理由。
自分に刻まれた術式、広自身の術式、今のひろしに不足している情報を、一気に補える可能性がある。
確かに危険はある。だが、得られる見返りの方が遥かに大きい。そして何より、広を放ってはおけなかった。もし、広の予想が外れてしまったら。
もしも高専の突入が19日以降にずれ込んだら。あの華奢な少女はどうなる。……考えたくもなかった。
ひろしの脳裏に、あの忌々しい声が蘇る。
『八、参加または点取得後、十九日以内に得点の変動が見られない場合、その泳者からは術式を剥奪する』
コガネの機械的な宣告。耳障りなほど凍てつくような声だった。ひろしは顔をしかめた。
その瞬間、ずっと見過ごしていた疑問が、ふいに浮かび上がる。仮に術式を剥奪されるだけなら。
広はなぜ、オレに得点を獲れと言ったんだ……?
喉から手が出るほど欲しかった術式。できることなら失いたくはない。使いこなしてみせたい。
だが、だからといって人を殺してまで術式を守りたいとも思わない。それでも広は言った。得点を獲って、と。
真剣な顔つきだった。軽口ではなかった。
13日まで生き延びて。19日以内に点を獲って。
その2つだけは、絶対に伝えなきゃいけないことだと言わんばかりだった。
ひろしに血の気が引くような感覚が走る。
まさか、まさかまさか……恐ろしい考えが浮かぶ。
「…………術式が剥奪されたら、その泳者は――」
「キャーーーーー!!!」
甲高い悲鳴が空気を切り裂いた。
ひろしは弾かれたように視線を上に向ける。
術式剥奪についての考察も、不穏な予感も、一瞬で頭の隅へ追いやられた。窓の向こう、通りの先。
大型の呪霊が女を追い回していた。助けよう。
そう判断するまでに1秒もかからなかった。
ひろしの思考回路が呪術師に切り替わる。
女は、このビルの前の通りへ向かって逃げてくる。
現場へ向かうか?……いや違う、間に合わない。
ならば上からだ。ひろしは迷わず駆け出した。
向かう先は現場ではない、屋上だった。
大型の呪霊から逃げ惑う女。
麗美は肩越しに振り返った。その瞬間、足元の石に躓いた。身体が大きく傾く。受け身も取れないまま地面へ投げ出された。ずきりと膝に痛みが走る。
足にも力が入らない。まずい、立てない。
大型の呪霊はゆっくりと口を開いた。
「いただ……いだだぎまぁず……」
裂けた口腔の奥から、不快な臭気が漂ってくる。
のっし。のっし。巨大な身体を揺らしながら確実に距離を詰めてくる。もはや逃げ場はない。
嫌……嫌! 嫌!! 嫌!!!
「助けて!レジィ様ーっ!!」
その叫びと同時だった。
ぐしゃり。肉と骨が押し潰されるような不快な音が響いた。麗美は反射的に目を閉じる。
時間が止まったような錯覚。数秒、いや、1秒にも満たなかったかもしれない。恐る恐る瞼を開く。
「…………?」
そこにいたはずの呪霊は、原形を失った肉塊へ変わっていた。何が起きたのか、理解できない。
呪霊だったものが霧となって消えていく。その中心に、人影が見えた。
「ぜーっ!はーっ!ぜーっ!はーっ!」
中年男だった。汗で前髪は張り付き、顔は真っ赤になっている。息は完全に上がっていた。
そして、今にも倒れそうな有様だった。
ひろしは集英ビルの屋上まで全力で駆け上がった。
そして、躊躇なく飛び降りた。
落下速度、自重、そして呪力。全てを拳に乗せる。
攻撃というより墜落に近かった。大型呪霊の頭上めがけて、自身を砲弾のように叩き込んだのである。
ひろし自身に大型呪霊を一撃で祓えるだけの戦闘力はない。だが、高さ、質量、地形、そして、状況。
使えるものを全て利用し、自分が出せる最大火力を作り出した。営業マンの経験で養った現場判断力。
そして呪術師として積み重ねてきた戦闘経験。
その両方が噛み合った結果だった。
「ぜーっ!はーっ!ぜーっ!はーっ!」
ひろしは荒い呼吸を繰り返しながら麗美を見た。
血走った目に大量の汗。土と血で汚れた服。
端から見れば不審者そのものだった。
(うぇっ……何このオッサン、気持ち悪い)
麗美は本気でそう思った。大型呪霊は消えた。
だが安心感はなかった。むしろ別種の脅威が目の前に現れた気さえした。また助けを呼ぼう。
麗美は再び悲鳴を上げようと、大きく息を吸った。
「はぁ……はぁ……大……丈夫……ですか……」
男の絞り出した声は掠れていた。
目の前の相手を気遣う言葉だった。少しの沈黙の後、麗美は拍子抜けしたように息を吐いた。
肺いっぱいに吸い込んだ空気が、一気に抜けていった。
2018年11月4日、16時15分。
「いたたっ!もう少し優しくしてよ、野原さん」
麗美が顔をしかめる。
「そう言われてもな。最初は痛いものだから我慢してくれよ。君ももう大人だろ?」
「君じゃない! 麗美って言って!」
不満そうな抗議が飛んでくる。
ひろしは苦笑しながら消毒を続けた。
擦り傷にアルコールを当て、ガーゼを貼り、その上からテープで固定する。応急処置としては十分だ。
ひろしが屋上から飛び降りた際、救急キットと備蓄食を詰めたリュックを背負っていた。
もっとも、麗美を助けるために用意していたわけではない。少しでも体重を増やし、落下の威力を上乗せするためだった。結果として今、その中身が役に立っている。何が幸いするか分からないものだ。
「終わったよ。お疲れ様」
労いの言葉をかける。
処置が済むと、麗美はぷいっと顔を背けた。消毒の痛みがまだ尾を引いているらしい。
ひろしは肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。代わりに、今度は自身の知見を広げるべく問いかけを始める。
「黒ずくめの格好をしている人たちは見なかったか?」
「知らない」
「この状況を作った人については?」
「知らない」
「死滅回游の終わらせ方は?」
「知らない」
「13日に何があるか聞いてないか?」
「知らない」
「術式が剥奪された人がどうなるかは?」
「知らない」
返ってくる答えは全て同じだった。
「当然っちゃ当然かぁ……」
ひろしは大きく息を吐いた。期待していたほどの成果は得られない。考えてみれば無理もない。
麗美もまた、この異常事態へ巻き込まれた側の人間だ。事情を把握していないのは、自分と変わらないのかもしれない。
呪術師としての経験や知識だけなら、自分の方が上だろう。ひろしは質問の方向性を変えた。
死滅回游の話ではなく、もっと普通の話題。
どこから来たのか、何を食べているのか。
どうやって生き残ってきたのか。そんな誰にでも答えられる、ごくありふれた内容だ。
そこでひろしは、1つのことを理解した。
麗美は、自分で状況を切り拓こうとする人間ではない。誰かがどうにかしてくれる。
強い男が守ってくれる。困った時は頼ればいい。
根本的にそう考えている節があった。
しかも、それを隠そうともしない。ある意味では正直だ。だが、ある意味では危うい。
「困ったな……」
ひろしは腕を組む。麗美はガーゼをさすっている。
これから広を探しに行くつもりだった。だが、その前に、麗美をどうにかしなければならない。
今のまま放置すれば、また呪霊に襲われるかもしれない。泳者と遭遇する可能性だってある。
せめて安全な場所だけでも教えておくべきだろう。
集英ビルへ案内するか。それとも近くまで連れて行くか。ひろしが考えをまとめようとした、その時。
「でもさ」麗美がふいに口を開く。
「レジィ様なら、さっき聞かれた質問に全部答えられるかも」
「えぇっ!?」ひろしは目を見開いた。
予想外だった。
だが驚くと同時に、胸の中で幾つかの点が一本の線になる。なるほど、麗美のような女性が、この死滅回游という地獄の中で今日まで生き残れている理由。それは単純な幸運などではない。
守ってくれる誰かがいるからだ。何とかしてくれる誰かが。少なくとも麗美本人は、そう信じている。そして、その相手こそがレジィなのだろう。
「レジィのところへ案内してくれるか!?」
ひろしは前のめりになった。広についての情報。
高専の状況に13日と19日の意味。
術式剥奪の真相。そして死滅回游そのものの情報。
もしレジィが事情を知っているなら、今の自分が欲している答えの多くが手に入る。
危険かもしれない。だが何も分からないまま立ち止まり続けるのもまた危険だった。
広を探すためにも、まずは情報が必要だ。
「いいよ」麗美はあっさり頷いた。
そして、少しだけ口元を吊り上げる。
「その代わり、私の“騎士”になって」
ひろしは一瞬きょとんとした。だがすぐに苦笑する。どうやら麗美は、本気でそういう価値観の人間らしい。自分を守ってくれる男。
困った時に助けてくれる男。彼女にとっての騎士とは、そういう存在なのだろう。
「分かった。案内してくれるなら協力するよ」
迷いなく返事をした。麗美にとって、その言葉は予想以上に都合が良かった。表情には出さない。
だが、内心では歓喜していた。釣れた。
これでまた、レジィ様に褒めてもらえる。
見た目は強そうでもない、警戒心も薄い。おまけに自分から罠へ入ろうとしている。これほど扱いやすい獲物も珍しい。麗美は心の中でほくそ笑んだ。
一方のひろしは、そんなことなど露ほども疑っていない。目の前の女性は、自分と同じく死滅回游へ巻き込まれた被害者。そう認識していた。
だから疑わなかった。だから気付けなかった。
2018年11月4日、16時57分。
ひろしは麗美と共に歩いていた。
日が暮れかかった新宿は不気味なほど静かだった。
人の姿は少ない。だが決して安全ではない。
どこに呪霊が潜み、どこに泳者がいるのか分からない。そんな世界の中で、ひろしだけは少しだけ前向きな気持ちになっていた。ようやく情報源が見つかった。レジィに会えれば、何か分かる。
広へ近付けるかもしれない。高専の現状も知れるかもしれない。そんな期待が胸の内で膨らんでいく。
麗美は前を歩く。ひろしはその後を追う。
疑う理由がなかった。いや、正確には思案する余裕がなかった。それほどまでに広の残した言葉は重かった。そして情報に飢えていた。
だから見落とした、だから踏み込んでしまった。
この選択が、この善意が、この判断が。後にひろしを絶望的な状況へと追い込むことになる。