2018年11月4日、17時5分。
麗美に案内されたのは、新宿の裏通りに建つ古いマンションだった。エントランスの郵便受けにはチラシが詰まり、管理人室は無人だった。エレベーターも動いていない。ひろしは麗美と階段を上る。
3階の角部屋を目指しながら、ひろしは癖で逃げ道を確かめていた。廊下の突き当たりに外階段が1本、その踊り場には避難ハッチ。
逃げ道は2つ。頭の中で経路を組み立てる。
「ここ。入って」麗美がドアを開ける。
ひろしはリュックを玄関に下ろして先に入り、麗美がその後ろに続いた。
背後に人を置かない方がいいとは分かっていたが、 今は必要以上に麗美を警戒する理由がなかった。
部屋の奥には長髪の男がいた。
ソファに浅く腰掛けている。端正でどこか影のある面立ちと、半眼気味の鋭い眼差し、引き結ばれた口元が、一筋縄ではいかない老獪さを漂わせていた。
流れるような金の長髪が不気味な存在感を際立たせている。……この男が、レジィだ。
だが、ひろしの目はすぐに別のものへ吸い寄せられた。全身に大量のレシートや領収書が貼り付いている。紙の蓑を纏ったような、奇妙な姿だった。
いや、蓑と呼ぶには、まだ枚数が足りなかった。
肩にも、胸元にも、腰回りにも目立つ隙間がある。まだ集めている最中なのか、それとも使った後なのか。どっちにしたって奇妙だが。
(……経費精算の締切前の机かよ)
ひろしは心の中で呟いた。
(変な格好の男だな。これが最新のナウいファッションなのか?だとしたら、オレは着たくないな〜。)
その程度の感想だった。
一方、レジィはひろしを値踏みするように視線を向けた。中年の男、呪力を纏っている。
覚醒した泳者か。だが、強者には見えない。
甘く見積もっても、中の下といったところだ。
殺すのは容易い。麗美は得点としてこの男を連れてきたのだろう。ただ、どんな術式を持っているかは分からない。レジィは目を細めた。しばらく様子見だ。
針と黄櫨は物資の補充と領収書の確保に出している。この程度の男なら、手駒は要らない。
自分1人で十分だ。レジィの推測は正しかった。
そんなことは露知らず、ひろしは期待に胸を膨らませていた。高専の現状。広の居場所。
死滅回游の情報。術式剥奪の真相。
ようやく、何かが手に入るかもしれない。
ひろしは営業職の性分で、まず軽く頭を下げた。
「野原ひろしといいます。突然お邪魔してすみません」
「レジィだ。敬語は要らない。気楽にしていい」
挨拶もそこそこに、さっそくひろしは質問を始める。
「黒ずくめの格好をしている人たちを知らないか」
レジィは首を傾げた。
「さあね」
「13日に何が起きるか、何か聞いてないか」
レジィはわずかに眉を動かした。
「誰からも聞いてないな」
「広という少女を知らないか」
「いいや、見当もつかないね」
興味なさげな声だった。ひろしは落胆を飲み込み、
それでも質問を止めなかった。
「術式剥奪について、ルール以上のことは」
レジィは退屈そうに欠伸をして、雑に返す。
「知らないね。ルールに書いてあること以外は」
短い答えが続く。麗美に聞いた時と同じ「知らない」が並んでいく。ひろしの表情が曇った。
期待していた情報は、何一つ返ってこなかった。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
レジィはソファの背に体重を預けたままひろしを観察していた。この男は妙だ。術師のくせに情報が欠けている。探し人がいる。死滅回游も把握しきれていない。
強そうには見えない。だが、完全な素人でもない。
中途半端。だからこそ判断に迷う。レジィはゆっくりと口元を歪めた。穏やかで愛想の良い笑みだった。
「キミ、1人なのかい?」
ひろしは頷く。愛想の良い笑み。営業先で何百回と見てきた、商談をまとめにかかる時の顔に似ていた。ひろしはそれを好意的な方に受け取った。
この人、悪い人ではなさそうだ。
「このゲームで単独行動はおすすめしないね」
穏やかな声音だった。麗美はうっとりしている。
「仲間にならないか?点も分けてやれる。生き残る確率は上がると思うけど」そう言ってひろしを見る。
提案は優しげに聞こえた。だが、その本質は査定だった。仲間になるなら利用する。ならないなら殺す。この場で。そう言ってるのが分かる。
ひろしの頬が、わずかに強張った。数秒の逡巡。
首を振った。横に。レジィは眉を下げる。
「ありがたい申し出だが、断らせてもらう。探さなきゃいけない人がいるんだ」申し訳なさそうに断る。
ここに留まる理由はない。広を探す。
それ以外の選択肢は、今のひろしにはなかった。
レジィは少し残念そうに肩を竦め、即座に狩人の目でひろしを睨む。「そうか。分かったよ、ひろし」
怖気が走る。ひろしは蛇に睨まれた蛙に共感した。
同時に、すっと背後の気配が離れた。ごく自然に、何の迷いもなく麗美はレジィの隣へ歩み寄る。
「ごめんね、野原さん」謝意など全くない声音。
麗美はレジィの腕に絡みつきながら言った。
「騎士はもう間に合ってるの。レジィ様がいるから」
ひろしの表情が固まる。そこでようやく理解した。
騙された。麗美は被害者ではなかった。自分をここへ連れてくるための囮だったのだ。助けた時から。
手当てをした時から。全部、全部、仕組まれていた。それでも、助けたこと自体を悔やむ気にはなれなかった。悔やむべきは疑わなかった自分の方だ。
レジィがため息を吐く。直後、空気が重く跳ね上がった。肌を刺すような呪力の奔流。
「残念。せっかく、助かる道を選ばせてあげたのにね」
勧誘は終わった。ひろしは仲間にならない。
それなら、ひろしの価値は得点だけだ。
レジィは装束を成す不揃いな紙片を1枚摘まんだ。紙が呪力によって炎に包まれ、消える。
次の瞬間、包丁が虚空から現れた。ひゅっ、と音を立てて飛来する。ひろしは咄嗟に身をかがめた。
頬を鋭い感触が掠める。熱い。血が伝った。
続いてハンマー、レンチ、鉄パイプ、日用品。様々な物体が次々と襲い掛かってくる。ひろしは回避に追われた。速い。反撃する余裕すらない。
(物量のある遠距離攻撃!単純、だからこそ強い!)
呪力の火にくべられた伝票の枚数と現れる物の種類が合っている。
1枚で1種類。だから何だ、と思う間もなく、次の攻撃が来る。
額に汗が伝う。まずい。
ひろしは体術を中心に戦う術師だ。
ゆえに遠距離戦は極めて不利だった。
ひろしは負けじと距離を詰め、拳を繰り出す。
一発お見舞いして気絶させてやる。
だが、拳は虚しく闇を掠めた。レジィは半歩ずれただけだった。そして、伸び切ったひろしの腕を掴み、勢いよく放り投げる。
「うおおっ!?」視界が回る、廻る。
背中から床に叩きつけられ、意識が飛びかけた。
それでも本能が身体を横へ転がす。直前までひろしが倒れていた位置に、3本の包丁が突き刺さった。
頭、首、心臓。どれも致命傷になる位置だった。
(ぶ、物体を召喚できるだけじゃない!?具体的な位置まで指定できるのかよっ!?)
ひろしは必死に逃げた。玄関を飛び出し、廊下の突き当たりの外階段を駆け下りる。レジィはゆっくりと追ってくる。その後ろを麗美がついて行く。
路上へ出たひろしは、迎え撃つ算段を立てた。
室内での遠距離攻撃は避けにくい。だが、外なら!
レジィは薄笑いを浮かべていた。
次の瞬間、一気に距離が詰まった。強烈な蹴りがひろしの腹に直撃する。
身体がボールのように弾き飛ばされ、マンションの外壁に激突した。
肺の空気が一度に吐き出される。血も混じっていた。
衝撃の痛みに耐え、必死に立ち上がる。拳を振るう。空を切る。
そして、打ち据えられる。転がる。
また立ち上がる。そして、弾き飛ばされる。強い。
呪術師としての地力が違いすぎる。ここまで差があれば、わざわざ“術式の開示” などするはずもない。
(強ぇ……!オレよりも、明らかに上の術師だ!)
2018年11月4日、17時37分。
「ハァ……ハァ……ち……ちくしょう!」
ひろしは全身が朱に染まっていた。額から流れた血が頬を伝い、視界の端を赤く染めている。
服は裂け、身体のあちこちに鈍い痛みが走る。命の灯が大きく揺らいでいた。みさえの顔が浮かぶ。
(うう……こんな怪我で帰ったら、みさえに怒鳴られるな。……いや、怒鳴られてぇよ……)
レジィは肩の力を抜いたまま立っている。
まるで散歩の途中にでも立ち寄ったかのような気楽さだった。その隣では麗美が熱に浮かされたような目でうっとりとレジィを見つめている。
レジィが口を開いた。ひろしの底は知れた。
「オッサン、全然ダメだね」後は始末するだけだ。
何人かの泳者を得点に変えた言葉を口にする。
「大人しくしてたら楽に殺してあげるけど?」
ひろしも理解していた。この男には勝てない。
どうやっても勝てない。だから、最後に前へ出る。
勝利のためではない。生きるためだ。ただの突進。
窮鼠猫を噛む、と言わんばかりの捨て身だった。
レジィから見れば、雑な悪あがきに過ぎない。
軽く身を躱した。カウンターで試合終了だ。
だが、その時、レジィはある違和感に気づいた。
びり、と紙の裂ける音がした。
ひろしの指先がレジィの装束を掠めていた。
たった1枚。紙が剥がれた。それは完全な偶然だった。
ひろしは意味も分からないまま、指に張り付いた1枚の紙へ目を落とす。
生きたい。死にたくない。
それしか頭にない。呪力が無意識に紙へ流れた。
ぼっ、と紙が燃え上がる。
次の瞬間、ひろしの真横に先ほどまで存在していなかった車が現れた。
レジィの目が見開かれる。
自分は燃やしていない。麗美も固まっていた。
ひろし自身も何が起きたのか分からず、ただ混乱していた。
一瞬の間。それでもひろしの身体は動いた。
撤退。命懸けの敗走。わずかな希望の糸を手繰る。
運転席へ転がり込む。キーは差さったままだった。
既にエンジンがかかっている。車は急発進した。
手負いのままのひろしを乗せ、マンションを離れ、夜の街を走り去っていく。考える余裕などなかった。
あまりに突然の出来事だった。麗美が後方で呟く。
「レジィ様……今の……」縋るような声音だった。
レジィは答えなかった。暗がりへと意識を集中させ遠のく車を見据え、淡々と状況を整理していた。
あの男、妙に悪運が強い。俺の領収書群から逃走に有効な「車」を、ピンポイントで引き当てた。
タイミングもだ。物資と領収書の調達に向かわせている針と黄櫨がいたら、始末に数分とかからない。
そして何より、土壇場で発動した、術式?
不可解な現象だった。あれはただの領収書だった。
呪具などではない。それなのに、あの男が燃やした時、「再契象」が発動し、車を召喚してみせた。
レジィは形のいい顎に手を乗せ、ひろしを再度値踏みする。その気になれば、追いかけて殺せる。
だが今は、見逃して泳がせよう。レジィの勘が、こうした方が面白くなると告げていた。
「また会おうね、野原ひろし」ひらひらと手を振る。
レジィは車を見送ると悠々と拠点へ戻っていった。
しかし、その機会が訪れることはなかった。
ひろしの乗る車は、ひたすら直進を続けている。
走る車内。ひろしは傷口から赤を散らしたまま座席に沈み込んでいた。全身が悲鳴を上げている。
激痛で今にも気を失いそうなのを根性とハンドルを握る手で何とか繋ぎ止めていた。それでも、生きていた。
ちらりと手を見る。先ほどの紙は残っていない。
燃えて、消えていた。どうして車が現れたのか見当もつかない。ただ一つ、確かなことがある。
また、振り出しに戻ってしまった。
広の手がかりも、高専の情報も何一つ手に入らなかった。それどころか、救急キットを入れたリュックまで、あの部屋に置いてきてしまった。生き延びるためにレジィを振り切った。
次は治療をしなくてはならない。
「ちくしょう……」たまらず悪態を吐いた。
ひろしは自分の愚かさを噛み締めた。人を助けた。
それが罠だった。疑わなかった。全部、自分のせいだ。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。
ハンドルを握り直し、惨めな敗走に全神経を注いでいた。
レジィが見出したひろしの未知なる可能性に、気づく余裕すらなかった。